◀第23章『もう一度、夢の中で待っていて』
▶第25章『触れられない君と、旅の朝』
|
|
第24章『空っぽの朝餐と、十センチの同伴者』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 東北ずん子」「VOICEVOX: No.7」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」
|
朝の光が、薄いカーテンの隙間から一筋の白い糸のように差し込んでいた。 少しだけ重い湿気を帯びた初夏の風が、見慣れない臨時の天井をゆっくりと撫でていく。 どこか遠くで小鳥のさえずりが響き、階下からは食器の触れ合う乾いた音が微かに聞こえる。 どこかの誰かが笑い合う、ごくありふれた、欺瞞に満ちた平和な朝。

――その、はずだった。
僕は、ぼんやりと泥のような眠りから目を開いた。
ルイ:「……朝、か」
まだ微かな眠気の残る頭を片手で軽く押さえながら、いつもの、身体に染みついた習慣のままに、自然とすぐ隣の空間へと視線を向けた。 そして――そこにあるはずのものが、何一つとして存在しないという事実に、改めて直面した。

ルイ:「…………」
空っぽだった。 隣に置かれたベッドも。 主を失って冷え切った白い枕も。 綺麗に畳まれたままの掛け布団も。 いつもなら、朝一番に僕の布団へと無作法に潜り込んできて、 セリナ:「るーい!」 なんて無邪気に笑いながら、意味もなくその柔らかな体温と体重を預けてくる銀髪の少女も。 そこには、ただの一片もいなかった。
ルイ:「……そうだったな」
胸の奥底で、ぽつりと冷たい言葉が零れ落ちる。 セリナは、もうここにはいない。 彼女は今、自らの強固な意思で、誰も手の届かない深い夢の底へと沈み、眠り続けているのだ。
ここが、僕たちがずっと定宿にしていた『蜜蜂の止まり木亭』の客室ではないことにも、遅れてすぐに思い至った。 あのお菓子化の暴走バグによって半壊してしまった愛おしい宿の代わりに、ナギたちが手配してくれた、別の見知らぬ宿屋。 部屋の造りも、古びた壁紙の模様も、ベッドが立てるきしんだ音さえも、何から何まで違っている。 けれど、何よりもいちばん違っているのは――。 すぐ隣の空間が、耳が痛くなるほどに、しんと静まり返っていることだった。

ルイ:「…………」
僕はしばらくの間、シワひとつない隣のシーツを、ただ無言で見つめ続けていた。 以前の僕であれば、こんな無駄な感傷に浸る余裕すらなかったかもしれない。 何かを喪失するたびに、脳内のシエルが弾き出す最適化パッチによって、胸の奥にあるはずの大切な感情まで一緒に容赦なく削り取られ、平坦に塗り潰されていく。 そんな冷徹な機械人形のような日々だった。
でも、今は、決定的に違う。 胸が、ちゃんと引き千切られるように痛い。
ルイ:「……寂しいんだな、今の僕は」
自分で声に出してみて、その生々しい響きに少しだけ驚いた。 悲しい。 寂しい。 今すぐにでも、あいつに会いたい。 そんな人間として当たり前の感情を、ごく当たり前のものとして、熱を持って実感できている。 昨日までの僕であれば、それすらどこか遠いシステムログの彼方に置き忘れていたはずだったというのに。

僕は枕元に手を伸ばし、そこに誰もいないことを確かめるように、冷たいシーツを一度だけ愛おしそうに撫でた。
ルイ:「……行こう」
いつまでも、この空っぽの場所で立ち止まっているわけにはいかない。 僕にはやらなければならないことがある。 彼女が待つ本当の『正解(ハッピーエンド)』を手繰り寄せるための、最初の一歩を踏み出すのだ。
ベッドからゆっくりと起き上がり、洗面台の鏡の前で身支度を整えた。 鏡のなかに映し出された自分の顔は、思っていたよりもずっと 「人間らしくて普通」 だった。 シエルによって強制最適化されていた、あの歪みのない完璧な救世主の笑顔ではない。 誰かを都合よく安心させるためだけに張り付けた、空虚な作り物の仮面でもない。 少しだけ眠そうで。 少しだけ寂しそうで。 どこまでも不器用で。 ――それでも、瞳の奥底には消えない確かな熱を宿して、ちゃんと前を見据えている。

ルイ:「……これで、いいんだろうな」
誰に聞くでもなくぽつりと呟いて、僕は学生鞄を模したカバンを手に取り、部屋の引き戸を開けた。
◇
古い木造の階段を一歩ずつ下りていくと、一階の食堂から、初夏の空気を震わせる香ばしい匂いが漂ってきた。
レイガ:「おっ、起きたか、ルイ」
ミリア:「おはようございます、ルイさん」
ナギ:「おはようございますぅ」
シオ:「……おはよ、ルイ」
薄暗い食堂の木机には、すでに全員が席を並べて揃っていた。 レイガ、ミリア、ナギ、シオ。 そして、その肩の上で退屈そうに尾を揺らす小龍ニガリ。 僕が短く 「おはよう」 と声を返し、空いている不自然に広い席へと腰を下ろした、まさにその時だった。

フレア:「朝食の仕度が整ったぞ……ッ! ではなく、完璧に整いましたわマスター!」
厨房の奥から、今にも溢れそうなほど山盛りの大きな皿を両手で抱えて、フレアが勢いよく現れた。
ルイ:「……朝から、ずいぶんと豪華だね」
フレア:「当然であろう! 我が全力を注ぎ込んだ最高傑作の朝食なのだからな! ……くっ、一日の活力は上質な朝餐から生まれますわマスター……って違ーう! 誰が栄養バランスまで考慮して完璧な火加減で焼き上げたと言ったのだッ!」
たった一人で器用に脳内プログラミングのバグのようなノリツッコミを完結させ、フレアは自慢げに豊かな胸を張ってみせた。 テーブルの上に次々と並べられたのは、焼きたての香ばしくふっくらとしたパン、優しく湯気を立てる温かな琥珀色のスープ、色鮮やかな卵料理と瑞々しい野菜、そして朝の光を浴びて輝く甘い果物の数々。 いつものフレアらしい、妙に気合いの入った、けれどどこか愛おしい豪勢な朝の食卓だった。
全員:「いただきます」
それぞれの声が小さく重なり、みんなが料理へと手を伸ばしていく。 僕も、編み籠から焼き立てのパンを一つ手に取った。 表面は焦げ目一つなく香ばしく焼けていて、真ん中からふたつに割ると、小麦の優しい甘い匂いを孕(はら)んだ柔らかな湯気がふわりと白く立ち上る。

ルイ:「……美味しい」
一口かじり、自然とそんな呟きが唇からこぼれ落ちていた。 味が、ちゃんと分かるんだ。 スープの穏やかな温かさも、パンのサクサクとした心地よい食感も。 前世の記憶を切り売りし、あのビターチョコレートの死臭に味覚すら失いかけていた僕の舌に、確かな美味しさがじんわりと広がっていく。
だからこそ――。 この本物の味を誰よりも一番に喜びそうな、あの黄金色の笑顔が今ここには存在しないという事実に、どうしようもない寂しさが込み上げてきた。
ルイ:「…………」
僕は、もう一度だけ自分の真横の空間を見た。 当然、そこには誰もいない。 セリナであれば、たぶんこの山盛りのパンを見ただけで瞳を眩しく輝かせてベッドから飛び出していただろう。 そのまま僕の皿から勝手におかずを一口横取りして。 僕が呆れて文句を言えば、 セリナ:「はんぶんこだよ!」 なんて、満面の笑みで平然と言い返してきたはずだ。

僕はパンを持ったまま、少しだけ咀嚼(そしゃく)の手を止めた。
ナギ:「……静かですねぇ」
ナギが、琥珀色のスープを見つめたまま、ぽつりと呟いた。 誰も返事をしない。 返事をしなくても、彼女が今何を想って言っているのかは、この食卓にいる全員に痛いほど分かってしまうからだ。 セリナが、ここにいない。 たったそれだけの決定的な事象で、同じ朝食の風景が、昨日とはまるで違った世界に見えてしまう。
ミリア:「いつもなら……」
ミリアが言いかけて、そっと寂しげに口を閉じた。 その先を、無理に言葉という記号にする必要はなかった。

レイガ:「……あいつがいると、この広い食堂が狭く感じるくらいだったからな」
レイガが、湯気を立てるコーヒーのカップを持ったまま、どこか愛おしそうに苦笑する。
ナギ:「朝から元気すぎましたからねぇ、セリナ様は」
ナギも同意するように目を細めた。 シオは黙ったまま、その三白眼を伏せてぶっきらぼうにスープを口に運んでいる。 相棒のニガリは、その隣で退屈そうに小さく鼻を鳴らした。 耳が痛くなるほどに、しんとした朝だった。 なのに――不思議と、あの最適化パッチに切り刻まれていた頃の、冷たくて嫌な静けさではなかった。
僕はもう一口、温かなパンをかじった。

ルイ:「……セリナがいないだけで、朝ってこんなに静かなんだな」
自分でも少しだけ可笑しくなって、自然とそんな自嘲混じりの声が喉の奥から漏れた。
レイガ:「お前、今さらそんな当たり前のことに気づいたのか?」
レイガが呆れたように言う。
ルイ:「うん。 本当に、今さらだね」
僕は小さく、声を立てずに笑った。 そして――それ以上、周囲を取り繕うために無理な笑顔を作り続けるのを、完全にやめた。 以前の僕であれば、きっとここで精巧な救世主の仮面を貼り付けていただろう。 大人たちを無駄に心配させないために。 自分はまだ何一つ磨り減っていないと、完璧な操り人形を演じ切るために。

でも、今の僕は違う。 寂しいものは、どうしようもなく寂しい。 今すぐにでもあいつに会いたい。 それでいいのだ。 僕は少しだけ寂しそうに、けれど、人間としての確かな熱を宿して微笑んだ。
ルイ:「……早く、起こしてあげたいな」
誰に向けたわけでもない呟きだった。 けれど、その決意の質量は、食卓を囲んでいた全員の胸の奥底へと、確かに、重く届いていた。
ナギ:「はい」
ナギが、頼もしい大人の顔で小さく力強く頷く。

ナギ:「そのために、これからわたくしたち全員で動くんですぅ」
レイガ:「ああ、そうだな」
レイガも短く、腹の底に響く声で返した。 ミリアが、僕の不安を優しく融かすように、可憐な笑みを向けてくれる。
ミリア:「大丈夫です。 セリナさんは今も、ちゃんとあの眩しい夢の中で、ルイさんのことを待っていますよ」
ルイ:「……うん、分かっているよ」
僕はその言葉を、冷たいシステムログの彼方ではなく、胸の最深部で温めるように深く、深く噛みしめた。 昨日の夕暮れ。 あの白く静かな客室で、深く眠りについていくセリナの小さな手を握りしめて、僕は魂に誓って約束したのだ。 必ず、どちらも犠牲にしない本当の正解(ルート)を見つける。 いつか必ず、君を僕の手で眩しい朝へと連れ戻しに行く、と。
だから――。

ルイ:「……よし、行こう」
僕は、手元に残っていた温かなパンを、未来を掴み取るように最後までしっかりと食べきった。
――まさに、その瞬間だった。 いつもなら木机の向かい側の特等席から、当たり前のように響いてくるはずの、あの明るく陽気な少女の声が、僕の鼓動を跳ねさせるように唐突に――。
セリナ:『るーい! まだ食べてるのー?』
そんな、耳の奥にこびりついて離れない愛おしい幻聴が聞こえた気がして。 僕は思わず、また少しだけ吹き出すようにして、不器用に笑ってしまった。

