第1章『東京芝2000mの洗礼と、過去の栄光のパージ』
鳴門の研究室は、秋の深まりとともに少しずつ冷え込み始めていた。

しかし、若葉だけは額にうっすらと汗をかきながら、特製ノートと競馬新聞を交互に睨みつけている。

若葉:「うわぁぁぁ……! いよいよ古馬の頂上決戦、天皇賞・秋や! うちらの財布のライフポイントも、今回は限界ギリギリやで!」

佐倉助手が、淹れたてのコーヒーを神宮寺教授のデスクに置きながら、無機質な声で告げる。

佐倉助手:「若葉さん。 そのガロア運動(右往左往)は、システムのリソース(体力)を無駄に消費するだけです。 ……落ち着いて、静的解析(事前予想)のログを受け取る準備をしてください」
若葉:「だって、今回はメンバーがエグすぎるやん! GⅠ馬がウヨウヨおるし、特上カルビどころか、下手したら一週間もやし炒め生活やで!」
神宮寺教授は、二人のやり取りを微笑ましく見つめながら、マグカップに口をつけた。
神宮寺教授:(……天皇賞・秋。
 東京芝2000mという、ごまかしの効かない絶対的な実力勝負の舞台。 過去にGⅠを勝ったという『栄光のログ』だけでは、この極限のランタイムは生き残れないわ。 求められるのは、現在のコンディションと、この特殊なコースへの完全な適性。 ……今回は、情を捨てて大胆にデバッグ(消去)していく必要があるわね)
神宮寺教授:「さあ、お遊び(アイドリング)はここまでよ」
教授が立ち上がり、真紅のレーザーポインターをホワイトボードに向けた。

神宮寺教授:「天皇賞・秋、第1次スクリーニングを開始するわ。
 ……まずは、過去の実績(スペック)にすがりつき、現在の最適解(アップデート)から取り残された6頭をパージ(消去)するわよ」
若葉がゴクリと生唾を飲み込み、赤ペンを構える。
神宮寺教授:「第一のパージ対象……⑤シャンパンカラー、②エルトンバローズ、⑩ネブラディスクよ」
教授のポインターが、三頭のデータを無慈悲に照射する。
消去;⑤シャンパンカラー 消去;②エルトンバローズ 消去;⑩ネブラディスク
若葉:「えっ!? シャンパンカラーって、NHKマイルC勝ったGⅠ馬やん!」

若葉が目を丸くする。
若葉:「エルトンバローズも毎日王冠勝っとるし、ネブラディスクかて条件戦を圧勝してきた上がり馬やのに、なんで真っ先に切るん?」
神宮寺教授:「過去のGⅠバッジ(勲章)は、東京2000mの通行証にはならないわ」

