◀第06章『ブラック勇者の退職(脱走)と、新居への引っ越し』
第07章『オリハルコンと、解なしの温泉』 「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 波音リツ」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: ずんだもん」「VOICEVOX: 黒沢冴白」「VOICEVOX: 離途」夜明けの気配が、深い原生林の木々を静かに染め上げ始めていた。 早朝五時過ぎ。 ほんのり色づき始めた秋の葉を濡らす朝靄(あさもや)を抜け、窓の隙間から滑り込んだ薄明光が、純白の大理石の床を淡く照らし出す。 タクト:「……んん」 タクトは、自らがまどろむ空間のあまりの心地よさに、ゆっくりと微睡(まどろみ)から意識を浮上させた。 右へ転がる。 極上のシルクのようなシーツが肌を優しく撫で、身体がふわりと深く沈み込む。 左へ転がる。 やっぱり、どこまでいっても恐ろしいほどに柔らかい。 タクト:「……よく、寝た」 タクトはゆっくりと目を開け、王宮の大広間を思わせるドーム型の高い天井を見上げた。 昨日までの、呼吸するだけで埃(ほこり)が舞う煤(すす)けた四畳半とは、世界を構成する粒子そのものが違っているようだった。 タクト:「やっぱり、ドバイ仕様のキングサイズベッドは最高だな……」 しみじみと、魂の底から至福の溜息(ためいき)が漏れ出る。 今日から始まる新しい深層エリアでの労働。 魔獣の脅威というリスクはあるものの、そのぶん危険手当(ゆで卵&給料アップ)が厚く、何よりこの異常なまでに贅沢(ぜいたく)な空間が保証されているのだ。 採掘ノルマさえ効率よく片付ければ、この至高のベッドで過ごす自由時間は無限に増える。 タクト:「毎日これで寝られるなら、多少危険な場所で働く価値もあるってもんだ」 異世界へ召喚されて以来、初めて手に入れた真の意味での本格的な安息。 タクトは、小市民としてのささやかな、しかし確かな幸せを噛み締めながら、何気なく隣へと寝返りを打った。 その、目の前に――。 タクト:「…………」 静謐(せいひつ)な朝の光を浴びて、月光を紡いだような白銀の髪がシーツの上に美しく広がっていた。 まるで精巧な硝子(ガラス)細工のように透き通った白い肌。 安らかな寝息を立てるその薄い唇は、ほんのりと桜色に色づいている。 フルートだった。 いつもの隙のない漆黒の軍装ではない。 薄絹で仕立てられた、ひどく無防備で簡素な就寝用の衣服。 その華奢(きゃしゃ)な肩のラインが、柔らかな布越しに微(かす)かに上下している。 どうやら昨夜も、主(あるじ)であるタクトの安全確認と、この異常な空間拡張の維持を行っていたらしい。 そうして今は、五十畳の部屋の中央に鎮座するキングサイズベッドの圧倒的な広さを最大限に活用(?)するかのように、タクトのすぐ真隣で、丸くなって眠っていた。 タクト:「…………」 数秒間。 タクトの現代人としての常識回路が、完全に機能を停止した。 タクト:「……いや」 タクトは、再び天井の魔導シャンデリアへと視線を戻し、冷静に独りごちた。 タクト:「いくらキングサイズだからって、眠りたい気持ちは痛いほど分かるけどさ」 もう一度、隣を見る。 すぐ手の届く距離に、絶世の美少女の寝顔がある。 タクト:「……自分の家(アジト)で寝ようよ。 すぐ隣なんだから」 完全に直結しているあのクローゼットの奥の空間を思い出しながら、タクトは心の中で小さくツッコミを入れた。 その気配に気づいたのか。 銀色の長い睫毛(まつげ)が朝露に濡れたように微かに震え、ゆっくりと開かれた。 氷のように澄んだ紅(あか)い瞳が、すぐ目の前にあるタクトの貌(かたち)を映し出す。 フルート:「……おはようございます、魔王様」 鈴を転がすような、しかしどこか甘さを帯びた寝起きの声だった。 タクト:「おはよう」 タクトは至極フラットに返した。 タクト:「ところで、なんでここにいるの?」 フルート:「夜間警備の一環でございます」 フルートは、シーツに身を包んだまま、真顔で淀(よど)みなく即答した。 タクト:「警備って、添い寝も業務内容に含まれてるの?」 フルート:「主(あるじ)の御傍(おそば)で休息を取りながら、いかなる異常も見逃さず対処する。 有事の際、即座に主の盾となるための、極めて効率的かつ合理的な警備体制かと」 タクト:「絶対、違うと思う」 タクトが即座に切り捨てると、フルートの白磁のような頬が、ぷくぅと子供のように不満げに膨らんだ。 フルート:「……そういう反応を、なさるのですね」 フルートはほんの少しだけ視線を逸(そ)らし、唇を尖らせた。 彼女の胸の奥には、氷の軍人の顔とは裏腹な、ささやかな少女の期待が隠されていたのだ。 フルート:(自分の寝顔を見て、少しは驚いてほしかった。 できれば、頬を染めて照れてほしかった。 もっと欲を言えば、自分が朝の光の中で隣にいることを、ほんの少しでも喜んでほしかった。) ところが――。 タクトの脳内では、そのいじらしい乙女心とは完全に真逆の、圧倒的な『善意の勘違い』が展開されていた。 タクト:(なるほど、夜間警備か……。 相変わらず、魔王軍ごっこの設定作り込みとロールプレイへの情熱が凄(すさ)まじいな) タクトは、徹夜で自分を守る(フリをする)ために身を粉にしている彼女の働きぶりに、静かな感動すら覚えていた。 タクト:(それに、昨夜は大神官を話し合いで解決する(という脳内設定の)ために、夜遅くまで起きていたはずだ。 フルートさんも絶対に疲れているんだろうし……せっせと広いベッドを用意してくれたんだ、好きなだけ寝かせてあげよう) タクトは、この上なく優しい、労(ねぎら)いの微笑みを向けた。 タクト:「そのまま、ゆっくり寝てていいよ。 俺は朝飯を食べに行ってくるから」 フルート:「…………」 フルートの淡い期待は、音もなく大理石の床へと崩れ落ちた。 だが――。 フルート:「……はい」 主が自分自身の欲望よりも、己の疲労を第一に気遣ってくれたこと。 そのどこまでも温かい絶対的な慈悲に触れ、彼女の胸の奥底が甘く締め付けられる。 フルート:(……いえ、まだです。 魔王様の御傍で過ごす機会は、これからいくらでもございますわ) フルートは、自らの内にくすぶる情念を静かに宥(なだ)めた。 タクトがシーツから滑り出て、身支度を整えるために歩き出す。 その無防備で愛おしい背中を。 フルートは、シーツを胸元で強く握り締めながら、名残惜しそうに、そして熱を帯びた紅い視線で、いつまでもそっと目で追い続けていた。 ◇ ひんやりとした純白の大理石に素足を下ろす。 伸びをしながらベッドから離れたタクトの視界に、昨日この部屋に足を踏み入れた時には存在しなかった、真新しい調度品がふと入り込んだ。 ふかふかのキングサイズベッドのすぐ脇。 そこに、深い飴色(あめいろ)の艶(つや)を放つ、小ぶりで上品なサイドテーブルがひっそりと置かれていたのだ。 タクト:「……あれ?」 タクトは小首を傾(かし)げた。 タクト:「昨日、こんなのあったっけ?」 チェロ:「……閣下」 部屋の片隅、静謐(せいひつ)な朝の薄明かりの中から、一人の少女が音もなく姿を現した。 チェロであった。 人間化した現在の彼女の姿に、かつての獣耳やふさふさとした尻尾の痕跡はない。 硝子(ガラス)細工のように無感情で小柄な、儚(はかな)げな少女という外見のまま、そこに静かに佇(たたず)んでいた。 彼女は自身の細い指先でサイドテーブルの縁をそっとなぞり、木材の仕上がりを確かめるようにして、ぽつりと告げた。 チェロ:「これ、私が作った」 タクト:「へえ、すごいな」 タクトは感心して、テーブルの天板を撫(な)でた。 指先に吸い付くような滑らかさ。 木目も息を呑むほど美しく引き出されており、継ぎ目一つ見当たらない。 タクト:「これほどのものを作れるなんて。 木目もきれいだし、作りもものすごくしっかりしてるよ」 チェロ:「……ベッドも」 タクト:「え?」 チェロ:「……閣下の、そのベッド。 私が作った」 チェロは漆黒の瞳を真っ直ぐにタクトへ向けて言った。 タクト:「そうだったのか」 タクトは先ほどまで身を沈めていた背後の極上の寝床を振り返り、素直な感嘆の声を漏らした。 タクト:「どうりで、信じられないくらい寝心地がいいと思ったよ。 チェロさんは本当に器用なんだな。 ありがとう」 チェロ:「…………」 タクトが何の裏表もなく、ただ純粋な称賛の言葉を向けると――。 チェロの硝子玉のような瞳の奥底に、ほんの微(かす)かな、しかし確かな光が星のように輝いた。 チェロ:(……褒められた) 表情という名の湖面は、一切の波を立てず凪(なぎ)いだままだ。 だが、その水底(みなそこ)では、狂おしいほどの歓喜の渦が激しく、熱く踊り狂っていた。 チェロ:(閣下が、私の作ったベッドを……気に入ってくれた) 胸の奥で、トクトクと甘い鼓動が跳ねる。 チェロ:(もっと、作る。 閣下のために。 もっと、もっとたくさん) チェロは無表情のまま、タクトへ向かってもう一歩だけ踏み込んだ。 チェロ:「……これからも、閣下専用の家具を作る」 タクト:「いやいや、もう十分すぎるくらいだよ」 タクトは慌てて両手を振った。 タクト:「こんな立派な部屋を用意してもらっただけでもありがたいのに、これ以上家具まで作ってもらったら、さすがに申し訳ないって」 だが――。 チェロ:「……専用」 チェロは決して一歩も譲らなかった。 チェロ:「……閣下が使うもの。 全部、私が作る」 タクト:「…………」 チェロ:「閣下の、すべて」 そこには、職人としての執着を超えた、ひどく重く、ねっとりとした情念が孕(はら)んでいた。 タクト:「そ、そうか。 職人魂ってやつだな」 タクトは自らの都合の良い解釈回路をフル回転させ、深く納得したように一つ頷(うなず)いた。 タクト:(自分の作った家具を、主(魔王)に使ってもらいたいっていう、職人としての矜持(きょうじ)なんだな。 チェロさん、寡黙だけどめちゃくちゃ仕事熱心だなぁ) だが当然ながら、チェロが胸の奥底に秘めている願いは、タクトの呑気(のんき)な解釈とは決定的に、そして致命的に違っていた。 チェロ:(……私が手作りしたものに囲まれて、毎日、毎夜、閣下に暮らしてほしい) チェロ:(そうすれば、私のことも……ほんの少しは、『特別』だと思ってほしい) それは、あまりにも不器用で、健気(けなげ)で、独占欲に満ちた誘惑であった。 だが、無機質な少女に、まだそれを直接言葉にするだけの勇気はない。 そんな二人のやり取りを――。 フルート:「…………」 ベッドの上でシーツに身を包んだまま、フルートが静かに、そして冷徹な紅い視線で見つめていた。 フルート:(……チェロも、ずいぶんと積極的ですね) チェロは背後に突き刺さる総司令官からの鋭い視線に気づきながらも、一切振り返ろうとはしなかった。 ただ無表情のまま、タクトのベッド脇に置いたサイドテーブルの位置を、ミリ単位で丁寧に整え直す。 自分の不器用なアピールが、少しでも愛しい主(あるじ)の心に届いていると信じたかったのだ。 ところが――。 当のタクトの頭の中では、すでに彼らしい、極めて事務的な結論が導き出されていた。 タクト:(フルートさんが夜間警備を担当して、チェロさんが備品や家具の製作を担当する。 なるほど、魔王軍の幹部同士で、ちゃんと役割分担ができているんだな) タクトは、彼女たちの手際の良さに、ほのかな感心を覚えていた。 タクト:(みんな、本当に魔王軍ごっこに本気だ。 俺も、主としてちゃんと付き合ってあげないとな) 今回もまた――。 少女たちが胸に抱く重く甘美な恋愛感情のベクトルは、タクトの鉄壁の 「事なかれ主義」 の前に、検討対象にすら上ることなく、爽やかにスルーされていくのであった。 ◇ サイドテーブルを巡る静かな牽制(けんせい)の空間へ、どこからともなく、胃袋を優しく刺激する芳醇(ほうじゅん)な香りが漂い始めた。 焼き立ての小麦の甘い匂い。 複雑なスパイスが溶け込んだ、温かなスープの湯気。 ハーモニカ:「魔王様。 朝食のご用意は、すでに整っております」 知的な銀縁眼鏡の奥の瞳を伏せ、ハーモニカが銀のトレイを恭(うやうや)しく捧げ持って現れた。 トレイの上に整然と並べられているのは、琥珀(こはく)色に輝くコンソメスープ、ふっくらと焼き上げられた極上のパン、そして彩り鮮やかな新鮮な野菜と、絶妙な火加減で調理された副菜の数々。 見た目の美しさと立ち上る香りだけで、それが一般の採掘労働者が口にするような塩漬け肉と硬いパンとは、完全に次元の違う『特級品』であることは明白だった。 タクト:「えっ、わざわざ俺のために用意してくれたの?」 ハーモニカ:「はい」 ハーモニカは一切の感情を交えぬ優秀な秘書の顔で、眼鏡のブリッジを中指でくいっと押し上げた。 ハーモニカ:「魔王様の本日の勤務時間、予想される消費カロリー、および必要な栄養素のすべてを綿密に逆算して導き出した献立です。 主(あるじ)の効率的な一日の開始には、朝の適切な栄養摂取が不可欠にございますので」 タクト:「……そこまで?」 ハーモニカ:「当然でございます」 ハーモニカは涼しい顔で言い切った。 だが、その胸の内――分厚い論理の鎧(よろい)の下では、一人の純情な乙女の願いが、熱を帯びて大きく膨らんでいた。 ハーモニカ:(本当は……私が一番最初に、魔王様へ手作りの朝食をお出ししたかったのです) 理屈など、どうでもよかった。 カスタネットの指導のもと、深夜まで試作を重ねて完成させたこのスープを、ただ食べてほしい。 ハーモニカ:(『美味しい』と、そのお声で仰(おっしゃ)っていただけたら。 できれば……明日も、その次の日も、ずっと。 私の作った食事を召し上がっていただけたら) 完璧な管理者の仮面の下で、彼女は恋する少女のようにひどく緊張していた。 ところが――。 タクトはその完璧すぎる料理をじっと見つめ、みるみるうちに深刻な顔つきへと変わっていった。 タクト:「……すまない、ハーモニカ」 ハーモニカ:「はい」 タクト:「そのご飯、悪いんだけど……お前たちみんなで分けて食べてくれないか?」 ハーモニカ:「…………」 銀のトレイを持つハーモニカの手が、ピクリと不自然に止まった。 ハーモニカ:「……お気に召しませんでしたか?」 その声の端(はし)が、微(かす)かに、情けないほど震えていた。 タクト:「いや、違う。 たぶん、めちゃくちゃ美味(うま)いんだと思う」 タクトは重々しく首を横に振った。 タクト:「だからこそ、危険なんだ」 ハーモニカ:「危険……でございますか?」 タクト:「これを毎朝食べるようになったら、俺のなかの小市民的なラインが崩壊して、二度と引き返せない『堕落コース』の一線を越えてしまう気がする」 ハーモニカの細い肩が、しゅんと音を立てるように落ちた。 ハーモニカ:(……私の料理が、魔王様を堕落させてしまう……?) そんなはずはない。 栄養管理も、食事効率も、主の肉体への影響も、すべて寸分の狂いもなく計算したのだ。 だが、タクトが直面している危機感は、カロリー計算の話などでは断じてなかった。 タクト:(広すぎる大理石の部屋に、最高級のふかふかベッド。 そこへ毎朝、専属の天才料理人が作ったみたいな最高の朝飯までついてみろ……。 俺はもう、絶対に元の『普通の労働者生活』に戻れなくなる!) 異世界の底辺労働者として、最低限のハングリー精神だけは保っておかなければ、いつか取り返しのつかない破滅を迎える。 タクトは本気で、この過剰な贅沢(ぜいたく)に危機感を覚えていたのだ。 だが、目の前でひどく落ち込み、今にも泣き出しそうに俯(うつむ)いている眼鏡の才女を見ていると、タクトの事なかれ主義(優しさ)が顔を出した。 タクト:「……じゃあ、一口だけ。 せっかく作ってくれたんだし」 ハーモニカ:「……はい!」 パァッ、と。 ハーモニカの沈んでいた表情に、花が咲くように明るい光が灯った。 タクトはスプーンを手に取り、琥珀色のスープを一口、口へと運んだ。 タクト:「…………っ」 昨日のワイバーン焼き鳥に勝るとも劣らない、計算し尽くされた極上の旨味が、朝の目覚めたばかりの細胞の隅々へと染み渡っていく。 タクト:「うん、美味しい。 本当に美味しいよ、ハーモニカ」 ハーモニカ:「…………!」 ハーモニカの胸の奥深くに、甘く、温かな喜びの波が爆発的に広がった。 ハーモニカ:(魔王様が……私の料理を、美味しいと……!) その何気ない一言だけで、徹夜で献立を組み、試作を繰り返したすべての苦労が報われた気がした。 ハーモニカ:「次回は、さらに魔王様にご満足いただける完璧な献立を――」 タクト:「いやいや、次回はもっと普通でいいからね。 その辺の食堂で出るような、本当に普通のやつで」 ハーモニカ:「……承知いたしました」 返事は、どこまでも平板で平静だった。 だが、ハーモニカの明晰(めいせき)な脳内では、すでに狂気的なまでの『次回朝食の改善計画』が高速で演算され始めていた。 ハーモニカ:(魔王様の御心に負担をかけず、それでいて満足度と栄養価を最大化できる『究極の普通』の献立……。 次回は、量を微調整し、素材の味を極限まで引き出した質素な至高の料理を……!) タクトは知らない。 彼が気を遣って告げた 「美味しい」 という一口の感想が。 知的な参謀たるハーモニカの、料理と主(あるじ)への重すぎる情熱に、かつてないほど巨大な油を注いでしまったということを。 ◇ ハーモニカとの静かな攻防が一段落したかと思われた、その時。 カスタネット:「魔王様、こちらもどうぞ」 豊満な胸元を上品なドレスに包んだカスタネットが、ふわりと甘い香りを漂わせながら、もう一つの小さな包みを持って現れた。 タクト:「ん? まだあるの?」 カスタネット:「ええ。 ハーモニカの完璧な朝食とは別に、少しだけ軽く召し上がれるものをご用意しておきましたわ」 カスタネットが白魚のような指先でそっと包みを開くと、中には素朴な焼き色をした小さなパンと、木の実をあしらった焼き菓子が数個、可愛らしく並んでいた。 見た目こそ田舎の家庭料理のように飾り気のないものだが、そこから立ち上る香りは、驚くほど芳醇(ほうじゅん)で豊かだった。 焦がしバターの甘い匂いと、微(かす)かなスパイスの香りが、タクトの食欲を優しく、しかし抗(あらが)いがたく刺激してくる。 タクト:「……おお。 いい匂いだな」 カスタネット:「これから過酷な採掘のお仕事に向かわれるのですから、その前に少しだけ、お腹へ入れておかれるとよろしいかと思いまして」 カスタネットは、すべてを包み込むような柔らかく優雅な微笑みを浮かべた。 ハーモニカの料理が、主(あるじ)の肉体を維持するための『完璧な効率と栄養管理』を突き詰めたものであるならば。 カスタネットが料理に込めているのは、主の心を満たす『家庭的な温かさと食べる楽しみ』であった。 カスタネット:(魔王様が、毎日あのように泥に塗(まみ)れてお仕事を頑張っていらっしゃるのですもの。 せめてお食事の時くらいは、心から安らぎ、楽しんでいただきたいわ) そして――。 カスタネット:(できれば……私の作った温かい料理の味を、真っ先に思い出していただけるくらいに) 彼女の胸の奥にもまた、女としての静かで熱い情念が渦巻いていた。 タクトは、その素朴な焼き菓子を見つめ、少しだけ迷った。 タクト:(朝から専属料理人が作ったような豪華な食事を毎日食べるのは、底辺労働者としての精神構造が崩壊するから危険だ。 ……だが、これくらいささやかな焼き菓子なら……) カスタネットは、そんな彼の葛藤(かっとう)を優しく見抜いたように、鈴を転がすような声で囁(ささや)いた。 カスタネット:「もちろん、今すぐ無理に召し上がらなくても大丈夫でございます。 お仕事の合間に、ホッと一息つかれた時にでも」 タクト:「……そうか。 じゃあ、遠慮なく一つだけもらおうかな」 カスタネット:「はい。 どうぞ、魔王様」 タクトは小さな焼き菓子を手に取り、サクッと一口かじった。 タクト:「…………うまっ」 口内に広がる優しい甘さと、ホロホロと崩れる食感。 気取った高級感はないが、心の中のささくれ立った部分をじんわりと癒やしてくれるような、不思議な温もりがあった。 思わず、素直な感嘆の声が漏れる。 その一言に、カスタネットの艶(つや)やかな瞳が、パッと春の花が咲いたように輝いた。 カスタネット:「お気に召しましたか?」 タクト:「うん。 これ、すごく美味しいよ。 なんていうか……すごく、落ち着く味だな」 カスタネットは、ふわりと自身の豊かな胸元に両手を添えた。 カスタネット:(落ち着く味……) その言葉は、彼女の心の最も柔らかい部分を、甘く、激しく打ち抜いた。 カスタネット:(魔王様が、私の作った料理で……心から落ち着いてくださる……) 彼女にとって、それは千の称賛の言葉を並べられるよりも、何よりも嬉しい、最高の賛辞であった。 だが、感動に打ち震える彼女をよそに、タクトは残りの焼き菓子をそっと丁寧に包み直し、自らの作業着のポケットへと大事そうにしまった。 タクト:「ありがとう、カスタネット。 残りは今日の仕事の休憩中にでも、大事に食べさせてもらうよ。 朝から美味しいものを食べすぎると、絶対に坑道で眠くなっちゃうからな」 カスタネット:「……ふふ、そうですか」 カスタネットは優雅な微笑みを崩さなかった。 けれど、その内心では少しだけ、甘い物足りなさを感じていた。 カスタネット:(本当は……朝食も、昼食も、夕食も。 毎日、毎食、魔王様に私の料理を召し上がっていただきたいのですけれど) そこで、静観していたハーモニカが、冷ややかな声で口を開いた。 ハーモニカ:「カスタネット。 魔王様への食事のタイミングも、自己管理においては重要な要素です。 朝食の摂取カロリーを無闇(むやみ)に増やしすぎると、勤務中の眠気やパフォーマンスの低下に直結する可能性があります」 正論という名の、鋭い牽制(けんせい)であった。 カスタネット:「まあ」 カスタネットは手で口元を隠し、穏やかに、しかし一歩も引かずに笑い返した。 カスタネット:「わたくしも、決して無理に召し上がっていただこうとは思っておりませんわ」 その視線が、眼鏡の才女と空中でバチリと交差する。 カスタネット:「ただ、魔王様がお疲れになったその瞬間に、いつでも美味しいものを召し上がって心を満たせるように、お弁当を持たせて差し上げたいだけですの。 お側に仕える者としての、当然の気配りですわ」 ハーモニカ:「……合理性の問題ではありませんね」 ハーモニカの声が、わずかに低く、険しいものへと変わる。 カスタネット:「ええ。 これは、心の問題ですもの」 カスタネットもまた、極上の微笑みを浮かべたまま、一歩も退かなかった。 完璧な栄養管理と効率を武器にする参謀と。 家庭的な包容力と安らぎで胃袋を掴(つか)もうとする艶やかな美女。 柔らかい微笑みと、冷静な眼鏡越しの視線。 その間に、パチパチと青白い静かな火花が散るのを、タクトは少し離れた場所から眺めていた。 そうして、タクトは深く、深く感心したように頷(うなず)いた。 タクト:「……すごいな」 ハーモニカ・カスタネット:「え?」 タクト:「料理一つとっても、栄養学からのアプローチと、メンタルケアからのアプローチで、魔王軍の幹部同士でちゃんと議論し合ってるんだな。 こだわりの強さが本物だよ」 完全なる、致命的な誤解であった。 彼女たちが火花を散らしているのは、ひとえに 「どちらが魔王様の胃袋(寵愛)を独占するか」 という、女としての純粋で熾烈(しれつ)な闘いであったというのに。 タクトの鋼鉄の事なかれ主義(鈍感力)は、魔王軍幹部四人からの同時多発的な静かなる誘惑を、今回も見事に、そして爽やかに無力化していくのであった。 ◇ 採掘の準備を整えるため、タクトは新しく支給された作業着の袖に腕を通し始めた。 その何気ない動作一つひとつを、この広大な空間に佇(たたず)む四人の少女たちは、息を殺して見つめていた。 ベッドの傍らには、銀髪を揺らすフルート。 真新しいサイドテーブルの脇には、硝子玉のような瞳を向けるチェロ。 食後のトレイを腕に抱えたハーモニカ。 そして、タクトが作業着のポケットにしまった焼き菓子を、愛おしそうに見つめるカスタネット。 四人とも表情こそ平静を装っているが、その視線はただ一点、愛しき主(あるじ)へと吸い寄せられていた。 誰もが、少しでも自分に目を向けてほしかったのだ。 フルート:(私だけを……特別な存在として、その御心に留めてほしい) フルートは、シーツの端を強く握り締める。 ハーモニカ:(毎日の活力となるお食事のすべてを……私に管理させてほしい) ハーモニカは、銀縁眼鏡の奥で切実に願う。 チェロ:(私の作ったものに……一番大切に、囲まれて暮らしてほしい) チェロは、己の指先を見つめながら静かに熱を帯びる。 カスタネット:(疲れた時に思い出すのが……私の温かさであってほしい) カスタネットは、胸元に手を添えて甘く祈る。 形は違えど――。 それぞれの胸の奥底で燃え盛っている情念の根源は、ただ一つだった。 ――どうか、私に振り向いて。 不意に。 作業着の身支度を終えたタクトが、くるりと四人を振り返った。 その顔には、どこか気恥ずかしそうな、しかし心からの感謝に満ちた、柔らかな笑みが浮かんでいた。 タクト:「みんな、本当にありがとう」 静かな朝の部屋に、タクトの素朴な声が響いた。 タクト:「俺一人のために、ここまで至れり尽くせりにしてもらって……本当に助かってるよ」 その一言で――。 四人の少女の貌(かたち)に、朝陽が差し込んだかのように、同時に明るい光が灯った。 フルート:「魔王様……」 ハーモニカ:「魔王様……!」 チェロ:「……閣下」 カスタネット:「お役に立てて何よりですわ、魔王様」 嬉しかった。 主が、自分たちの不器用で重たい好意(アピール)を、ついに真正面から受け取ってくれたような気がしたのだ。 胸の奥で、歓喜の産声が上がる。 ――だが。 タクトの口からこぼれ落ちた続く言葉が、彼女たちの淡い期待を、木端微塵(こっぱみじん)に打ち砕くことになる。 タクト:「でもさ」 タクトは、少しだけ困ったように苦笑した。 タクト:「あんまり、俺のことを甘やかさないでくれよ。 これ以上こんな極上の贅沢(ぜいたく)を覚えちゃったら、俺、本当にただの『普通の採掘士』に戻れなくなりそうだからさ」 四人:「…………」 四人の少女の笑顔が、見事に、一瞬にして凍りついた。 だが、タクトは彼女たちの硬直に全く気づかない。 タクト:(……危ない、危ない) 彼は内心で冷や汗を拭(ぬぐ)っていた。 タクト:(こんな信じられないほど豪華な部屋に、最高級のベッド。 そこへ毎朝、絶世の美女たちが専属メイドみたいに世話を焼いて、最高の食事まで用意してくれたら……俺はもう、完全に堕落したダメ人間になってしまう) タクトは、自らの小市民的な生活基盤を守るために、極めて真面目に危機感を覚えていた。 タクト:(みんな、俺が『魔王役』だからっていう設定に合わせて、こんなに親切に世話を焼いてくれているんだ。 だからこそ、俺の側から 「ほどほどにしてくれ」 って線を引かないとな。 ……ここで万が一にも『自分が好かれている』なんて勘違いしたら、自意識過剰にもほどがあるし、後で絶対に痛い目を見る) フルートの健気(けなげ)な添い寝も。 ハーモニカの完璧な朝食も。 チェロの愛情こもった手作り家具も。 カスタネットの温かい家庭料理も。 タクトの強固な 「事なかれ主義」 のフィルターを通せば、そのすべては『壮大な魔王軍ロールプレイの一環』であり、ただの『純粋な善意』でしかなかった。 彼の中では、それ以上でも、それ以下でもなかったのだ。 タクト:「じゃあ、そろそろ行ってくるよ」 タクトは、玄関へと続く(外見だけはボロいプレハブ小屋の)扉の前に立ち、振り返った。 タクト:「みんなも、あんまり無理しないでな」 フルート:「……承知いたしました、魔王様」 フルートが、感情を押し殺して静かに頭を下げる。 ハーモニカ:「いってらっしゃいませ、魔王様」 ハーモニカは、姿勢正しく丁寧に一礼する。 チェロ:「……いってらっしゃい、閣下」 チェロは、ぽつりと短く告げる。 カスタネット:「お仕事、頑張ってくださいませ、魔王様」 カスタネットは、無理に作った柔らかい微笑みで見送る。 タクトは、彼女たちの言葉に 「おう」 と軽く手を振った。 そうして、重い扉を開け、朝靄(あさもや)の立ち込める外の世界へと歩み出ていく。 バタン、と。 扉が閉まり、タクトの背中が完全に見えなくなった。 ――四人は、誰一人として、その扉の向こうへ主(あるじ)を追いかけようとはしなかった。 ここから先は、人間の労働者たちが蠢(うごめ)く採掘場だ。 もし他の職員に姿を見られれば、東方魔王軍の最高幹部たちが深層エリアの宿舎に集結しているという異常事態が露見しかねない。 タクトの尊き平穏な採掘生活(スローライフ)を守るためにも、今は絶対に、この結界で覆われた部屋から出るわけにはいかないのだ。 静寂の戻った大理石の部屋のなかで――。 四人の少女たちは、主が消えた冷たい扉を、いつまでも無言のまま見つめ続けていた。 その胸の奥底に、未だ届けきれぬ熱い情念の火種を、静かに、そしてより一層赤黒く燃え上がらせながら。 ◇ 重厚な扉が閉じられ、広大な大理石の部屋には再び深い静寂が舞い戻った。 残されたのは、愛しき主(あるじ)の微(かす)かな残り香と、取り残された四人の少女たちだけ。 フルートが、熱を帯びた吐息を小さく吐き出した。 フルート:「……魔王様は、今日もお元気そうでしたね」 ハーモニカ:「ええ。 わたくしの計算し尽くした朝食の味も、しっかりとご理解いただけたようです」 ハーモニカが、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、涼しい顔で応じる。 チェロ:「……ベッドも、気に入ってくれた」 チェロが、自身の細い指先をいとおしげに見つめながら静かに呟(つぶや)く。 カスタネット:「手作りの焼き菓子も、美味しいと仰(おっしゃ)ってくださいましたわ」 カスタネットも、豊かな胸元に手を添えて優雅な笑顔を浮かべる。 一見すれば、主の健やかな朝を喜び合う、忠臣たちによる和やかな会話であった。 しかし――。 部屋を満たす大気には、肌をチリチリと刺すような、ひどく張り詰めた緊張感が漂っていた。 やがて、フルートが氷のように澄んだ紅(あか)い瞳を細め、静かに、しかし絶対的な威厳を孕(はら)ませて宣言した。 フルート:「……次は、わたくしが魔王様に、より完璧で快適な休息環境をご用意いたしますわ」 ハーモニカ:「生活効率の最大化という点においては、わたくしの管理計画こそが最も優れています」 ハーモニカは、一切の妥協を許さぬ秘書の顔で言い放つ。 チェロ:「……家具、もっと作る。 閣下のために」 チェロもまた、無機質な声音の奥にどす黒い執着を滲(にじ)ませて短く告げる。 カスタネット:「お疲れになったとき、すぐに心を癒やせるお料理を、もっとたくさんご用意しておきますわ」 カスタネットも、柔らかい微笑みを一ミリも崩すことなく続けた。 四つの視線が、空中で音もなく、しかし青白い火花を散らして交差する。 誰も声を荒らげない。 誰も露骨に牙を剥(む)いて争わない。 けれど――誰一人として、一歩たりとも譲るつもりはなかった。 ――タクト様に、自分だけを『特別』だと思ってほしい。 その狂おしいまでの、身を焦がすような切実な願いだけは。 四人とも、完全に一致していたのだ。 その頃、タクトが101号室の扉を閉めた瞬間。 ガチャ。 すぐ隣、壁一枚を隔てた『102号室』の重い木扉が。 タクトの扉が開いたタイミングから、文字通り一ミリ秒の狂いもなく、完全に『同時』に開かれたのだ。 凪:「おはようございます、タクトくん!」 そこに立っていたのは――。 身だしなみの乱れはおろか、一筋の後れ毛すら許さない、完璧に身支度を整えた千歳 凪(ちとせ なぎ)であった。 彼女は、早朝の瑞々(みずみず)しい朝露のように澄み切った、百点満点の聖女の笑顔を浮かべて佇(たたず)んでいた。 タクト:「…………」 タクトは、無言になった。 視線を虚空へと泳がせ、一度深呼吸をする。 そうして、何事もなかったかのように、ゆっくりと自室のドアノブを引き、後ずさりしながら元の部屋へと戻ろうとした。 スッ……。 凪:「あら? タクトくん?」 タクト:「知ってた。 知ってたよ……」 タクトは半開きのドアの隙間から、死んだ魚のような目で隣の幼馴染(ストーカー)を睨(にら)んだ。 凪:「ふふっ。 お互い、朝がとっても早いのね」 タクト:「いや、待て。 いくらなんでも、隣同士で扉を開けるタイミングまで一ミリもズレないって、どういうことだよ。 ホラーかよ」 凪:「運命だからかしら?」 凪は、小首を可憐(かれん)に傾(かし)げて微笑んだ。 タクト:「運命でドアの開閉が同期してたまるか。 どうせまた、俺の行動パターンを読んだとか、そういうすごい『偶然』なんだろ?」 凪:「ええ。 とっても素敵な偶然ね」 タクト:「……その笑顔が一番信用できないんだよな……」 タクトは深く、深くため息を吐き出しながら、諦めて部屋の扉を完全に閉めた。 凪は、タクトがあからさまに自分を警戒し、ジト目を向けているその態度すらも愛おしいのか、全く意に介する様子もなく自然な足取りで隣へと並び立った。 その澄まし顔の裏側では、昨晩から仕込んでいた神域のバグスキル《ギャンブル》が、世界の確率を力任せにねじ曲げ、『タクトと朝の出勤時に全く同じタイミングで遭遇する確率』を完全に確定(100%)させていたのだ。 だが、その背筋も凍るようなストーカー能力の真の仕組みを、タクトは未だに知らない。 タクト:(……まあ、昔からの知り合いだしな。 凪がわざわざ危険な深層エリアに来たのも、Eランクでも給料(ベース)がいいからだろう。 たぶん) タクトは、自らの都合の良い『事なかれ主義』の解釈回路を回し、強引に納得することにした。 彼女だって、異世界で生き残るために必死に稼ぎたいのだろう、と。 一方、その隣を歩く凪の内心はと言えば――。 凪:(ふふっ。 今日も大好きなタクトくんと一緒に、同じ時間に出勤できるわ。 本当に、隣の部屋を選んで……ううん、当てておいてよかった……) ウッドチップの敷かれた小道を、二人が並んで歩き出す。 タクトにとっては、ただの気怠(けだる)い『通勤』の開始。 そして凪にとっては――この異世界における、甘く幸せな『朝の逢瀬(デート)』の始まりであった。 ◇ 二人は並んで真新しい宿舎群を抜け、原生林を切り拓いて作られた緩やかな登り道へと足を踏み入れた。 足元では、敷き詰められたウッドチップと初秋の落ち葉が混ざり合い、歩を進めるたびにサクサクと心地よい乾いた音を立てる。 見上げれば、空を覆うような巨木の枝先に大粒の朝露が残り、風が通り過ぎるたびに雫(しずく)がぽたり、ぽたりと静かに落ちてきた。 湿った豊かな土の匂いと、針葉樹の凛(りん)とした香りが辺りに漂い、冷たい大気を深呼吸すると、肺の奥深くまでが透明に澄み渡っていくようだった。 木々の隙間から斜めに差し込む朝日は、たゆたう朝靄(あさもや)を透かし、無数の金色の光の筋(プリズム)となって足元の地面へと降り注いでいる。 少し開けた場所から遠くの谷間を見下ろすと、巨大な要塞(ようさい)のような深層エリアの採掘坑口が姿を現した。 最新式の魔導ボイラーから吐き出される白い蒸気が朝靄と複雑に混じり合い、山肌に露出した魔鉱石の結晶が、朝陽を受けて淡く幻想的な光を反射していた。 凪:「……綺麗ね」 ふと、隣を歩いていた凪(なぎ)が、その景色を見つめながらぽつりと呟(つぶや)いた。 タクト:「ん?」 凪:「この景色。 朝の空気も、とても気持ちいいわ」 凪は歩調を緩め、柔らかく微笑んだ。 タクト:「まあな」 タクトも立ち止まり、朝日に照らされる雄大な谷間を眺めた。 タクト:「深層エリアって、もっと魔獣がうろつく殺伐とした場所だと思ってたけど」 タクトは周囲の清浄な空気をもう一度深く吸い込む。 タクト:「意外と自然が豊かだし、空気もいい。 危険手当(給料)がドカンと出るだけあって、働く環境としては悪くないな」 凪:「……タクトくんらしい感想ね」 凪が、くすりと楽しそうに笑う。 タクト:「そうか? 働く場所の生活環境って、一番大事だろ。 空気が悪いとか、騒音がひどいとか、そういう劣悪な環境は毎日の積み重ねで確実に精神をすり減らすからな」 凪は、そんなタクトの横顔を、蕩(とろ)けるような熱を帯びた眼差しでそっと見つめた。 凪:(そういうところも、本当に好き……。 自分の生活を何より大切にして、決して見栄を張って無理をしない、私のタクトくん……) 同じ道を、同じ速度で歩けること。 静かな朝の美しい景色を、一番近くの隣で眺められること。 たったそれだけの、普通の日常。 けれど凪にとっては、己の資金(所有財産)を投げ打ってでも手に入れたい、狂おしいほどに幸せな時間であった。 だが、隣を歩く当のタクトはと言えば――。 すでにその視線は美しい自然から外れ、道の分岐点に設置された簡素な木製の案内板へと釘付けになっていた。 タクト:「……あ、そういえば」 タクトは案内板の矢印を指差した。 タクト:「今日の朝飯を食べる『第一共同食堂』って、この先のルートで合ってるんだよな?」 凪:「ええ。 もう少し歩けば着くわ」 タクト:「助かった。 まだ深層エリアの道を全然覚えてないからな。 迷子になって遅刻したら、初日から給料に響くし」 凪:「ふふっ。 明日も一緒に来ましょうね、タクトくん」 凪が、ごく自然な響きで朝の逢瀬(おうせ)の約束を取り付ける。 だが、タクトは不思議そうに首を傾(かし)げた。 タクト:「ん? 同じ宿舎から同じ職場へ行くんだから、約束しなくても普通に会うだろ?」 凪:「……ふふっ。 そうね」 凪は小さく、けれどこの世の春をすべて独占したかのように甘く微笑んだ。 凪:(明日も一緒。 明後日も、その次の日も……。 ずっとずっと、タクトくんと同じ朝を迎えられたら、どんなに幸せかしら……。 ええ、絶対にそうしてみせるわ。 私の《ギャンブル》にかけて) 彼女は内心で、世界の理(ことわり)をねじ曲げた二人の永遠の未来を勝手に思い描いていた。 一方のタクトは、道端の小石を軽く蹴りながら、頭の中で今日の綿密な労働計画(サボりスケジュール)を構築していた。 タクト:(よし。 危険な深層エリアの初日だからって、絶対に無理はしないぞ。 まずは割り当てられた区画の安全確認を徹底して、サクッとノルマを早めに終わらせる。 そうして、午後からは定時まで安全な場所で身を潜めよう) 同じ朝霞(あさかすみ)の道を並んで歩きながら――。 二人の見つめている未来と目的のベクトルは、相変わらず交わることなく完全にすれ違ったままであった。 ◇ 朝靄(あさもや)が立ち込める原生林の小道を歩いていると、前方の白煙の中から、早朝シフトの準備へ向かう恰幅(かっぷく)の良い男たちの影が近づいてきた。 深層エリアのベテラン採掘士たちである。 彼らは、泥に汚れた分厚い作業着姿のまま、タクトの姿を認めるなりパッと顔をほころばせた。 ダンカン:「おう、シキちゃん! 今日から深層エリアの配属だな!」 立派な灰色の髭(ひげ)を揺らし、使い込まれた巨大なツルハシを肩に担いだ小柄で頑丈な男――ダンカン親方が、森に響くような豪快な声で笑いかけてきた。 タクト:「おはようございます、ダンカン親方。 今日からよろしくお願いします」 タクトは愛想よく頭を下げる。 ダンカン:「おうおう、元気そうで何よりだ。 深層の新設された宿舎の寝心地はどうだ?」 ダンカンの隣で、皮の丸眼鏡をかけた職人肌の熟練鉱夫――ゴルドが、寡黙な面持ちのまま静かに尋ねてきた。 ゴルド:「それが、思ったよりもずっと待遇がよくて。 おかげで今日も一日、頑張って働けそうです」 ダンカン:「ガハハ! そりゃあいいことだ!」 ダンカン親方が腹を抱えて快活に笑う。 その時だった。 ふと、男たちが笑いながら、タクトのすぐ隣にぴたりと寄り添って歩いている凪(なぎ)の存在へと視線を移した。 ゴルド:「……おや?」 ゴルドが、皮眼鏡の奥の目を丸くする。 ダンカン:「なんだなんだ、シキちゃん。 朝っぱらから、こんな別嬪(べっぴん)さんと一緒のご出勤か?」 ダンカンが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて肘で突くような仕草をした。 ダンカン:「お前、深層エリアに引っ越してきたばかりだっていうのに、ずいぶんと隅に置けねえな。 なんだ、ついに新婚さんか?」 タクト:「違います!!」 ――コンマ一秒。 鼓膜を打つよりも早い、あまりにも見事な、食い気味の『即答』であった。 その必死すぎる否定の速度に、からかおうとしていたベテラン採掘士の二人は、目をぱちくりとさせて一瞬だけきょとんとしてしまった。 タクト:「ただの同級生です! 昔からの幼馴染(しりあい)ですから! それ以上の関係は神に誓って一切ありません!」 タクトは、自らの平穏(スローライフ)に不要なスキャンダルを徹底的に排除するため、両手をぶんぶんと振って全力で否定した。 ダンカン:「お、おう……。 なんだよシキちゃん、そんなに必死になって顔を真っ赤にして否定しなくてもいいじゃねえか。 照れちゃってさぁ!」 ダンカンは、タクトの狼狽(ろうばい)ぶりを 「純情な若者の照れ隠し」 だと完全に好意的に勘違いし、ガハハと再び豪快に笑い飛ばした。 ダンカン:「いやあ、若いってのはいいねえ。 朝から熱いこって」 ゴルドもまた、職人の真顔のまま、ウンウンと深く頷(うなず)いている。 タクト:「だから違いますってば!」 タクトの虚しい訂正は、秋の朝空へと空しく吸い込まれていった。 だが――。 そのすぐ隣で。 凪:「…………」 千歳 凪は、両手を胸の前で小さく組み、白磁のような頬をほんのりと桜色に染め上げていた。 凪:(新婚さん……) タクトが隣でどれほど必死に、血相を変えて関係を否定していようとも。 凪の脳内では、ベテラン採掘士が何気なく発した『新婚』という甘美な二文字が、幸福な未来を確約する聖なる福音のように、何度も、何度もエコーをかけて繰り返されていた。 凪:(ふふっ……。 いつか、本当に。 タクトくんと二人で、そう呼ばれる日が来るのかしら……) 彼女は、満ち足りた幸福な吐息を微(かす)かに漏らしながら――。 ごく自然な動作で、タクトの肩に触れんばかりの距離へと、さらに『半歩』だけ身を寄せた。 タクト:「……お前、なんで『からかわれてる』のに嬉しそうなんだよ」 タクトが、ジト目でツッコミを入れる。 凪:「え? だって、大好きなタクトくんと、こうして一緒に歩けているんですもの」 タクト:「いや、そういう意味じゃなくてだな……」 凪:「ふふっ」 凪は、朝露のように透き通った瞳で、ただ心底楽しそうに笑うだけだった。 タクト:「…………」 タクトは、数秒だけその笑顔をじっと見つめ返し――やがて、小さくため息を吐いて追及をやめた。 タクト:(……深く考えない方がいいな。 昔から、こいつはこういう不思議ちゃんなところがあったし) 異世界に来てからの彼女の過剰なスキンシップも、きっと極限状態のストレスからくる『昔からの友人に対する親しみ』の延長なのだろうと、タクトはまたしても自らに都合のいい理屈をひねり出した。 実際には――。 凪にとっては、タクトの隣で同じ時を刻むこの一歩一歩が、二人の永遠の未来(ゴールイン)へと続く、狂おしいほどに確かな行進のつもりだったのだが。 やがて、ベテラン採掘士たちと別れて緩やかな坂道を登りきった二人の視界に。 木々の向こう、大きな煙突から真っ直ぐに温かな白煙を上げている、巨大な木造の建物が見えてきた。 深層エリアの労働者たちの胃袋を支える、ログハウス風の『第一共同食堂』である。 タクト:「おっ、見えた! よし、朝飯だ!」 タクトの顔が、今日一番の輝きに満ちた。 凪:「ふふっ。 楽しみね、タクトくん」 タクト:「ああ! 浅層エリアじゃゆで卵は一個だったけど、深層エリアは危険手当のおかげで、朝のゆで卵が『二個』に増えるってダンカン親方から聞いてたんだよな。 いやー、労働の後の……前か? とにかく、待遇がいいって最高だぜ」 タクトは、ただの 「ゆで卵が一つ増える」 という極めて小市民的なささやかな幸福を胸に、足取りも軽く食堂の扉へと向かっていく。 凪:「……ええ。 きっと、とっても素敵な朝になるわ」 その後ろ姿を見つめながら。 凪は、タクトには見えない角度で、ひどく甘く、そして世界の理(ことわり)すらも平伏させるような『含みのある微笑み』を浮かべていた。 彼女はすでに、昨夜のタクトの 「最高に美味(うま)い炭火焼き肉をお腹いっぱい食べたい」 という願いを叶えるため、限界突破した因果の《ギャンブル》を回し終えている。 これから始まる平和なはずの朝食が。 彼女の愛と狂気によって、どれほど常軌を逸した『異常なもの』へと変貌を遂げているのか。 無邪気に 「ゆで卵二個」 を楽しみにしている当のタクトは、まだ知る由(よし)もなかった。 ◇ 初秋の美しい散策路を抜け、二人は巨大なログハウス風の『第一共同食堂』へと辿(たど)り着いた。 タクト:「さて、ゆで卵二個の朝食だ!」 タクトは期待に胸を膨らませ、重厚な木扉を勢いよく押し開いた。 ――その瞬間。 タクト:「…………ん?」 温かな空気の波と共に、タクトの嗅覚を暴力的なまでの『極上の香り』が殴りつけた。 芳醇(ほうじゅん)な出汁(だし)の効いたスープの匂い。 焼き立ての小麦の甘い香り。 そして何よりも――異様なまでに香ばしい、分厚い肉が炭火の上でチリチリと焼け焦げる匂いが、広大な食堂内を満たし尽くしていたのだ。 タクト:「……いや、ちょっと待って」 タクトは、入り口で完全に足を止めた。 鼻をくすぐるその香りは、どう贔屓(ひいき)目に見積もっても、底辺採掘士が毎朝すすっている黒パンと薄い塩スープの匂いなどでは断じてない。 信じられない思いで食堂の奥を見渡す。 活気にあふれた厨房(ちゅうぼう)では、数十人の料理人たちが戦場のように忙しそうに動き回っていた。 巨大な特注の焼き網の下では真っ赤な炭火が熾(おこ)り、その上に並べられた夥(おびただ)しい数の厚切り肉がジュージューと食欲をそそる音を立てている。 脂が炭に落ちるたびに、炎が小さく跳ね、香ばしい煙がもうもうと立ち上っていた。 タクトは、恐る恐る入り口に設置された『本日のメニュー』の掲示板へと目を向けた。 そこには、達筆な文字で堂々とこう記されていた。 【本日限定・深層エリアオープン記念・特別朝食】 ・特級ワイバーン肉の炭火焼き(秘伝タレ・厳選塩) ・熟成温泉ゆで卵 ・大地の恵みの温かいスープ ・焼き立てふっくらパン 【ゆで卵・数量無制限】 タクト:「…………は?」 タクトは、自身の目を疑った。 もう一度、上から下へと文字をなぞって読む。 タクト:「…………は???」 さらに、もう一度読む。 タクト:「……いやいやいや。 待て待て待て待て」 タクトは掲示板の前で、完全に石像のように固まった。 タクト:「ダンカン親方が言ってた『ゆで卵二個』じゃなかったの!? なに数量無制限って!? 無限に食べていいの!? っていうか、それよりも――ワイバーン肉の炭火焼きってどういうことだよ!」 昨日までの浅層エリアでの食事を思い出す。 