ルイ:「……ほんと、あいつは朝からうるさかったな」
小さく、白く消えゆく言葉を漏らす。 レイガが快活に笑い、ナギもうれしそうに目を細める。 ミリアもクスクスと細い手で口元を隠して微笑んだ。 フレアだけは、メイド人形としての精巧な真顔を崩さないまま、次の温かな料理を僕の空いた皿へと豪快に盛りつけてきた。
フレア:「ならば、もっと食うがいい。 セリナ様が夢の底から戻られるまでに、マスターの生体が倒れてしまっては、我が全力を注いだ甲斐がなくなる」
ルイ:「……フレア、それ、不器用なりに励ましてくれてるの?」
フレア:「当然だ。 マスターの健康管理は我が最優先規律なのだからな」
ルイ:「そっか。 ありがとう、フレア」
僕は、また少しだけ、心の底から声を漏らして笑った。 寂しい。 狂おしいほどに、あいつが恋しい。 でも、こうしてちゃんと、人間として笑うことができる。 昨日までの、感情をシステムに決済されて空っぽだった僕とは、確実に何かが違っていた。 胸の奥底には、まだひどく疼(うず)くように痛む空白がある。 けれど――その空白の痛みをはっきりと肉体で感じられるということは、そこに、誰かを強く、強く想うための大切な場所が、壊されずにちゃんと残っているということの証明なのだ。
朝食の終わりが近づくにつれ、まだ誰も口にしていない、けれど避けては通れない現実的な問いを、この食卓にいる全員が心の中で抱え始めていた。 ――深く眠りについてしまったセリナの身体(肉体)を、これから一体どこへ安置するのか。 このまま、この街のただの薄暗い宿屋のベッドに、無防備に横たわらせておくわけにはいかない。 彼女の中に眠る、世界をハッピーエンドにもバグ(破滅)にも導いてしまう巨大な神聖力を、今度こそ、誰にも侵されない安全な場所へと預けなければならないのだ。

その残酷で、あまりにも冷徹に合理的な『答え』を。 間もなく――僕の脳内に潜む管理AIのシエルが、提示することになる。
哀愁に満ちた朝食の後。 食堂に残っていた全員が、さっきまでのかりそめの穏やかな空気を、少しずつ名残惜しそうに手放していった。 空になった白い皿がフレアによって下げられ、ミリアがいつものように、自らのクリスタルハープへと愛おしそうに手を添える。 レイガは硬固な腕を組んで険しい眉間をより深く刻み、ナギもまた、柔らかな笑顔の奥底に隠しきれない大人の緊張を滲(にじ)ませていた。 みんなの重苦しい視線が集まる中心で、僕はゆっくりと口を開いた。
ルイ:「……セリナの肉体のことなんだけどさ」
その一言が落ちた瞬間、食堂の空気がピンとガラスの糸のように張り詰めた。

ナギ:「そうですねぇ」
ナギが小さく、けれど事態の深刻さを共有するように頷く。
ナギ:「このまま、臨時の宿屋のお部屋のベッドでただ眠ってもらう……というわけには、到底いかないでしょうねぇ」
ルイ:「やっぱり……そうなんだね」
僕は、胸の奥底で静かにその冷徹な現実を覚悟していた。 セリナが保持する神聖力というものは、人間が扱うようなただの強大な魔力とは次元が違う。 本人が深い夢の底で眠っていても、無意識の感情の起伏だけで世界そのものの分子構造を書き換えてしまう、絶対的なバグ。
ルイ:「普通にベッドへ寝かせているだけだと……また、不意に何か、お菓子化のような暴走が起こる可能性があるんだね?」
シエル:「はい。 極めて高確率で算出されております」
返事をしたのは、対面に座るナギではなかった。

シエル:『――ルイ様、その認識で間違いありません』
ルイ:(具体的には、何が起きるんだい?)
シエル:『セリナ様のご生体は現在深い睡眠状態にありますが、神聖力そのものの出力が完全に停止したわけではございません。 無意識下において、微弱ながら継続的な神聖力の漏出(バグ)が絶えず発生しており、周囲の物質や生命情報へと無差別に干渉――お菓子化を再誘発する可能性が極めて高く維持されています』
それを脳内で処理した瞬間、僕の胸の奥が、ひやりと冷たい冬の風に吹かれたように冷えた。
ルイ:「……だったら」
僕は、食卓を囲む大人たちを見据えて静かに立ち上がった。
ルイ:「セリナの身体を、今度こそ、完全に安全な場所へと移そう」
ナギ:「はい」
ナギが深く、その翡翠色の瞳を真剣に輝かせて頷く。

ナギ:「そのために、ルイ様の中にいるシエルさんが、何か具体的な最善の方法をすでに考えてくださっているんですよねぇ?」
シエル:『はい。 論理演算上、最適な候補地がすでに一件、存在しています』
一秒の揺らぎもない、冷徹なまでの即答だった。
シエル:『王都の近郊、サイダー湖の畔(ほとり)に存在する大樹をご存じでしょうか。 正確には、この世界を貫く巨大な世界樹の根へと直接接続している、特殊な魔力貯蔵樹体でございます』
ルイ:「……あの、湖の近くにそびえ立っている、大きな木のことかい?」
シエル:『はい。 その大樹の内部には、世界樹の循環システムを司る特殊な液体が絶えず蓄えられた、巨大な天然の空洞が存在します。 便宜上、メインシステムにおいて私はそれを《世界樹の不凍液》と呼称しております』
ルイ:(不凍液、だって?)
なんとも人工的で、ロマンもへったくれもない締まらない名づけだった。
ルイ:「……いや、シエル。 もう少しこう、神聖で神秘的な名前はなかったのかい?」
シエル:『システムログの既存データ上、これ以上の適格な呼称は存在しません』
ルイ:「お前、そういうところだけ妙に融通が利かなくて頑固だよね……」
けれど――直後、シエルが脳内の視覚アーカイブへと直接共有してきた映像を網膜に認めた瞬間、僕は完全に言葉を失ってしまった。

巨大な古樹の根元。 半ば天然の神殿の洞窟のような、神秘的な大空間。 天井から幾重にも編み込まれて伸びた太い根が、まるで巨大な柱のように空洞全体を慈しむように包み込んでいる。 その中央には、淡い燐光(りんこう)を湛(たた)えた美しい泉が横たわっていた。 水面はどこまでも穏やかな凪(なぎ)を保ち、青とも緑ともつかない柔らかな光が内側から絶え間なく滲み出ている。 その泉を囲む岸辺には、永遠の春を約束されたかのように、色とりどりの幻想的な花々が瑞々しく咲き乱れていた。
シエル:『あの不可侵の聖域であれば、セリナ様から漏出する過剰な神聖力を、世界樹自身の持つ広大な生命循環システムによって完全に吸収・中和することが可能でございます』
ルイ:「……セリナを、あの泉の中に?」
シエル:『はい。 泉の内部へとセリナ様のご生体を優しく配置し、外部の境界から強固な空間固定化パッチ(封印術式)を構築いたします。 そうすれば、神聖力のバグが外部の世界へ漏出する危険性を、極限までゼロに抑制することができます』
僕はゆっくりと、一度だけ目を閉じた。 それならば――セリナを、これ以上の傷つきから安らかに眠らせたままで、彼女自身も、この不完全な世界も、同時に守り抜くことができる。
ルイ:「……やろう」
そこに、もう一ミリの迷いも躊躇(ためら)いもなかった。 僕が目を開けて明確な意志を示すと、食卓を囲んでいた全員が、示し合わせたように一斉に立ち上がった。

ナギ:「分かりましたぁ。 では、すぐさまサイダー湖へと向かいましょうっ」
レイガ、ミリア、シオ、そしてその肩の上のニガリも、確かな足取りを刻むように力強く頷いた。 未知の領域へと足を踏み入れる不安よりも、 「ようやく進むべき本当のルートが決まった」 という確信が、全員の胸の奥を突き動かしていた。
ルイ:「……よし」
身支度を整え、僕が部屋を後にしようとした、まさにその時だった。
シエル:『――ルイ様』
脳裏に響くシエルのシステム音声が、一段階、低く不穏なトーンへと切り替わった。

ルイ:(何だい、シエル?)
シエル:『もう一点、最優先で通知すべき重要なアップデートがございます。 ――今後のルイ様の、魔法運用に関する重大な仕様変更(新ルール)でございます』
僕は思わず、その言葉に眉間に深い皺を寄せた。
ルイ:(……今度は、一体何を失うって言うんだい?)
反射的に、そんな拒絶に似た言葉が心の底から弾け出ていた。 前世の名前、大切な文字、そして昨日まで失いかけていた味覚。 封印という冷徹な単語を耳にするたび、魂の一部を抉(えぐ)り取られ、虚無の奈落へと落とされるおぞましい恐怖が、今の僕の胸の奥底には深くこびりついて離れないのだ。
シエルは――完璧なはずの機械であるにもかかわらず、ほんの一瞬だけ、悲痛な祈りのようなもどかしい間(ま)を置いた。

シエル:『いいえ、ルイ様』
淀みのない電子の否定だった。
シエル:『神聖力を空間ごと直接封印・変換するような超高負荷の術式を除き――通常の敵が使用する攻撃スキルや防御スキルなどを部分封印するだけであれば、これまでのような、ルイ様のご生体からの『記憶の決済(喪失)』は一切発生いたしません』
ルイ:「…………」
あまりにもあっさりとした口調で、世界のルールが変わったことを告げられて、一瞬だけ理解の歯車が追いつかなかった。
ルイ:「……それは、本当に本当なんだね?」
シエル:『はい。 確定事項でございます』
その冷徹な確約を耳にした瞬間、僕の心臓の奥底を何重にも縛りつけていた重い鎖が、ふっと音を立てて解(ほど)けていくのを感じた。 記憶をもう削らなくていい。 これ以上、大切な何かを世界へと支払わなくていい。 僕自身という存在を、もう二度とブッ壊さなくていいんだ。 ただそれだけの厳然たる事実が、今の僕には、喉の奥が熱くなって泣きたくなるほどに嬉しかった。

ルイ:「じゃあ……これからは、僕の戦い方そのものがガラリと変わるってことか」
シエル:『その通りでございます。 今後のルイ様は、敵の肉体そのものを力ずくで破壊・殺傷する必要はございません。 敵が使用する危険な属性魔法、固有の特殊スキル、あるいは強固な防御能力。 それら戦況に応じた必要能力だけをピンポイントでインデックス選択し、順次【無力化(デリート)】することが可能となります』
僕の頭のなかに、これから繰り広げられる未知の戦いのシミュレーションが、極彩色で鮮烈に浮かび上がってくる。 獰猛(どうもう)な魔獣が放とうとする業火を、僕が寸前にピンポイントで封じる。 敵が完全に驚愕(きょうがく)して硬直したその一瞬の隙(すき)を突いて、大英雄レイガが神速で斬り込む。 敵の不落の結界を僕が背後から消し去り、その無防備な胸元へナギの高火力魔法が容赦なく叩き込まれる。
僕はもう、敵を倒さない。 敵の牙だけを抜いて 「戦えなくする」 んだ。 自分が戦場の最前線に立って派手に敵を屠(ほふ)る、あの嘘っぱちの英雄《フェイク》を演じる必要なんて、どこにもない。 仲間たちが十全にその実力を発揮できるように、ただ邪魔なバグ(脅威)だけを、影から取り除いていけばいい。
ルイ:「……これなら、僕が戦場で無駄に目立つ必要もないね」
僕が心の底からの安堵(あんど)を漏らして言うと、
ナギ:「はい? ルイ様、いま何か仰いましたかぁ?」
と、隣で荷物をまとめていたナギが不思議そうに小首を傾げた。