教授が冷徹に告げる。

神宮寺教授:「シャンパンカラーは、直近のレースで末脚は使えているけれど、着順(出力結果)が全く伴っていない。 2000mへの適性を裏付けるデータも皆無よ。 エルトンバローズもマイル中心の実績で、距離延長に対する適性が不明な上に、出脚が鈍くなっているという深刻なエラーを抱えているわ。 ネブラディスクに至っては、3勝クラスから一気にGⅠという『相手強化』の負荷に耐えられる証拠がないのよ」
若葉:「うーん……。 いくら昔はピカピカの道具でも、今のクエスト(東京2000m)で使えへんのなら、ただのガラクタってコトかぁ」
若葉が、少し寂しそうに三頭の名前にバツ印をつける。
神宮寺教授:「続いて、実績は十分でも『今回の条件』に合致しない三頭です」
佐倉が画面を切り替える。
佐倉助手:「⑧ジュンブロッサム、⑫コスモキュランダ、そして⑪シェイクユアハートです」
消去;⑧ジュンブロッサム 消去;⑫コスモキュランダ 境界線・消去;⑪シェイクユアハート
若葉:「⑫コスモキュランダは皐月賞2着で有馬記念も2着! ⑪シェイクユアハートも札幌記念をレコードで勝っとるやん!」
若葉がノートを確認する。
若葉:「どっちもめっちゃ強いやん! 距離もコースもこなせそうやのに、何がアカンの?」
神宮寺教授:「能力(スペック)は一級品よ。 でも、コスモキュランダは『東京競馬場への適性』という根本的な相性エラーを抱えているわ。 陣営すら東京が向かないと認めているのよ。 ジュンブロッサムも、前走東京2000mで好走したとはいえ、それはリステッド競走での話。 GⅠの一線級を相手にするには、7歳という年齢も含めて裏付けが弱すぎるわ」
教授が、三頭のデータをポインターで示す。
神宮寺教授:「そして、シェイクユアハート。 彼女の芝2000mの能力は素晴らしいけれど、東京競馬場は初遠征よ。 札幌の洋芝でレコードを出したからといって、東京の長い直線で同じ出力(パフォーマンス)が出せる保証はどこにもないの。 ……私たちは、その未知のバグ(不確実性)を許容できないわ」
若葉:「なるほどなぁ……。 どんだけエンジンがデカくても、走る道(コース)に合ってなかったら本来のスピードは出せへんってコトやね」
神宮寺教授:「その通りよ、若葉」
教授は白衣のポケットに両手を忍ばせ、ホワイトボードに残された11頭を見つめた。
神宮寺教授:「GⅡで好走することと、GⅠで勝ち負けすることは、全く別の処理(プロセス)よ。 私たちは今、その残酷な境界線を引いたの」
ホワイトボードには、過酷なパージを生き残った11頭の精鋭たちが残されていた。
神宮寺教授:「さあ、これで最初のノイズ(6頭)はクリアされたわ」
教授が、不敵に微笑む。
神宮寺教授:「ここから先は、さらに過酷な生存競争(サバイバル)になるわよ。 ……次なる階層(第2章)のスクリーニングへ進んでもよろしくて?」
第2章『消えゆく幻影(蜃気楼)と、泥臭い再構築(リペア)』
鳴門の夜海は、深く冷たい秋の静けさに包まれていた。

研究室のブラインドは下ろされ、大型モニターのブルーライトだけが、三人の顔を淡く照らし出している。
若葉は、特製ノートの『天皇賞・秋;第2次消去候補』のページを前に、腕を組んで難しそうな顔をしていた。

若葉:「……なぁ、教授。 第1次スクリーニングでは、過去のGⅠバッジ(勲章)にすがって今のスペックが足りへん馬をパージしたやんか」
若葉が伊達眼鏡をクイッと押し上げる。

若葉:「ほな、次の第2次は『東京2000mの適性』がない子を切っていくんやね?」
佐倉助手が、感情の読み取れない冷ややかな目で若葉を一瞥する。
佐倉助手:「若葉さん。 その推論アルゴリズムは、あまりにも単調(シンプル)すぎます。 ……東京2000mの適性『だけ』で生き残れるほど、天皇賞・秋というシステムは甘くありませんよ」
若葉:「むぐっ……。 せやから、もう一歩踏み込んで『GⅠで勝ち負けできる適性』ってコトやろ? うちかて学習しとるんやで!」
神宮寺教授は、二人のやり取りにクスリと笑いながら、真紅のレーザーポインターを起動した。

神宮寺教授:(……若葉の直感(ヒューリスティクス)も間違ってはいないわ。 でも、今回の天皇賞・秋において最も恐ろしい罠(バグ)は、GⅡやGⅢでの鮮やかな勝利という『幻影(蜃気楼)』よ。 ……条件戦や前哨戦で見せた強さが、そのままGⅠの激流で通用すると思い込むこと。 それこそが、データアナリストが最も陥りやすい致命的なエラーなのよ)
神宮寺教授:「佐倉の言う通りよ、若葉」
教授がポインターで、リストの中から4頭のオブジェクトを照射する。
消去;④レディネス 消去;⑮サクラファレル 消去;⑯ジョバンニ 消去;⑭タガノデュード
神宮寺教授:「まずはこの4頭。 ④レディネス、⑮サクラファレル、⑯ジョバンニ、⑭タガノデュードよ」
教授がホワイトボードに無慈悲なバツ印を書き込む。