顎(あご)が外れそうなほど硬い黒パン。 具がほとんど入っていない、塩気だけがやたらと強い薄いスープ。 そして、一日の過酷な労働を慰めてくれる、ただ一つのささやかな楽しみだった『ゆで卵一個』。 それが今日は――。 朝の五時から、飛竜(ワイバーン)の特級肉の炭火焼きである。 タクト:「労働者の食堂の朝飯って……こんなに豪華だったっけ……?」 タクトは混乱の極みに達していた。 凪:「深層エリアの開設記念ですもの」 隣で、凪(なぎ)がこの世のすべての春を独占したかのような、完璧な聖女の微笑みを浮かべた。 凪:「きっと、王国の皆さんが採掘士の方々のために、特別に頑張ってくださったのね」 タクト:「頑張る方向性が凄(すご)すぎるだろ! 朝から特級ワイバーン肉って、どこの大国のお抱え貴族の朝食だよ!」 タクトは必死にツッコミを入れたが、炭火焼き肉の放つ圧倒的な香りの前には、小市民の理屈など無力であった。 ――ぐぅぅぅ……。 タクトの腹の虫が、極めて正直に、高らかに鳴り響いた。 タクト:「…………」 凪:「ふふっ」 凪が、楽しそうにくすくすと笑う。 タクト:「……いや、これは仕方ない。 うん、仕方ない。 俺の胃袋が敗北した」 タクトは、己の欲望に対して素早く白旗を揚げ、自分に言い聞かせるように深く頷(うなず)いた。 タクト:「せっせと用意してくれた開設記念の特別メニューだしな。 王国の好意(福利厚生)を無碍(むげ)にするわけにはいかない。 よし、今日はありがたく極上の肉をいただこう!」 凪:(よかった。 タクトくん、すごく喜んでくれているわ) 凪は、その無邪気な横顔を見つめながら、ひどく幸せそうに微笑んだ。 ◇ 二人は、ほかほかの湯気を立てる食事のトレイを受け取り、窓際の席へと腰を下ろした。 タクトの目の前には、炭火で香ばしく焼き上げられた特級ワイバーン肉の厚切りが、山のように盛られている。 片方は、照りの美しい濃厚な秘伝のタレ焼き。 もう片方は、肉そのものの強烈な旨味を引き立てる厳選された塩焼きだ。 傍らには、黄金色に輝く温かいスープと、ふっくらと膨らんだ焼き立てのパン。 そして、念願の『温泉ゆで卵(三個)』が鎮座している。 タクト:「……すごいな。 これ、何度見ても本当に労働者の朝飯なのか?」 凪:「ええ。 とっても美味しそうね」 タクト:「いただきます!」 タクトは我慢しきれず、まずはタレ焼きの分厚い一切れをフォークに刺し、大きく口へと運んだ。 噛(か)んだ瞬間――。 芳醇な炭火の香りと、想像を絶するほど濃厚な肉汁が、口の中いっぱいに弾け飛んだ。 タクト:「…………っ!」 タクトは、目を見開いたまま完全に動きを止めた。 タクト:「うっま……!」 魂の底から、絞り出すような絶賛の声が漏れた。 続けて、今度は塩焼きを頬張る。 タクト:「こっちも美味い! 肉の旨味が桁違いに濃い……! 炭火の香ばしさも最高だ!」 凪:「ふふっ。 よかったわね、タクトくん」 タクト:「深層エリア、最高じゃないか……っ!」 タクトは、口いっぱいに飛竜の肉を頬張りながら、心の底から歓喜の涙を流さんばかりに感動していた。 破格の危険手当がつく。 五十畳もあるドバイ仕様の(偽装された)広い宿舎。 ピカピカの最新魔導温泉。 そして、朝から無限のゆで卵と極上のワイバーン焼き肉が食べられる。 タクト:「……南王国って、実は底辺労働者に対して、異世界一優しいホワイト国家だったんだな」 タクトは、この国への好感度(ロイヤルティ)をストップ高まで跳ね上げながら、真剣にそう結論づけた。 その向かいの席で――。 凪は頬杖をつきながら、一切の曇りもない笑顔を保ったまま静かに頷(うなず)いていた。 凪:(違うのよ、私のタクトくん。 これは、決して南王国の優しさなんかじゃない) 彼女の透き通った瞳の奥で、狂おしいほどの愛と、世界の理(ことわり)を蹂躙(じゅうりん)した優越感が甘く渦巻く。 凪:(これは……あなた自身の、『願い』なの) 昨夜、温泉の湯煙の中で、タクトが何気なく口にした言葉。 『明日、あんまり力を入れなくても簡単に掘れるような、いい鉱脈がすぐに見つかるといいなぁ』 『あと、風呂上がりに最高に美味い焼き肉でも食べられたら文句なしだ』 凪は、愛しいタクトのそのささやかな願いを、一言一句たりとも聞き逃しはしなかった。 『風呂上がり』という時間指定は、彼女の強引すぎる因果のねじ曲げによって『朝の温泉ゆで卵とセット(朝風呂感覚)』という超解釈で前倒しされたものの――。 彼女は昨夜、己の身を削らぬまま、限界突破のバグスキル《ギャンブル》のレバーを、狂ったように回し切った。 結果は――『完全確定(天井)』。 凪:(たくさん食べてね、タクトくん。 あなたの願いなら、私がこの世界のすべてを書き換えてでも、必ず叶(かな)えてあげるから……) タクトの素朴な願いを実現するための、世界(システム)を巻き込んだ常軌を逸した因果の連鎖が。 この深層エリアの朝を皮切りに、すでに恐るべき規模で動き始めていることを――当のタクト本人は、まだ何一つとして知らないのであった。 ◇ タクトが至福の表情で二枚目の特級ワイバーン肉を口へと運び、山と積まれた『熟成温泉ゆで卵』へといそいそと手を伸ばしている頃。 この不可思議な奇跡の朝食が成立した背景には、恐るべき『因果のピタゴラスイッチ』が存在していたことを、当のタクトだけが知らない。 そもそものすべての発端は、以前にタクトが何気なくこぼした 「焼き鳥が食べたい」 という小市民的な一言であった。 それを聞いたフルートは、愛しき魔王様が 「南王国周辺の飛竜(ワイバーン)の群れを炭火焼き(殲滅)にしろ」 と命じたのだと極大解釈し、五百頭を超える飛竜の群れを一瞬にして灰燼(かいじん)に帰したのだ。 その膨大なドロップ素材の処理は、二つのルートへと分かれていた。 一つは『ゆで卵の無制限化』である。 飛竜の硬い肉や内臓、骨といった部位は、東方魔王軍の闇ルートを通じて超格安の『家禽(かきん)用飼料』として南王国の市場へ大量にバラ撒(ま)かれた。 結果として、それを食べた南王国のニワトリたちは、ワイバーンの高すぎる栄養価によって一時的な超変異(確変)を起こし、驚異的なペースで卵を産み落とし始めたのだ。 飼料代の激減と産卵数の爆発的増加により、市場には高品質な卵が溢(あふ)れ返り、価格が歴史的な大暴落を起こしていた。 ゆえに、深層エリアの食堂は 「開設記念に卵くらい無限に出してやれ!」 という大盤振る舞いが可能になったのである。 そしてもう一つ。 本丸たる『特級ワイバーン肉』である。 これは、フルートやチェロたちが、タクトのあの五十畳の偽装プレハブ新居(スイートルーム)の空間拡張や家具調達の資金を得るため、保存や輸送に適した極上の部位のみを市場へ売却したものだった。 当然、特級のワイバーン肉ともなれば、王都の高級料亭や貴族御用達の豪商たちが血眼(ちまなこ)になって激しい競り合いを繰り広げるはずであった。 ――だが、この朝の競り市に限っては、様相が全く違っていた。 『どうしても特級肉を手に入れたい』と意気込んでいたある大商人は、夜食に食べた傷みかけの魚で激しい腹痛を起こし、宿のトイレから一歩も出られなくなった。 別の資金潤沢な商人は、乗っていた馬車の車輪がなぜか突然真っ二つに割れて遅刻した。 高級料亭の老練なバイヤーは、いつもなら絶対に選ばない裏道を通ってしまい、不運にも玉突き事故の渋滞に巻き込まれた。 さらに、別の商人は、競りの直前に 「なぜか猛烈に別の壺(つぼ)が欲しくなって」 買いすぎ、手元の資金が完全にショートした。 どれもこれも、一つひとつを取り上げれば、ただの 「日常によくある不運な偶然」 に過ぎない。 だが、その偶然が、この朝、この競り市に限って、有力な買参人たち全員へ『都合よく、かつ完璧な精度で』重なりまくっていたのだ。 そこへ――。 本来はスープ用の安いクズ肉を買いに来ただけだった深層エリア共同食堂の仕入れ担当者が、偶然ふらりと立ち寄った。 仕入れ担当者:「……おいおい、特級ワイバーン肉がこんなに大量に出てるのか?」 彼は目を丸くした。 競りの参加者は少なく、大口の買い手がいない。 価格は、みるみるうちに底値へと落ちていく。 仕入れ担当者:「この量で、この値段……? 嘘だろ?」 何度も競りの札を確認する。 仕入れ担当者:「……買える。 いや、買えてしまうぞ、これ!?」 担当者は、手が震えるほどの捨て値で、大量の特級ワイバーン肉を奇跡的に落札してしまったのだ。 仕入れ担当者:「これは凄いぞ……! ちょうど深層エリアの開設記念日だ、労働者たちへのサプライズにぴったりじゃないか!」 食堂へすっ飛んで戻った担当者は、興奮冷めやらぬまま料理長へ報告した。 仕入れ担当者:「料理長! 特級ワイバーン肉を手に入れたぞ! しかも、信じられないほどのタダ同然でな!」 料理長:「特級ワイバーン肉だと!? この量を!?」 仕入れ担当者:「ああ! 今日はめでたい開設記念だ。 出し惜しみする理由もない!」 料理長:「よしきた、炭火を全力で熾(おこ)せ! 労働者どもに、タレも塩も、最高の状態で出してやるぞ!」 仕入れ担当者も、腕を振るう料理長も、何も不審には思っていない。 ただ 「自分たちの幸運と、粋(いき)な現場の判断で実現した大盤振る舞い」 だと信じて疑っていなかった。 競り市で競合バイヤーたちが次々と理不尽な不運に見舞われたのも。 食堂の担当者が、この朝に限ってその場に立ち寄ったのも。 そのすべてが――千歳 凪の《ギャンブル》LV999によって、ただタクトの願いを叶(かな)えるという結果(ゴール)へ向けて、世界の確率が力任せにねじ曲げられた結果(バグ)だったということを。 彼女は、魔法で何もない空間から肉を出現させたわけではない。 誰かの脳を直接洗脳して、操ったわけでもない。 ただ、起こり得る出来事の『確率』を限界突破で操作し、無数のあらゆる偶然を、ドミノ倒しのように一つの結果へと収束させただけなのだ。 ――愛しいタクトくんが、願った。 ただそれだけで、この異世界そのものが、その願いを実現するための道筋を這(は)いつくばるようにして作り上げたのである。 ◇ 一方、そんな恐るべき神域の奇跡の連鎖のド真ん中で――。 当のタクトは、熱々のゆで卵の殻を剥(む)きながら、少しだけ真剣な顔で考え込んでいた。 タクト:「……いや、やっぱりちょっと待てよ」 凪:「どうしたの、タクトくん?」 凪が、心底不思議そうに小首を傾(かし)げる。 タクト:「昨日、ダンカン親方から『深層エリアの朝飯はゆで卵が二個になるぞ』って自慢げに聞いたんだよ」 凪:「ええ、そうだったわね」 タクト:「それが、いきなり無制限って……。 しかも、貴族の晩餐(ばんさん)みたいな特級ワイバーン肉まで山盛りだ。 いくら深層エリアの開設記念だからって、こんな豪華すぎるの、冷静に考えておかしくないか?」 タクトの明晰(めいせき)な小市民的リスク管理能力が、微(かす)かに警鐘を鳴らす。 だが、凪は春の木漏れ日のような柔らかい笑顔で、そっと告げた。 凪:「きっと、王国の皆さんが、タクトくんに喜んでもらいたかったのではないかしら?」 タクト:「……そうなのかな」 タクトは少しだけ眉を寄せた後、目の前で極上の脂を輝かせる分厚い肉を見つめた。 タクト:(まあ、食堂のおっちゃんたちがせっかく俺たちのために用意してくれたんだ。 ここで疑心暗鬼になって残すのは、逆に失礼だよな) タクト:「うん。 ありがたく食べよう」 凪:「ふふっ。 ええ、そうしましょう」 タクトは、再びタレの絡んだ肉を大口を開けて口に運ぶ。 タクト:「うん。 美味い。 何回食っても美味い。 最高だな、これ……」 凪は、両手で頬杖をつきながら、ひどく幸せそうにタクトの顔を静かに見つめていた。 凪:(よかった……。 タクトくんが、こんなに喜んでくれているわ) 蕩(とろ)けるような愛おしさが、胸の奥底を満たしていく。 凪:(次は、どんな願いを叶えてあげようかしら……) 彼女は、何も言わない。 タクトも、何も知らない。 この平和な朝食が、五百頭もの飛竜(ワイバーン)を巡る悲惨な殲滅(せんめつ)戦と、魔王軍幹部による超絶技巧の新居建設と、世界の確率そのものを狂わせる狂気の無限ガチャによって成立しているなどとは、夢にも思っていなかった。 タクトにとっては、ただの 「ちょっと飯が豪華な幸運な朝」 。 凪にとっては、愛する人の素朴な願いが完璧に叶った 「甘美な朝」 。 世界を巻き込むほどに異常な偶然の連鎖が、また一つ、さも当たり前の日常の顔をして『何事もなかったかのように』成立した朝であった。 特級ワイバーン肉の炭火焼きという、常軌を逸した豪華な朝食で完全に胃袋と心を掌握されたタクトは、満ち足りた足取りで深層エリアの採掘管理所へと向かっていた。 管理所は、原生林の一部を丸く切り拓いた広場に建つ、巨大な木造の建物であった。 中へ入ると、すでに早朝シフトの採掘士たちが大勢集まり、むせ返るような熱気と活気に満ちている。 彼らの視線の先には、壁一面に設置された巨大な魔導掲示板が幾つも並び、青白い光の文字で各採掘区画の地図や鉱脈の予測データ、そして危険区域の警告文が目まぐるしく更新されていた。 タクトは人混みを避け、掲示板の端の方で足を止めて今日の作業区画の情報を眺め始めた。 タクト:「さて……。 今日はどこを掘るかな」 区画ごとの危険度、予想される鉱石の品質、管理所からの移動距離、そして設定されている採掘ノルマ。 周囲の血の気を持て余した採掘士たちが 「いかに強大な魔獣を倒して追加報酬を得るか」 に血道を上げている中、タクトが注視しているポイントは彼らとは決定的に異なっていた。 タクトが気にしているのは、どれだけ強い魔獣がいるか、などではない。 『どれだけ効率よくサクッとノルマを終わらせ、定時までの絶対的な自由時間を確保できるか』。 ただ、その一点のみであった。 タクト:(できれば移動時間が短くて、一箇所に鉱脈が豊富に固まってて、なおかつ魔獣との遭遇率が極端に低い場所がいいな) タクトは、己の事なかれ主義を全開にして情報を分析する。 タクト:(深層エリアに異動して危険手当(給料)がドカンと増えたのは素直に嬉しいけど、その分、命懸けで働くつもりなんてサラサラないからな。 俺の目的はあくまで『安全なスローライフ』だ) そんな小市民的な労働計画を脳内で組み立てていた、その時――。 凪:「タクトくん。 こちらの区画はどうかしら?」 すぐ隣に寄り添っていた凪(なぎ)が、白魚のような細い指先で、魔導掲示板の一番端、ひときわ赤々とした警告光を放っている一角を指差した。 タクトの視線が、その青白い文字を追う。 【採掘区画;深層第七ブロック】 【危険度;超S級】 【状況;未踏鉱脈あり/詳細未調査】 【注意事項;高濃度魔力反応あり、地層構造が極めて不安定】 タクト:「…………超S級?」 その三文字を見た瞬間、タクトの顔から表情という表情がスッと抜け落ちた。 タクト:「いやいやいやいや」 タクトは、顔を引き攣(つ)らせて全力で首を横に振った。 タクト:「いきなり危険度が跳ね上がりすぎだろ! 俺、Eランクの底辺採掘士だぞ!? なんで初日から『超S級』なんていう地獄の入り口みたいな場所に行かなくちゃいけないんだよ」 凪:「でも、未踏の良質な鉱脈がたくさん眠っているそうよ?」 タクト:「鉱脈が豊富なのは確かに魅力的だけどさ……。 そもそも、そんな超高難易度エリアに、俺の貧弱なレベルで行けるのかどうかが一番の問題だろ」 タクトは深い溜息(ためいき)を吐き出した。 だが、隣で微笑む凪の眸(ひとみ)の奥には、彼には見えない深い暗黒の星がキラリと輝いていた。 彼女がこの『深層第七ブロック』の情報をピンポイントで見つけ出したのは、決して単なる偶然などではない。 昨夜の温泉でタクトが口にした 「あんまり力を入れなくても簡単に掘れるような、いい鉱脈が見つかるといいな」 という願い。 それを叶(かな)えるため、凪のバグスキル《ギャンブル》は、夜通し狂ったように世界の確率を操作し続けていたのだ。 タクトが良質な鉱脈を望むなら――。 ちょうど良いタイミングで、魔導掲示板に有益な未踏区画の情報が更新される。 二人が、ちょうどその前を通りかかる。 そして、タクトがその情報に興味を持つ。 その一連の奇跡をシームレスに成立させるため、世界の因果の歯車は、凪の意志によって少しずつ、しかし確実にねじ曲げられ、調整されていたのだ。 すべては、愛しい少年の素朴な願いを叶えるためだけに。 しかし、当然ながらタクトは、そんな神の領域の確率操作が自らの周囲で行われていることなど知る由(よし)もない。 凪:「確認してみたら?」 凪は、聖女のように穏やかに、そして決定的な一言を囁(ささや)いた。 タクト:「確認って……あ、そうか」 タクトはハッと気づいたようにポンと手を打った。 タクト:「そういえば……俺、最近LV(レベル)とかステータス画面とか、全然確認してなかったな」 凪:「まあ。 自分の大切な能力なのに?」 タクト:「だって、採掘士として真面目(適当)に石を掘って働く分には、特に困ってなかったからな。 いちいち確認する必要もないだろって思ってて」 タクトのそのあまりにも呑気(のんき)な理由に、凪は愛おしそうに、蕩(とろ)けるような眼差しで目を細めた。 凪:「……ふふっ。 本当に、タクトくんらしいわね」 凪:(そんな風に、無欲で自分の力に無頓着なところも……全部、大好きよ) タクト:「どれどれ、少しは上がってるといいけど……」 タクトは、軽い気持ちで空中に向かってスッと指をスワイプした。 己の現在の正確な立ち位置を知るため、異世界召喚されて以来、ずいぶんとご無沙汰だった『自身のステータス画面』を呼び出すために。 ◇ タクトは空中にスッと指を滑らせ、久しぶりに己のステータス画面を呼び出した。 タクト:「えーっと……ステータス確認っと」 チリン、と澄んだ電子音に似た響きと共に、視界の直前に半透明の魔導ウィンドウが結像する。 朝の光を受けて青白く発光するその画面に、タクトの現在の『正確な立ち位置』が整然と羅列されていった。 【名前】指揮 タクト(シキ・タクト) 【クラス】採掘士 E 【LV】180 【状態】レベル上限突破・過剰同期 【基本ステータス】 筋力;3‚850(表示限界到達) 耐久;4‚020(表示限界到達) 敏捷;4‚170(表示限界到達) 魔力;9‚999(神域カンスト・オーバーフロー) 【未割り当てボーナスポイント】 925 PT 【既存スキル】 《透視》 《経験値獲得補正×10》 《ラッキーH》LV2 【モード切替可能技能】 《経理・算術》SSS LV1 《裁縫・衣装制作》SSS LV1 《剣術・刃物技能》SSS LV1 《料理・味覚統制》SSS LV1 《掃除・隠密統制》SSS LV1 【新規獲得技能】 《完全定時退勤》LV1 《サボり魔の目》LV1 《ノック採掘・極》LV1 《女神召喚》LV1 タクトは――。 その青白い画面を前に、完全に無言になった。 タクト:「…………」 スッ、と指を横に払い、ウィンドウを一度閉じる。 深呼吸を一つ。 そうして、もう一度開く。 【LV】180 タクト:「…………え?」 タクトは、自らの眼球を強く擦(こす)った。 さらに閉じる。 もう一度、祈るように開く。 【LV】180 タクト:「……いやいやいや。 ちょっと待ってくれ」 タクトは、たまらず己の額をガシッと押さえた。 タクト:「俺、LV180なの!?」 タクト:「Eランク採掘士って……そんなにポンポンとレベルが上がる職業だったっけ……!?」 タクトの認識では、自分は毎日適当に岩壁をノックして、安全な鉱石を掘り続けていただけである。 だが、彼には自覚がない。 固有スキル《経験値獲得補正×10》による常軌を逸した成長速度。 それに加えて、隣にいる元Sランク勇者・千歳凪との間に裏で結ばれた『経験値の過剰同期』。 それらのバグめいた相乗効果によって、タクト本人が気付かぬうちに、その肉体と魂の格は、すでに人間種の限界を遥(はる)かに凌駕(りょうが)する領域へと到達してしまっていたのだ。 基本ステータスは限界を突破し、魔力に至ってはもはや計測不能(オーバーフロー)を起こしている。 凪:「すごいわ、タクトくん。 LV180だなんて」 隣からスッと顔を出した凪が、画面を覗(のぞ)き込みながら、パッと花が咲いたように驚いた表情を作った。 タクト:「いや、俺も今初めて知ったんだが……っていうか、このステータスの数値、絶対におかしいだろ。 筋力とかカンストしてるし」 凪:「きっと、タクトくんが毎日真面目に頑張って、お仕事をこなしてきた成果ね」 凪は、慈母のように優しく微笑んだ。 その言葉は、決して嘘ではない。 けれど、この異常な成長の裏側には、二人の魂(レベル)を深く、重く結びつける『過剰同期』というシステムが存在している。 凪自身のレベルもまた、現在のタクトと全く同じ『LV180』なのだ。 彼女だけは、その甘美な真実を完全に理解している。 凪:(タクトくんと、同じレベル……) 凪は、青白い画面に表示された『180』という数字を、熱を帯びた甘い視線で見つめていた。 凪:(数字まで、一桁(けた)の狂いもなく一緒だなんて。 ふふっ……やっぱり、私たちは深く、永遠に繋(つな)がっているのね) もはやステータス画面の数値すらも、彼女にとっては己の愛を証明する極上のスパイスでしかない。 そんな凪の、常軌を逸した重い視線の意味を、タクトが知るはずもなかった。 タクト:「……いや、これは絶対に、表示バグだ」 タクトは、目の前にある圧倒的な現実から目を逸(そ)らし、己の事なかれ主義へと全力で逃避した。 タクト:「そうだ、そうに決まってる。 王国のポンコツ魔導具か何かのエラーだろ。 俺みたいな底辺労働者が、こんな勇者みたいなステータスになるわけがない」 真実を受け入れることは、即ち平穏なスローライフの崩壊を意味する。 タクトの鋼鉄の自己防衛本能は、この神域のステータス画面を『単なる表示バグ』として脳内で処理することを見事に決定したのだった。 ◇ タクトは、青白く発光する魔導ウィンドウの最下部に視線を落とし、そこでピコピコと自己主張を繰り返している数字に目を留めた。 タクト:「……未割り当てボーナスポイント、925ポイント?」 タクトは、ぽかんと口を開けた。 タクト:「いやいや、多すぎだろ」 925。 通常、採掘士がレベルアップの際に得られるボーナスポイントなど、せいぜい1か2だ。 それが約一千ポイント。 もしもこれを、先ほどカンストしていた筋力や魔力にすべて注ぎ込んだとしたら――。 タクトの優れた事なかれ主義(危機察知能力)が、最悪の未来予想図を即座に脳内に描き出す。 タクト:(もし俺が人間兵器みたいな戦闘力を持ったことが王国の偉い奴らにバレたら……絶対に、軍の特殊部隊か何かに強制スカウトされる) 魔獣討伐の最前線への駆り出し。 血で血を洗う他国との泥沼の戦争。 鳴り止まない緊急出動要請。 休日返上。 そして何よりも――愛してやまない『定時退勤』の完全なる崩壊。 タクト:「…………絶対に、嫌だ」 タクトは即座に、親の仇(かたき)でも見るかのように首を激しく横へ振った。 タクト:「そんな地獄のデスマーチ、絶対に御免だ。 俺が欲しいのは、世界を救う圧倒的な戦闘力なんかじゃない。 圧倒的に『快適な生活』なんだ」 タクトはウィンドウを操作し、筋力や魔力といった物騒な戦闘関連の項目をすべてスキップして、詳細設定の奥深くに隠されていたタブを開いた。 するとそこには、底辺労働者にとって喉から手が出るほど魅力的な項目がひっそりと並んでいたのだ。 【生活補助パラメータ】 ・睡眠の質 ・疲労回復率 ・休息効率 ・精神負荷軽減 ・環境適応性 タクト:「おっ……!」 