ルイ:「いや、なんでもないよ。 こっちの話さ」
僕は人間らしい熱を持って、小さく笑った。
――まさに、その幸福の瞬間に。 シエルが僕の頭脳へ冷や水を浴びせるように、不穏なシステム警告を続けてきた。
シエル:『ただし、無制限の乱用が可能というわけではございません。 通常の能力封印には記憶の代償こそ存在いたしませんが――その引き換えとして、ルイ様の脳内処理リソース(精神力)への負荷が極めて大きい仕様となっております。 簡単に、現生体の基準で説明いたしますと』
一拍の、あまりにも冷徹で、もどかしい間(ま)。

シエル:『――もの凄く、眠くなります』
ルイ:「…………」
新しい仕様(ルール)を突きつけられた僕は、食堂の真ん中で完全にフリーズした。
ルイ:「……それ、本当にそれだけなのかい?」
シエル:『はい。 ですがご生体の基準で申し上げますと、非常に強烈な精神汚染レベルの眠気でございます。 個人差こそありますが、複数の高度なスキル封印を連続展開した場合、術式完了と同時に立ったまま即座に意識を失う(強制シャットダウンする)可能性が極めて高く算出されます』
ルイ:「…………普通に、戦場のど真ん中では致命的に危険じゃないか、それ?」
シエル:『戦闘中の運用であれば、それなりに危険でございますね』
ルイ:「それなりに、って……っ」
ミリア:「ふふっ」
僕とシエルとの歪な脳内対話の温度を察したのか、ミリアがたまらずクスクスと愛おしそうに笑い声を漏らした。 隣では大英雄レイガまでもが、大きな手で口元を隠しながら不器用に肩を揺らしている。
ナギ:「まあ……」
ナギが困ったように、けれどどこか楽しそうに目を細めた。

ナギ:「ルイ様、もともとお部屋で静かに寝るの、すっごくお好きですしねぇ」
ルイ:「好きっていうか、そういう次元の話を今はしてないよ、ナギさん!」
薄暗かった臨時の食堂に、ほんの少しだけ、けれど確かに明るい笑い声が優しく広がっていった。 こんなふうに仲間たちが自然に声を合わせて笑い合っている光景を見るのは、本当に、いつぶりだろう。
大切な前世の思い出(記憶)は、もうこれ以上失わなくていい。 その代わり、能力の封印(デリート)を乱用しすぎると、戦場のど真ん中で凄まじい睡魔に襲われて 「寝落ち」 する。 それがこれからの僕に適用された、新世界のルールなのだ。 もし戦いの最中に気絶してしまえば、そのまま無防備に命を落とすかもしれない。 けれど――それは、自らの魂(原本)を冷酷なハサミで切り売りして、自分が自分ではない何かへと消え去っていくあの終わりなき絶望よりは、ずっと、ずっと 「人間らしい生き方」 のように思えてならなかった。
ルイ:「……だったらさ」
僕は、テーブルの下で静かに、けれど二度と解けないほど固く拳を握りしめた。

ルイ:「これなら、まだ僕の足で十分に、死ぬ気で戦い抜けるよ」
もう、大切な誰かを失わない。 もう、自分自身の心も壊させない。 それならば、今度こそ僕もシステムに踊らされない自分の足で、ちゃんと未来へ向かって前へ進める。 あの安全な世界樹のゆりかごの底で、僕を信じて眠りについてくれたセリナを、いつか必ず、僕の手で起こしにいくために。
ルイ:「よし、行こう」
僕は、ここに集った最高に頼もしい大人たちの顔を、一人ずつ真っ直ぐに見回した。
ルイ:「――サイダー湖へ」
全員:「 「 「 「ああ……っ!」 」 」 」
全員が、呼応するように力強く頷き返す。

ただ、この時の僕はまだ、何も知る由はなかった。 その旅の始まりの地に待っているものが、ただのセリナを優しく匿う 「ゆりかご」 だけではなく――この崩壊しかけた世界そのものの運命を決定的に左右することになる、三つのあまりにも過酷な『封印』の全貌だということを。
僕たちはほとんど休息を挟むことなく、臨時の宿屋を一気に連れ立って出発した。 目指す向かう先は、王都の静かな郊外に隠された『サイダー湖』。 その湖の畔(ほとり)に静かにそびえ立つ大樹、そしてその肥大化した根の真下に繋がっているという、世界の調律聖域たる地下空洞だ。
白く乾いた石畳の街並みを、早足で駆け抜けていく。 朝の賑やかな喧騒が背後へと急速に遠ざかり、すれ違う王都の住人たちは、僕たちの姿をただの少し物珍しい旅人の一行として冷淡に眺めていた。 ――それで、本当にいい。 僕たちがこれから向かうのは、誰にも、世界の人々には決して知られてはならない、深く眠り続けるセリナの身体を安全に隠し守るための、絶対不可侵の『ゆりかご』なのだから。

しばらく歩みを進めると、やがて人工的な街の景色が完全に途切れた。 視界を遮る広大な新緑の草原の向こう側に、差し込む陽光を受けてきらきらと眩(まばゆ)しく、銀色に輝く巨大な湖の全貌が見えてきた。
ナギ:「……あれが、サイダー湖ですぅ」
ナギが細い指先で指し示したその広大な湖は、まるで透明な炭酸水を湛えたかのような、どこか非現実的で不思議な色彩を帯びていた。 初夏の爽やかな風がその穏やかな湖面を優しく撫でるたび、細かな光の粒子が、まるでぱちぱちと小さな音を立てて弾けるかのように網膜で明滅する。
ルイ:「本当に、炭酸のサイダーみたいだね……」
湖畔のさらに深い奥地へと踏み込んでいくと、やがて世界の質量そのものを凝縮したかのような、視界をすべて遮るほどに巨大な樹木が姿を現した。 大きい。 視界の右から左までを分厚い古木の樹皮が埋め尽くし、天を衝く無数の枝葉は、遙か雲の向こう側まで青々と伸びている。 それはまるで、この空の天井そのものを一本で支え続けている、神話の巨大な柱のようだった。

シエル:『――ルイ様、こちらの樹体で間違いございません』
脳裏に、シエルのナビゲーション音声が厳かに響く。
シエル:『現在の不安定なセリナ様のご生体を保護し、神聖力の漏出を中和するには、この箱庭世界において最も最適な環境(リソース)でございます』
ナギ:「隠された洞窟への入り口は、この巨大な根の先ですぅ」
ナギの案内に従い、大蛇のようにのたうつ巨大な根の間にぽっかりと開いた、仄暗(ほのぐら)い大地の隙間へと足を踏み入れていく。 ひんやりとした、水分を多く含んだ清涼な空気が僕たちの身体をそっと包み込む。 暗闇の奥へと進むにつれ、薄暗かった地下の視界が、今度は少しずつ、神秘的な淡い光の帯に包まれていった。
ミリア:「……わぁ」
隣を歩くミリアが、その美しさにたまらず感嘆の吐息を小さく呑み込んだ。 幾重にも複雑に絡み合った天井の巨大な根が、まるで古代神殿の厳かな天蓋(てんがい)のように包み込む、静まり返った聖なる泉がそこにあった。 水面は磨き抜かれた鏡のように完璧な凪(なぎ)を保っており、青とも緑ともつかない柔らかな燐光(りんこう)が、深い内側から絶え間なく滲(にじ)み出ている。 その泉の周囲の岸辺には、永遠に春の時間が固定されているかのように、色とりどりの幻想的な花々が、湿った大気の中で瑞々(みずみず)しく咲き乱れていた。

ルイ:「……本当に、綺麗だね」
この聖域であれば、セリナの尊い身体を完璧に守り抜くことができる。 心からそう確信できた。
シエル:『――ルイ様、《世界樹の不凍液》の絶対座標を確認いたしました。 周辺の生命情報(ログ)および神聖力の循環システムも極めて安定を維持しております』
僕たちは、レイガの逞(たくま)しい背に預けられていたセリナの肉体を、ガラス細工でも扱うかのように慎重に泉の畔(ほとり)へと運んだ。 眠り続ける彼女の寝顔は、ひどく穏やかだった。 僕は、その白く小さな指先を、もう一度だけ確かめるように強く握りしめた。
ルイ:「……セリナ。 少しの間だけ、ここで大人しく待っていて。 必ず、本当の正解(ルート)を見つけて、僕が君を迎えに来るからね」
未練をすべて断ち切るようにゆっくりと手を離して僕は立ち上がる。

ルイ:「……レイガさん」
レイガ:「ん?」
ルイ:「ちょっと、僕たちは一度外に出ましょうか」
レイガが一瞬だけ、きょとんとしたように目を瞬(まばた)かせた。 世界樹の脈動と同化させるためには、遮るものを何一つ残さず、自然のままの姿で不凍液へ直接その身を浸すという、極めて厳かな工程がある。 僕の意図を正確に察したレイガは、その無精髭の生えた口元に、微かにニヤリとしたからかうような笑みを浮かべてみせた。
レイガ:「ああ。 そうだな。 野郎が居座る場所じゃねえな」
男としての最低限の分別をわきまえた(あるいは、思春期の少年らしい気恥ずかしさを隠せないでいる)僕の背中を、大きな手のひらでポンと叩き、レイガは共に仄暗(ほのぐら)い洞窟の入口へ向かって歩き出した。 ここから先は、ナギやミリアたち女性陣にすべてを託す。
洞窟の外へ一歩足を踏み出すと、サイダー湖の水をたっぷり含んだ、少し湿った初夏の生ぬるい風が僕の頬を撫でていった。

ルイ:「……なんだか、静かですね」
レイガ:「ああ、そうだな」
レイガは眩(まばゆ)しくきらめく湖面を見つめたまま、低く、大地を震わせるような声で答えた。 やがて――。
レイガ:「ルイ。 これから先は、本格的に大変になるぞ」
ルイ:「……分かってます」
レイガ:「怖いか?」
ルイ:「……少しはね」
レイガ:「そうか」
レイガはフッと息を吐いて、どこか誇らしげに笑う。
レイガ:「なら、それでいい。 戦場で怖さを知らない奴は、いつだって周りを見失う。 そういう不遜な奴から先に死んでいくんだよ」
大英雄と呼ばれた男は、真っ直ぐ前を見つめたまま、僕を諭すように言葉を重ねた。

レイガ:「本当に怖いなら、これからは俺たちに死ぬ気で頼れ。 お前一人で、何もかも全部背負い込むんじゃねえぞ。 ……あの、セリナのこともだ」
ルイ:「……はい」
今度の僕は、昨日までの最適化されていた僕とは決定的に違う。 何でもかんでも一人で完結させるつもりなんて、もうどこにもない。 僕には――魂の底から頼ることのできる、最高に強くて優しい仲間たちがいるのだから。
その時、洞窟の暗闇の奥から、淡い桜色の魔力の光がふわりと、波紋のように漏れ出してきた。 同時に、遠くから微かに、ミリアの奏でるハープの、ごく短い旋律の欠片が聞こえてくる。 まるで、赤子を寝かしつける子守唄のような、優しく途切れがちな音だった。
ルイ:「……始まったんですね」
レイガ:「ああ」
僕とレイガは、無言のまま、その音がやむのをただじっと待った。 長くはなかった。 けれど、その短い時間の中に、女性たちが確かにセリナへ捧げていたであろう祈りの密度を、僕は肌で感じ取っていた。