若葉:「ええっ!? ジョバンニって、2000mの重賞でめっちゃ安定しとるし、総合評価91点の優等生やん! サクラファレルかて東京2000m勝っとるし、タガノデュードは大阪杯4着やで!?」

若葉が、信じられないというように声を上げる。
神宮寺教授:「ええ。 彼女たちの芝2000mにおける能力(スペック)は素晴らしいわ」
教授が、ポインターの光を冷徹に滑らせる。
神宮寺教授:「でもね。 レディネスはGⅠでの裏付けが全くないし、ジョバンニも最上位のGⅠで勝ち切る能力は未証明よ。 サクラファレルは8枠15番という過酷な環境(アドレス)を与えられ、折り合いにも不安を抱えている。 タガノデュードに至っては、展開に依存しすぎる上に、直前の調教レスポンスにもバグが出ているわ。 ……私たちは、GⅠの一線級を相手にしたときの『不確実性』を許容できないのよ」
若葉:「ううむ……。 いくらGⅡでピカピカの走りを見せとっても、GⅠっていう本番環境(高負荷テスト)で動く保証がないなら、やっぱり組み込めへんのやね」
若葉が、納得したように4頭の名前を線で消す。
神宮寺教授:「そして……次が、今回のスクリーニングで最も判断が分かれる二頭です」
佐倉が、ThinkPadの画面を切り替え、若き才能と経験豊富なベテランのデータを並べる。

佐倉助手:「⑬リアライズシリウス、そして⑨ホウオウビスケッツです」
消去;⑬リアライズシリウス 境界線・消去;⑨ホウオウビスケッツ
若葉:「あ! リアライズシリウスちゃんって、3歳馬やから斤量が56kgでお得な子やんね!」
若葉が赤ペンを握り直す。
若葉:「ホウオウビスケッツちゃんは毎日王冠2着やし、東京2000mの適性はバッチリやろ?」
神宮寺教授は、ふっと妖艶な笑みを浮かべ、真紅のマーカーを振り下ろした。
神宮寺教授:「リアライズシリウスの将来性(ポテンシャル)は認めるわ。 でも、今回は古馬の強豪(完成されたシステム)が相手よ。 斤量差の恩恵だけで、その絶対的な能力差(スペックギャップ)を埋められるとは限らない。 それに、前走の毎日王冠で7着に敗れている事実(エラーログ)は無視できないわ」
若葉:「ほな、ホウオウビスケッツちゃんは? 前走もええ感じやったのに!」
神宮寺教授:「彼女が一番の『劇薬』ね」
教授がポインターで、ホウオウビスケッツの『逃げ』という脚質を丸く囲む。

神宮寺教授:「彼女の東京適性は最高レベルよ。 でも、今回はリアライズシリウスやセイウンハーデスなど、前に位置したい馬(競合プロセス)が複数いるの。 もし序盤から競り合い(パケット衝突)が起きれば、最後の直線でスタミナ(メモリ)を失う危険性が高いわ。 ……単騎逃げが成功すれば残る可能性も十分にあるけれど、この『展開への過度な依存』を、私はリスクとしてパージしたのよ」
若葉:「……なるほど。 どんだけ性能が良うても、周りに邪魔されたら自分の力が出せへんってコトか。 なんか、満員電車でスマホいじられへんみたいなもどかしさやね」
若葉が、ノートの端に満員電車に押しつぶされる馬のイラストを描き込む。

神宮寺教授:「ええ。 これで、17頭のリストから12頭のノイズが取り除かれたわ」
教授は白衣のポケットに両手を忍ばせ、ホワイトボードに輝く残りの5頭を見つめた。

①クロワデュノール ③レガレイラ ⑥セイウンハーデス ⑦マスカレードボール ⑰ダノンデサイル
神宮寺教授:「GⅠの重圧(プレッシャー)に耐え、東京2000mという過酷な舞台で、確かな裏付け(ログ)を持つ真のバケモノたちよ」
教授が、夜の海へ向かって不敵に微笑む。
神宮寺教授:「さあ、この5頭の中から、玉座を手にする『絶対的な管理者(ROOT)』を指名するわよ。 ……次なる階層(第3章)のシミュレーションへ進んでもよろしくて?」
第3章『事実と推測の境界線、そして27.2倍の空白』
夜が深まるにつれ、鳴門の研究室には冷え切った秋の空気が忍び込んでいた。
若葉は、パイプ椅子の上でもぞもぞと身をよじり、お尻のポジションを何度も変えている。