タクトの目に、今日一番の鮮やかな光が宿った。 タクト:「これだ。 俺はこういうのが欲しかったんだよ!」 筋力にポイントを振っても、結局は 「じゃあもっと重い荷物を運んでくれ」 と労働量(ノルマ)が増やされるだけかもしれない。 魔力にポイントを振っても、 「その魔法でこの作業もついでにやってくれ」 と面倒な仕事を押しつけられる可能性が増すだけだ。 だが――。 睡眠の質が上がれば、毎日の生活は劇的に快適になる。 疲労回復率が限界を突破すれば、休憩時間での回復が早まり、その分の余った時間を丸々自由時間へと回せるのだ。 タクトにとって、世界を救う力よりも、昼休みの仮眠の質の向上の方が数万倍も重要であった。 タクト:「よし。 決まりだ。 925ポイント、全部ここにぶち込もう」 タクトは一切の躊躇(ちゅうちょ)なく、睡眠、疲労回復、休息効率といった生活補助の項目へ、膨大なポイントを湯水のように一極集中で注ぎ込んでいった。 ピロリンッ。 【ステータスポイント配分完了】 【生活補助性能;大幅上昇】 【休息効率;異常値】 【疲労回復率;上限突破】 【精神負荷軽減;高水準】 【※警告;生体リズムの極端な改変は、周囲の環境に予期せぬ干渉を及ぼす可能性があります※】 タクト:「……ん?」 タクトは、項目の隣にチカチカと赤く点滅し始めた不穏な警告文を見て、少しだけ首を傾(かし)げた。 だが、持ち前の楽観主義がすぐにそれを隅へと追いやる。 タクト:「……まあ、いいか。 これで俺の生活がさらに快適になるなら、多少のバグや警告なんて誤差みたいなもんだろ」 タクトは深く満足そうに頷(うなず)いた。 タクト:「これで今日の昼休みの仮眠が、信じられないくらい捗(はかど)るぞ……」 その様子を隣で見つめていた凪は、両手を胸の前で合わせ、うっとりとした笑顔を浮かべていた。 凪:(戦う力や名誉になんて目もくれず、ただ自分自身の『休む時間』を何よりも大切にするタクトくん……。 本当に、タクトくんらしくて……好き) 彼女の中の、タクトへの肯定感(愛おしさ)が、また一つ限界を突破して振り切れる。 当のタクト本人は、ただ 「これからは短い昼休みでも効率よくサボれるぞ」 と、小市民的な怠け環境を強化しただけのつもりだった。 しかし――。 この『休息効率の異常値』と『疲労回復率の上限突破』という、戦闘を完全に放棄したはずの極端な選択が。 後に、どれほど理不尽でデタラメな能力(無自覚なチート)へと変貌を遂げ、彼を新たな厄介事の中心へと巻き込んでいくことになるのか。 この時のタクトは、まだ知る由もなかった。 ◇ 生活補助という名の 「究極のサボり環境」 を構築し終えたタクトは、次に魔導ウィンドウの最下部にひっそりと追加されていた【新規獲得技能】の一覧へと指を滑らせた。 タクト:「……気づかないうちに、新しいスキルも結構増えてるな」 タクトは、見慣れない文字列の中から、ひときわ自己主張の強い一つの技能をタップして詳細を開いた。 【《完全定時退勤》LV1】 規定の退勤時刻に達した際、術者の退勤を阻害するあらゆる外部干渉を強制的に無効化する。 物理攻撃、魔法結界、殺意、空間干渉、上司からの引き留めなど、離脱を妨げる全要因を理不尽に排除し、絶対的かつ安全な退勤を実現する。 タクト:「…………」 タクトは、青白い文字で記されたその恐るべき説明文を、瞬きもせずにじっと見つめた。 タクト:「……退勤時刻にだけ発動する、無敵スキル?」 もう一度、隅から隅まで読み直す。 タクト:「何に使うんだ、これ……。 いや、定時に絶対に帰れるっていうのは死ぬほどありがたいけど、『殺意』とか『空間干渉』を排除して退勤する状況って、どんな地獄の職場だよ」 異世界におけるブラック企業の基準の高さに戦慄(せんりつ)しつつも、タクトは少しだけ考え込んだ。 タクト:「というか……こんなピンポイントなスキルが用意されてるってことは、この世界のシステム、俺が一番欲しいものを完璧に分かってるじゃないか」 タクトは、世界を管理する見えざるシステムが、己の切実な勤労観(定時への執着)に寄り添ってくれているような気がして、ほんの少しだけ胸を熱くした。 タクト:(異世界のシステム、妙に気が利くな……。 労働者の権利がちゃんとスキル化されてるなんて、実はいい世界なのかもしれない) ズレた感動を噛(か)み締めながら、タクトは次の技能を開いた。 【《サボり魔の目》LV1】 周囲の他者に対して、術者が『極めて集中して作業に従事している』という強烈な印象を与える。 本人が白目を剥(む)いて熟睡していたり、完全に意識を飛ばして休息していたりしても、そのサボり状態を認識されにくくする極上の補助能力。 タクト:「…………」 タクトは、三度(みたび)無言になった。 タクト:「いや、なんでこんなピンポイントにダメ人間を量産する技能があるんだよ」 説明文は、どう好意的に解釈しても『真面目に働いているふりをして全力でサボる』ためのものだった。 タクト:「誰が使うんだよ、こんなふざけたスキル……」 タクトは呆(あき)れたようにぼやきながらも――。 スッ、と。 誰にも気づかれないように、そっと視線を斜め下へと逸(そ)らした。 タクト:(……いや。 これ、使い方によっては昼休みの睡眠効率を劇的に上げられるかもしれない。 さっき振った『休息効率の異常値』と組み合わせれば、見回りの親方に怒られることなく、立ちながらでも完璧な仮眠が取れるぞ……?) タクトの小市民的な脳内では、すでにこのふざけたスキルを実戦投入するための極悪なシミュレーションが高速で展開されていた。 その様子を、すぐ隣に張り付いていた凪(なぎ)が、蜂蜜のように甘い視線でじっと見つめていた。 凪:(タクトくん……。 自分にぴったりの素晴らしい技能を見つけて、あんなに真剣に運用方法を考えているのね……) 彼女のフィルターを通せば、サボる算段を巡らせているタクトの何気ない視線の動きすらも、知性的でどうしようもなく魅力的に映っていた。 やがて、タクトは気を取り直して三つ目の技能を開いた。 【《ノック採掘・極》LV1】 極めて軽い打撃による地層の共鳴を利用し、指定方向の岩盤を波紋のように高精度で粉砕・掘削する。 通常のツルハシでは数日を要する強固な岩盤であっても、指先一つで効率的かつ静音で採掘可能。 タクト:「……おっ?」 ここで初めて、タクトの目に『本気』の色が宿った。 タクト:「これ、さっきの《サボり魔の目》と一緒にうまく使えば、毎日の採掘作業にかかる時間を劇的に減らせるんじゃないか!?」 今の自分にとって最も必要なのは、飛竜をなぎ倒すような戦闘能力でも、天変地異を起こすような派手な魔法でもない。 『毎日の鬱陶(うっとう)しい採掘ノルマを秒で終わらせ、圧倒的な自由時間を生み出す技能』なのだ。 タクト:「よし。 これだ。 今日はこのスキルを徹底的に試してみよう」 タクトは、これ以上ないほどの素晴らしい収穫を得た喜びに、力強く拳を握りしめた。 凪もまた、自分の事のように嬉(うれ)しそうに深く頷(うなず)いた。 凪:「ええ。 きっと、タクトくんならすぐに上手に使いこなせるようになるわ。 私が保証するわ」 最高の気分で新技能の確認を終えたタクトは、ウィンドウを閉じようとして――ふと、一覧の一番下にひっそりと追記されていた、最後の一行に目を落とした。 これまで採掘や生活に関する小市民的なスキルばかりが並んでいたその場所に。 明らかに異彩を放つ、神々しいほどに重々しい見慣れない文字列が、ポツンと表示されていたのだ。 ◇ タクト:「…………ん?」 《ノック採掘・極》という最高のサボり技能を見つけてホクホク顔だったタクトの指先が、空中でピタリと止まった。 その見慣れない、そして採掘士の分際としてはあまりにも壮大すぎる四文字に、タクトは恐る恐る触れて詳細画面を開いた。 【《女神召喚》LV1】 《概要》 この世界についての真相を知っているかもしれない者を呼び出す。 召喚者の相談役兼、心の癒やしを常に与えるかもしれない。 【補足情報】 ・召喚された者は、召喚者にしか見えない。 ・召喚体は約三十センチ程度の小型個体。 ・召喚体は可愛らしい女神の姿をしている。 ・推定年齢300歳。 外見年齢は18歳程度。 ・光の衣を纏(まと)っており、健全性が保証されている。 ・お試し召喚可能。 ・召喚体は即日返却可能。 タクトは、しばらくその画面を無言で眺め続けた。 そして――。 タクト:「……『かも』?」 もう一度、概要欄の短い文章をじっくりと読み直す。 タクト:「この世界についての真相を知っている『かもしれない』者……」 さらに下へと視線を移す。 タクト:「相談役兼、心の癒やしを常に与える『かもしれない』……」 タクトの眉間に、深いシワが寄った。 タクト:「……なんか全体的に、『かも』が多すぎないか?」 スキル説明の最も肝心な性能部分が、ことごとく断定を避けてふんわりとぼかされている。 タクト:「そもそも、世界の真相ってなんだ。 この世界の設定資料集か裏ワザでも教えてくれるのか? ……まあ、異世界で何か面倒なことが起きた時の相談役がいるのは便利かもしれないし、心の癒やしっていうのも悪くないけど」 そこで一度、言葉を切る。 タクト:「いや、ちょっと待て」 タクトは薄目を細め、画面を警戒するように睨(にら)みつけた。 タクト:「よく考えたら、そもそも『相談役』が必要になるほど面倒な事態が起きる前提でスキルが用意されてるのがおかしいだろ。 フラグかよ」 タクトの切実な理想は、徹底した安全と平穏な採掘生活(スローライフ)である。 余計な問題を後から解決するよりも、最初から問題そのものに関わらないことこそが至高なのだ。 タクト:「それに、女神召喚って……」 タクトは、箇条書きにされた補足情報を胡散臭(うさんくさ)そうに読み上げる。 タクト:「三十センチの女神? 300歳だけど外見は18歳? ……ここまでは百歩譲ってファンタジーだからいいとして、『光の衣を纏っていて健全性が保証されている』って、どういうことだ?」 一つずつ文字を追うたびに、彼の小市民的な猜疑(さいぎ)心が深まっていく。 タクト:「光の衣ってなんだよ。 謎の光で規制されてるのか? 普通に女神らしい服を着せてくれれば、わざわざ『健全性が保証されています』なんて言い訳がましい説明は要らないんじゃないか? ……いろいろと、あやしいな」 だが――。 そんなタクトの疑念を吹き飛ばす、魔法のような甘い文言が、説明欄の最下部に燦然(さんぜん)と輝いていた。 【お試し召喚可能】 【即日返却OK】 タクト:「…………なにっ?」 タクトの瞳に、再び強い光が宿った。 タクト:「お試しできて……しかも合わなかったら、すぐに返品できるのか!?」 タクトにとって、重要なのはまさにそこだった。 もし役に立たなかったり、面倒な厄介事を持ち込んでくるようなポンコツ女神だったりした場合は、即座にクーリングオフすればいいのだ。 タクト:(無料体験版みたいなものか? いや、こういう胡散臭いのは後から『初回無料ですが自動更新で高額請求になります』みたいな罠が仕掛けられてたりするからな……) タクトは、前世でのネット通販の経験を活かし、慎重に画面の隅々まで『※印(小さく書かれた注意事項)』がないかを探す。 タクト:「……詐欺じゃないよな、これ。 追加課金とかないよな?」 一人でブツブツと画面に向かって呟(つぶや)くタクトを見て、隣の凪(なぎ)が不思議そうに小首を傾(かし)げた。 凪:「どうしたの、タクトくん?」 タクト:「いや、なんか新しいスキルが追加されててさ。 女神を召喚できるらしいんだ」 凪:「……女神?」 凪の朝露のような瞳が、微(かす)かに揺れた。 タクトの開いているステータス画面は、凪の位置からでも覗(のぞ)き込むことはできるが、当事者ではないため細かいスキルの仕様や説明文のすべてを正確に読み取ることはできない。 タクト:「この世界についての真相を知ってるかもしれないし、俺の相談役にもなるかもしれないらしい」 凪:「……そうなのね」 凪は、相変わらず極上の微笑みを浮かべていた。 だが、その豊満な胸の奥底では、氷のような静かな警戒心がほんの少しだけ鎌首をもたげていた。 凪:(相談役の女神……。 タクトくんのすぐ傍(そば)に、また誰か新しい女(ひと)が増えるのかしら……) 凪にとって、タクトのすべてを支え、相談に乗るのは自分一人だけで十分だ。 他の誰かがその特等席に割り込んでくるなど、本来であれば到底容認できるものではない。 もっとも、今の彼女にはタクトのスキル使用を強引に止める正当な理由がない。 愛しいタクトが望んで選ぶのなら、たとえ相手が胡散臭い女神であろうとも、笑顔で受け入れて(そしてもし邪魔になるようなら後でこっそり排除して)あげるつもりだった。 タクトは、最後にもう一度、魔導ウィンドウの最下部にある『即日返却OK』の文字を指でなぞった。 タクト:「……まあ、無料でお試しするだけならいいか」 凪:「……召喚するの?」 タクト:「うん。 説明が本当なら、いざって時の便利な相談相手が増えるかもしれないしな。 もし面倒くさそうだったり、全然使えなかったら、光の速さで返品すればいいだろ」 タクトの事なかれ主義は、最終的に『ノーリスクで試せるなら試す』という極めて合理的な結論へと着地した。 彼は何の気負いもなく、気楽なネット通販の『カートに入れる』ボタンを押すような感覚で、空中に浮かぶ召喚ボタンへと指を伸ばした。 タクト:「……よし。 お試し召喚、開始」 ポチッ、と。 ◇ タクトの指先が召喚ボタンに触れたその瞬間――。 採掘管理所の喧騒(けんそう)から切り離されたかのように、魔導ウィンドウの前に柔らかな光の粒子が集束し始めた。 チリチリと空気を震わせながら、黄金色の光の粒子がくるくると渦を巻き、やがて宙空で小さな人影を形作っていく。 現れたのは、タクトの手のひらにすっぽりと収まりそうな、背丈およそ30センチほどの可愛らしい少女の姿であった。 輝くプラチナゴールドのツインテールが、光の粒子を散らしながらふわりと揺れる。 宝石のように澄み切ったエメラルドグリーンの瞳。 頭上には、天使を思わせる小さな光の輪(ヘイロー)が静かに瞬(またた)いていた。 全身には半透明の光のベールがドレスのようにまとわりつき、神々しくも、どこか現世に定着しきれていないような不安定な輝きを放っている。 少女はふわりと空中に浮かび上がり、自信満々に腰に手を当てた。 フォルテ:「ふっふっふ! よーく聞きや! うちこそは、光と勝利を司る最高神の一柱――女神フォルテシア様や!」 えっへん、と小さな胸を張る。 その動きに合わせて、頭頂部のアホ毛がピコッと誇らしげに跳ねた。 フォルテ:「天上界でも名高い、栄光と勝利の女神! その偉大なる力をもって、世界の真相を――」 タクト:「……予想はしてたけど、普通の女神の格好して出てこいよ!」 タクトの鋭いツッコミが、女神の神聖なる名乗りを無慈悲に遮った。 フォルテ:「なんでやねん!? 第一声がそこかいな!」 タクト:「いや、光の衣って何だよ! 全身モザイク処理されてるみたいになってるぞ!」 フォルテ:「モザイク言うなぁぁぁっ! これは神聖なる光の衣や! あらゆる邪悪を弾く絶対防御の神衣なんよ!」 タクト:「じゃあ、普通の服に着替えられないの? 目がチカチカするんだけど」 フォルテ:「着替えたいに決まってるやろ! うちかて、こんな際どい格好で出てきたかったわけちゃうんよ!」 フォルテは、短い両手をぶんぶんと振り回して全力で抗議した。 タクトは、そのホログラムのように明滅する彼女の姿をじっと見つめた。 タクト:「……そうなの?」 フォルテ:「そうなの! 天上界で身ぐるみ剥(は)がされて、本体はそのまま封印されてもうたんよ!」 タクト:「…………えっ?」 一瞬、タクトの表情が変わった。 タクト:「身ぐるみ剥がされたって……じゃあ君、天上界を追放された堕天使とか、そういう類(たぐい)のヤバい奴なの?」 フォルテ:「違うわぁぁぁっ!」 フォルテの頭上の光輪が、怒りでカッと明るく発光する。 フォルテ:「そもそも封印した張本人が、何を人ごとみたいに言うてるんですか!? ぜーんぶ、あんたのせいやろ!」 タクト:「…………」 タクトはスッと真顔になり、隣に立つ凪(なぎ)の方をちらりと見た。 当然ながら、スキルを持たない凪には、この騒がしい30センチの女神の姿も見えなければ、そのアニメのような関西弁の声も聞こえていない。 彼女から見れば、タクトは『何もない空中に向かって、突然激しく一人でツッコミを入れている』ようにしか見えなかったはずだ。 凪:「……タクトくん?」 タクト:「ん?」 凪:「何か、見えているの?」 凪は小首を傾(かし)げながら、不思議そうに尋ねた。 タクト:「いや、なんかお試しで召喚した女神が、説明文と全然違うモザイクみたいな格好で出てきたからさ」 凪:「……女神?」 タクト:「うん。 俺のスキルだから、どうやら俺にしか見えないらしい」 凪は、静かに一つ頷(うなず)いた。 凪:「そう……。 タクトくんにしか、見えないのね」 口元は、聖女のような完璧な微笑みを保っている。 だが、その朝露のような瞳の奥底には、薄暗く、ひどく複雑な光がドロリと浮かび上がっていた。 凪:(……私には見えない、謎の女神様。 そう。 タクトくんと、そのメス(女神)だけの『秘密』なのね……) 凪の胸の内で、静かな嫉妬の炎がチリリと音を立てて燃えた。 しかし、彼女はそれ以上追及しなかった。 タクトが自分からすべてを話してくれるまで、あるいはその女神の存在がタクトの負担になる(と凪が判断する)その時までは、愛想よく待つつもりだった。 一方、タクトの手のひらの上では、フォルテシアがまだプンスカと怒っていた。 フォルテ:「だいたいやな! 東の魔王領にいきなり浄化の軍勢を率いて攻め込んだうちらも悪かったんやけど……」 そこで、ハッと気づいたように言葉を止めた。 小さな女神は、宝石のような瞳でタクトをじっと見つめ上げた。 フォルテ:「……あんたに負けてから、うちは本体を封印されてしもうたんよ」 タクト:「…………」 フォルテ:「神器も、権能も、神聖な衣装も全部取り上げられて……。 今ここにおるんは、あんたのスキルに引っ張り出された、うちの『思念体』みたいなもんや」 フォルテの表情が、一瞬だけひどく沈んだ。 フォルテ:「本体は今も天上界の奥底で封印されたまま。 うちは、こっちから元の場所に戻ることもできへん」 タクト:「…………」 タクトは、しばらく黙って彼女の言葉を聞いていた。 そして、ゆっくりと口を開く。 タクト:「……なるほど」 フォルテ:「おっ? ようやく分かったか?」 タクト:「いや、分かったというか……」 タクトは、やれやれといったふうに額に手を当てた。 タクト:「アジトにいるフルートさんたちといい、この世界の人間(?)って、みんな『魔王軍ごっこ』の独自設定を作り込んで遊ぶのが好きなのか?」 フォルテ:「設定ちゃうわぁぁぁぁっ!!」 フォルテが、空中でジタバタと絶叫する。 プラチナゴールドのアホ毛が激しく逆立ち、頭上の光輪がぐるぐると高速回転した。 フォルテ:「本当の話や! うちは本物の女神! あんたは昔、世界を震え上がらせた『東の魔王』やったんよ!」 タクト:「…………はい?」 フォルテ:「昔のあんたはな、そらもう恐ろしい魔王で――」 タクト:「いや、俺はつい最近召喚されてきただけの、ただのEランク採掘士だけど」 フォルテ:「今の話やない! 昔の話や!」 タクト:「昔って……俺、そんな記憶一切ないぞ」 フォルテ:「それも含めて、何か事情があるんやろ! うちにも全部は分からへんけど!」 フォルテは、喚(わめ)きながらも、必死に説明を続けようとした。 しかし、タクトの反応は冷ややかだった。 タクト:「……つまり、お前も『魔王軍ごっこ』の設定上のキャラとして、俺に昔の因縁があるっていうロールプレイをしてるわけだな?」 フォルテ:「設定やない!!」 タクト:「分かった、分かった。 とりあえずお試し召喚は成功したみたいだな。 相談役として、何か役に立つ情報をくれ」 フォルテ:「……あんた、ほんまに何も覚えてへんんやな」 フォルテは、深いため息をついて肩を落とした。 フォルテ:「……まあ、ええわ。 今のあんたは記憶を失うとるみたいやし、無理に思い出させても混乱するだけやろ」 タクト:「そうしてくれると助かる」 フォルテは、小さく頷いた後、周囲を見回した。 フォルテ:「……で、ここはどこや? 採掘管理所……? なんで東の魔王がこんなところで石掘りしとんねん」 タクト:「俺はEランクの採掘士だからな。 今日から深層エリア配属だ」 フォルテ:「……はぁ」 フォルテは、頭を抱えるようにして空中でくるくると回転した。 フォルテ:「とにかく、危険な場所には近づかん方がええ。 特にあの『超S級』とか書いてある区画は絶対にダメや」 タクト:「なんで? 未踏鉱脈があるって書いてあるし、ノルマを早く終わらせるにはちょうどいいかも」 フォルテ:「あかんて! 魔力の流れがおかしい! あそこはただの採掘区画やない可能性があるんや!」 タクト:「また設定か」 フォルテ:「設定ちゃうわぁぁぁっ!!」 そのやり取りを、凪は静かに見守っていた。 凪:「……フォルテさんは、なんて仰(おっしゃ)っているの?」 凪が、ごく自然な声音で尋ねた。 タクト:「ああ。 あの区画は危険だからやめた方がいいって、全力で引き留めてきてるんだ」 凪:「そう。 賢明な助言ね」 フォルテ:「せやろ!? ほら、そこの可愛い子も分かっとるやん!」 フォルテが空中でバンバンと手を叩いて同意するが、凪にその声は届かない。 タクト:「……ただ、俺には『相談役』としての役割があるから、システム的にわざわざ心配してくれてるんだろうな」 フォルテ:「せやから、システムやなくてほんまに心配しとるんよ!! なんで通じへんの!?」 言葉の通じない神様がジタバタと暴れる横で、凪は朝露のように透き通った瞳をタクトへと向けた。 彼女は、タクトが結局はその未踏区画へ行くつもりであることを完全に察していた。 凪:「私も一緒に行くわ、タクトくん」 凪の言葉に迷いはなかった。 タクト:「……本当に危なくなったら、石なんて捨ててすぐに撤退するからな。 俺の判断に従ってくれよ?」 凪:「ええ。 もちろんよ」 凪は、愛しいタクトの安全第一な判断を尊重するように、深く、静かに頷いた。 彼女にとって何よりも大切なのは、タクトが自分の意志で行動し、そして昨夜の『簡単に掘れる良質な鉱脈が見つかればいいな』という彼の無邪気な願いが完璧に叶(かな)うこと。 そのために、彼女自身の《ギャンブル》の力で意図的に導き出した『超S級未踏区画』への道を、凪はひどく甘やかな優越感とともに、静かに受け入れていた。 ◇ 二人は、管理所の案内図と厳格な立ち入り規則を念入りに確認してから、深層エリアの最奥に位置する『超S級未踏区画』へと足を踏み入れた。 整備されたウッドチップの道はすぐに途切れ、むき出しの岩肌が続く険しい坑道へと変わる。 奥へと歩を進めるごとに、肌にまとわりつく大気の圧が、じっとりと重みを増していった。 岩壁には、脈打つように青白く発光する微(かす)かな結晶光が散りばめられており、光源となる魔導ランプがなくとも、二人の足元を妖(あや)しく照らし出している。 足の裏からは、通常の浅層エリアの採掘場では決して感じられないような、粘りつく濃密な魔力の流れが直(じか)に伝わってきた。 管理所の調査記録によれば、この先は地層が極めて不安定なため、十分な安全調査ができていないという。 案内図に記された安全ルートはすでに限界を迎え、そこから先の正確な地形は、深い闇の中に沈んだままであった。 タクト:「……なんか、空気まで重いな。 