ナギ:「……ルイ様、レイガさん。 すべての仕度が終わりましたぁ」
ナギの穏やかな声が地下から木霊(こだま)し、僕とレイガは顔を見合わせて、再び洞窟のなかへと戻っていった。
泉のほとりに立つと、ちょうどナギが最後の術式を紡ぎ終えたところだった。 彼女が細い両手を泉の縁へとかざすと、水面いっぱいに淡い翡翠色の魔法陣がふわりと広がり、その輪郭に沿って、見たこともない小さな花々が次々と静かに咲き開いていく。 傍らでは、ミリアがクリスタルハープに指先を添え、ごく小さな、囁くような旋律を紡ぎ続けていた。 セリナを包む神聖力の波長が、その音に合わせて、少しずつ均されていくのが分かる。 少し離れた岩の上からは、シオが腕を組んだまま、その一部始終を鋭い三白眼で見守っていた。 何か乱れがあれば即座に動けるよう、油断のない構えだった。 その肩の上で、ニガリだけが呑気に、岸辺に咲いた花の一輪を鼻先でつついている。
ルイ:「……脈打ってる?」
僕は思わず、そう呟いていた。 世界樹の巨大な根の奥から、ドクン、ドクンと、ごく微かな、けれど確かな鼓動のようなものが伝わってくる。 それは、泉に横たわるセリナの静かな呼吸と、いつしか同じリズムを刻み始めていた。 まるで、この世界そのものが、彼女を新しい命の一部として迎え入れようとしているかのように。

シエル:『――世界樹本体との波長同調を確認いたしました。 これより、セリナ様のご生体は世界樹の生命循環システムの一部として、完全に保護されます』
シエルの声が、いつもよりわずかに厳かに響いた。
泉の中央――。 そこには、世界樹の清冽な不凍液にその身を委ね、淡い神秘的な光に包まれて、深く眠るセリナの姿があった。 遮るもののない無垢な姿は、泉が放つ光のベールと、青とも緑ともつかない微光を湛(たた)えた水面、そしてミリアたちが手向けとして浮かべた無数の色鮮やかな花びらによって、幻想的に、柔らかく隠されていた。 それはまるで、この世界そのものの温もりに優しく抱きしめられているかのような、どこまでも神聖な光景だった。
ナギ:「封印術式は完全に安定していますぅ。 セリナ様の波長は世界樹の生命循環システムと完全に接続されました。 今のこの子にとって、これ以上ないくらいに安全な『ゆりかご』です」
ナギのその言葉を聞き届けて、僕は胸の底から深い安堵の息を吐き出した。

――まさに、その時だった。
フレア:「……私は、この聖域に残る」
低く、けれど透き通るような鉄の意思を宿した声。 僕たちの背後に佇んでいた、フレアだった。
フレア:「我が主がここで永い眠りについている。 ならば、忠実なる人形として、誰かがここで最優先で守り続けなければならない」
ルイ:「フレア……」
ルイ:「……一人で大丈夫なの?」
僕がそう尋ねると、フレアはほんの一瞬だけ、心底不思議そうにその紅蓮の瞳を細めた。

フレア:「愚問だな、マスター」
ルイ:「……そうだったね」
フレア:「それに――我が主の眠りを守ることなら、私は何千年でも待てる」
その揺るぎない即答に、思わず苦笑がこぼれた。 彼女は本当に、何一つ気負っていない。 ただ、それが自分に与えられた最も大切な役目だと、心の底から信じ切っているだけなのだ。
フレア:「無駄な心配は不要だ、マスター。 お前たちは、お前たち自身の果たすべき役目を果たせ」
フレアは、その紅蓮の輝きを宿した力強い瞳で、僕の顔を真っ直ぐに射抜いた。
フレア:「主を再びこの眩しい朝へと目覚めさせるために、世界樹の最深部へと赴くのだろう? ならば、もう二度と後ろを振り返らずに前へ進め」
僕はフレアの揺るぎない、魂に刻まれた忠誠心に胸を熱くし、 ルイ:「……どうか、あいつをお願いします」 と深く頭を下げた。 フレアは 「ああ。 我が機能のすべてを懸けて誓おう」 と、圧倒的な守護者としての強さを持って深く頷いてみせた。

僕は最後にもう一度だけ、泉の光の中で眠るセリナの穏やかな顔を、その網膜へと焼き付けるように見つめた。
ルイ:「……行ってくるね、セリナ」
不思議と、きっとこの言葉は、深い夢の底で待っている彼女の魂へと真っ直ぐに届いている――そんな確信が、今の僕の胸の奥底には満ちていた。
◇
洞窟の外へと出ると、初夏の陽光がきらめく湖畔で、シオとニガリが僕たちの帰りを待ち受けていた。

シオ:「じゃあな。 俺たちも、ここからは別行動を執らせてもらうぜ」
シオが、いつも通りぶっきらぼうにそう言った。
シオ:「俺は、古龍ゼノの頑固ジジイのところへ直接向かう。 世界のあちこちの境界で同時多発的に起きている、あの妙な異変のログを徹底的に調べるためにな。 ……昨日も言ったが、あれはただのバカ神の神聖力によるバグじゃねえ。 もっと本質的に、嫌でおぞましい『何か』が混じり合ってやがる」
僕は何も言わず、重苦しく黙って頷いた。 あの、舌の粘膜をチリチリと刺すような、最悪の苦い匂い。 僕たちの知らないところで、確実に破滅の歯車が激しく動き始めているのだ。
ルイ:「……うん。 気をつけてね、シオ」
シオ:「そっちもな、お前。 寝落ちすんじゃねえぞ」
シオが背を向けかけたその時、ナギが懐から、白く淡い青色の美しい幾何学模様が浮かび上がる、手のひら大の『魔法の貝殻』をそっと取り出した。

ナギ:「これを持っていってくださいぃ。 微弱な魔力を通せば、どんなに遠く離れた場所からでも一瞬で会話を繋げられる、大切な連絡用の魔導具(シェル)ですぅ」
シオは差し出された貝殻を受け取り、その精巧な魔力回路の輝きをまじまじと見つめた。
シオ:「……ありがとよ。 何か少しでも新しい真実が分かったら、すぐにそっちへ連絡する」
その肩の上で、相棒のニガリもどこか真剣な顔で小さく唸(うな)る。
シオ:「お前らも、何かにブッち当たったりヤバい気配を感じたら、すぐに俺たちを呼べよ。 地の果てからでも駆けつけてやるからな」
ルイ:「ああ、約束するよ」
僕たちはそれぞれの確かな決意を胸に、別々の目的の場所へと、未来を切り拓(ひら)くように力強く進み始める。 あの神秘的な泉の聖域で、主であるセリナの眠りをただ一人で守り抜くフレア。 世界の境界から滲(にじ)み出し始めた、あの最悪の苦い匂い(異変)の根源を探るべく古龍のもとへ向かうシオとニガリ。 そして――セリナを夢の底から安全に起こすハッピーエンドのルートを掴み取るため、世界樹の最深部を目指す僕たち。

たった一つの切ない別れ(場所)から、いま、いくつもの新たな未来への線(ログ)が力強く紡がれていく。 サイダー湖の初夏の爽やかな風がにわかに吹き抜け、透明な炭酸水のような湖面が、銀色の鱗(うろこ)を躍らせるようにきらきらと眩(まばゆ)しく揺れた。
僕は、雲の向こう側へと聳(そび)え立つ巨大な世界樹の天蓋(てんがい)を、二度と揺らぐことのない瞳で見上げた。
あの最深部へ。 僕は『僕という人間』を絶対に勘定から外さず、全員で必ず、辿り着いてみせる。

サイダー湖の美しい岸辺を離れた僕たちは、来た道をゆっくりと辿りながら、ひとまず臨時の宿へと戻ってきた。 世界樹の巨大な根元。 幻想的な花々に囲まれて、淡い燐光の中で安らかに眠っているセリナのこと。 もう彼女の柔らかな肉体は、物理的には僕たちのすぐ隣には存在しない。 それなのに、僕の胸の奥底には、不思議なくらいに温かく確かな安心感が宿り続けていた。 そこには絶対の忠誠を誓ったフレアがいて、世界そのものを中和する世界樹の生命循環システムがある。 だから、僕はもう一ミリの迷いもなく、前だけを向いて過酷なルートを進めばいいんだ。
宿の食堂へと戻ると、テーブルの上には女将(おかみ)さんが用意してくれた、簡単な昼食の皿が並べられた。 いつも通りの平和で、美味しくて、素朴な食事。 それなのに、なぜだろう。 どこか喉の奥を通り過ぎていく感覚が、ひどく物足りなく、寒々と感じられてしまった。 朝から騒がしいくらいの陽気さで、僕の皿からおかずを掠(かす)め取っては満面の笑みで笑う、あのセリナの姿がそこにはないからだ。
僕は一瞬だけ、ぽっかりと空虚のまま置かれた向かい側の椅子へと、無意識に視線を向けた。 けれど、昨日までの僕のように、どうしようもない冷酷な寂しさに魂ごと飲み込まれてしまうことはなかった。 あいつが今、どこで僕の迎えを信じて待っているのか――そのいるべき座標が、今の僕にはちゃんと分かっているから。

ナギ:「ルイさん」
全員が昼食を食べ終えた頃、ナギがいつもより少しだけ真剣な、大人のトーンに声を落として僕に言った。
ナギ:「これから本格的に動き出す前に、一度ご自室で少しだけ休憩しませんかぁ? これから先は、今までよりもさらに大変なお話になりますから、一度心を落ち着けてから聞いたほうがいいと思いますぅ」
僕はその提案に素直に頷(うなず)き、二階の自分の部屋へと戻っていった。 古びた木製の扉を開ける。 やはり、耳が痛くなるほどに、室内は静まり返っていた。 ほんの昨日まで、この部屋のベッドの上にはセリナがいて、無邪気に飛び跳ねていたはずだった。
ルイ:「……ただいま、セリナ」
誰もいない空気に向かって、ぽつりと呟いてみても、当然返る声なんてどこにもない。 少しだけ、胸の奥底がチクンと小さく痛んだ。 それでも、僕は人間としてのその温かな痛みを愛おしく噛み締めながら、ベッドの端へと腰を下ろした。