若葉:「あーっ、もう! このパイプ椅子、うちの小説に出てくる通信指揮艦(CIC)の座席みたいに、人間の尻に容赦がなさすぎるわ!」
若葉が、腰をトントンと叩きながら恨めしそうに声を上げた。
若葉:「軍用の家具なら耐久性重視でしゃあないけど、ここは大学の研究室やろ!? クッション材をもう一枚挟むくらいの予算、どっかにないん?」
佐倉助手が、モニターから視線を外さずに冷ややかな声を落とす。
佐倉助手:「若葉さん。 そのパイプ椅子は、あなたが先月、特上カルビの予算を捻出するために勝手にリサイクルショップで買ってきた『訳あり品』です。 ……自分の尻の痛みは、自分の欲望の代償として受け入れてください」
若葉:「うぐっ……! そ、それはそうやけど……」
神宮寺教授は、二人のやり取りにクスリと笑いながら、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップに口をつけた。

芳醇な香りが、冷えた室内にふわりと広がる。
神宮寺教授:「まあまあ。 少なくともこのコーヒーは、トビアス給養班長が淹れた『大地に謝罪したくなるような泥水』じゃないだけマシでしょ?」
教授が、若葉の小説のセリフを引用して悪戯っぽくウインクする。
神宮寺教授:「さあ、お尻の痛み(ノイズ)は忘れて、本業に戻るわよ。 ……ここからは、生き残った5頭の精鋭たちに、馬券という名の最終印(コミット)を打っていくわ」
ホワイトボードには、過酷なスクリーニングを突破した5頭の名前が並んでいる。
①クロワデュノール ③レガレイラ ⑥セイウンハーデス ⑦マスカレードボール ⑰ダノンデサイル
若葉が、痛むお尻をさすりながら伊達眼鏡をクイッと押し上げた。
若葉:「普通に考えたら、昨年の秋天勝ち馬のマスカレードボールか、春のGⅠ連勝しとるクロワデュノールが本命(◎)やんな? どっちもバケモノ級やん!」
神宮寺教授:「若葉。 情報(データ)を扱うとき、一番大切なことは何かしら?」
教授が、真紅のレーザーポインターを指先でクルリと回す。
神宮寺教授:「あなたの小説で、情報班のフェル少尉が言っていたでしょう。 『確認できた事実と、そこから導いた推測は、はっきり分けて話すこと』ってね」
若葉:「……あ! 起きたこと(事実)と、原因の想像(推測)を別の箱に入れるってヤツやね」
佐倉助手:「その通りです」
佐倉が、キーボードを叩いて5頭の『単勝オッズ』をモニターに展開した。
佐倉助手:「クロワデュノールとマスカレードボールが『極めて強い能力を持つ』というのは、揺るぎない事実(ファクト)です。 しかし、彼らが今回も『絶対に無事で、完璧な走りをする』というのは、大衆の願望が混じった推測(オッズ)に過ぎません」
教授が、迷いのない手つきでホワイトボードにマーカーを走らせた。