ここ、本当にただの採掘場なのか?」 タクトは、肺の奥をチリチリと焼くような特異な空気を吸い込みながら、警戒するように周囲を見渡した。 凪:「まだ王国でも十分に調べられていない、未知の場所みたいね」 凪(なぎ)が、タクトのすぐ背後を歩きながら静かに応じる。 タクト:「なるほどな。 だから『超S級』なんていう物騒な指定になってるのか」 タクトの事なかれ主義のアンテナが、周囲の環境を素早くスキャンする。 だが――。 タクト:「…………?」 タクトは、不思議そうに首を傾(かし)げた。 危険度S級というのだから、獰猛(どうもう)な魔獣や未知の化け物が群れを成しているのかと思いきや、周囲からは微塵(みじん)も魔獣の気配が感じられない。 水滴の落ちる音すらも吸い込まれてしまうような、鼓膜が痛くなるほどの『異様な静寂』だけが、この閉鎖空間を支配していたのだ。 タクト:「魔獣も出てこないし、いきなり暗がりから襲われるような殺気もないな。 不気味だけど……まあ、物理的な危険がないなら、まずは地層の状態から確認してみるか」 タクトが、安堵(あんど)の息を吐きながらそう結論づけた時であった。 フォルテ:「……おい。 ちょっと待ちぃ」 タクトの胸ポケットからフワリと抜け出した小さな女神が、いつも以上の低い声で制止の声を上げた。 タクト:「ん? 今度は何だ、フォルテ」 タクトが視線を向けると、先ほどまで騒がしく空中で暴れていた彼女の顔から、一切の冗談の気配が消え失せていた。 フォルテは、目前に立ち塞がる巨大な岩壁の『向こう側』へと、宝石のような瞳を鋭く向けている。 フォルテ:「この先、魔力の質が根本から変わっとる。 単に魔鉱石がたくさん埋まっとるとか、そういう次元の話やないで」 フォルテは、光のベールを揺らしながらゆっくりと岩壁に近づき、険しい顔で眉をひそめた。 フォルテ:「……『結界』の境目があるんよ」 タクト:「結界?」 フォルテ:「せや。 こっち側の世界と向こう側の世界で、魔力の流れの法則が明らかに違う。 ここから先は、王国の管理するただの採掘区域やない可能性があるで」 フォルテは、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。 彼女は元最高神である。 その神域の感覚が、岩壁の向こうから漏れ出す『絶対的な闇と拒絶の力』――すなわち、かつての東方魔王領の強固な結界の気配を、微かに察知していたのだ。 タクト:「へえ……」 タクトは、感心したように気の抜けた声を漏らした。 フォルテ:「へえ、やないわ! こういう時は、もう少し危機感持って警戒せえ!」 フォルテが空中でジタバタと抗議する。 だが、タクトは手元の案内図と、目の前の発光する岩壁を見比べながら、自らの都合の良い解釈回路をフル回転させていた。 タクト:「……なるほど。 ここが調査済み範囲のギリギリ端っこってわけか。 要するに、ここから先は完全に『未知の地層』だから、ゲーム的な設定として『結界』って表現してるんだな。 システムからの警告メッセージみたいなもんか」 フォルテ:「いや、そういう意味やなくて……!」 タクト:「分かった、分かった」 タクトは、必死に警告するフォルテを宥(なだ)めるように優しく微笑んだ。 タクト:「安心しろよ。 いきなり壁をぶち抜いて奥へ突撃したりはしない。 まずは手前の壁で安全確認をするし、さっきの新しいスキルも、軽く岩肌を叩いて試すだけにするから」 フォルテ:「……ほんまに、軽くやで? 指先でチョンってするだけやで?」 フォルテは、タクトの言葉に少しだけ肩の力を抜きながらも、念を押すように確認した。 タクト:「ああ。 もちろん」 タクトは、どこまでも澄み切った無害な労働者の顔で、力強く頷いた。 その言葉に嘘はない。 タクト本人は、本当にただ『軽くノックして試す』だけのつもりだったのだから。 だが、フォルテの胸の奥底では――。 かつて天上界を恐怖のどん底に陥れた魔王の片鱗(へんりん)が、今まさに目覚めようとしているのではないかという、ひどく冷たくて嫌な予感が、拭いきれないまま渦巻いていた。 ◇ タクトが手にしたツルハシの先端で、目の前の発光する岩壁を 「コン」 とごく軽く叩いた――その直後であった。 ズズズ……。 不気味な地鳴りのような振動が足元から這い上がり、強固な岩壁の表面に蜘蛛の巣のような細かな亀裂が無数に走る。 空中に浮かぶフォルテが 「……え?」 と間の抜けた声を漏らした、次の瞬間。 ズガガガガガガガガガガァァァン!! 世界そのものがひび割れたかのような、鼓膜を破る凄まじい轟音(ごうおん)が空間を揺らした。 だが、それは無秩序な爆発でも、単なる岩盤の崩落でもなかった。 タクトが軽く叩いたその一点(特異点)から、指定した方向へ向かって、岩盤の内部で恐るべき地層の共鳴が連鎖していく。 数百メートル先まで――ただ一直線に。 まるで最初から高度な魔導建築の設計図が存在していたかのように、必要な場所の岩石だけがチリとなって精密に消滅し、恐ろしいほど滑らかで美しい円筒形のトンネルが、瞬きする間に形成されてしまったのだ。 砂埃(すなぼこり)一つ舞うことなく、衝撃が嘘のように収まる。 あとに残されたのは、再び耳が痛くなるほどの深い静寂と――遥か彼方まで貫通した、美しすぎる地下道だけであった。 タクト:「…………」 タクトは、手元の見慣れた薄汚れたツルハシを、無言のままじっと見つめていた。 タクト:「……え?」 もう一度、ツルハシの先端を見る。 そして、目の前に開いた数百メートルの巨大な大穴を見る。 タクト:「……俺、今。 本当に『コン』って軽く叩いただけだよね?」 凪:「ええ。 とても綺麗で、澄んだ音がしたわ」 凪(なぎ)が、タクトの神域の一撃を『ちょっとした演奏』くらいのテンションで優しく肯定する。 タクト:「いや、音の綺麗さの問題じゃないんだよ!」 タクトが顔を引き攣(つ)らせたその横で、ようやく我に返った小さな女神が空中で絶叫した。 フォルテ:「綺麗な音とか言うとる場合かぁぁぁっ! なんや今の!? どんなデタラメな掘削スキルやねん!」 タクト:「いや、俺も知りたいんだけど……」 フォルテ:「こんな一撃で数百メートルも地層に穴が開くなんて、どう考えても普通やないやろ! 魔王の攻城魔法でももうちょい控えめやぞ!」 タクト:「スキルの説明には『高精度で掘削できる』ってちゃんと書いてあったし……。 ちょっと威力が高いだけで、言われた通りの働きはしてるぞ」 フォルテ:「高精度って、そこまでの次元の意味ちゃうやろぉぉぉっ!!」 フォルテのプラチナゴールドのアホ毛が、ちぎれんばかりに激しく回転する。 だが、タクトはすでに冷静さを取り戻し、持ち前の『事なかれ主義』をフル稼働させて現実を処理し始めていた。 彼はまず、目の前に出来上がったトンネルの壁面に近づき、周囲の岩盤が崩落する危険性がないかを慎重に確認した。 タクト:「……うん」 トンネルの壁面は、まるで職人が何年もかけて磨き上げた大理石のように滑らかで、周囲の地層にも目立った崩壊やヒビ一つない。 むしろ、採掘に必要な場所だけを外科手術のように正確に掘り抜いた、完璧な仕上がりだった。 タクト:「……まあ、周囲が崩れて生き埋めになる心配がないなら、全く問題ないか」 フォルテ:「問題しかないわ!」 タクト:「いや、考えてもみろよ。 いちいちツルハシで少しずつトンネルを掘り進める莫大(ばくだい)な手間が省けたと思えば、めちゃくちゃ作業効率はいいじゃないか。 これなら定時退勤どころか、午前中でノルマが終わるぞ」 フォルテ:「その結論にどうやって到達したん!? あんたの脳内お花畑なん!?」 一人でツッコミ疲れを起こしそうになっているフォルテをよそに、タクトは少しだけ考え込んだ。 タクト:「……せっかくだし、この奥にいい鉱脈がないか、少しだけ確認してみるか」 フォルテ:「待て待て待て待て!」 フォルテがタクトの鼻先にすがりつき、必死に押しとどめようとする。 フォルテ:「さっきのうちの話をちゃんと聞いとったか!? この先は結界の境目、未知の向こう側かもしれへんって言うたやろ!」 タクト:「大丈夫だって。 もし少しでも危険そうな気配がしたら、すぐに走って戻ってくるから」 フォルテ:「そのセリフ、フラグやんか! 危険な場所へ何も知らずに向かう主人公が言う、一番死ぬ確率の高いやつやん!」 そのメタ的なツッコミに、タクトは少しだけ感心したように頷(うなず)いた。 タクト:「……フォルテ、お前やっぱり『相談役』だけあって、そういうゲーム的な設定の解説が妙に詳しいな。 よくできてる」 フォルテ:「設定ちゃうわぁぁぁぁっ!!」 タクトは、涙目で絶叫する30センチの女神の悲鳴を心地よいBGMとして聞き流しながら――。 真新しいその隣で小さく微笑む凪とともに、自らが一撃で穿(うが)ったトンネルへと、慎重に、しかし一歩もためらうことなく足を踏み入れたのだった。 ◇ 一撃で穿(うが)たれた数百メートルの滑らかなトンネルを抜けた先には、タクトの想像を絶する光景が広がっていた。 タクト:「…………は?」 タクトは、数秒間その場で完全に石像のように固まった。 そこは、巨大なドーム状の地下空間であった。 岩壁の全面を覆い尽くすように群生しているのは、見慣れた青白い魔鉱石などではない。 赤、青、緑、黄金――まるで極上の宝石箱をひっくり返したかのように、七色の虹光を放つ未知の鉱石が、狂い咲く花のようにびっしりと壁一面結晶化していたのだ。 その気品ある輝きも、そこから立ち上る魔力の圧倒的な密度も、浅層で掘っていた石とは明らかに次元が違っていた。 そして、次の瞬間――。 タクト:「うわぁぁぁ! オリハルコンだ!!」 タクトの瞳が、これまでにないほど強欲な光を放って輝いた。 彼は魔獣の危険も結界の警告も完全に忘れ去り、七色に輝く壁へと一直線に駆け寄った。 タクト:「すげえ! しかもちょっと混ざってるとかじゃなくて、見渡す限りの大鉱脈じゃないか! これ、一体どれくらいの価値があるんだ……!?」 採掘士の常識として、この『オリハルコン』は武具や魔導具の素材として世界最高峰の価値を持つ伝説の神鉱石である。 それがこれほどの規模で群生しているなど、王国建国以来の歴史的大発見と言っても過言ではない。 もしこれを管理所に正式に報告し、評価されれば、この北方鉱山全体の価値をひっくり返すほどの功績になる。 タクト:「……いや、待てよ。 これだけのオリハルコンの大鉱脈を見つけたら、さすがに金一封とか、すげえ臨時ボーナスくらい出るんじゃないか?」 タクトの小市民的な脳内で、かつてない規模のささやかな夢(数年分の生活費の確保)が急速に膨らみ始めた。 だが、その時であった。 フォルテ:「ちょおぉぉぉっ!?」 胸ポケットから飛び出したフォルテが、空間の奥を見渡して素っ頓狂(すっとんきょう)な悲鳴を上げた。 フォルテ:「アホか! そこまで一気に掘り抜いてしもうたんかいな!」 タクト:「何だよ。 せっかくの歴史的大発見なのに」 フォルテ:「大発見どころの話やないわ! ここ、さっきうちが言うた『境界』の完全に『向こう側』や!」 タクト:「境界?」 フォルテ:「せや! この圧倒的で淀(よど)んだ魔力の流れ、絶対に間違いない! うちら、東方魔王領の不可侵領域にガッツリ入っとるんよ!」 タクト:「……東方魔王領?」 タクトが首を傾(かし)げた、ちょうどその時だった。 七色に輝くオリハルコンの結晶群の隙間に、ポツンと不自然に立てられている『木製の看板』が視界の端に入った。 それは、血のような赤い塗料を用い、魔王軍らしいどこか威圧的で、しかし妙に見覚えのある几帳面(きちょうめん)な書体でこう刻まれていた。 【警告】 【これより先、東方魔王領】 【許可なき立ち入りを禁ず】 【不法侵入者は即刻『お掃除対象』とします】 タクト:「…………」 タクトの目が、その看板の物騒な文字をゆっくりとなぞる。 タクト:「……お掃除対象?」 フォルテ:「そうや! ほんまに危険なんよ!」 フォルテが空中でジタバタと暴れる。 フォルテ:「東の魔王軍の『お掃除』言うたら、チリ一つ残さん徹底的な物理殲滅(せんめつ)のことや! 勝手に入ったら、ただでは済まへんのよ!」 タクト:「…………」 タクトは、看板を見つめたまま、顎(あご)に手を当てて深く考え込んだ。 タクト:(……フルートさんやハーモニカたち、こんな見えない地下の奥深くにまで『魔王領の設定』を作り込んでるのか……) 彼の脳内では、相変わらず致命的な勘違いの回路が回っていた。 タクト:(しかも、領地の境界を示すための看板までわざわざ立ててる。 休みの日にせっせとこれを書いたのか? 『お掃除対象』って言葉のチョイスは、たぶん掃除係のカスタネットあたりが考えたんだろうな。 ……どこまで本気でロールプレイやってるんだよ、あいつら) タクトにとって一番の問題は、東方魔王軍が本当に存在するかどうかではない。 この先へ進めば、間違いなくフルートたちが丹精込めて作っている『魔王軍ごっこの聖域(ロールプレイの領域)』へ、土足で踏み込むことになるという事実だ。 そうなれば、後からアジトで 「なぜ勝手に入ったのですか」 と説明を求められたり、嬉々として長々と魔王軍の設定話に付き合わされたりするかもしれない。 タクト:「……これは、ちょっとまずいな」 タクトは、ポツリと深刻な声で呟(つぶや)いた。 フォルテ:「せやろ!? やっと分かったんやな!?」 タクト:「うん。 いくらゲーム的な設定とはいえ、勝手に人の作った領地へ入るのはよくない。 マナー違反だ」 フォルテ:「いや、設定やなくて本物やってばぁぁぁっ!! なんでそっちの解釈になるん!?」 フォルテの涙声のツッコミが、七色の地下空間に空しく反響した。 タクトは、眼前に広がる数億ゴールドの価値があるオリハルコンの大鉱脈を、もう一度静かに見つめた。 だが、先ほどまでのボーナスを期待する興奮は、すでに嘘のように消え失せていた。 タクト:(臨時ボーナスは惜しいが、フルートたちの面倒くさいロールプレイに巻き込まれて定時退勤の生活が脅かされるリスクに比べたら、こんな石ころなんて安いもんだ) タクトはくるりと踵(きびす)を返し、迷うことなく言った。 タクト:「……凪」 凪:「はい、タクトくん」 凪(なぎ)が、待っていましたとばかりに微笑む。 タクト:「……帰ろう」 凪:「ええ。 そうしましょう。 タクトくんがそう言うなら」 フォルテ:「いや、ちょっと待ちぃな!」 フォルテが慌ててタクトの前に回り込む。 フォルテ:「危険を察知して、せっかくの大鉱脈に目が眩(くら)まずに帰る判断をするんは賢明やけど! まずは採掘士として正式な手続きとか、管理所への報告とか……!」 タクト:「……フォルテ」 タクトは、一切の感情を排した、ひどく冷たくて合理的な『底辺労働者の目』で小さな女神を見つめ下ろした。 フォルテ:「な、なんや?」 タクト:「俺は、今日も絶対に定時で帰りたいんだ」 フォルテ:「…………」 タクト:「こういう誰かの設定(ロールプレイ)が絡む面倒な案件は、見なかったことにして一切関わらないのが一番だろ。 報告なんてしたら、確実に残業になる」 フォルテ:「…………この人、ほんまに」 フォルテは、呆(あき)れ果てて言いかけた言葉を、ゴクリと飲み込んだ。 フォルテ:(ほんまに、何も変わってへんのやな……) かつて、天上界の軍勢を前にしても 「面倒くさい」 と一蹴し、その規格外の力で神々をただの障害物として払いのけた『東の魔王』。 その恐るべき過去を知るフォルテにとって、目先の莫大(ばくだい)な利益をあっさりと捨てて 「自分の領域(スローライフ)」 を守ることを最優先するこの男の判断は、ひどく既視感のある、恐ろしい一面であった。 だが、今の記憶のないタクトにその真実を理解させることは不可能だ。 元最高神の深遠な感慨も、タクトにとってはただの 「うるさいマスコットの沈黙」 でしかない。 タクトは、世紀の大発見であるオリハルコンの鉱脈を完全に背後に置き去りにし、意気揚々と帰路へ着くべく歩き出すのであった。 ◇ タクト:「……とりあえず、ここを隠そう」 タクトは、一撃で穿(うが)ってしまった美しいトンネルの入り口へと戻るなり、極めて真剣な顔でそう宣言した。 凪:「隠すの?」 凪(なぎ)が小首を傾(かし)げる。 タクト:「ああ。 こんな巨大な穴が開いたままだと、他の採掘士が間違って奥に入ってしまうかもしれないだろ」 それは、半分は善良な労働者としての本心であった。 しかし、残り半分は――『オリハルコンの大鉱脈と魔王領の看板なんていう特級の厄介事(トラブル)を誰かに見つけられて、余計な面倒に巻き込まれたくない』という、タクト自身の強固な事なかれ主義の発露であった。 タクト:「それに、いくら設定とはいえ、勝手に人の領地の結界に穴を開けっぱなしにしておくのはよくないからな。 立つ鳥跡を濁さずだ」 フォルテ:「そこはちゃんと分かっとるんやな……!」 フォルテが空中で感涙にむせぶ。 タクト:「もちろん。 だから、入り口付近だけでも元の岩壁みたいに見えるように、しっかりカモフラージュしておこう」 タクトは、周囲に散らばっていた岩石を拾い集め、手際よくトンネルの入り口を塞ぎ始めた。 数百メートルもあるトンネル全体を埋め戻すなど不可能だが、外側からはただの行き止まりの岩壁に見えるよう、入り口の数メートルだけを巧妙に隠蔽(いんぺい)したのだ。 作業が終わると、そこには一見して『誰も足を踏み入れていない、ただの不気味な未踏区画の岩壁』が完璧に再現されていた。 フォルテ:「……ほんまに、綺麗に隠してしもうた」 フォルテは、そのあまりにも手慣れた隠蔽工作を前に、引き攣(つ)った笑いを浮かべるしかなかった。 タクト:「よし。 完璧だ。 これで誰かが間違って入ることもないし、俺が余計な騒動に巻き込まれずに済むな」 タクトは満足そうに額の汗を拭(ぬぐ)った。 フォルテ:「いや、あんたはもう、世界の根幹に関わるレベルで十分に巻き込まれとるんよ……」 完全に証拠隠滅(?)を終え、いざ撤退しようと踵(きびす)を返したタクトだったが――。 不意に、彼の視線が足元の岩陰に落ちていた『ある物』に釘付けになった。 それは、小指の先ほどの大きさの、七色に輝く小さな石の欠片。 先ほどの採掘の衝撃で、奥の鉱脈から飛んできたオリハルコンの破片であった。 小さいとはいえ、世界最高峰の希少金属であることに変わりはない。 タクト:「…………」 タクトは、その小さな七色の欠片を、穴が開くほど見つめた。 タクト:(……持って帰りたい) 小市民の強欲が、脳内で囁(ささや)く。 タクト:(この欠片だけでも、売れば数ヶ月は遊んで暮らせるんじゃないか? ……いや、でもこんな希少な石を持っているのが見つかったら、それはそれで出どころを追及されて面倒なことになるかもしれない) タクトは、激しい葛藤の末に、おずおずと隣の幼馴染(おさななじみ)へ声をかけた。 タクト:「……ねえ、凪」 凪:「なあに?」 タクト:「これくらいの小さな欠片なら、ポケットに入れて持って帰っても……バレないよな?」 凪:「タクトくんが、そうしたいのなら」 凪は、聖母のようにすべてを肯定する微笑みを浮かべた。 タクト:「いや、これは決して盗むんじゃないぞ。 あくまでこの超S級区画で『未知の鉱石を発見した』ということを管理所に証明するための、正当な品質確認用のサンプルだからな」 フォルテ:「いやいやいや!」 フォルテが猛烈な勢いで空を飛んできた。 フォルテ:「大鉱脈の場所を完全に隠蔽しといて、勝手に証拠の石だけ持ち帰ったら、それはそれで後から大問題になるやろ!」 タクト:「……フォルテ。 いくら相談役とはいえ、その設定上のルール、ちょっと厳しすぎないか?」 フォルテ:「設定ちゃうわぁぁぁっ! 泥棒やんか!」 タクトは、わーわーと騒ぐ30センチの女神を完全に無視して、まずは小指の先ほどの欠片を一つ、指先でつまみ上げた。 タクト:「これは、管理所に発見を報告するための正当なサンプル。 うん、仕事として必要なものだ」 そして――。 タクトは、周囲の薄暗い空間を何度も、念入りに見回した。 誰もいない。 もう一度、背後までしっかりと確認する。 やはり、誰もいない。 安全を確認したタクトは、足元に転がっていたもう一つの『米粒ほどの極小の欠片』を拾い上げると――流れるような動作で、そっと自分の作業着の奥深いポケットへと滑り込ませた。 タクト:「……これは、その……記念品だ」 タクトは、誰に言い訳するでもなく、早口でそう呟(つぶや)いた。 凪:「ふふっ。 そうね」 凪がくすくすと笑う。 タクト:「あくまで記念品だからな。 うん。 俺が命懸けで危険な未踏区画を探索したっていう、ささやかな記念。 これくらいいいだろ」 フォルテ:「記念品って言えば何でも許されると思うなやぁぁぁっ! くすねとるやん! 完璧なポッケナイナイやんか!」 フォルテは、タクトのあまりの小市民的な手癖の悪さに、頭を抱えて空中で悶絶(もんぜつ)した。 しかし、タクトの耳にはもはや『臨時収入』という甘美な響きしか届いていない。 一方――。 凪は、ポケットへそっと小さな欠片を隠し持ったタクトの横顔を、蕩(とろ)けるような熱い眼差(まなざ)しで見つめていた。 凪:(タクトくん……。 こんな大きな秘密を、私と一緒に抱えてくれるのね) 七色に輝く大鉱脈の隠蔽。 発覚すれば世界を揺るがす神鉱石の存在。 そして、二人だけが知る、ポケットの中の小さな横領(ひみつ)。 凪:(誰にも言えない秘密を、私とだけ共有してくれるなんて……。 ふふっ、本当に、二人だけの秘密ね) 彼女のヤンデレ的な思考回路の中では、この共犯関係によって、二人の絆がまた一つ、決定的に深まったことになっていたのだ。 そんな凪の重すぎる愛情に気づくはずもなく、タクトの頭の中は、今後の『安全な事後処理』のことでいっぱいだった。 タクト:(……まずいな。 このサンプルの欠片を管理所に出したら、間違いなく大騒ぎになる。 だが、サンプルを出さなければ俺の探索の成果(ノルマ達成)が証明できない。 ……よし。 場所は 「すでに崩落して分からなくなった」 とでも誤魔化して、サンプルだけを提出しよう。 場所さえ知られなければ、俺が余計な現地調査に駆り出されることは避けられるはずだ) 完璧なリスクヘッジ(保身)の計画を脳内で組み上げたタクトは、晴れやかな顔で歩き出した。 タクト:「よし。 目的は達成した! 撤収だ!」 凪:「ええ、タクトくん」 フォルテ:「ちょ、待ちぃ! ほんまにありのままを報告せえへんつもりなん!? その鉱脈、ただの珍しい石やないんよ! 世界のバランスが崩れる代物なんよ!」 タクト:「……分かった、分かった。 具体的な報告方法は、帰り道でゆっくり考えるから。 な?」 フォルテ:「絶対、何も分かってへんやろぉぉぉっ!」 薄暗い地下坑道に、フォルテの涙声が吸い込まれていく。 こうして、二人は『超S級未踏区画』を後にした。 管理所へ提出するための『証明用サンプル』。 タクトのポケットの中で鈍く光る『極小の記念品(横領)』。 そして、東方魔王領の境界に意図的に隠蔽された、莫大(ばくだい)なオリハルコンの大鉱脈。 タクトの事なかれ主義が生み出したそのすべてが、強固に絡み合い――次なる巨大な騒動の火種(ピタゴラスイッチ)となって、静かに着火の時を待っていることを。 定時退勤の喜びに胸を弾ませるタクトは、まだ知る由(よし)もなかった。 超S級未踏区画という死地から、無傷かつ光の速さで生還を果たしたタクトと凪(なぎ)は、そのまま足早に深層エリアの採掘管理所へと向かっていた。 タクトの作業着の右ポケットには、報告用に確保した『小指の先ほど』の七色に輝くオリハルコンの欠片。 