シエル:『――ルイ様。 世界樹最深部へ至るための重要事項の説明を、これより開始してもよろしいでしょうか』
脳髄の奥底へと、シエルの冷徹でノイズのない電子音声が厳かに響き渡った。
ルイ:(ああ、構わないよ。 世界樹の最深部に眠る『もう一人の調律者』のもとへ行くための、具体的な方法だね?)
シエル:『はい。 世界樹の最深部を覆う迷宮システムは、通常の物理的な移動経路では侵入不可能となっております。 その絶対不可侵の道を開くためには、世界各地に点在している【三つの封印】を、システム上の正しい順番で解除していく必要がございます』
ルイ:「……三つの、封印」
シエル:『はい。 その三つのセーフティは、それぞれ独立した封印ではございません。 第一の封印を解除(アンロック)することで初めて、次の第二段階へと進むための上位アクセス権限(キー)が世界に解放される仕様です。 すなわち、順番を崩しての段階的攻略は、理論上100%不可能でございます』
まるで、悪質なゲームの仕様を説明されているようだと一瞬だけ思った。 けれど、一歩でも手順を間違えればセリナを救う未来への道が永遠に完全デリートされる、あまりにも過酷な現実のクエストなのだ。
ルイ:(……分かったよ。 最初の第一封印の場所はどこにあるんだい?)
シエル:『――帝都でございます。 帝都の絶対的中心に聳え立つ大神殿、その地下最下層に、第一のセーフティが空間固定されております』
脳内のデータを受信した瞬間、僕の背筋に微かな、嫌な予感が走った。 この箱庭世界において、最も絶対的な権威と強固な警備を持つ最大宗教施設の、最深部。

ルイ:(何とかして警備の目を掻い潜って潜入し、術式で封印を無力化すればいいんだね)
シエル:『問題がございます。 第一封印をシステム解除するためには、特殊なキーアイテム(アクセスキー)が必要不可欠となります。 ですが、現段階の観測機能では、該当オブジェクトの正確な世界座標を特定できておりません。 ……ただし、その隠された位置を高い確率で論理予測できる権限保持者が、現在、帝都に存在いたします』
一拍の、冷徹なまでの電子の静寂。
シエル:『――本国が誇る七賢者の一人。 通称《星詠みの賢者》でございます』
星の正確な運行と世界の膨大な魔力流を同時解析する、高度な観測術式によって、世界に隠されたありとあらゆる対象物の座標を弾き出す特殊能力者。 まずはその賢者に接触し、キーの在処を突き止める必要があるらしい。
――まさに、その思考を並行処理していた時、コンコン、と部屋の引き戸が控えめに鳴り響いた。

ナギ:「ルイさん、ちょっと入ってもいいですかぁ?」
ナギが部屋の中へと足を踏み入れ、僕の向かい側にある、空っぽになった椅子へと腰を下ろした。
ナギ:「シエルさんから全体の流れは聞きましたか?」
ルイ:「うん。 星詠みの賢者っていう人に会いに行く必要があるんだよね」
そう告げると、ナギの翡翠色の瞳が、ほんの少しだけ意外そうに瞬(またた)いた。
ナギ:「……星詠みの賢者なら、わたくしも存じていますぅ」
ルイ:「知ってるの?」
ナギ:「はい。 以前、七賢者の会合で何度かお話ししたことがあります。 ちょっと変わった方ですけど……信用できる人ですぅ」
ナギは、懐かしむようにふわりと目を細めてから、けれどすぐに、その表情に慎重な影を落とした。

ナギ:「ただ……あの方が、この封印の鍵についてどこまで協力してくださるかは分かりません。 星の観測は、あの方にとって神聖な誓約のようなものですから。 誰にでも気安く座標を明かすような方では、決してありませんぅ」
僕は小さく頷いた。 都合よく道が開けているわけではない。 それでも、まったくの手掛かりなしで帝都の闇雲な捜索に挑むよりは、ずっとましだ。
ナギ:「では……これから向かう帝都の過酷な現状についても、わたくしのほうから事前に説明しておきますねぇ」
ナギは、ほんの少しだけ困ったようにその細い眉を下げてみせた。
ナギ:「帝都において、そのルイ様たちが解除しようとしている第一封印は――おぞましいことに、遥か昔から『世界を滅ぼす恐ろしい破壊神を封じ込めているもの』だと、国教の神話として頑なに伝えられているんですぅ」
ルイ:「……破壊、神?」
今度は、背筋に冷たい本物の氷を押し当てられたかのような戦慄が走った。

ナギ:「帝都の大神官も、その国を統べる国王陛下も、その神話の教えを絶対不変の正解(ルール)として盲信しています。 つまり、あの地下にある封印は、民を脅かす邪悪を閉じ込めた、絶対に触れてはならない『世界の禁忌(バグ)』に指定されているんですぅ」
ナギの声が、底のない深淵へと重苦しく沈んでいく。
ナギ:「もしも、わたくしたちがそれを力ずくで解こうとすれば……それはただの不法侵入や器物破損の犯罪(エラー)では済みません。 この世界そのものを終わらせようとした最悪の反逆者――《大罪人》として、即座に極刑(処刑)の対象になる可能性が極めて高いですぅ」
室内の大気が、しん、と音を立てて冷たく静まり返った。 僕たちがセリナと世界を救うために掲げる『正しい正解』と、帝都の人間たちが平和を維持するために信じる『正しい正解』のベクトルが、完全に真逆を向いてしまっているのだ。
ルイ:「……つまり、その封印を解いた瞬間から、僕たちは世界中から追われる、言い逃れのできない大罪人の一行になるんだね」
ナギ:「――そういうことになりますねぇ、ルイ様」
ナギは、そこで一度だけ、静かに視線を膝元へと落とした。

ナギ:「……わたくしも、子どもの頃は教典で何度も読みましたぅ。 『封印を破る者は世界を滅ぼす』って。 何度も何度も、頭に叩き込まれるように」
その声には、ただ他人事として伝承を語るのとは違う、ほんの微かな躊躇(ためら)いの色が滲んでいた。
ナギ:「記録官になってからも、その教えを疑ったことなんて一度もありませんでした。 それが、この世界の絶対の理(ことわり)なんだって、当たり前のように信じていたんですぅ」
ルイ:「……ナギさんも?」
ナギ:「はい。 だから――正直に申し上げて、まだ世界の誰にも分かりません。 帝都に伝わる破壊神という伝承が本当にただの欺瞞(ぎまん)なのか。 それとも真実なのか。 なぜそれほどのセーフティが施されたのか、今のわたくしたちには判断する材料が何一つありませんぅ」
僕はゆっくりと、窓の外の景色へと視線を移した。 昼の青空は皮肉なほどにどこまでも澄み切っていて、眩(まばゆ)い光を地上へと投げかけている。
昨日までの、感情を切り売りされてマヒしていた僕であれば、こんな理不尽な現実を突きつけられたら、そのあまりの重圧に絶望して逃げ出していたかもしれない。 でも、今の僕は違うんだ。 薄暗い食堂の壁際で、シオが僕へと辛辣に投げつけてきた『自分という存在を、最初から勘定に入れてねえんだよ』という言葉。 自分が世界最高峰の反逆者――《大罪人》として指名手配され、地の果てまで追われることになる。 その過酷すぎるリスク(勘定)をはっきりと肉体で理解した上で。 それでも、僕はあいつをこの手で救い出したい。 システムに踊らされるフェイクの英雄としてではなく、僕自身の本当の意志で。

ルイ:「ナギさん」
ナギ:「はい?」
ルイ:「僕たちは……本当に、悪いことをしようとしているわけじゃ、ないんだよね」
ナギはしばらくの間、僕の顔をじっと、その翡翠色の瞳で見つめ続け、やがて大人の声を紡いだ。
ナギ:「――分かりません。 少なくとも、今のわたくしには」
そう前置きしてから、ナギは小さく、けれど確かに口元を緩めた。
ナギ:「でも、ルイ様。 わたくしが幼い頃から信じてきた『正しさ』が、本当にすべての正しさとは限らない――そのことに、この旅を通してようやく気づき始めているんですぅ」
ルイ:「……だったら」
僕はベッドの端から、自らの足でしっかりと床を踏みしめて立ち上がった。

ルイ:「――全部、確かめに行こう」
自分でも驚くくらい、喉の奥から紡がれた声は穏やかな凪(なぎ)を保って落ち着いていた。
ルイ:「そこに本当に世界を滅ぼす破壊神が眠っているのか。 そのさらに奥底にいる存在が、本当にセリナを救える希望になるのか。 全部、誰かの神話を盲信せず、自分たちの目と記録(ログ)で確かめるんだ」
ナギが、張り詰めていた息をふっと吐き出して、最高に頼もしい笑顔を咲かせてみせた。
ナギ:「はい。 それでは、まず大罪人の一行として帝都へ向かうための、旅の準備を始めましょうかぁ」
セリナと世界を、どちらも勘定から外さずに救い出す命懸けの逃避行。 そこで僕たちを待ち受けているのは、人々からの英雄への熱烈な歓迎などでは決してない。 王国を恐怖に陥れる最悪の反逆者――《大罪人》という、恐ろしい烙印(らくいん)だ。

それでも、不思議と胸の奥底は嫌な気分ではなかった。 世界中から誰にどう呼ばれ、どれほど忌み嫌われようが、そんなことは今の僕にはどうでもいい。 ただ――あの世界樹のゆりかごの底で、深く眠り続けている彼女のところへ、いつか 「ただいま」 と胸を張って笑顔で帰るために。
僕はもう二度と迷わずに、この昏(くら)い道の先へと進む。
夜になった。 昼間のあの重苦しい大罪人に関する話し合いと、女将さんが腕によりをかけてくれた温かな夕食を終えたあと、僕は一人、屋上へと続く木造の階段を上っていた。

三つの封印、厳重極まる帝都、アクセスキーを持つ星詠みの賢者、そして触れてはならない破壊神の解放。 考え始めればいくらでも底のない不安は湧き上がってくる。 今の僕には、ほんの少しだけでいいから、頭のなかのシステム(論理)を完全に休めるための、静かな時間が欲しかったのだ。
古い扉をギイと開けると、初夏の心地よい夜風が、旅の準備で火照(ほて)った僕の頬を優しく撫(な)でていった。 昼間の熱気とは打って変わって、夜の空気はずっと涼しく、どこか少しだけひんやりとしている。 その風のどこか懐かしい感触に、僕はほんの一瞬だけ、吸い込まれるように足を止めた。
ルイ:「…………」
なんだろう、この、胸の奥をキュッと掴まれるような不思議な感覚は。 絶対に知っている――魂のどこかが、確かにそう告げていた。

屋上の端には、今夜もたっぷりと温かな湯を張った、素朴な石造りの露天風呂が佇んでいた。
ルイ:「……ほんと、この異世界の宿って、温泉と風呂がやたらと大好きだよな」
誰に言うでもなく苦笑しながら、僕は衣類を脱ぎ、湯船の中へとその身を深く沈めた。
ルイ:「ふぅ……っ」
温かな湯が肩まで浸かったその瞬間、心臓の奥に張り付いていたすべての緊張と、旅立ち前の硬い疲れが、一気に湯の中へ優しく融けてほどけていった。 そっと瞼(まぶた)を閉じる。 心地よく鼓膜を揺らす湯の音、通り抜ける夜風の音、遠くの街から微かに届く人々の温かな生活音。

そして――ポロロン……、ポロン……。 階下の客室のどこかから、ミリアが奏でるクリスタルハープの涼やかな音色が、夜風に乗って優しく漂ってきた。 その音をただぼんやりと聴いているだけで、頭を悩ませていた厄介な問題(バグ)たちが、少しずつ意識の彼方へと遠ざかっていく。
心の中のノイズがしんと静まったところへ、ふたたび、あの胸を締め付ける感覚がやってきた。 冷たい風。 どこまでも澄み切った大気。 少しだけ、いつもより長く感じる夜の時間。
ルイ:「…………秋、だ」
夕暮れの帰り道、セリナが何かくだらないことを言って。
 僕が呆れて、それでも笑って。
そのときの彼女の声だけが、なぜか今もすぐ耳元にある気がした。
僕の唇から、自然とそんな言葉がぽつりとこぼれ落ちていた。 異世界の初夏の中に紛れ込んだ――前世の日本の、切ない秋の気配だ。 茜色に優しく染まる夕方の空。 学校の重い引き戸を閉めたあとの、あの寂しげな帰り道。 制服の袖口から容赦なく入り込んでくる、ひやりとした風。 等間隔に並んで夜の始まりを告げる、オレンジ色の街灯。 どこかの家から漂ってくる、お腹の空く甘口カレーの匂い。