×(抑え);【7番】マスカレードボール(単勝2.4倍) △(連下);【1番】クロワデュノール(単勝2.5倍)
若葉:「ええええっ!?」
若葉がパイプ椅子から飛び上がり、思わずお尻を押さえて顔を歪める。
若葉:「い、一番強い二頭が、一番下の評価!? なんでなん!?」
神宮寺教授:「配当妙味(リターン)とリスクのバランスが、完全に崩壊しているからよ」
教授が、冷徹な声で宣告する。
神宮寺教授:「マスカレードボールは海外GⅠ(キングジョージ)からの帰国初戦。 道中で力む(暴走する)という未知のバグを抱えているわ。 クロワデュノールも、約4ヶ月半の長期休養明けの上に、C.デムーロ騎手への乗り替わりという環境変化(アップデート)があるの。 ……この強烈な不確実性(リスク)を抱えながら、単勝2倍台という『完璧を前提とした価格』で軸に据えるのは、データアナリストとして三流の投資よ」
若葉が、口をパクパクさせながらノートに視線を落とす。
若葉:「な、なるほど……。 強いのは事実やけど、リスクと値段が釣り合ってへんのやな」
神宮寺教授:「そういうことよ。 だから、能力は認めて相手(ヒモ)には入れるけれど、私たちの絶対的管理者(軸馬)には任命しないわ」
教授はポインターの光を滑らせ、次なる馬を照射した。
▲(単穴);【17番】ダノンデサイル(単勝11.2倍)
若葉:「おっ、ダノンデサイル! GⅠで4連続3着っていう、めっちゃ安定しとる子やね!」
神宮寺教授:「ええ。 直近4戦のGⅠすべてで3着という実績は、彼の基礎能力の堅牢性(バグの少なさ)を証明しているわ」
佐倉がデータを補足する。
佐倉助手:「大阪杯でも同舞台で3着。 ダービー馬でもあります。 能力だけで言えば本命(◎)に値します。 ……しかし、約4ヶ月半の休養明けに加え、8枠17番という過酷なアドレス、そして『右にもたれる』という物理的なエラーを抱えています」
神宮寺教授:「それだけの懸念材料があっても、単勝11.2倍という価格(オッズ)なら、十分にリスクを背負う価値(妙味)があるわ」
教授が、ふわりと楽しげに笑う。

神宮寺教授:「だから、彼には一発逆転のバズーカ(単穴)としての特注印を打ったのよ」
若葉:「ほな、対抗(〇)は……」
若葉が、残る二頭のリストを指差す。
〇(対抗);【3番】レガレイラ(単勝9.8倍)
若葉:「レガレイラちゃんやね! エリザベス女王杯勝っとるし、斤量56kgでお得やん!」
神宮寺教授:「ええ。 彼女の終盤の末脚(ロングスパート)は、GⅠ級のオス馬たちを相手にしても全く引けを取らないわ」
教授が深く頷く。

神宮寺教授:「宝塚記念やオールカマーで敗れているけれど、それは2200mの重馬場という『重すぎる負荷』のせいよ。 良馬場の東京2000mへの条件変更は、彼女のパフォーマンスを最適化する最高のパッチになるわ。 ……単勝9.8倍なら、能力に対して決して売れすぎているわけじゃない」
若葉が、フンフンと頷きながら三色ボールペンでノートに印を書き込んでいく。
若葉:「なるほどなぁ。 実力と値段のバランスがええ子を上に置いとるんやね。 ……あれ? ほな、残った本命(◎)って……」
若葉の視線が、リストの最後に残された一頭の馬名でピタリと止まる。
若葉:「そ、嘘やろ……!?」
神宮寺教授は、ホワイトボードの中央に、ひときわ大きく、美しく、そして狂気を孕んだような筆致で、その印を刻み込んだ。
◎(本命);【6番】セイウンハーデス(単勝27.2倍)
若葉:「な、なんでやねん教授!!」

若葉が、パイプ椅子の硬さも忘れて絶叫する。
若葉:「セイウンハーデスって……7歳やで!? 過去10年の秋天で、7歳馬なんて一頭も勝ってへんって、さっき自分で言うとったやんか!」
神宮寺教授:「ええ。 過去のデータ(統計)だけを見れば、7歳馬は沈黙の艦隊よ」
教授は、全く動じることなく、妖艶な笑みを浮かべたまま振り返った。
神宮寺教授:「でもね、若葉。 フェル少尉の言葉を思い出しなさい。 『過去の傾向』はあくまで推測(ノイズ)。 私たちが信じるべきは、今のこの馬が叩き出している『現在の事実(ファクト)』だけよ」
佐倉が、エンターキーを静かに叩き、セイウンハーデスの最新のステータス画面をモニターに全画面表示させた。