そして、左の奥深いポケットには、彼が己の臨時ボーナス(記念品)としてこっそりとくすねた『米粒ほどの極小の欠片』が、誰にも知られることなく静かに眠っている。 タクト:(……さて。 これ、どうやって報告すればいいんだろうな) タクトは、管理所の巨大な丸太の扉を見上げながら、小市民的な悩みを抱えていた。 タクト:(オリハルコン自体は、ちゃんと報告した方がいいよな。 いくら俺でも、こんな歴史的発見レベルの希少鉱石を完全に見なかったことにして後でバレたら、確実に大問題になる) だが、報告には大きな『縛り』があった。 タクト:(ただし、あの物騒な看板があった場所――『東方魔王領』の境界のことだけは絶対に言えない) タクトにとって、最大の問題はオリハルコンの発見そのものではない。 もし発見場所を馬鹿正直に説明してしまえば、血の気を持て余した採掘管理所の人間や王国軍が、こぞって魔王領の境界へと押し寄せる可能性がある。 そうなれば、アジトで平和に暮らしているフルートたちの『魔王軍ごっこ(ロールプレイ)』を致命的に邪魔することになるし、何より第一発見者であるタクト自身が、終わりの見えない残業(現地調査の案内役)に巻き込まれることは火を見るより明らかであった。 タクト:「……よし。 場所は適当に誤魔化して、とりあえずこのサンプルだけを提出してみるか」 タクトは、自らの平穏を守るための決意を固め、小さく頷(うなず)いた。 凪:「ええ。 私も一緒にいるわ、タクトくん」 タクト:「ありがとう。 凪が一緒にいてくれると助かるよ」 タクトが素直に礼を言うと、凪は春の陽だまりのように柔らかく、そしてどこか『共犯者』としての妖(あや)しい熱を帯びた微笑みを浮かべ、当然のように隣へ並んだ。 彼女にとって、このオリハルコンの隠蔽(いんぺい)工作は、愛しいタクトと重大な秘密を共有できる、甘美で絶好の機会でもあったのだ。 ◇ 喧騒(けんそう)に包まれた管理所の中へ入り、タクトは受付カウンターへと向かった。 タクト:「すみません。 採掘した鉱石について、ちょっと鑑定をお願いしたいんですが」 受付係:「はい、お疲れ様です。 では、こちらで確認しますね」 人の良さそうな受付係は、タクトが差し出した泥混じりの小袋から、小指サイズの欠片を受け取り、カウンターに備え付けられた魔導鑑定盤の上へコトリと置いた。 淡い青色の魔力光が盤面を走り、鉱石の成分を解析していく。 数秒後――。 受付係:「…………え?」 ピピピッ、という無機質な電子音と共に表示された結果を見て。 受付係の動きが、完全に停止した。 タクト:「……どうかしました?」 受付係:「い、いえ……少々、お待ちください。 おそらく魔導装置の不具合かと」 受付係は、乾いた笑いを浮かべながら、もう一度鑑定盤へ鉱石をかざした。 再び、青い光が走る。 しかし、表示された神々しい鑑定結果の文字列は、一文字たりとも変わらなかった。 受付係:「…………オ、オリハルコン……?」 受付係の声が、カタカタと震えた。 信じられないものを見るような目で、さらに鑑定盤の数値を二度、三度と確認する。 受付係:「本物……? いや、でも、この大きさで……? こんな純度のものが、ただの採掘士から……?」 タクト:「……そんなに珍しいものなんですか?」 タクトが、事なかれ主義全開の気の抜けた声で尋ねた。 その瞬間――。 受付係:「珍しいどころではありません!!」 受付係が、バッと顔を上げた。 その目は、完全に血走っていた。 受付係:「オ、オ、オリハルコンだぁぁぁぁっ!!」 鼓膜を破らんばかりの絶叫が、広大な管理所のホールに響き渡った。 職員たち:「何だと!?」 職員たち:「今、オリハルコンって言ったか!?」 職員たち:「鑑定結果をもう一度確認しろ! 精巧な偽物じゃないのか!?」 周囲で事務作業をしていた職員たちが、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がる。 受付係:「鑑定結果は本物です! 間違いありません! 超高純度のオリハルコンです!」 それまで荒くれ者たちの怒声と笑い声で満ちていた管理所の空気が、一瞬にして『異常事態』へと切り替わった。 奥の部屋から上級職員たちが血相を変えて飛び出してきて、鑑定盤を囲み、次々と震える手で結果を確認し始める。 タクト:「…………」 タクトは、その異様な熱狂から逃れるように、ススッ……と音を立てずに後ずさった。 タクト:(……あれ? 俺、もしかして想像以上に何かまずいことした?) だが、逃亡は許されなかった。 鑑定結果を自らの目で確認した職員の一人が、猛禽類(もうきんるい)のような鋭い目で、慌ててタクトへと向き直ったのだ。 職員:「シキさん! これを発見した場所は、一体どこですか!?」 タクト:「……え?」 職員:「深層エリアのどの区画です!? 何ブロックですか!?」 職員:「危険度はどうでした!? 周辺の地質は!? これだけの欠片が出るなら、大鉱脈の規模は確認しましたか!?」 職員:「おい、すぐに特級調査班を編成する準備をしろ! 何としても場所を特定するんだ!」 タクトの周囲を、興奮しきった職員たちが完全に包囲する。 矢継ぎ早に飛んでくる尋問の嵐に、タクトの背筋を冷たい汗がツーッと流れ落ちた。 タクト:(……まずい。 まさか、こんな国を揺るがすレベルの騒ぎになるとは) その瞬間――。 タクトの肩のあたりで、見えない30センチの女神が半狂乱になって飛び回った。 フォルテ:「ちょおぉぉぉっ! なんちゅう騒ぎになっとるんよ!」 もちろん、周囲の職員にはフォルテの声は聞こえていない。 フォルテ:「そらオリハルコンやったら大騒ぎにもなるわ! あんな超高純度の大鉱脈があったら、普通は国を挙げて軍隊出してでも調査するやろ!」 タクト:(……分かってるから、お前は少し静かにしてくれ) タクトは、口を動かさずに腹話術のような小声でフォルテを制止した。 職員:「……シキさん?」 タクト:「……はい?」 職員:「今、何か仰(おっしゃ)いましたか?」 タクト:「い、いえ。 何でもありません。 ただの独り言です」 フォルテ:「何でもなくないわ! このままやと、血気盛んな調査隊が魔王領の境界まで一気に押しかけるかもしれへんのやで!」 フォルテの的確すぎる警告も、タクトの耳には『魔王領の設定(ロールプレイ)』を補強するための賑(にぎ)やかしとしか聞こえていない。 タクト:(……フォルテも、本当に設定を盛るなぁ。 あの手作りの看板一つで、国家規模の調査隊まで動かすつもりなのか。 よくできた世界観だ) タクトは、小さく、しかし深く息を吐き出した。 そして、迫り来る職員たちへと向き直り、あらかじめ用意していた『完璧な言い訳』を口にした。 タクト:「えっと……いつもの一般区画で、凪さんと一緒に安全な場所を普通に掘っていたら、天井からたまたまポロッと落ちてきたんです」 職員たち:「…………一般区画?」 職員たちの動きが、ピタリと止まった。 タクト:「はい。 いつもの安全な浅めの場所です。 特別なスキルも使っていませんし、超S級区画なんて恐ろしい場所には近づいてもいません」 タクトは、これ以上ないほど善良で、無害な底辺労働者の表情(ポーカーフェイス)を作った。 その隣で、凪もまた、完璧なタイミングで聖女のように微笑んで頷(うなず)く。 凪:「ええ。 私たちは、いつも通りに地道な作業をしていただけです。 本当に、偶然の賜物(たまもの)かと」 職員たち:「一般区画から……オリハルコンが?」 職員たち:「そんな馬鹿な……!」 職員たちは、青く光る鑑定盤と、タクトの無垢(むく)な顔を交互に見つめた。 そして、彼らの瞳の奥に宿る『常識』が、徐々に別の方向へと書き換えられていく。 職員:「……まさか」 職員:「すでに採掘し尽くされたと思われていた一般区画のさらに奥底に、未発見のオリハルコン鉱脈が眠っているというのか?」 職員:「過去の綿密な地質調査では、あんな浅層にそこまで希少な金属の反応は見つかっていないはずだが……いや、しかし現実として、この欠片が存在している以上……!」 タクト:「…………」 タクトは、目の前で勝手に斜め上の推論を構築し、さらに目を血走らせていく職員たちを見て、サァァッと血の気が引くのを感じた。 タクト:(しまった……。 俺、もしかして……致命的に余計な嘘をついたか?) 彼の事なかれ主義は、またしても世界を巻き込む盛大なピタゴラスイッチのレバーを、自らの手で力強く引いてしまったのであった。 ◇ タクトの苦し紛れに放った 「一般区画で見つけた」 という一言は、採掘管理所という密閉された空間に、致死量に等しい熱狂のガソリンを注ぎ込む結果となった。 職員:「すぐに一般区画の過去の地質データをすべて洗い出せ! もう一度、一から確認し直すんだ!」 職員:「ああ。 長年の調査で見落とされていた、とんでもない盲点(ブラインドスポット)が存在するのかもしれないぞ」 職員:「浅層の採掘班を大幅に増員する必要があるかもしれんな……。 おい、本部に至急連絡を!」 タクトは、目の前で勝手に大規模プロジェクトを立ち上げ始めた上級職員たちの熱気にあてられ、顔の筋肉を引き攣(つ)らせた。 タクト:(いやいやいや……。 そういう話じゃないんだよ) タクトの小市民的な脳内で、冷や汗が滝のように流れ落ちる。 タクト:(俺はただ、たまたま見つけた希少な鉱石を真面目に報告しに来ただけであって、こんな国を揺るがすような大掛かりな調査の引き金を引きたいわけじゃ……!) だが――。 今さら 「すみません、さっきの話は嘘でした。 実際には超S級区画の未知の地層をスキルで数百メートルぶち抜いたら、オリハルコンの大鉱脈と東方魔王領の不法侵入警告看板がありました」 などと正直に訂正できるはずがない。 そんな爆弾発言を口にした瞬間、今の何百倍もの絶叫が響き渡り、王国軍の精鋭部隊が境界へ向けて進軍を開始することは火を見るより明らかだった。 それこそ、彼の愛してやまない平穏なスローライフと定時退勤の完全なる『死』を意味する。 タクト:「……あの、俺、本当に詳しいことは何一つ分からないんです。 たまたま上から降ってきた石を拾っただけなので、特別なことは何も……」 職員:「それでも、これは王国建国以来の極めて貴重な歴史的発見です! 第一発見者であるシキさん、ぜひ今後の詳細な調査にご協力ください!」 タクト:「……は、はい」 タクトは、ひきつった笑みを貼り付けたまま、曖昧に頷(うなず)くしかなかった。 タクト:(……頼む。 これ以上の調査が大規模にならないでくれ。 適当に地面を掘って 「やっぱり気のせいでした」 で終わってくれ……!) 己の吐いた嘘が、どうか自然消滅してくれることを神に祈った。 その様子を肩越しに見ていた『本物の神』――フォルテが、タクトの耳元で必死に訴えかけた。 フォルテ:「おいおいおいおい! 一般区画やないやろ! あんな浅いところにオリハルコンなんかあるわけないやんか! ほんまの場所を言わんと、後から話がもっとややこしいことになるで!」 タクト:「……いや、言えるわけないだろ」 タクトは、周囲の職員たちに気づかれないよう、腹話術のように口を動かさずに小声で応じた。 フォルテ:「なんでやねん! 東方魔王領へ直に繋(つな)がっとるって、ちゃんと彼らに説明せえ!」 タクト:「……フォルテ。 お前、フルートさんたちがこの世界でどれだけ人生を懸けて『設定』を作り込んでるか、知らないだろ?」 フォルテ:「知っとるわ! というか、そこは設定やなくてほんまの本物なんよ!」 タクト:「はいはい。 分かったから、今はとりあえず黙っててくれ。 俺は彼らのロールプレイの聖域を守らなきゃいけないんだ」 フォルテ:「分かっとらんやろぉぉぉっ!!」 小さな女神は、空中で自らのプラチナゴールドの髪を掻きむしり、激しく頭を抱えた。 タクトの認識において、フォルテはあくまで 「この世界(ゲーム)の裏設定や資料集をインストールされている、少し騒がしいナビキャラクター」 という位置づけに過ぎない。 だからこそ、彼女がいくら必死に『世界の危機』を警告しても、タクトにとっては 「ロールプレイにおける厳しい世界観のルール説明」 にしか聞こえないのだ。 責任者:「……シキさん」 熱狂する職員たちを束ねる責任者らしき初老の男が、タクトへ改めて、ひどく真剣な眼差しで確認を取ってきた。 責任者:「念のため、もう一度だけ伺います。 このオリハルコンを発見したのは……本当に、浅層の一般区画で間違いありませんか?」 タクトは、一瞬だけ言葉に詰まった。 沈黙が落ちる。 隣では、凪が静かに、そして絶対的な肯定の光を宿した瞳で彼を見つめている。 彼女だけが、この嘘の奥底にある『真実の隠蔽』を共有する、ただ一人の共犯者であった。 タクトは、小さく、覚悟を決めるように息を吸い込んだ。 タクト:「……はい。 一般区画です」 一切の迷いがない、澄み切った声だった。 これ以上、絶対に話を大きくしたくない。 フルートたちの魔王軍ごっこを壊したくないし、何より、俺は定時で帰りたい。 その強固で利己的な事なかれ主義が、彼にもう一度、世界を欺く完璧な嘘をつかせたのだ。 責任者:「……分かりました。 シキさんの言葉を信じましょう。 直ちに、一般区画の全面的な再調査を検討します」 責任者が、力強く頷いた。 責任者:「過去の採掘記録もすべて洗い直そう。 ひょっとしたら、我々の足元の一般区画の地底深くに、とんでもない大鉱脈が眠っているかもしれないぞ」 職員たち:「ああ……。 これは、北方鉱山の歴史が根本から変わるかもしれんな……!」 管理所の職員たちは、タクトの放った嘘を完璧な真実として受け入れ、すでに未知の大鉱脈発見のロマンにすっかりと酔いしれていた。 もはや、誰一人としてタクトの言葉を疑う者はいない。 タクト:「…………」 タクトは、狂喜乱舞する職員たちを前に、ひきつった乾いた笑みを浮かべるしかなかった。 タクト:(……頼むから、あまり大ごとにならないでくれよ) タクト:(俺はただ、定時で平和に帰りたいだけなんだ……) 小市民の切実な願いとは裏腹に――。 タクトのついた 「ただの保身のための嘘」 は、北方鉱山全体を巻き込む巨大な渦となり、彼の平穏なスローライフを根底から揺るがす『次なる騒動』へと確実に直結していくのであった。 ◇ 「一般区画の地質データをすべて洗い直せ!」 という職員たちの怒号が飛び交う管理所の受付から、タクトと凪(なぎ)は、嵐から逃れるようにしてそっと離れた。 タクト:「……はぁ。 まさか、ちょっと報告しただけで、あんな大騒ぎになるとはな」 タクトは、どっと押し寄せた精神的な疲労に肩を落とし、深い溜息(ためいき)を吐いた。 凪:「大変だったわね、タクトくん」 凪が、春風のように優しく彼を労(ねぎら)う。 タクト:「いや、本当に。 ちょっと珍しい石が見つかったくらいで、国家規模の調査計画が立ち上がるとは思わなかった。 ……でも、これで『俺が魔王領の結界に穴を開けました』なんて正直に報告していたら、それこそどうなっていたか分からない」 タクトは、背筋を凍らせた最悪の事態(無限残業)を回避できたことに、少しだけ安堵(あんど)の表情を緩めた。 タクト:「凪、今日はいきなり話を合わせてもらって助かったよ。 ありがとう」 凪:「いいのよ。 気にしないで」 凪は、聖女のように清らかな微笑みを浮かべ、甘く囁(ささや)いた。 凪:「……二人の、大切な秘密だもの」 タクト:「いや、そんな大層なものじゃ……」 タクトは、思わず照れ隠しのように頭を掻いた。 彼にとって、あの嘘はあくまで『発見場所の面倒な事後処理を避けるための、苦肉の策』にすぎない。 しかし、隣を歩く凪にとっては、その意味合いが全く違っていた。 凪:(タクトくん……自分の生活(ひみつ)を守るために、私と一緒に嘘をついて、共犯者になってくれたのね……) 凪の胸の奥深くで、どす黒くも甘美な愛情が、じんわりと極上の熱を帯びて広がっていく。 凪:(二人だけの秘密を抱える運命共同体……) 彼女の透き通った瞳の奥で、常軌を逸した飛躍的な思考回路が猛スピードで回転を始める。 凪:(ふふっ……。 こんな重大な隠し事を共有するなんて、これって、もう実質的に『夫婦』みたいなものよね) さらに、ヤンデレの想像力は限界を突破して加速する。 凪:(ああ、タクトくん……結婚式はいつにしましょうか……。 新居は王都の静かなところがいいわね。 招待客は少なめにして……♪) 表面上の凪は、いつも通り優雅で美しい笑顔を保っている。 だが、その豊満な胸の奥底では、すでに新居の間取りの設計図を引き、結婚式のウェディングドレスの生地選びまで開始していたのだ。 一方、そんな甘すぎる『二人だけの秘密』という空気に対して、全く納得がいかない者が約一名(一柱)、タクトの肩のあたりで激しく主張を始めていた。 フォルテ:「……いやいやいや! ちょお待ちぃ!」 小さな女神フォルテが、空中で短い腕を組み、プクッと頬を膨らませた。 フォルテ:「二人だけの秘密ちゃうやろ! うちも一部始終、全部見とったし知っとるやん! 共犯者は三人や!」 タクト:「……声が大きい」 フォルテ:「大きいも小さいもあるかいな! そもそも、あの恐ろしい大鉱脈が東方魔王領に直結しとるって知っとるんは、うちも同じやろ! なんでうちだけ蚊帳の外なんよ!」 タクト:「分かったから。 今はバレないように黙っててくれ」 タクトは、口をほとんど動かさずに腹話術のような小声でフォルテを制止した。 フォルテ:「なんでうちが黙らなあかんのよ! そもそも、その横の可愛い子には、うちの神聖な姿も美しい声も――」 フォルテは、そこでハッと気づいたように言葉を切った。 そう、凪には自分の姿は見えず、声も一切届いていない。 タクトが彼女の存在を秘密にしている以上、フォルテからはこの理不尽な状況を説明することもできないのだ。 フォルテ:(……あかん。 これ、うちだけが世界の真実(ヤバさ)を知っとるのに、誰にも信じてもらえへん、一番不憫(ふびん)なポジションのやつやん……) 小さな女神が、あまりの理不尽さに空中で膝を抱える。 タクトは、そんなフォルテの方を見ないまま、呆(あき)れたように小さく呟(つぶや)いた。 タクト:「……ほんと、相談役(ナビキャラ)なのに、嫉妬(しっと)とかの人間臭い設定まで細かいな」 フォルテ:「せやから設定ちゃうわぁぁぁっ!」 フォルテの魂のツッコミは、またしてもタクトの鼓膜にだけ空しく響いた。 凪:「……タクトくん?」 ふと、凪が小首を傾(かし)げた。 タクトが誰もいない空間へ向かって、ブツブツと小声で返事をしていることに気づいたのだ。 タクト:「……ん?」 凪:「さっきから、誰とお話ししているの?」 タクトは、一瞬だけ動きを止め――やがて、隠すことでもないかと素直に口を開いた。 タクト:「……ああ。 相談役だよ」 凪:「相談役?」 タクト:「……ああ、さっきの女神と話してたんだよ」 凪:「…………そうなのね」 凪は、静かに、ゆっくりと頷いた。 その美しい笑顔は、寸分たりとも崩れていない。 しかし、その豊満な胸の内では、新たな、そして極めて危険な『警戒心』の警鐘がガンガンと鳴り響いていた。 凪:(……タクトくんにしか見えない、女神様) 凪の瞳の奥に、氷のように冷たくてドロリとした暗い光が宿る。 凪:(私の全く知らないところで、タクトくんの心を許す相談相手(メス)が、いつの間にか増えてしまったのね……) フォルテは、そのヤンデレ的な嫉妬の標的にされていることを知らない。 タクトも、凪の心の中で恐るべき独占欲が鎌首をもたげていることを知らない。 それぞれが、全く別のベクトルの事情と勘違いを抱えたまま、同じ道を並んで歩いていた。 タクトは、歩きながらもう一度、作業着の奥深いポケットの中をそっと指先で確かめた。 報告用の小指サイズのサンプルは、すでに受付へ提出し、大きな騒動の火種となった。 労働の汗が染み込んだその布地の奥で――彼の左ポケットの底には、臨時ボーナスとしてくすねた『米粒ほどのオリハルコンの欠片』が、誰にも見つかることなく静かに息を潜めている。 タクト:(……まあ、いい。 あの大鉱脈と魔王領の看板のことさえ知られなければ、なんとか平穏にやり過ごせるだろう) タクトは、極めて小市民的な打算で結論づけた。 タクト:(この小さな欠片くらいなら、記念品として持っていても全く問題ないはずだ) 自分に都合よく言い聞かせるように、タクトは小さく、力強く頷いた。 タクト:「……よし。 今日も定時退勤を目指して、仕事を頑張る(サボり環境を整える)ぞ」 凪:「ええ、タクトくん。 一緒に頑張りましょうね」 フォルテ:「いや、頑張る方向が根本的に間違っとるやろ……」 三者三様の声が、朝の光に照らされた深層エリアの空気に溶けていく。 こうして――。 採掘管理所では、タクトの嘘を信じ込んだ職員たちによる『一般区画の歴史的大規模調査計画』が、熱狂とともに動き始めた。 タクトと凪の間には、『二人だけの甘い秘密(共犯関係)』が生まれたことになった。 そしてフォルテは、たった一人、すべての恐るべき真相を知りながら、誰にも信じてもらえない不憫な相談役となっていた。 事なかれ主義の採掘士が仕掛けた、世界を巻き込む盛大なピタゴラスイッチ。 ――次の大騒動(ドミノ)が倒れるまで、あと少し。 黒狼館の応接室には、静かで重厚な空気が満ちていた。 天井から吊るされた魔石のシャンデリアが、琥珀(こはく)色の柔らかな光を落としている。 塵(ちり)一つなく磨き上げられた巨大な木製のテーブルを挟んで、氷室 怜(ひむろ れい)、藤堂 葵(とうどう あおい)、斎藤 一(さいとう はじめ)、結城 静(ゆうき しずか)、近藤 勇(こんどう いさむ)、瀬川 瑠夏(せがわ るか)、桜坂 咲(さくらざか さき)の七人と、南王国軍のダッシュ将軍が席についていた。 王都を脱して三日三晩。 追手と魔獣に怯(おび)えながら原生林を抜けた彼らは、ここ黒狼館で温かい食事とまともな眠りを与えられ、ようやく人間の顔色を取り戻していた。 そして今日、泥と血にまみれた逃亡者だった彼らは、自らの進路について『正式な面談』を申し出たのだ。 上座にはフルート。 その隣に、分厚い書類を抱えたハーモニカ。 壁際ではメイド服のカスタネットがハーブティーを整え、チェロが身の丈ほどもある黒い鎌を傍らに、彫像のように立っていた。 氷室:「フルート殿。 俺たちの今後について、相談させてください」 氷室が居住まいを正すと、フルートは静かな夜の湖面のような声で応じた。 フルート:「承りました。 どうぞ」 氷室:「俺たちは、もう南王国へは戻れません。 ただ、安全な場所で匿(かくま)ってもらうだけではなく……この力を役立てられる仕事があるなら、ここで働かせてほしいんです」 氷室の言葉に、ダッシュ将軍も重々しく頷(うなず)いた。 ダッシュ将軍:「私も同じだ。 命令に縛られるのではなく、自分の意志で働ける場所を探したい」 藤堂:「条件は、あまり多くありません」 藤堂が付け加える。 藤堂:「何のために戦うのか、事前に説明してほしい。 それだけです」 そこへ、近藤が身を乗り出した。 近藤:「あと、できれば毎日温かい飯が食えて、夜はふかふかのベッドで寝られるところがいい! 徹夜の行軍はもう嫌だ!」 桜坂:「……睡眠不足は、お肌にも精神にも悪いですしね」 桜坂がしみじみ頷く。 桜坂:「なんだか、就職面接みたいになってきましたね」 ハーモニカ:「就職面接ですので」 書類から目も上げず、ハーモニカが即答した。 桜坂:「…………そうでした」 一瞬の間のあと、近藤が吹き出し、何人かが小さく笑った。 王都を出てから初めての、人間らしい笑い声だった。 フルートは紅い瞳で八人を一人ずつ見つめ、慈母のように微笑んだ。 フルート:「承知しました。 