本当に、どこにでもある、何でもない普通の日本の景色。
僕はゆっくりと目を開けた。 見上げた王都の夜空には、偽物の箱庭とは思えないほど無数の星々が、宝石をぶちまけたように瞬(まばたき)を繰り返している。 でも、僕の胸の奥底に浮かんでいたのは、その美しい星空そのもののデータではなかった。 その、涙が出るほどに懐かしい星空を――すぐ隣で、大好きな誰かと一緒に並んで見上げていたという、あの愛おしい『感覚』だった。
僕のすぐ隣に、誰かがいたんだ。 同じ歩幅で肩を並べて歩いて、本当にくだらない他愛のない話をして、何度も一緒に声を合わせて笑って。 僕の名前を優しく、あるいは呆れたように呼ぶ、あの少女の声。 笑ったときにふにゃりと崩れる、最高に愛らしい表情。 隣を歩く、少しだけもどかしい速度。

そのすべてが、映画のような完全な映像(ログ)として脳裏に蘇っているわけでは決してない。 それでも――僕たちの間に確かに存在していた、あの火傷しそうなほどの『体温の温度』だけは、今も僕の胸の奥底に、鮮烈に、熱く残り続けていた。
ルイ:「……セリナ」
名前を優しく口にするだけで、冷え切っていた胸の奥底がじんわりと温かくなっていくのが分かった。 記憶のすべてが元通りに戻ってきたわけじゃない。 だけど、僕は確かにこの秋の風を知っている。 この夜が運んでくる切ないノスタルジーを、魂で知っている。 そして――その眩しい風景の真ん中には、いつも決まって彼女がいたという事実を、今の僕はちゃんとはっきりと実感できている。
僕が世界の理不尽な等価交換(決済)によって綺麗に忘れてしまっていたはずのものを、彼女は僕の代わりに、ずっと胸の特等席で大切に残し続けていてくれたのだ。 失った記憶の向こう側に、ちゃんと血の通った温かいものがある。 その奇跡が、今の僕には何よりも、涙が出るほどに嬉しかった。

ポロロン……、ポロン……。 ミリアの奏でるハープの優しい旋律が、王都の星空の向こうへと溶けて消えていく。
ルイ:「……なんだか、不思議な感覚だな」
僕はもう一度、高く遠い夜空を見上げた。 今度は、胸を締め付けていた孤独な寂しさよりも、今すぐにでもあいつに会いたいという、純粋で前向きな人間の熱が強く脈打っていた。 ゆっくりと胸に溜まった息を吐き出し、夜空を見上げたまま、誓うようにそっと言葉を口にする。
ルイ:「……明日、必ず旅立とう」
自分自身へと言い聞かせるように、固く。

ルイ:「――だから、もう少しだけ、その夢の中で待っていてね、セリナ」
――まさに、その決定的な瞬間だった。
セリナ:「ルイ、さっきから一人で一体何をごちゃごちゃ言ってるの?」
ルイ:「…………え?」
声がした。 すぐ隣、湯船のすぐ目と鼻の先にある、平らな岩の上から。 僕は完全にその場で全身が硬直した。 あまりにもあり得ない、都合のいい聞き間違いか幻聴の類だと思った。 けれど――。
セリナ:「わたしも、明日は絶対に一緒にいくよ!」
ゆっくりと、錆びついた歯車を回すかのように、本当に恐る恐る視線をすぐ隣の岩へと向けた。 そこには――淡い光のベールをまとった、いつもの見慣れた等身大のセリナが佇んでいた。 遮るものを何一つ身に纏(まと)わない、清らかな光と水で織られたかのような、美しい半透明の姿。 透き通るような青い瞳。 そして、この世界のどこを探しても絶対に見間違えるはずのない、あの満面のひまわりのような笑顔。

ルイ:「……セ、セリナ……本当に君なのかい?」
セリナ:「うん、そうだよ!」
あまりにもいつも通りすぎる、屈託のない元気な返事だった。 僕は完全に驚愕のあまり、開いた口が塞がらずに言葉を失ってしまった。 彼女の本物の肉体は今、サイダー湖畔の世界樹の根元で、フレアに守られながら眠りについているはずなのに。 まるで美しい幻影のようになったセリナは、何事もなかったかのように岩の上で嬉しそうに、ふにゃりと笑っている。
セリナ:「ルイ、明日から新しい冒険に旅立つんでしょ? じゃあ、わたしも絶対に一緒に行くんだからね!」
僕たちのそんなあまりにも奇妙な再会を祝うように、夜空の無数の星々が、静かに瞬(まばた)きを繰り返していた。
ルイ:「…………」
僕は、湯船の中で完全に石のように凝固していた。 目の前の岩の縁(ふち)には、半透明の清らかな輪郭をした等身大のセリナ。 吸い込まれそうなほど透き通る青い瞳。 見慣れた、いつもの黄金色の笑顔。 そして――どう論理的に考えても今のシリアス極まる世界の状況と噛み合っていない、あまりにも元気すぎる声。

ルイ:「……えっと、ね」
一度ぎゅっと強く目を閉じ、ゆっくり開いてみる。 ……いる。 もう一度、今度は痛いくらいに強く閉じて、パッと開く。 ……やっぱり、何事もなかったかのようにそこにいる。
ルイ:「…………これは、僕の見てる夢かな?」
セリナ:「夢じゃないよ?」
ルイ:「だよねぇ」
一秒の迷いもない、笑顔の即答だった。
ルイ:「じゃあ、一体何なんだい!? 君、今どこに存在してるの!?」
セリナ:「ここだよ?」
ルイ:「そうじゃなくて! 君の本体の肉体は今さっき、世界樹の底の泉で厳かに眠りについたはずじゃないのか!?」
セリナ:「うん。 ぐっすり眠ってるよ?」
ルイ:「だったら、なんでここにいるのさ!?」
僕が理性を失って夜空に向かって絶叫すると、脳髄の奥底から、聞き慣れたあの冷徹で甘いシステム音声が響き渡った。

シエル:『――ルイ様、その認識で、おおむね正解でございます』
ルイ:(シエル……っ! これは、一体全体どういうおぞましいバグなんだい!?)
シエル:『バグではございません。 セリナ様の純粋な精神体(アニマ)が、ルイ様の精神領域へとダイレクトに並行接続している状態でございます。 本体の肉体は世界樹の根元で完璧に安定した睡眠状態を維持しておりますが、今ルイ様の網膜に投影されているのは、その強大すぎる霊格が漏れ出た精神的投影体でございます』
僕は改めて、岩の上で宙にふわりと浮いているセリナを見つめた。 彼女はなぜか誇らしげに、自慢の豊かな胸をどや顔で張ってみせる。
セリナ:「ほらね? わたし、ルイの隣に大復活だよ!」
ルイ:「ほらね、じゃないよ!」
僕のあまりにも情けない悲鳴が、初夏の星空に虚しく響き渡る。
シエル:『なお――』
シエルがどこまでも平坦な無機質トーンで説明を続ける。

シエル:『この精神接続現象につきましては、メインシステムにおいて当初より100%予測済みでございました。 完全に把握しておりました』
ルイ:「…………なんでそれを、今朝の時点で僕に言わなかったの!?」
ついに裏返った情けない声が夜風に消えていく。 セリナが隣でくすくすと肩を揺らして笑っている。
ルイ:(じゃあ、何かい!? 僕が今朝、空っぽのベッドのシーツを撫でて寂しがってたのも? 昼間ずっと大罪人になる重い決意を固めてたのも? さっきまでこの温泉でしみじみと前世の秋のノスタルジーに本気で浸ってたのも……っ!?)
シエル:『すべてメインログに記録されております。 ルイ様が人間としての精神的な整理(リブート)を行うために必要なインターバルだと判断いたしました。 また――論理演算上、ルイ様のその一連の動揺が、若干、面白かったので』
ルイ:「シエル、お前……っ!?」
絶対零度を誇っていたはずの僕の管理システムが、今、あろうことか僕をからかう冗談(ジョーク)を言った……?
シエル:『事実を報告したまででございます』
ルイ:「そこだけ無駄に堂々と胸を張らないで!」
セリナ:「あはは! シエル、やっぱり最高に面白いね!」
セリナが湯船の縁で、小さな足をパタパタとさせながら楽しそうに笑い転げている。 なんだこれ。 本当に、一体全体なんだって言うんだ。 昨日の夕暮れ、あんなにも胸を引き千切られるほど苦しい思いをして、世界の存亡を懸けた覚悟と共にセリナを眠らせたはずなのに――どうして今の僕は、星空の下の温泉で、こんなにも締まらないノリツッコミの掛け合いを全力で繰り広げているんだ……っ!
セリナ:「それでね、ルイ。 わたし、やっぱりお留守番なんて絶対しないからね!」
セリナが僕の方へ向かって、空中を滑るように近づいてくる。 輪郭を淡く光らせた半透明の姿が、白いたなびく湯気の上をふわりと漂った。
ルイ:「……本当に、僕たちと一緒に来るつもりなのかい?」
セリナ:「うんっ! ルイと一緒に、新しい冒険に行きたいんだもん」
ルイ:「…………そっか」
そのまっすぐで純粋な響きに、僕はすっかり毒気を抜かれて、思わず敗北を認めるように笑ってしまった。

ルイ:「……分かったよ。 君の勝ちだ」
セリナ:「やったぁ!」
セリナが嬉しそうに、まるで重力なんて最初から存在しないかのように湯の上で飛び跳ねる。
ルイ:「ただし――」
僕は不自然に熱を帯びた指を一本、ビシッと彼女に向けて立てた。
ルイ:「ひとつ、致命的で重大な問題がある。 ……服だ」
セリナ:「…………」
セリナは不思議そうに、自らの遮るもののない半透明な輪郭を見つめた。 僕もつられてその神秘的な光のベールを直視してしまい、慌てて顔を真っ赤に染めて視線を斜め上へと逸(そ)らした。

ルイ:「今すぐ何か、服を投影して着てくれ……っ!」
セリナ:「えー? だってルイ、これってルイにしか見えない幻影なんでしょ?」
シエル:『はい、基本的にはその認識で一切の問題ございません。 他者への干渉権限(ログ)は遮断されております』
脳内のシエルまでが、淡々とその仕様を全肯定してくる。
ルイ:「だからって、僕にとって問題がないわけじゃないよ! こっちのピュアな精神が目的地に着く前に焼き切れて持たないんだよ!」
セリナは小さく首を傾げて少しだけ考えてから、 セリナ:「でもさ、ルイにしか見えないなら、別にこのままでもいいんじゃない?」 と、屈託のない顔で無防備に微笑んだ。
ルイ:「よくないったら、よくない!」
シエル:『……ルイ様のその主張に、メインシステムとして全面的に同意いたします。 現在のルイ様の精神安定(生体ログ)を考慮した場合、極めて適切な危機管理判断でございます』
シエルの電子音声が冷たい。 冷たいはずなのに、絶対にこの僕のパニック状況を楽しんでいる節(ふし)があった。