佐倉助手:「確認できた事実を羅列します。 ……2026年、毎日王冠(東京1800m)1着。 走破時計1分45秒5、上がり3ハロン33.5秒。 ……さらに、大阪杯(GⅠ・2000m)5着。 ……調教データのレスポンスは極めて良好、現在の競走状態はピークに達しています」
若葉:「え……」
若葉が、モニターに並んだ無慈悲なまでの好成績(ファクト)に息を呑む。
若葉:「めちゃくちゃ強いやん……。 なんでこんなに走れるん?」
神宮寺教授:「それが、彼の見事な再構築(リペア)の成果よ」
教授がポインターで、単勝『27.2倍』という数字を丸く囲んだ。

神宮寺教授:「大衆は『7歳だから勝てない』という過去の幻想(推測)に囚われて、彼の現在の絶好調(事実)から目を背けている。 その結果生まれたのが、この『27.2倍』という、あまりにも美味しすぎる空白(死角)なのよ」
若葉:「27.2倍の空白……!」
神宮寺教授:「私の狙いは、彼の単騎逃げではないわ」
教授の瞳に、知的な光が鋭く宿る。
神宮寺教授:「ホウオウビスケッツが大逃げを打つ中、彼はその後ろの好位(安全圏)にピタリとつけ、道中のスタミナを極限まで温存する。 そして、直線に入った瞬間に、前の馬を捕らえて抜け出す。 ……毎日王冠で見せたあの完璧な立ち回りを再現できれば、クロワデュノールやマスカレードボールが外から飛んでくる前に、彼が玉座に手をかけている可能性は十分にあるわ」
若葉は、呆然としたまま、ノートの端に『セイウンハーデス=美味しい特上カルビ』と書き殴った。
若葉:「それって……みんなが雑音(ノイズ)やと思うて捨てとった通信記録の中に、フェル少尉とユグくんが『規則正しい空白(チャンス)』を見つけ出したんとおんなじやね!」
神宮寺教授:「ふふっ、その通りよ」
教授が、我が意を得たりとばかりに嬉しそうに微笑む。
神宮寺教授:「私は、人気上位のバケモノたちを過信しない。 最も能力と配当(リターン)のバランスが取れた、この老練なるハッカー(セイウンハーデス)を軸に据えて、馬連と3連複で利益を根こそぎ奪いに行くわ。 ……6番から、3、17、1、7への流し。 これが私の最終解答よ!」
室内に、沈黙が降りた。
それは、作戦室で誰もが答えを出せずに押し黙っていた時のような、重く、しかしどこか心地よい緊張感だった。
若葉:「……でも、教授」
若葉が、ごくりと生唾を飲み込んで尋ねる。
若葉:「もし、ホウオウビスケッツがそのまま逃げ切ってしもうたら? もし、セイウンハーデスが直線で力尽きてしもうたら? ……この馬券、全部紙クズ(バグ)になってまうやん」
神宮寺教授は、デスクの上の冷めたコーヒーを飲み干し、ふっと窓の外の暗闇を見つめた。
神宮寺教授:「その恐怖(バグ)とどう向き合うか。 ……それこそが、ギャンブルという名の学問の最も美しい部分よ」
教授は白衣の襟をすっと正し、凛とした声で告げた。
神宮寺教授:「さあ、この危険な予想(システム)が、現実のターフでどう躍動し、どう砕け散るのか。 ……その究極の命題を語り合うための、最終階層(第4章)のシミュレーションへ進んでもよろしくて?」
第4章『泥水のランタンと、不確実な世界を歩くための設計図』
すっかり夜の闇に包まれた鳴門の研究室。
窓を少しだけ開けると、潮の香りを帯びた秋の冷たい夜風が吹き込み、ブラインドをカラカラと小さく揺らした。
若葉は、特製ノートの真ん中に赤ペンで大きく『◎⑥セイウンハーデス』と書き込み、ふうっと満足げな息を吐き出した。
若葉:「……よぉし! これでうちらのパーティのリーダー(本命)は決まりやね! 単勝27倍の特大ホームラン狙い! でも教授、セイウンハーデスちゃんが、あのバケモノたち(人気馬)に勝つための『必勝パターン』って、具体的にどんな感じなん?」