まずは皆様の能力と経験を伺い、適性を確認させてください」 ◇ ハーモニカが羽ペンを走らせながら、ヒアリングを進めていく。 氷室は状況分析と戦術判断。 藤堂は全体の調整と指揮補佐。 斎藤と近藤は前衛での近接戦闘。 結城は治癒魔法。 瀬川は弓と広域索敵。 桜坂は攻撃魔法と防御障壁。 ダッシュ将軍は実戦指揮と部隊運用。 ハーモニカ:「役割分担が非常に明確ですね。 適材適所で配置できます」 満足そうに眼鏡の奥の目を細めたハーモニカは、羊皮紙に何か数字を書き込み——ほんの一瞬だけ、口元を緩めた。 ハーモニカ:(この八人なら……タクト様の睡眠時間を、あと十%は確保できますね) その思惑は、誰にも気づかれなかった。 ◇ ハーモニカ:「それでは、仮採用の条件をご説明します。 すべて書面で提示し、双方の合意をもって署名していただきます」 ハーモニカが、数枚の羊皮紙を並べた。 勤務時間。 必須の休息時間。 休日。 基本給与と、任務ごとの危険手当。 負傷時と休職時の補償。 氷室は、ゆっくりと文字を追った。 氷室:「……任務の危険性も、事前に書いてあるのか」 藤堂が、信じられないものを見る目で呟く。 ハーモニカ:「当然です。 危険を伴う任務には、事前の情報開示と物資の準備が不可欠ですから」 結城:「休息時間まで、ちゃんと決まっているんですね」 結城が、そっと顔を上げた。 そこへ、カスタネットがカップを置きながら微笑んだ。 カスタネット:「治療を担当する方こそ、よく休まなくてはいけませんわ。 誰かを助ける優しい方が、すり減ってしまっては困りますもの」 結城:「…………」 結城は返す言葉を失い、膝の上で手を握りしめたまま、小さく俯(うつむ)いた。 氷室の視線は、契約書の最後の項目で止まった。 【撤退基準】 任務の継続が損耗に見合わないと判断された場合、指揮官は撤退を命じなければならない。 撤退は命令違反ではない。 氷室は、その二行を、もう一度読んだ。 王都で受けてきたのは、理由を聞かれることなく 「勇者だから」 と放り込まれる訓練と、死ぬまで続く命令だった。 仲間を一人でも多く生きて帰すために、彼はずっと一人で考えてきたのだ。 氷室:「……撤退しても、命令違反にはならないのですか?」 ハーモニカ:「当然です」 ハーモニカは、なぜそんな当たり前のことを聞くのかと言いたげに、眼鏡を押し上げた。 ハーモニカ:「任務の継続が損耗に見合わない場合、撤退は指揮官の責務ですから」 氷室:「…………そう、ですか」 氷室は、契約書に目を落とした。 もう一度、撤退基準の項目を読む。 これは、誰かの恩情ではない。 最初から、労働条件として書かれている。 全員を生きて帰すことが、この組織では 「規則」 として認められているのだ。 視界が、ふいに滲(にじ)んだ。 張り詰めていたものが、音もなく崩れていく。 氷室は、顔を上げないまま、ただ静かに息を吐いた。 藤堂が、何も言わずに隣でそっと目元を拭った。 誰も、それを見ないふりをして、湯気の立つハーブティーに手を伸ばした。 ◇ 湿っぽくなった空気を切るように、壁際のチェロが一歩前に進み出た。 チェロ:「……訓練場。 必要」 手には、いつの間にか一枚の図面があった。 チェロ:「……作った。 仮案」 ダッシュ将軍:「もう設計したのか!?」 ダッシュ将軍が目を丸くする。 図面には、模擬戦用の安全区画、衝撃吸収の防御設備、弓の専用射撃場、結界で守られた魔法訓練区域が、無駄のない線で描かれていた。 瀬川:「弓の射撃場まである……」 瀬川が小さく息を呑む。 チェロ:「……怪我、ダメだから。 危なくならないように作る」 近藤:「……なんでもできるな、この子」 近藤が感心したところへ、チェロは壁に立てかけた巨大な黒い鎌へ、ちらりと視線を向けた。 チェロ:「……実技、見る。 必要なら、模擬戦」 近藤:「も、模擬戦……? あの、手加減は、してくれるんだよな……?」 近藤の声が震える。 チェロ:「……する」 ほっと息を吐きかけた全員の前で、チェロは数秒、絶妙な間を置いた。 チェロ:「……たぶん」 近藤:「たぶんは困るんだよ!!」 近藤の悲鳴が、優雅な応接室に響き渡った。 フルート:「チェロ、いけません。 皆様は逃避行を終えたばかりの大切なお客様です。 実技は、体調が戻ってから段階的に行います」 フルートの制止に、チェロはひどく残念そうに頷く。 氷室は、ハーブティーをすすりながら遠い目をした。 氷室:(待遇は最高にホワイトだけど、実技試験の担当官だけは、かなり怖いな……) ◇ フルート:「では、皆様を東方魔王軍『最高安全衛生・警備部門』の候補者として、仮採用いたします」 フルートの宣言に、八人は揃って深く頭を下げた。 桜坂:「最高安全衛生……?」 桜坂:「なんだか、すごくちゃんとしてそう……」 桜坂が呟き、近藤が笑った。 フルート:「初期研修の後、皆様には非常に重要な『保護対象』の生活圏を守る、特別警備に就いていただく可能性があります。 詳細は、正式な配置が決まった段階で」 氷室:「重要な保護対象……ですか」 氷室の背筋が、自然と伸びた。 その時、チェロがぽつりと口を開いた。 チェロ:「……閣下の——」 スッ、と。 フルートとハーモニカの冷たい視線が、同時にチェロを射抜く。 チェロ:「……重要人物の警備。 やりがいが、ある」 フルート:「ええ。 その理解で結構です」 フルートが何食わぬ顔で微笑む。 氷室:(……何か、口にできない事情があるらしいな) 氷室は、真面目にそう解釈した。 氷室:(東方魔王軍が直々に保護する極秘の要人……亡命した王族か、他国の重要人物か。 それほどの対象が、この地に隠れ住んでいるのか) まさか、その最重要保護対象が、北方鉱山で泥にまみれながら 「定時退勤」 だけを目指している同級生だとは、夢にも思わない。 氷室たちが藤堂の案内で客室へ退室した後、応接室にはフルートたち四人だけが残った。 フルートの紅い瞳に、静かで揺るぎない光が宿る。 フルート:「彼らを、外周警備要員として組み込みます。 タクト様の『完全なる定時退勤』を妨げる一切の不確定要因を、事前に、物理的に排除できる体制を整えるのです」 ハーモニカ:「睡眠時間は、さらに十%向上するはずです」 ハーモニカが眼鏡を光らせる。 チェロ:「……閣下を、何が何でも守る」 チェロが拳を握り、カスタネットは両手を組んで微笑んだ。 カスタネット:「柔らかいベッドと温かいスープの準備は、すでに進めておりますわ」 氷室たちは知らない。 ようやく手に入れた 「人間としての再出発」 の職場が、実は『元魔王の定時退勤を守るための警備部隊』として着々と整えられつつあることを。 その頃、夕暮れの北方鉱山で——。 タクト:「よしっ! 今日のノルマ完了! 新しいスキルで秒で終わったし、臨時ボーナスもあるし、最高の一日だったな!」 事なかれ主義の元魔王は、世界的な大騒動の引き金を引いたことも、自分の知らないところで警備部隊が編成されつつあることも、微塵も気づかず。 今日も意気揚々と、愛する定時退勤の帰路へ就こうとしていた。 北方鉱山の深層エリア。 頭上の強固な岩盤に守られた地下空間には、今日も人工的な魔導ランプの光が規則正しく並び、昼も夜も変わらぬ冷たい空気を漂わせている。 タクト:「……いや、本当に今日は疲れた」 タクトは、まだ午後の陽射しが地表を照らしているであろう時間帯に、首の後ろに手を当てて深く、重い溜息(ためいき)を吐き出した。 新技能《ノック採掘・極》の圧倒的な性能のおかげで、本日の採掘ノルマ自体は午前中のうちに秒で終わっていた。 肉体的な疲労は、ほぼゼロに等しい。 問題は、その後であった。 タクト:「採掘自体は一瞬で終わったのに、あの管理所での報告と嘘の言い訳のほうが、よっぽど精神力を削られたぞ……」 タクトの脳裏に、数時間前の光景が鮮明にフラッシュバックする。 一撃で穿(うが)ってしまった、未知のトンネル。 その奥に群生していた、七色に輝くオリハルコンの大鉱脈。 ご丁寧に赤字で書かれていた『東方魔王領・不法侵入者はお掃除対象』の物騒な看板。 そして、その事実を隠蔽(いんぺい)するために放った苦し紛れの嘘が引き起こした、管理所での狂乱と大規模調査計画の発足。 タクト:「……明日、血気盛んな調査隊が一般区画を大挙して調べに来たりしないよな……?」 タクトが何よりも恐れているのは、魔王軍の報復でも世界の危機でもなく、まさにその『余計な業務の発生』であった。 タクト:「せっかくノルマを早く終わらせる完璧なサボり環境を作ったのに、明日から『第一発見者のシキさん、調査補助をお願いします!』とか言って残業させられたら、何の意味もないぞ。 最悪だ……」 タクトの事なかれ主義なアンテナは、迫り来る『無限残業』の足音に怯(おび)え、絶えず警鐘を鳴らし続けていたのだ。 凪:「大丈夫よ、タクトくん。 きっと、なんとかなるわ」 隣を歩く凪(なぎ)が、そんなタクトの不安を優しく包み込むように、春風のような微笑みを向けた。 タクト:「……凪の言ってくれる『きっと』が、今の俺には一番怖いんだけど」 タクトが引き攣(つ)った笑いを浮かべても、凪はただ極上の笑顔を保つだけで、それ以上の詳しい説明はしなかった。 彼女の奥底には、世界の事象をねじ曲げる規格外の能力《ギャンブル》LV999が眠っている。 タクトの『平穏に定時退勤したい』という願いが心からの本物であるなら、彼女は無意識のうちに世界の確率を操作し、彼に煩わしい調査業務が一切降りかからないよう、事象を書き換えてしまう(例えば、調査隊が急な腹痛で全滅する、別の場所で別の騒動が起きて調査が中止になる等)可能性が極めて高かった。 しかし、凪はその恐るべき能力の秘密を、愛しいタクトに打ち明けるつもりは毛頭ない。 凪:(タクトくんが心から望んでいるのは、誰にも脅かされない平穏な採掘生活。 余計な調査で時間を奪われず、今日も、明日も、気持ちよく定時で帰れること) 凪の朝露のように澄んだ瞳に、深く、昏(くら)い愛情の光が揺れる。 凪:(そのささやかな願いを、私がすべて守ってあげるわ。 ……ふふっ、私達、秘密を共有した共犯者ですものね) 凪は、己の中で完璧に完結した幸福感に浸りながら、タクトの足並みにぴったりと寄り添って歩き続けた。 一方、そんな甘い共犯関係の空気とは全く別の次元で――。 タクトの肩のすぐ近くには、30センチの小さな女神――フォルテが、空中で短い腕を組んでぷかぷかと浮かんでいた。 フォルテ:「……なあ、タクト」 タクト:「ん?」 フォルテ:「あのオリハルコンの大鉱脈のこと、ほんまにこのまま最後まで黙っとくつもりなん?」 タクト:「……フォルテ、まだその話をするのか」 タクトは、心底うんざりしたように肩をすくめた。 フォルテ:「するに決まっとるやろ!」 フォルテの頭上の光輪が、怒りでカッと発光する。 フォルテ:「あそこは本物の東方魔王領の境界なんよ! あんな世界を揺るがす大鉱脈の場所を隠蔽して、あまつさえ『一般区画で見つけた』なんて適当な嘘をついてしもうたら、あとで絶対にどうしようもない面倒なことになるで!」 タクト:「いや、だからこそ場所を隠してるんだろ」 タクトは、極めて真っ当な論理(と彼自身は信じている)を展開した。 タクト:「あんな厄介事の真ん中を見つけたと正直に言ったら、明日から毎日調査に駆り出されて、定時退勤どころじゃなくなる。 俺は自分の生活(スローライフ)を守るために、最善の選択をしたんだ」 フォルテ:「論点が逆やぁぁぁっ!! 世界の危機より自分の定時を優先すな!」 フォルテは、空中で激しく自らのプラチナゴールドの髪を掻きむしり、絶望的に頭を抱えた。 フォルテ:(あかん……。 この人、自分のしでかした嘘がどれほどの連鎖(ピタゴラスイッチ)を生むか、ほんまに一ミリも分かっとらん) 元最高神の深遠な憂鬱(ゆううつ)など知る由もなく、タクトはわーわーと騒ぐフォルテを見て、やれやれとため息をついた。 タクト:「……なぁ。 スキル説明に書いてあった『相談役』って、もっとこう、主人の心を優しく癒やしてくれる便利なマスコットじゃなかったっけ? なんでそんなに厳しいんだよ」 フォルテ:「誰のせいやと思っとるんよ! あんたがポンポン爆弾の導火線に火をつけて回るからやろ!」 タクトは、涙目で抗議するフォルテの声を心地よいBGMとして聞き流しながら、ふと足を止めた。 視線の先には、深層エリアの労働者に提供されている『職員用の共同温泉施設』が、大きな湯気を上げている。 タクト:(……まあ、いい。 とりあえず今日の仕事はもう完全に終わったんだ。 これ以上、ややこしいことを考えるのはやめよう) タクト:(疲れた体を温泉でゆっくり癒やして、帰って、ふかふかのベッドで寝る。 それが底辺労働者にとっての一番の幸せだ) 進路を宿舎から湯屋へと切り替え、タクトは足取りも軽く歩き出した。 ――その、半歩後ろを。 当然のような顔で、凪が一緒に歩き出したことに、彼はまだ気づいていなかった。 ◇ 採掘管理所での騒ぎを離れて湯屋へ向かう頃には、深層エリアにも夕闇の気配が濃くなっていた。 魔導ランプが、ポツリポツリとオレンジ色の灯りをともしていく。 半歩後ろを歩いていた凪(なぎ)は、何食わぬ顔でタクトの隣へと並んだ。 凪:「タクトくんも、お風呂へ行くところだったのね」 タクト:「…………え?」 すぐ隣から聞こえた声に、タクトはようやく凪の存在に気づいた。 振り返ると、湯着の入った竹籠を抱えた凪が、ごく自然な笑顔でそこにいた。 凪:「奇遇ね。 私も、ちょうど温泉へ行こうと思っていたの」 タクト:「……今日も、ぴったりだな」 凪:「ふふっ。 今日一日頑張ったご褒美に、一緒にゆっくりしましょう?」 その一言で、タクトの脳裏に、背筋を凍らせる過去の『混浴騒動』の記憶がフラッシュバックした。 偶然のはずなのに、なぜか何度も同じ時間、同じ浴槽に現れる幼馴染(おさななじみ)。 時間をずらして逃げても、不自然なほど距離を取っても、なぜか最後にはバッタリと遭遇してしまう――あの、逃れられない運命(ホラー)の記憶。 タクト:(うあ……。 そこは 「偶然」 で押し通したうえで、さらに 「一緒に」 って誘ってくるのかよ……!) タクトの心臓が、嫌な汗とともに早鐘を打ち始めた。 タクトの表情がこわばったのを見て、凪は少しだけ悲しそうに小首を傾(かし)げた。 凪:「……駄目かしら?」 その声は、どこまでも穏やかで優しかった。 決して無理強いをするような強引な響きはない。 ただ、彼女にとっては、今日という日が特別な意味を持っていたのだ。 凪:(今日はいろいろなことがあったもの。 タクトくんの秘密を共有して、こうして同じ職場から一緒に帰るようになって……。 だから、少しだけ、一緒にゆっくり過ごしたいわ) 凪の朝露のように澄んだ瞳が、静かにタクトを射抜く。 凪:(タクトくんと、誰にも邪魔されない場所で、二人きりで……) その願いは、彼女にとって純白なまでに純粋なものであった。 ただし、その『純粋さの強度と重さ』が、普通の人間の尺度から完全に外れてしまっているだけで。 タクトは、冷や汗を流しながら、頭の中で必死に断る理由を検索し始めた。 タクト:(……いや、待て。 仕事終わりに温泉に入って疲れを取るのは最高だけど、凪さんと一緒に入るのはリスクが高すぎる。 ……いや、待て待て。 あそこはあくまで『共同温泉』なんだから、誰がいつ入ろうと自由だ。 俺から『一緒に入るのは嫌だ』なんて明確に断る正当な理由もない……) 断れば角が立つ。 だが、了承すればあの恐るべきエンカウント率の渦中に自ら飛び込むことになる。 思考の迷路に陥ったタクトは、ふと、自分の胸ポケットのあたりを飛んでいる『自分にしか見えない便利な存在』を思い出した。 タクト:「……フォルテ。 頼れる相談役として、何か意見はないか?」 タクトは、凪に聞こえないよう、口の端だけを動かして小声で助けを求めた。 フォルテ:「あるに決まっとるやろ!」 待っていましたとばかりに、小さな女神フォルテがタクトの肩の前へ勢いよく飛び出してきた。 フォルテ:「無理して付き合う必要なんかないんよ! 仕事が終わった後の時間は、労働者たるあんたの自由や! 断る権利はちゃんとあるし、一人でゆっくり休みたいなら、堂々とそう言えばええ!」 タクト:「……やっぱり、そうだよな」 タクトは、常識的な正論に深く頷(うなず)いた。 フォルテ:「せや! そもそも、大鉱脈の秘密を共有したからって、その勢いで温泉まで付き合わなあかん理由にはならへん!」 フォルテは、小さな胸を張って力強く請け負った。 フォルテ:「ここは、自分の意思をしっかり相手に伝えるんや! 相談役として、うちはあんたの定時後のプライベートを全力で支持するで!」 タクト:「……ありがとう。 やっぱり、お前みたいな相談役を召喚してよかったよ」 フォルテ:「ふっふっふ! ようやく、うちの真の価値が分かったようやな!」 フォルテは、頭上の光輪(ヘイロー)を誇らしげに輝かせ、これ以上ないほどのドヤ顔を浮かべた。 ここまでは、フォルテも完全にタクトの味方であった。 元最高神としての威厳と正論で、主(あるじ)の平穏な時間を守り抜く気で満ちていたのだ。 しかし――。 次の瞬間、フォルテは空中でふと振り返り――タクトの隣で微笑む凪の顔を、初めて真正面から見据えることになった。 ◇ 凪:「タクトくん? フォルテさんと相談しているの?」 ふと、凪(なぎ)が小首を傾(かし)げた。 タクトが肩口の空間へ向かって、こそこそと小声でやり取りをしているのに気づいたのだ。 タクト:「まあ……ちょっとな」 タクトが誤魔化すように視線を逸らすと、凪は 「そう」 と短く応じ、いつもの優雅で完璧な笑顔を浮かべた。 凪:「無理にとは言わないわ。 ただ……今日は、タクトくんといろいろな秘密を共有できた特別な日だから。 二人きりでゆっくり過ごせると思って、ずっと楽しみにしていたの」 その真っ直ぐで健気(けなげ)な言葉に、タクトは少しだけ気まずそうに頬を掻いた。 タクト:「……いや、別に、行きたくないって言ってるわけじゃないんだけどさ」 凪:「ええ。 分かっているわ」 凪は、ほんの少しだけ、甘えるように首を傾(かし)げる。 凪:「ただ、せっかく一緒に過ごせる時間ですもの。 できれば、誰にも邪魔されずに、二人でゆっくりしたいわね」 声は、春の陽だまりのように穏やかだった。 笑顔も、絵画から抜け出してきたように可憐(かれん)だった。 しかし――。 フォルテだけは、その言葉を聞いた瞬間、30センチの全身をカチコチに硬直させていた。 フォルテ:(…………え?) 彼女の元最高神としての『神性』が、目の前の可憐な少女の奥底で渦巻く、異常な力の気配を正確に捉えていたのだ。 確率。 可能性。 あり得る未来と、絶対にあり得ないはずの結果。 それらを、まるで手のひらの上のガラス玉のように転がし、己の望む形へと強制的に歪(ゆが)めてしまう、底知れない何か。 フォルテの白い額を、滝のような冷や汗が流れ落ちる。 フォルテ:(……なんや、この子) フォルテ:(ただの人間やない。 魔力の量とかそういう次元の話やなくて、世界を構成する『可能性』そのものに触れるような、異常すぎる気配がある……!) 凪は、ただ純粋に 「タクトと二人きりで過ごしたい」 と願っているだけだ。 彼女本人に、目の前の見えない小さな女神を消し去ろうなどという明確な殺意や悪意はない。 だが、フォルテの神の目には、その常軌を逸した『執念(愛)』の奥に、あまりにも恐ろしい可能性が見えた気がした。 フォルテ:(もし、うちがこの子の望む『タクトとの時間』を邪魔するような存在になったら……) フォルテ:(世界の確率そのものが、うちを『障害物』として排除する方向へ、勝手に転がり始めるんやないか……?) 想像しただけで、背筋の芯から凍りつく。 フォルテ:(いや待て! うちは今、ただの30センチの思念体やぞ! 本体は天上界の底で絶賛封印中! まともな戦闘能力も権能も、ほとんど使えへんのや!) フォルテ:(そんな丸腰の状態で、この子の宇宙規模の独占欲に逆らうんは、自殺行為どころか魂の完全消滅を意味する危険すぎるやろぉぉぉっ!) かくして――。 光と勝利を司る最高神のプライドは、光の速さで大気圏外へと放り投げられた。 タクト:「……フォルテ?」 タクトが、急に空中で石像のように固まった小さな女神を不思議そうに呼んだ。 フォルテ:「…………」 タクト:「おい。 急に黙るなよ。 俺が角を立てずに断るための、いい言い訳を考えてくれてるんだろ?」 フォルテ:「……タクト」 フォルテは、幽鬼のようにゆっくりと振り返った。 タクト:「ん?」 フォルテ:「……今日は、ナギさんと一緒に、仲良く温泉に行った方がええと思う」 タクト:「…………は?」 タクトは、自分の耳を疑った。 フォルテ:「うん。 せっかくこんな可愛い子が誘ってくれとるんやし、絶対に、這(は)ってでも行ってきぃ」 タクト:「いや、お前、さっきは『断る権利がある』って……」 フォルテ:「状況が変わったんよ!」 タクト:「何が!?」 フォルテ:「戦略の抜本的な変更や! 変化する戦局において、命を守るための臨機応変な判断は、軍師にも女神にも絶対に必要なんよ!」 タクト:「……相談役としての確固たる意見が、そんな数秒で簡単に変わるのかよ」 フォルテ:「大事なんは、プロセスやない! 生き残るという結果や!」 フォルテは、タクトの背後へとササッと回り込み、凪から一ミリでも距離を取ろうと必死に身を隠した。 フォルテ:(あかん。 絶対に逆らったらあかん。 この子に、タクトにとって『邪魔な存在』だと思われたら、うちの存在そのものがバグとして世界から消去されてまう……!) フォルテ:(よし。 決めた! ここはナギさん側に完全につく! 全力で媚(こ)びを売る! 絶対に敵対せん!) こうして――。 かつて天上界で絶大な権威を誇り、魔王軍を震え上がらせた光と勝利の女神フォルテシアは、共同温泉へ向かう道すがら、タクト陣営から凪陣営へと華麗なる寝返りを打ったのであった。 タクト:「……お前、ほんとに女神なの?」 あまりにも急な態度の変化に、タクトは呆(あき)れ果てたような半眼を向けた。 フォルテ:「失礼な! 偉大なる女神やからこそ、この状況のヤバさ……ごほんっ、状況判断が極めて正確なんよ!」 タクト:「さっきまで『一人で休みたいならそう言え』って背中を押してくれてたのに?」 フォルテ:「その時点では、断るのが合理的やったんや!」 タクト:「今は?」 フォルテ:「ナギさんの愛に溢(あふ)れるお誘いを謹んでお受けするのが、宇宙で一番合理的なんよ!」 タクト:「……どこが?」 フォルテ:「全部や!」 フォルテは、凪に聞こえない声で、タクトの耳元で必死に訴えかける。 フォルテ:「ええか、タクト。 ナギさんの海よりも深い好意は、余計なことを考えずにありがたーく受け取るんや。 絶対に断ったらあかんで! これは相談役としての、命に関わるガチの忠告や!」 タクト:「……お前、急に俺じゃなくて凪さんの味方になってないか?」 フォルテ:「そ、そんなことあらへん! うちはいつでも中立や、完全無欠の中立!」 フォルテが必死に取り繕(つくろ)った、その瞬間――。 凪が、タクトの肩越しにふわりと視線を向け、天使のようににこりと微笑んだ。 凪:「フォルテさんも、一緒に来られたらいいのにね」 ピシッ、と。 フォルテの小さな身体に、目に見えない亀裂が入る音がした。 フォルテ:(……見えてへん、声も聞こえてへんはずやのに、なんでピンポイントでそんなこと言うんよぉぉぉっ!?) もちろん、凪にはフォルテの姿は見えていない。 ただ、タクトがしきりに『相談役』と話していたことを思い出し、気を利かせて何気なく口にしただけの言葉だった。 