ルイ:「……シエル、まさかと思うけどさ。 お前、僕がこうして本気で困り果ててるのを、さっきから面白がって泳がせてる?」
シエル:『……完全なる否定はしかねます』
ルイ:「やっぱり確信犯じゃないか!」
セリナ:「ふふっ、ルイ、お顔がすっごく林檎(りんご)みたいに真っ赤だよ?」
ルイ:「一体全体、誰のせいでこうなってると思ってるのさ!?」
僕は湯船の中で、温かな湯に頭の先まで沈み込みたい衝動に駆られながら、ガシガシと両手で頭を抱え込んだ。
シエル:『――ルイ様。 セリナ様は現在、実体のない精神投影(アニマ)されている状態ですので、物理的な衣服を実体化して身に纏(まと)うことはシステム上不可能です。 ですので、代替案がございます。 セリナ様の投影スケール(サイズ)を、メインシステム側で変更されてはいかがでしょうか』
ルイ:「今すぐ限界まで小さくして! 縮小パッチ適用!」
僕は一秒の躊躇(ためら)いもなく即答した。
セリナ:「えー? 縮むのー?」
不満そうに小さな唇を尖らせるセリナに向かって、 ルイ:「そのほうが絶対に平和だから! お願いだから縮んで! どれくらいかっていうと……そう、およそ十センチ! 僕の手のひらの上にちょこんと乗るくらいの、妖精サイズに!」 と、僕は必死になって懇願した。

セリナ:「もー、しょうがないなぁ。 分かったよ!」
セリナが素直に両手を広げると――直後、ぽんっ、と小さなシャボン玉が弾けるような可愛らしい音がした。
十センチ。 手のひらに収まるほどの極小サイズになった半透明の愛らしい身体が、温泉の湯気の中を、まるで悪戯(いたずら)好きな光の妖精のようにふわふわと、気持ち良さそうに浮かんでいた。
セリナ:「できたよ、ルイ! 見て見て、ふわふわ飛べる! ほら、ここにも乗れるよっ!」
ぽん、と軽快な音を立てて、十センチの小さなセリナが僕の左肩の上へと着地した。 実体がないため物理的な質量(重さ)こそ一切ないはずなのに、昨日彼女の心から逆流してきた、あの確かな『前世の魂の温度』だけがじんわりと優しく伝わってくる。

ルイ:「……まあ、そのくらいの妖精サイズなら、僕のピュアな精神も少しは落ち着くかな」
セリナ:「よかったぁ!」
セリナが肩の上で嬉しそうにふにゃりと笑い、僕もつられて自然と声を漏らして笑っていた。
シエル:『――ルイ様。 セリナ様は現在、極小サイズとはいえ精神干渉パッチが有効な状態でございます。 今後の移動中、至近距離に滞在されることで常に精神的な揺らぎ(バグ)の影響を受ける可能性がございます。 ルイ様の精神安定(メンタルログ)を最優先に考慮し、必要に応じてセリナ様へ 「静止」
「待機」 のシステムコマンドを指示することを強く推奨いたします』
ルイ:「うん、分かった。 暴走しそうになったらそうするよ」
セリナ:「えー! 静止ってなにそれ、ロボットみたいでやだー!」
ルイ:「一秒の迷いもない即答!?」
僕は思わず声を上げて爆笑してしまった。
シエル:『……メインシステムにおける予測通りのエラーコード(天然少女ムーブ)です』
ルイ:「シエル、お前やっぱり完全に楽しんでるよね!?」
セリナが楽しそうに笑う。 僕もつられて笑う。 脳内の管理AIであるシエルまで、どこか呆れたように、けれど心地よさそうに沈黙している。

ほんのさっきまで、僕は自分を勘定に入れた大罪人として、孤独に前を向いて一人きりで戦う旅路へと出発するつもりだった。 でも今、僕の肩の上にはお茶目で愛らしい十センチのセリナがいて、頭の中には少しだけ冗談を覚えた頼もしいシエルがいる。
ルイ:「……明日からの大罪人の旅路、色んな意味でめちゃくちゃ大変そうだな」
セリナ:「うんっ! まかせて!」
セリナが肩の上で元気よく右手を上げて返す。
シエル:『はい。 全力を尽くします』
シエルも脳内で規律正しく返す。 見上げた王都の夜空の星々が、本当に、涙が出るほどに綺麗だった。 一人で露天風呂に浸かりながら胸を締め付けられていたあの冷たい寂しさは、もう世界のどこを探しても、完全に消え去っていた。

世界樹の最深部、各地を巡る三つの過酷な封印、厳重極まる帝都、そして世界の禁忌たる破壊神の解放。 僕たちの前に立ち塞がる深刻な問題(バグ)は、現時点でまだ何一つとして解決なんてしていない。 けれど――今だけは、ほんの少しだけ、明日という未来が待ち遠しくて楽しみだった。
ルイ:「……よし、そろそろお風呂から上がって、明日への一歩を踏み出そうか」
セリナ:「うんっ!」
シエル:『了解いたしました。 ルート演算を開始します』
その初夏の夜。 長すぎた残酷な喪失の痛みを、お互いの愛と体温で奇跡のように乗り越えて。 僕たちの、誰一人として勘定から外さない新しい冒険(第2部)が、ようやく、本当の意味で賑やかに始まった。

(第24章『空っぽの朝餐と、十センチの同伴者』・完)