佐倉助手が、使い込まれたThinkPadのエンターキーをターンッと叩く。
佐倉助手:「それをこれからシミュレーションします。 ……まず大前提として、セイウンハーデスが『大逃げ』を打ったり、逆に『最後方から直線一気』を狙ったりして勝つことは、極めて困難です」
若葉:「えっ!? ほな、どうやって勝つんよ! まっすぐ走って勝てへんのやったら、お手上げやん!?」
若葉が目を白黒させる。
神宮寺教授は、デスクの引き出しから新しいミントタブレットを取り出し、コロコロと手のひらで転がしながら立ち上がった。
神宮寺教授:(……今回の鍵は、ホウオウビスケッツ。 彼が逃げる展開の中で、セイウンハーデスがいかに『無駄なリソース(体力)』を使わずに追走できるか。 ……クロワデュノールやマスカレードボールが最高速に達する前に、自分が先にセーフティーリード(安全圏)を確保して、そのままゴールまで粘り倒す泥臭い戦法よ)
教授が真紅のレーザーポインターを起動し、ホワイトボードに描かれた東京競馬場のコース図を照らす。
神宮寺教授:「勝つための条件は三つ。 第一に、スタート直後にホウオウビスケッツと無理な先頭争い(パケット衝突)をしないこと。 第二に、向正面で平均からやや速めのペースに乗りながらも、自分のリズム(アイドリング)を保つこと。 そして第三に……ここが一番重要よ。 3コーナーから4コーナーにかけて、前との差を『ジワジワと』詰めておくことよ」
若葉:「ジワジワと……? 直線でドカーンって抜かすんやなくて?」
神宮寺教授:「ええ。 東京の直線は長いからこそ、直線に入ってから慌てて進路(ルート)を探しているようでは遅いのよ」
佐倉が、画面に理想的なポジションの推移を示すグラフを投影する。
佐倉助手:「道中は先頭直後から好位で息を潜めます。 そして、レースが動く勝負どころで、ホウオウビスケッツを射程圏に捉える。 そのまま直線に入った瞬間に抜け出し、後続(レガレイラやダノンデサイル)が飛んでくる前に、粘り込みを図る。 ……これが、最も勝率の高いシナリオです」
若葉が、腕を組んでフンフンと頷く。
若葉:「なるほどなぁ! 後ろから凄いスピードで追いかけてくるバケモノたちに、『ほな、お先〜!』って言うて、逃げ切ってまう作戦やね!」
神宮寺教授:「ええ。 でもね、若葉」
教授がポインターの光を止め、少しだけ声のトーンを落とした。
神宮寺教授:「このシナリオ(設計図)は、ちょっとでも条件が狂うと、あっという間に崩壊(クラッシュ)する危ういものなのよ。 ……私たちが最も警戒すべき『失敗シナリオ』は三つあるわ」
若葉:「し、失敗シナリオ……?」
若葉がごくりと生唾を飲み込む。
神宮寺教授:「一つ目は『序盤での消耗(オーバーヒート)』。 ホウオウビスケッツやリアライズシリウスと競り合ってしまい、直線でガス欠を起こすパターンね。 ……二つ目は『超スローペース』。 道中がゆっくりすぎると、みんな体力が有り余って、最後の直線がただの瞬発力(スピード)競争になってしまう。 そうなれば、クロワデュノールたちの末脚の餌食よ」
若葉:「うわぁ……。 速すぎてもアカンし、遅すぎてもアカンのか。 めんどくさいなぁ」
佐倉助手:「そして三つ目が『進路の喪失(バグ)』です」
佐倉が冷徹な声で補足する。
佐倉助手:「いかに道中で完璧に体力を温存しても、最後の直線で前の馬が壁になり、進路が塞がれてしまえば、加速できずに終わります。 GⅠの密集した馬群の中で、ほんのわずかな仕掛けの遅れが致命傷になるのです」
若葉:「……うう。 やっぱりGⅠって、罠がいっぱいのバグ地帯なんやね」
若葉が、ノートに描いたコース図にドクロマークを書き込む。