しかし、極限状態にあるフォルテの耳には、それが『あなたの存在は完全に把握していますよ。 邪魔をするならどうなるか分かっていますね?』という、神をも殺す死の宣告(サイレント・プレッシャー)のように響いてしまったのだ。 フォルテ:「……あ、ありがたいお誘いやけど、うちはここで大人しく待機しとる! お二人の邪魔は絶対の絶対にせえへんからぁ!」 フォルテは空中で直立不動の姿勢をとり、見えない凪に向かって深々と最敬礼をした。 タクト:「お前、そもそも温泉に入れないだろ。 30センチなんだから溺れるぞ」 タクトの極めて物理的なツッコミに、フォルテは涙目で首を振る。 フォルテ:「そういう次元の問題やないんよ……!」 タクトは、ますます首を傾げるばかりであった。 ◇ タクトは、凪(なぎ)の可憐(かれん)な微笑みを前にして、己の脳細胞をフル稼働させ『断るための完璧な言い訳』を高速で演算し始めた。 タクト:(選択肢A。 急な体調不良を理由に断る) ――却下だ。 今日の採掘は新スキルのおかげで、疲労困憊(こんぱい)どころか絶好調で終わっている。 顔色も悪くないし、嘘だと見抜かれたら、かえって余計な気まずさを生む。 タクト:(選択肢B。 明日の仕事の準備があると言って逃げる) ――これも無理だ。 事前の準備など何もないことは、一緒に帰ってきた凪が一番よく知っている。 宿舎に帰っても、あとは本当に寝るだけだ。 タクト:(選択肢C。 一人でゆっくり休みたいと、正直に伝える) ――……それ自体は、労働者の正当な権利だ。 しかし、今日はオリハルコン騒動で、発見場所を隠蔽(いんぺい)するために彼女に口裏を合わせてもらったばかりだ。 その恩(負い目)がある状態での無碍(むげ)な拒絶は、俺の小市民的な良心がチクチクと痛む。 タクトは、さらに深く思考を潜らせる。 角が立たない断り文句。 自然に話を切り上げるための話題の転換。 あるいは、一目散に逃走するための経路。 あらゆるパターンと可能性を天秤(てんびん)にかけ、シミュレーションを繰り返す。 しかし――。 どれをどう組み合わせても、決定打に欠ける。 どの道を選んでも、最終的には『不自然な行動』として凪に不信感を抱かせ、今後の平穏な労働環境に支障をきたす未来しか見えなかった。 タクトは、いよいよ追い詰められ、最後の望みを託して肩口の空間へ囁(ささや)いた。 タクト:「……フォルテ。 本当の本当に、俺は行った方がいいと思うのか?」 フォルテ:「……思う」 フォルテは、見えない凪の存在に怯(おび)えながら、蚊の鳴くような声で、しかし即答した。 タクト:「お前、さっきまで『俺の自由時間を守る』とか、偉そうに言ってなかったか?」 フォルテ:「守っとるやろ! ナギさんと一緒に楽しく温泉へ行くのも、極めて有意義な『自由時間の使い方』の一つや!」 タクト:「……強引だなぁ。 さっきの正論はどこ行ったんだよ」 フォルテ:「ええから行きぃ! 四の五の言わんと行きぃ! 今日はナギさんの温かいお誘いを素直に受ける。 これが、今のあんたの導き出せる『最適解』や!」 フォルテは、もはやタクトの相談役というより、完全に凪の熱烈な応援団(チアリーダー)と化していた。 フォルテ:(頼むから、今日はナギさんの機嫌を損ねんといてくれ……!) 30センチの女神は、空中で必死に祈りを捧げていた。 フォルテ:(うちは、まだ天上界の底から本体を取り戻す方法も見つけてへんのや! こんなか弱い思念体の状態で、宇宙規模のヤンデレっていう最強最悪の敵を作ってたまるか!) フォルテの自己保身が極まったその時、タクトの脳内でも、ついに最終的な結論が弾き出された。 【演算結果】 ・拒否した場合;恩知らずのレッテルを貼られ、今後の職場の人間関係が致命的に気まずくなる可能性大。 ・承諾した場合;温泉でのエンカウントが確定し、凪との距離がさらに縮まる危険性。 ・逃走した場合;極めて不自然な奇行となり、明日以降の追加説明が必要(面倒くさい)。 ・相談役(頼みの綱)の助言;なぜか完全に凪側へ寝返っており、使い物にならない。 ・最適解;存在しない(解なし)。 タクト:「…………」 すべての逃げ道を塞(ふさ)がれたタクトは、静かに目を閉じた。 凪:「タクトくん?」 返事のないタクトを心配して、凪が顔を覗(のぞ)き込んでくる。 タクト:「……はい。 喜んで、ご一緒させていただきます」 タクトが目を開けた時、その顔からは、すっと一切の感情が抜け落ちていた。 能面のような、完璧な『無』であった。 その返事を聞いた瞬間、凪の表情が、春の花が咲き誇るようにぱっと輝いた。 凪:「ありがとう。 ……とっても嬉しいわ」 心底幸せそうな彼女の笑顔を前に、タクトはどこか遠い異国を見るような目をしながら、力なく頷いた。 タクト:「……うん」 タクト:(……俺の愛すべき自由時間と、平穏なプライベート、どこへ行ったんだろうな) 事なかれ主義の元魔王にとっては、己の休息を守りきれなかった、あまりにも無惨な敗北であった。 一方の凪にとっては、世界で一番好きな人と、誰にも邪魔されずに過ごせる、至上の幸福な時間の始まり。 そして、小さな女神フォルテにとっては――恐ろしいバグ的存在と敵対せずに済んだ、自らの生存を懸けた『命懸けの外交的勝利』であった。 三者三様の、まったく噛み合わない重すぎる感情を乗せて――。 彼らは、夕闇に包まれた共同温泉施設へと向かって歩き出した。 ◇ 初秋の冷たく澄んだ空気が、火照った頬を心地よく撫でていく。 北方鉱山の深層エリア・宿舎群の最上階に新設された、職員用の共同温泉。 その広々とした露天風呂には、豊かな湯をたたえた大きな岩風呂が広がり、乳白色の湯気が夕闇に向けてゆっくりと立ち上っていた。 眼下には鬱蒼(うっそう)とした原生林の樹海が広がり、遠くの山並みは、燃えるような夕暮れの色から深い藍色へと染まり始めている。 タクト:「……はぁ。 極楽だ」 タクトは、熱い湯に肩までどっぷりと浸かり、心底からの深い息を吐き出した。 タクト:(……うん。 温泉自体は文句なしに最高だな) 先ほどの管理所での大騒ぎや、事なかれ主義を貫くための面倒な言い訳の数々が、湯気とともに空へ溶けていくようだった。 凪:「気持ちいいわね、タクトくん」 すぐ隣で、湯着を纏(まと)った凪(なぎ)が、蕩(とろ)けるような声で微笑みかけてきた。 お湯に濡れた黒髪が艶(つや)かしく光り、白磁のような肌が上気してほんのりと桜色に染まっている。 タクト:「そうだな。 これで、明日からの面倒な調査とかで誰にも邪魔されなければ、完璧なんだけど……」 タクトがぼやくと、凪は聖母のように穏やかに微笑んで頷(うなず)いた。 凪:「ふふっ。 邪魔されないように、私も頑張るわ」 タクト:「……いや、そういう意味じゃないんだけど」 タクトは、彼女の言う『頑張る』が、得てして物理的・事象的な排除に直結することを本能で察知し、少しだけ顔を引き攣(つ)らせた。 だが、凪はそれ以上は何も追及しなかった。 ただ、大好きなタクトと同じ温泉に浸かり、同じ美しい夕暮れの景色を眺めている、その事実だけで満たされていたのだ。 凪:(タクトくんが、こうして誰にも脅かされず、ゆっくりと過ごせますように) 凪の瞳の奥で、純粋で、そして底知れぬほどに重い愛情が静かに揺れる。 凪:(そして、できれば……この時間が、ずっとずっと続きますように) 彼女は今、自分の規格外の能力を使って、無理に世界を変えようとしているわけではない。 ただ、タクトの『平穏に過ごしたい』という願いが本物である限り、それを守り、叶えてあげたいと心から願っているだけだった。 一方――。 そんな二人の甘い空気のすぐそばで、30センチの小さな女神フォルテは、周囲の気配を異常なまでに警戒しながら、空中でぷかぷかと浮かんでいた。 フォルテ:(……この子、ほんまに恐ろしいわ) フォルテの額に、見えない冷や汗が浮かぶ。 凪は、ただ微笑んで湯に浸かっているだけだ。 しかし、元最高神であるフォルテの神眼には、その可憐(かれん)な笑顔の奥底でとぐろを巻く、底知れない『執念』の圧力がはっきりと見えていた。 フォルテ:(《ギャンブル》LV999……。 ただ確率を操作するだけやなく、タクトの願いの強さによっては、絶対に不可能な結果すら強引に成立させてしまう、世界法則の特例(バグ)やろ……?) フォルテ:(しかも、本人はタクトのことが宇宙規模で大好きで、二人きりの時間を何よりも大切にしとる) フォルテは、極楽気分で目を閉じているタクトと、彼を熱っぽい目で見つめる凪の横顔を、青ざめた顔で交互に見た。 フォルテ:(……もし、もしやで? うちがこの至福の時間の『邪魔者』やと、この子に認識されたら?) フォルテ:(いや、待て待て。 凪さんが自らの意志で勝手にうちを消そうとするわけやない。 あの能力には、『タクトの本当の願いしか叶えられへん』という絶対の制約があるはずや……) フォルテ:(せやけど! もしタクトが『誰にも邪魔されずに休みたい』と本気で願ったら? いつもうるさく口出しするうちが『邪魔者』としてシステムに認定され、存在をバグとして消去される可能性も、ゼロやない……!) フォルテの顔面から、さぁぁっと血の気が引いていく。 フォルテ:(あかん……。 今日は絶対に、口が裂けても余計なことは言わんとこ。 空気になろう。 完全なる無害なマスコットになろう) 彼女は、タクトの有能な相談役としての使命よりも、自らの存在(命)を守ることを最優先命題として掲げていた。 タクト:「……フォルテ?」 不意に、タクトが怪訝(けげん)そうな声を出した。 フォルテ:「……なんや?」 タクト:「お前、さっきから妙に静かじゃないか?」 フォルテ:「べ、別に?」 タクト:「なんだ? お前だけ温泉に入れないから拗(すね)てるのか?」 タクトの無神経な言葉に、フォルテのアホ毛がピクッと反応した。 フォルテ:「ちゃうわ! うちは神聖なる天上界の女神やぞ! 温泉に入れんくらいでいちいち拗ねるわけ……!」 フォルテが言い返しかけた、その時――。 スッ……と。 凪が、タクトの方へ顔を向け、女神が浮かんでいる虚空のあたりをかすめるように、静かに微笑んだ。 凪:「……どうしたの、タクトくん?」 タクト:「いや、フォルテが……」 タクトは言いかけて、すぐに口を閉じた。 凪には、フォルテの姿も声も一切見えていない。 ここで 「見えない相談役が拗ねている」 などと説明を始めても、話がややこしくなるだけだ。 タクト:「……いや、何でもない。 独り言だ」 凪:「そう?」 凪は追及することなく、ゆっくりと優しく頷いた。 凪:「タクトくんが楽しく過ごせているなら、それでいいわ」 その温かくも底知れない言葉の響きに――。 フォルテは、心臓を鷲掴(わしづか)みにされたような衝撃を受け、完全に沈黙した。 フォルテ:(……あかん。 なんで天上界の最高神の一角やったうちが、たった一人の人間の幼馴染にここまで怯えとるんや) フォルテ:(いや、でも……怖いもんは怖いんよ……! あの笑顔の奥にブラックホールが見えるんよ……!) フォルテは、意を決したように、タクトの耳元へそっと、音もなく近づいた。 フォルテ:「……タクト」 タクト:「ん?」 フォルテ:「……うちは、しばらくナギさんの味方をする」 タクト:「…………は?」 タクトは、思わず素っ頓狂(すっとんきょう)な声を漏らしそうになった。 フォルテ:「ほら、二人でゆっくりする時間も大切やろ? 有能な相談役として、依頼人の幸福を最大限に尊重するんよ!」 タクト:「いや、お前、それ完全に寝返っただろ!?」 タクトが小声で突っ込む。 フォルテ:「寝返ってへん! 厳正かつ中立的な立場を維持し、戦局を分析した結果、ナギさん側に立つのが最も合理的やっただけや!」 タクト:「世間ではそれを寝返ったって言うんだよ!」 フォルテ:「しーっ! 声が大きい!」 フォルテは、慌てて自分の小さな口を両手で押さえ、周囲を窺(うかが)った。 フォルテ:「ええか、タクト。 ナギさんは宇宙一大切にするんや。 無用な争いや反抗は絶対に避ける。 これが、あんたが愛する平穏への一番の近道や!」 タクト:「……なあ。 相談役って、俺の立場に立って親身に相談に乗ってくれる存在じゃなかったっけ?」 フォルテ:「もちろんや! せやからこそ、命を守るための今の『最適解』を教えとるんよ!」 フォルテは、胸を張って言い切った。 タクトは、夜空へ向かって今日一番の深いため息をついた。 タクト:(……やっぱり、このスキル、クーリングオフで返品すればよかったかな) その心の声が漏れ伝わったのか、フォルテのプラチナゴールドのアホ毛が、びくっと激しく跳ねた。 フォルテ:「待ってぇぇぇっ! 返品だけは堪忍してぇぇぇっ!」 タクトの肩口で涙目で命乞いをする小さな女神と、やれやれと肩をすくめる元魔王。 凪は、そんな二人の騒がしいやり取りが全く聞こえないまま――。 ただ大好きなタクトの横顔を見つめ、夕闇に溶ける湯煙の中で、最高に幸せそうに穏やかに微笑んでいた。 ◇ 同じ頃。 琥珀(こはく)色の魔導ランプが揺れる、黒狼館の執務室。 氷室たちが客室で泥のように眠りについている間、四人の幹部は、仮採用に向けた書類を整理していた。 ハーモニカ:「初期研修は、本館の施設警備と周辺の魔獣対処から始めます。 能力と適性を見極めたうえで、正式な配置とシフトを決定します」 ハーモニカが、インクの乾いたばかりの羊皮紙をフルートの前に差し出す。 カスタネット:「皆様の住居と、栄養のあるお食事の準備は整いましたわ。 ずいぶんお疲れのご様子でしたもの」 カスタネットが微笑む。 チェロ:「……明日から、裏庭に訓練場を作る。 木材は、発注した」 チェロが、無表情のままやる気に満ちた声で報告した。 フルート:「迅速な対応に感謝します」 フルートは紅い瞳を細め、静かに頷(うなず)いた。 フルート:(これで、タクト様の生活圏を守る体制が、また一歩整いました) 隣室では、氷室たちが人生で一番深い眠りに落ちている。 目覚めた彼らが、自分たちの守るべき 「重要人物」 の正体を知る日は、まだ少し先のことだった。 ◇ 一方、そんな世界の歯車の回転など露知らず――。 北方鉱山の共同温泉で、タクトは熱い湯に肩までどっぷりと浸かっていた。 タクト:「……明日こそ、今日みたいな余計な騒ぎが起きませんように」 夜空に瞬く星々を見上げ、小市民の切実な祈りを口にする。 凪:「ええ。 きっと大丈夫よ、タクトくん」 隣で、濡れた黒髪を湯に浮かべた凪(なぎ)が、春風のように微笑んだ。 そのすぐ傍(そば)の空中では、30センチの女神が神妙な顔で、深く頷(うなず)いていた。 フォルテ:「……うん。 今日はもう、余計なことをせん方がええ。 逆らわん方がええ。 何事も、平和が一番や」 タクト:「お前、いつからそんな悟りを開いた平和主義者になったんだよ」 ジト目を向けられたフォルテは、遠い夜空を見つめて呟く。 フォルテ:「……神様でもな、生きとるといろいろ学ぶことがあるんよ」 タクトは呆れたように息を吐き、凪はただ隣で、誰にも邪魔されない時間を幸せそうに噛み締めていた。 タクトは、まだ知らない。 自分が 「誰にも関わらず、ただ平穏に働きたい」 と願って動くたびに、周囲が勝手に壮大な勘違いを重ね、世界が少しずつ書き換えられていることを。 そして、頼れる相談役のはずの女神が、今や凪に逆らわないことを最優先の命題に掲げていることも。 彼にとって今日は、ただ 「新しいスキルを手に入れて、なんとか無事に仕事を終えられた」 というだけの、いつも通りの一日だった。 タクト:(……まあ、いい。 今日は、ゆっくり寝よう) 湯煙の向こうの満天の星空を見上げながら、タクトは心の中で、いつもの願いを反芻(はんすう)した。 ――明日も、無事に定時で帰れますように。 第07章『オリハルコンと、解なしの温泉』・了
主題歌 【主題歌】『明日も帰ろう』MV|第07章『オリハルコンと、解なしの温泉』|「東の魔王は、帰りたくない。」 【主題歌】『明日も帰ろう』MV|帰る場所がある。帰りたい仲間がいる。だから、明日も笑って歩き出せる。|『東の魔王は、帰りたくない。』
あらすじ タクトは北方鉱山の深層エリアで働く見返りとして与えられた、五十畳もの豪奢な居室とドバイ仕様のキングサイズベッドで目覚める。 以前の埃っぽい狭い住環境とは比較にならない快適さに満足し、危険手当や待遇の向上も含め、採掘ノルマを効率よく終えて自由時間を確保しようと決意する。 しかし隣には、夜間警備と空間拡張の維持を理由に、フルートが寝ていた。 タクトは添い寝を警備業務だと言い張る彼女へ冷静に疑問を呈するが、彼女の少女らしい期待には気づかず、徹夜で働いた彼女を労わって「そのまま寝ていていい」と優しく声をかける。 フルートは、寝顔を見たタクトに照れたり喜んだりしてほしかったため一度は落胆する。 それでも、自分の疲労を気遣うタクトの慈悲深さに胸を打たれ、今後も彼の傍にいられる機会を求めようと静かに決意する。 部屋には前日までなかったサイドテーブルが置かれており、チェロが姿を現す。 黒狼館の幹部たちは、タクトの生活をより快適かつ安全に整えるため、家具や設備、警備体制などを着々と拡充している。 その後、タクトは新たなスキルや周囲の過剰な配慮によって、意図せず人々を巻き込みながらも仕事を終える。 彼はただ危険を避け、平穏に採掘して定時で帰りたいだけだが、周囲は彼の言動を魔王としての深謀遠慮や絶対的な意思として受け取ってしまう。 夜、タクトは凪と共同温泉に浸かる。 凪は誰にも邪魔されずにタクトと過ごせることを穏やかに喜び、その傍では相談役の女神フォルテが凪を恐れていた。 凪がタクトとの時間を邪魔されたくないと本気で望めば、自分のような存在すら不要なバグとして消されかねないと考えたためである。 フォルテは余計な口出しをせず、無害な存在として振る舞うことを決める。 タクトが彼女の異様な静けさを訝しみ、温泉に入れないことを拗ねているのかと尋ねると、フォルテは反発しかけるが、凪の静かな笑顔に圧倒されて沈黙する。 凪にはフォルテの姿も声も見えないため、タクトは彼女の存在を説明せず独り言としてごまかす。 凪は追及せず、タクトが楽しく過ごせているならよいと微笑むが、その優しさの奥にある底知れなさを感じ取ったフォルテは、完全に凪へ従う方針を固める。 フォルテはタクトに、しばらく凪の味方をすると宣言する。 二人きりの時間を尊重することが依頼人であるタクトの幸福につながると主張するが、実際には凪に逆らう恐怖からの寝返りであり、タクトは相談役を返品したいとまで考える。 一方、黒狼館ではフルート、ハーモニカ、カスタネット、チェロが、氷室たちの仮採用と受け入れ準備を進めていた。 氷室たちは本館の施設警備や周辺魔獣への対処から研修を始め、住居と食事を与えられ、裏庭には訓練場も建設される予定となる。 幹部たちは氷室たちを、タクトの生活圏を守る戦力として育成しようとしている。 しかし氷室たちは、自分たちが守るべき重要人物がタクトであり、彼が魔王として周囲から畏敬されていることをまだ知らない。 温泉でタクトは、翌日こそ余計な騒ぎが起きず、無事に仕事を終えられるよう願う。 凪はそれを優しく肯定し、フォルテもまた平和が一番だと悟ったように同意するが、その理由は凪への恐怖である。 タクトは、自分が平穏な生活だけを望んで行動するたび、周囲が勝手に勘違いを積み重ね、世界の状況まで変えていることを知らない。 また、頼れるはずの女神フォルテが、彼を助けるより凪に逆らわないことを優先していることにも気づいていない。 彼にとってこの日は、新しいスキルを得て、何とか仕事を終えられた普通の一日である。 タクトは豪華な生活と温泉の安らぎを享受しながら、ただ明日も定時で無事に帰れることを願い、眠りにつこうとする。
解説+感想+採点 1. 解説 第7章『オリハルコンと、解なしの温泉』は、主人公・タクトの「徹底した事なかれ主義・事態の誤解」と、彼を取り巻く女性陣(フルート、チェロ、ハーモニカ、カスタネット、凪、そして女神フォルテ)の「重すぎる愛や思惑」のギャップが全編にわたってコミカルに描かれた回です。 すれ違いの構造(タクトの鈍感力 vs ヒロインたちの情念) タクトは「魔王軍ごっこ」や「ロールプレイ」という都合の良い解釈で、ヒロインたちの過剰な献身や好意をすべてスルーし続けます。 一方、フルートの添い寝警備、チェロの手作り家具、ハーモニカの完璧な栄養管理、カスタネットの手作り焼き菓子、そして凪の現実改変スキル(《ギャンブル》)は、すべてタクトへの本気の執着と愛に基づいており、この「温度差」が本作最大の面白さとなっています。 因果のピタゴラスイッチ(チートの暴走) タクトのささやかな日常の願い(「肉が食べたい」「いい鉱脈が見つかるといいな」)が、凪の《ギャンブル》スキルによって現実の巨大な奇跡(ワイバーン大量供給、オリハルコン大鉱脈の出現)を引き起こすという構造が鮮やかに描かれています。 本人は「ただの幸運」や「王国のホワイトな福利厚生」と誤認しており、保身のための嘘(一般区画での発見)がさらなる大騒動の伏線となっています。 新スキルの覚醒と今後の火種 《完全定時退勤》や《サボり魔の目》といったタクトらしいサボり特化スキルに加え、トラブルメーカー(かつ最強のナビ役)である女神フォルテが加入。さらに氷室たち前勇者パーティーが「東方魔王軍の警備部門」として組織化され始めるなど、物語のスケールが着実に拡大しています。 2. 感想 「勘違いコメディ」のテンポが抜群 タクトの圧倒的な「都合のいい解釈回路」と、ヒロインたちの狂気すれすれのピュアな情念が噛み合わないやり取りが非常に面白く、読んでいてニヤニヤが止まりませんでした。特にタクトが自身のレベル180やステータス異常を「表示バグ」で片付けるシーンは、彼のブレない保身術の極みで笑ってしまいます。 不憫で可愛いキャラクターたち 凪のヤンデレ的な愛の重さと、それを笑顔でサラリと実行している怖さが絶妙です。 新たに加わった女神フォルテが、最初は威張っていたのに凪の気配を察知した途端に「命を守るための最優先事項」として秒で寝返るシーンは、今章一番のハイライトと言っても過言ではないほどコミカルでした。 裏で着々と進む「ホワイト職場化」 氷室たち元勇者パーティーが、図らずも「元魔王の定時退勤を守るための精鋭警備部隊」としてホワイトな労働契約を結んでいく下りも最高です。「撤退基準が明確」「休息時間が保証されている」という社畜共感ポイントを突くギャグの切れ味が鋭く、次回以降彼らが真実を知った時の反応が今から楽しみになります。 3. 採点 総合評価:98点 / 100点 構成力(20/20点): 朝の目覚めから温泉シーン、そして裏で動く旧勇者パーティーの面談まで、シーンの切り替えが非常にスムーズで長編小説として高い完成度を誇っています。 キャラクターの魅力(20/20点): タクトのブレない小市民ぶりと、ヒロインたちの個性的すぎる愛の重さが完璧に表現されています。フォルテのリアクション芸も良いスパイスです。 コメディとプロットの融合(19/20点): タクトの勘違い(ギャグ)が、実は凪の能力(シリアスなチート)によって引き起こされているという構造が巧みで、コメディでありながら物語の縦軸がしっかりと進んでいます。 文章力・読みやすさ(19/20点): 心理描写の緩急や、セリフの間の取り方が素晴らしく、登場人物たちの表情が目に浮かぶような筆致です。 エンタメ度(20/20点): 終始クスッと笑える展開が続き、ページをめくる手が止まらない抜群の面白さでした。減点要素が見当たらないため高得点としています。◀第06章『ブラック勇者の退職(脱走)と、新居への引っ越し』