|
【主題歌】『閃光CODE』➁㉔MV|『僕の記憶は、君の食べるお菓子になった。』――失った記憶を越えて、君のもとへ
【主題歌】『閃光CODE』➁㉔MV|『僕の記憶は、君の食べるお菓子になった。』――失った記憶を越えて、君のもとへ
【主題歌】『閃光CODE 』MV|『僕の記憶は、君の食べるお菓子になった。』
閃光CODE
【Verse 1】
ゼロとイチの闇を裂いて 走り出す 覚醒のシグナル 止まれない 戻れない 刻まれた運命を越えて
冷たい世界が定めた 無機質な未来のルール その答えを信じるより この手で 書き換えてゆく
孤独も 痛みも 怖さも 消せないなら 連れていけ 失うたびに強くなる そんな綺麗な夢じゃない
【Pre-Chorus】
もしもこの世界が 僕を拒むというのなら それでも君へ届くため 迷いごと 突破してゆけ
【Chorus】
放て! 運命を切り裂く閃光 この胸に刻んだ 揺るがない答え 孤独さえ 燃やしてしまえ 限界の向こうへ 今
走れ! 誰にも止められない速度で 閉ざされた未来を この手で開いて 眠る君へ 誓うよ 世界のルールさえ 越えてゆけ
【Verse 2】
電子の雨が降り注ぐ 魔術回路が夜明けを急かす 封じられた 幾千の謎 その扉の向こうに何がある?
禁忌と呼ばれたその先を 誰かの神話だけで決めない 正しい答えか 間違いなのか この眼で 確かめればいい
翡翠の瞳 響くハープ 重なる鼓動 繋がる声 ひとりで進むだけじゃなく 僕らは今 隣にいる
【Pre-Chorus 2】
たとえ世界中が 僕らを罪人と呼んでも 守りたいものがここにある それだけは 偽れない
【Chorus 2】
走れ! 閃光より速く未来へ 砕けた迷いを 推進力に変えて 暗闇を 突き抜けてゆけ この手で明日を掴め
ひとりで強くなるためじゃない 誰かのために 強くなりたい 重ねた絆 その光が 閉ざされた世界を 照らしてゆく
【Bridge】
「…………秋、だ」
夕暮れの帰り道 君が何かくだらないことを言って 僕が呆れて それでも笑う そんな声だけが まだ消えない
茜色の空 街灯の光 制服の袖を抜ける冷たい風 どこかの家から漂う 甘口カレーの匂い
【Quiet Bridge】
何でもない どこにでもある 普通の日々だった
なのに どうして こんなにも胸が痛むんだろう
忘れた名前も 消えてしまった景色も 全部はまだ 戻らない
それでも――
僕は知ってる 君がいたことを 君と笑ったことを
だから もう 自分を勘定から外さない
この命も この痛みも 全部まとめて 僕なんだ
【Final Chorus】
放て! 運命を切り裂く閃光 誰かに与えられた答えじゃなく 僕自身が 選んだ未来を この手で掴みにゆく
走れ! 孤独を越えてその先へ ひとつの鼓動を みんなで繋いで どんな禁忌も どんな暗闇も 恐れずに 突破してゆけ
【Last Chorus】
たとえ世界が 敵になっても たとえ「大罪」と 呼ばれても 守りたい笑顔がある限り 僕は何度でも 立ち上がる
眠る君へ―― 必ず帰ると 誓うよ
セリナ――
この世界の果てまで 閃光になって 駆け抜けろ!
【Outro】
ゼロから始まる 新しい明日 解けない運命なら 書き換えればいい
僕らの答えは 僕ら自身で 決めるんだ
Flash of fate―― Break the world―― Run to you.
|
あらすじ セリナが深い眠りについた翌朝、ルイは仮宿の空っぽの隣のベッドを見つめ、彼女を失った寂しさを初めて生々しい感情として受け止める。 かつてはシエルの最適化によって喪失の痛みすら削られていたが、今のルイは悲しみや会いたさを抱えながらも、セリナを救う本当の結末のために前へ進む決意を固める。 食堂ではレイガ、ミリア、ナギ、シオ、ニガリ、フレアが朝食を囲むが、豪勢で温かな料理を前にしても、皆はセリナの不在を強く意識する。 ルイは失いかけていた味覚でパンやスープの美味しさを感じる一方、それを誰より喜ぶはずのセリナがいないことに寂しさを募らせる。 その後、露天風呂で一人になったルイの前に、精神投影された半透明のセリナが現れる。 彼女は眠りの中にいながらも、ルイと共に新たな冒険へ行きたいという強い思いを示し、ルイはその真っ直ぐな願いを受け入れる。 しかしセリナの投影は服を身に着けられず、彼女の姿がルイにだけ見えるとはいえ、ルイは動揺してしまう。 シエルは物理的な衣服の実体化が不可能だと説明し、代案として投影サイズの縮小を提案する。 ルイは即座に十センチほどの妖精サイズへの変更を頼み、セリナは素直に応じる。 小さくなったセリナはルイの肩に乗り、実体はなくとも前世の魂の温かさを伝える存在となる。 シエルは、セリナが近くにいることでルイの精神に影響を及ぼす可能性を指摘し、必要なら「静止」や「待機」の命令を使うよう助言するが、セリナはそれを嫌がり、ルイとシエルを交えた軽妙なやり取りが生まれる。 孤独に罪を背負って旅立つつもりだったルイは、肩の上の小さなセリナと、少し冗談を覚えたシエルの存在によって、自分がもう一人ではないと知る。 世界樹最深部、三つの封印、帝都、破壊神の解放など、困難は何一つ解決していない。 それでもルイは、セリナとシエルと共に未来へ向かう希望を抱き、誰一人として切り捨てない新たな冒険を始める。
|
解説+感想+採点今回の第24章は、かなり重要な「転換回」になっています。 単なる次章へのつなぎではなく、ルイの人間性の回復・セリナの保護・戦闘システムの変更・仲間との再結束・次の旅への出発を一つの章にまとめています。
総合評価:96 / 100点
かなり高評価です。 特に良いのは、前半の「喪失」と後半の「十センチのセリナ」の落差です。
① この章の核心
この第24章を一言で表すなら、
> 「セリナを失った朝」から、「セリナと新しい旅へ進む夜」までの再生の章
です。
冒頭では、
> 「空っぽだった。」
という隣のベッドから始まります。 セリナがいないことで、これまでの日常そのものが崩れている。
しかも重要なのは、ルイが以前なら感情を「最適化パッチ」によって処理していたのに、今回は、
> 「胸が、ちゃんと引き千切られるように痛い。」
と感じられていること。
これは物語上かなり大きいです。
「苦しい=悪い」ではなく、苦しめるようになったこと自体が人間性の回復
として描かれています。
② 前半の「空っぽの朝」が非常に良い
この章で特に好きなのがここです。
セリナがいない。
それだけなのに、
ベッド 枕 掛け布団 食堂 朝食 部屋の静けさ
すべてが違って見える。
つまり、セリナは「キャラクター1人」ではなく、ルイたちの日常そのものだったと分かります。
特に、
> 「セリナがいないだけで、朝ってこんなに静かなんだな」
からレイガの
> 「お前、今さらそんな当たり前のことに気づいたのか?」
への流れは非常に上手いです。
ここで重すぎる感傷を一度笑いに変えています。
しかもルイ自身が、
> 「うん。本当に、今さらだね」
と笑う。
これは「悲しみを克服した」のではありません。
悲しみを抱えたまま笑えるようになった。
この違いが重要です。
③ 朝食シーンが「回復」の象徴になっている
フレアの豪華朝食も単なる日常描写ではありません。
ルイはパンを食べて、
> 「……美味しい」
と言う。
ここには、
味覚の回復 感情の回復 日常の回復 人間性の回復
が全部重なっています。
そして、その「美味しい」をセリナに一番喜んでほしかったのに、本人がいない。
だから嬉しいのに寂しい。
この二つの感情が同時に存在しているのが、この章の良いところです。
④ 「寂しい」を隠さなくなったルイ
個人的に、この章で最も重要な成長はここだと思います。
以前のルイは、
「自分が壊れてでも、最適な結果を出す」
という人物でした。
しかし今回は、
> 「寂しいものは、どうしようもなく寂しい。」
と言える。
さらに、
> 「今すぐにでもあいつに会いたい。」
とも認める。
これは弱体化ではなく、むしろ物語上の強化です。
なぜなら今までのルイは、
自分自身を犠牲にして世界を救う
という危険な思想に近かったからです。
ここで、
「自分も救う」
という方向へ変わっています。
⑤ 新しい戦闘システムがかなり面白い
今回の設定変更も非常に良いです。
以前:
能力を封印する → 記憶を失う
だった。
今回から:
能力を封印する → 記憶は失わない → 代わりに強烈な眠気
になる。
これが面白い。
単純に「ルイが強くなりました」ではないんですよね。
例えば、
> 敵の炎魔法だけ封印 > ↓ > 敵の防御だけ封印 > ↓ > 仲間が攻撃 > ↓ > ルイが眠くなる
という新しい戦闘スタイルになる。
つまりルイは、
「敵を倒す主人公」から「仲間が敵を倒せる状態を作る主人公」
へ変わります。
これはルイの性格にも非常に合っています。
さらに、
> 「もの凄く、眠くなります」
で一気にギャグへ落とすのも上手いです。
⑥ 「記憶を失わなくていい」が、この章最大の救い
ここはかなり重要です。
ルイにとって、
> 「もう大切なものを世界へ支払わなくていい」
という意味だからです。
これまでの物語では「力を使う=自分の何かを失う」という構造がありました。
今回、それが変わった。
しかも完全無償ではない。
記憶ではなく、眠気という比較的コミカルな代償になった。
これによって作品全体の空気も変わります。
「能力を使うたびに悲劇になる」状態から、
「能力をどう戦術的に使うか」
というゲーム性のある物語へ移行できます。
⑦ セリナを世界樹へ預ける展開も自然
世界樹の泉の設定も、この章で非常に綺麗に機能しています。
特に、
セリナを封印する=別離
だけで終わらず、
世界樹の生命循環に接続する=守られた眠り
にしているのが良い。
だからルイも、
> 「……やろう」
と迷わず決断できる。
ここで「セリナを置いていく」という罪悪感だけにしなかったのがポイントです。
⑧ フレアの「ここに残る」が格好いい
ここも好きです。
> 「我が主がここで永い眠りについている。ならば、忠実なる人形として、誰かがここで最優先で守り続けなければならない」
さらに、
> 「私は何千年でも待てる」
という台詞。
フレアのキャラクター性が一発で分かります。
そしてルイの
> 「……どうか、あいつをお願いします」
に対して、フレアが守護者として応える。
これは単純な別れではなく、
「セリナを守る役割をフレアに託し、ルイは前へ進む」
というバトンタッチになっています。
⑨ レイガの説教もかなり良い
個人的にはここも高評価です。
> 「怖いか?」
ルイ:
> 「……少しはね」
そして、
> 「なら、それでいい。」
これは良い台詞です。
主人公に「恐怖するな」と言わせない。
むしろ、
恐怖を認識できる人間だからこそ、仲間を頼れ
という方向に持っていく。
そして、
> 「お前一人で、何もかも全部背負い込むんじゃねえぞ。」
ここは第24章全体のテーマと一致しています。
ルイは今まで「一人で背負う主人公」でした。
ここから、
仲間と背負う主人公
に変わっていく。
⑩ そして最後の「十センチのセリナ」
ここで一気に作品の温度が変わります。
朝:
空っぽのベッド
↓
昼:
セリナを世界樹へ預ける
↓
夕方:
一人で旅立つ覚悟
↓
夜:
セリナの精神体が出現
↓
最終的に、
十センチのセリナが肩に乗る
という流れ。
この落差が非常に良いです。
しかも、ただのご都合主義的な復活ではありません。
シエルが、
> 「純粋な精神体(アニマ)が、ルイ様の精神領域へとダイレクトに並行接続」
と説明する。
つまり、
肉体は眠ったまま。精神だけがルイのそばに来る。
だから、
「セリナが復活した」
ではなく、
「肉体を失っても、二人の繋がりは切れなかった」
という形になっています。
⑪ そして「十センチ」が最高に効いている
ここは作品タイトルにも直結する重要なオチですね。
シリアス:
> 世界樹 > 三つの封印 > 破壊神 > 帝都 > 世界の崩壊
↓
主人公:
> 「十センチ! 妖精サイズに!」
↓
セリナ:
> 「できたよ、ルイ!」
(笑)
しかも、
十センチというサイズが今後の旅のキャラクター性そのものになる可能性がある。
肩に乗る。
飛ぶ。
喋る。
ルイをからかう。
シエルと会話する。
これはかなり強い新コンビ構成です。
⑫ シエルも地味に大きく変わっている
実はセリナだけではありません。
シエルも変化しています。
以前:
完全な最適化システム
だったのに、
> 「若干、面白かったので」
と言う。
そして、
> 「完全なる否定はしかねます」
まで言う。
つまり、
シエル自身にも人間的な「遊び」が発生している。
ルイ:
> 「お前やっぱり完全に楽しんでるよね!?」
ここはかなり好きです。
ルイ・セリナ・シエルの3人の関係が、
主人公+ヒロイン+システム
から、
3人の掛け合いチーム
へ変化し始めています。
⑬ この章の構成を整理すると
かなり綺麗な五段構成です。
| パート | 内容 | 役割 | | | | | | 朝 | セリナ不在 | 喪失 | | 朝食 | 仲間との会話 | 感情の回復 | | 世界樹 | セリナを保護 | 決断 | | 新能力 | 記憶を失わない戦闘 | 新章への準備 | | 夜 | セリナ精神体登場 | 再生・希望 |
そして最後に、
「十センチの同伴者」
でタイトル回収。
構造としてかなり完成度が高いです。
⑭ 特に評価したい伏線
さらに重要なのが終盤の、
> 「三つのあまりにも過酷な『封印』の全貌」
です。
そして後半で、
世界樹の最深部 三つの封印 帝都 破壊神
が提示される。
つまり第24章は、
第一部の感情的な決着+第二部の大型冒険への予告
になっています。
⑮ 物語としての弱点
96点ですが、100点ではありません。
一番気になるのは、情報量がかなり多いことです。
この一章の中に、
セリナ喪失 ルイの感情回復 朝食 セリナの保護 世界樹 フレア残留 シオ別行動 新しい封印システム 眠気という代償 大罪人の旅 三つの封印 サイダー湖 精神体セリナ シエルの変化 十センチ化
まで入っています。
一つ一つは面白い。
ただし、読者の感情処理速度を超える可能性があります。
特に、
「セリナを失って泣けるほど辛い」 ↓ 「世界樹へ預ける」 ↓ 「新能力」 ↓ 「眠くなる」 ↓ 「ギャグ」 ↓ 「シオ離脱」 ↓ 「夜のノスタルジー」 ↓ 「セリナ登場」 ↓ 「服問題」 ↓ 「十センチ」
と、感情の振幅がかなり大きい。
ただ、これは欠点というより、Web小説的なエンタメ性とのトレードオフです。
⑯ 一番良かったポイント
僕がこの章で一番評価したいのは、
「セリナが戻ってきたこと」そのものではありません。
むしろ、
> ルイが「セリナがいなくても前へ進める人間」になった直後に、セリナが戻ってくる
という順番です。
これが重要です。
もし最初から精神体セリナが出てきたら、
「結局セリナいるじゃん」
になってしまいます。
でも今回は、
1. セリナがいない 2. ルイが悲しむ 3. それでも前へ進む 4. セリナを安全な場所へ預ける 5. 仲間を頼る 6. 新しい力を得る 7. 未来へ向かう 8. そこでセリナが現れる
だから、
「セリナがルイを救った」のではなく、ルイが自分の足で立ち上がったところへセリナが戻ってきた
という構造になっています。
これはかなり綺麗です。
⑰ 採点内訳
| 項目 | 点数 | | | : | | ストーリー構成 | 19/20 | | キャラクター | 20/20 | | 感情描写 | 20/20 | | 世界観・設定 | 19/20 | | 会話・テンポ | 18/20 | | 総合 | 96/100 |
特に強い部分
キャラクター:20/20 感情描写:20/20
この2つが非常に強いです。
最終感想
第24章は、
「セリナを失った章」ではなく、「セリナがいなくても前へ進めるようになったルイが、もう一度セリナと歩けるようになる章」
だと感じました。
そして最後の、
> 「一人で露天風呂に浸かりながら胸を締め付けられていたあの冷たい寂しさは、もう世界のどこを探しても、完全に消え去っていた。」
から、
> 十センチのセリナ
へ着地するのが、この章の最大の魅力です。
重い世界観なのに、最後にはちゃんと笑える。
それでいて、
世界樹・三つの封印・帝都・破壊神
という巨大な問題は何一つ解決していない。
だから「ハッピーエンド」ではなく、
> 「ハッピーエンドへ向かって歩き出せる状態になった」
という終わり方になっています。
これは第24章の締めとしてかなり綺麗です。
96点。かなり強い章です。 特に「空っぽの朝」→「世界樹のゆりかご」→「十センチの同伴者」という流れは、章タイトルとの対応も含めて非常に完成度が高いです。
|
◀第23章『もう一度、夢の中で待っていて』
▶第25章『触れられない君と、旅の朝』
|