若葉:「それって、うちの小説の『エリオくん』が、妹に手紙を書くときに何を書けばええか迷うのとおんなじやわ。 ちょっとでも余計なこと書いたら、一発でアウト(泣かれる)なんやから……」
神宮寺教授は、若葉の言葉にハッとしたように目を丸くし、それからふわりと、どこまでも優しく微笑んだ。
神宮寺教授:「……そうね。 本当にその通りよ、若葉」
教授は白衣のポケットに両手を忍ばせ、夜の海が広がる窓の外へと視線を向けた。
神宮寺教授:「エリオくんが妹を安心させるために選んだ『しょっぱいシチュー』という何気ない日常の言葉。 ……競馬の予想(システム)における『軸馬』って、まさにあの手紙の言葉と同じなのよ」
若葉:「手紙の言葉……?」
若葉が不思議そうに首を傾げる。
神宮寺教授:「誰も結果を知らない未知の天皇賞・秋。 そこは、何が起こるか分からない、不確実で、暗くて、恐ろしい世界(ランタイム)よ。 ……私は偉そうに◎(本命)を打ったけれど、本心では『本当にセイウンハーデスは粘り切れるのか』『7歳という年齢の壁に泣くのではないか』って、疑念と恐怖でいっぱいなの」
教授の告白に、研究室がシンと静まり返った。
若葉:「じゃあ……なんで教授は、そんな怖い思いしてまで予想するん?」
若葉が、真剣な眼差しで問いかける。
若葉:「分からへんのやったら、最初から『一番人気のクロワデュノールで堅いやろ!』って言うてもええやんか」
神宮寺教授:「……だって、諦めたくないじゃない」
教授が振り返り、少女のように無邪気な、それでいて研究者としての誇りに満ちた笑顔を見せた。
神宮寺教授:「不確実な暗闇の中で、過去のデータというガラクタ(部品)を拾い集めて、論理という名の『ランタン』を灯す。
 ……それが例え、ゲートが開いた瞬間に突風(イレギュラー)で吹き消されるような儚い灯りだとしても、私たちは自分の頭で考えて、一歩を踏み出さなきゃいけないのよ」
若葉:「……!」
神宮寺教授:「もし私たちの予想(傘)が、レースの激流でバツンと折れ曲がって壊れてしまったとしても」
教授は、若葉の特製ノートを指差した。
神宮寺教授:「外れた理由を都合よく解釈するんじゃなくて、どこが悪かったのかを正確に解析して、次の予想のための部品(リペア)にすればいい。 競馬に『完全な失敗』なんて存在しない。 すべてのハズレ馬券は、未来のシステムをアップデートするための貴重なエラーログ(宝物)なのよ!」
若葉が、感動のあまりノートを胸に抱きしめてプルプルと震える。
若葉:「せやな! 壊れたら直せばええんや! 美味しい特上カルビへの執念がある限り、うちらのクエストは絶対に終わらへんのやから!」
佐倉助手:「若葉さんのモチベーションは、どんな高尚な哲学を並べても、最終的にすべて『食欲』というディレクトリに格納されるのですね」
佐倉が、やれやれと肩をすくめながらノートパソコンを閉じる。
神宮寺教授:「いいじゃない、それが若葉の堅牢なシステム(強み)よ」
教授が、鈴を転がすように軽やかに笑った。
神宮寺教授:「さあ、本日の秘密講義(デバッグ)はこれにて完了よ!」
神宮寺教授は白衣の袖をパサリと翻し、研究室の照明のスイッチへと手を伸ばした。
神宮寺教授:「日曜日、府中の2000メートルで、バケモノたちがどんな美しい軌跡(バグ)を描くのか。 ……私たちの不格好なランタンの灯りが、真実のゴールを照らし出せるかどうか、たっぷりと見届けましょうか!」
カチリ、と心地よい音とともに、鳴門の研究室の明かりが消える。
冷たい夜風はまだ止まない。
しかし、外れる恐怖と戦いながら未来を更新し続ける彼女たちの探求は、決して止まることはないのだ。

『神宮寺教授の秘密講義 天皇賞・秋編(前日仮説)』――完
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