第1章『58秒8と57秒9、ゴールまで息の入らない後半』
鳴門の海から吹きつける夜風が、研究室の窓をカタカタと鳴らしていた。

大型モニターには、確定したばかりの着順表。 その青白い光の中で、若葉は机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。

若葉:「……うちの特上カルビ、今な、府中の芝の上で静かに息を引き取ったわ」
佐倉助手:「焼かれてもいないお肉に、死亡診断書は出せません」
佐倉助手が、がさりと紙袋を机に置いた。
 ほくほくと甘い湯気が立ちのぼる。

佐倉助手:「帰りに八百屋さんで買ってきました。 鳴門金時の焼き芋です。 外れた直後の若葉さんが糖分を欲しがる確率は、過去の観測でほぼ百パーセントですので」
若葉が、むくりと顔を上げた。

若葉:「……佐倉助手。 外れた日に黙って芋をくれる男は、信用してええ男や」
佐倉助手:「一本、二百円です」
若葉:「有料なん!?」
神宮寺教授は、くすくす笑いながら赤いポインターを手に取った。

神宮寺教授:「お会計は後でね。 第174回天皇賞・秋、事後検証を始めるわよ」
教授が、着順表の一番上を指す。

神宮寺教授:「報道では、勝った戸崎騎手がベリーベリーホース!って叫んで、スタンドの7万人が一緒に叫び返したそうよ。 当たった人も、外れた人も、まとめてね。 ……いいわよね、ああいうの」
若葉:「外れた人も叫んどったんやろか」
神宮寺教授:「たぶん、外れた人ほど大きな声でね」
教授が、指を一本立てる。
神宮寺教授:「今夜のルールはひとつ。 起きたこととそこから考えたことは、別の箱に入れて話すこと」
若葉:「事実の箱と、推測の箱やな」
若葉がノートの見開きに、ペンで縦線をすうっと引く。

若葉:「ほな、事実の箱から!」
佐倉助手:「1着は⑰ダノンデサイル、1分56秒7。 2着⑩ネブラディスクに2馬身半差をつけました。 3着は③レガレイラ」
佐倉助手が淡々と読み上げる。

佐倉助手:「ご存じの◎⑥セイウンハーデスは、10着です」
若葉:「ご存じのって言い方やめてや。 傷口に塩やん」
佐倉助手:「勝ち馬から1秒差。 馬身にして、おおよそ5馬身です」
若葉:「塩を塗ったうえに、ちゃんと定規まで当てるやん!」
文句を言いかけた若葉が、ふと自分のノートの印を見返して、ペンを止めた。

若葉:「……あれ? ▲がダノンデサイルで、○がレガレイラやったよな。 1着と3着、うちら印だけは当たっとるやん!」
佐倉助手:「軸だけが空振りでした。 馬券というのは、そういう無慈悲な構造です」
若葉:「◎だけ外して、あとは当たっとるて、いちばん悔しい外れ方ちゃう!?」
神宮寺教授:「ええ。 いちばん勉強になる外れ方よ」
教授が、ぱちりとウインクをした。
神宮寺教授:「さて、本題。 セイウンハーデスはなぜ10着だったのか。 まずはペースから見ましょう。 佐倉くん、お願い」
佐倉助手:「前半1000メートルは58秒8。 ハロンタイムは12秒5、11秒2、11秒0、11秒8、12秒3。 逃げたのは④レディネス、2番手に⑬リアライズシリウス。 ホウオウビスケッツとコスモキュランダが3番手あたり。 セイウンハーデスは6番手前後の位置でした」
モニターに、ラップの棒グラフが立ち上がる。

若葉:「58秒8て、やっぱり激流やん。 前がバテて、うちのハーデスちゃんも巻き込まれたんやろ?」
佐倉助手:「それは推測の箱の話です」
佐倉助手が、眉ひとつ動かさずに告げる。

佐倉助手:「事実の箱では、後半1000メートルは57秒9。 前半より0.9秒速いんです。 中盤で12秒3、12秒1と一度緩んだあと、残り800メートルからは11秒8、11秒4、11秒3、11秒3。 そこから先は、一度も緩んでいません」
若葉:「……ほな、序盤にちょっと飛ばして、真ん中で息継ぎして、そこからゴールまで全力ダッシュいうこと?」
神宮寺教授:「そう。 息が入ったのは中盤の一瞬だけ。 そこから先は、ゴールまで入らなかったの」
教授の赤い光が、グラフの右端でぴたりと止まる。

神宮寺教授:「幸騎手は、自分の理想のレースができたと話しているわ。 直線も手応えがあって、一瞬いけるかなと思った。 でも最後は苦しくなって、左にモタれた。 ここまでが事実の箱よ」
若葉が、ふむふむとノートに書き写していく。
若葉:「ほな、推測の箱は?」
神宮寺教授:「ここからは私の推測。 持続力を問われる流れで、最後の2ハロンの11秒3に耐える余力が、あと少しだけ足りなかった。 能力が劣っていた、とまでは言えないわ。 ラストランの予定と報じられていた舞台で、自分の競馬はやり切ったんだもの」
若葉:「……ハーデスちゃん、ええ仕事したんやなぁ。
 カルビは焼けんかったけど」
佐倉助手:「その代わり、焼き芋ならここにあります」
若葉:「それは二百円やん!」
笑い声がひとしきり落ち着いたころ、若葉が焼き芋を半分に割りながら、ふと顔を上げた。

若葉:「なぁ教授。 勝ったダノンデサイルって、大外の17番やったやん。 あの子は、どんな競馬しとったん?」
神宮寺教授:「いい質問ね。 ……続きは、焼き芋が冷めないうちに第2章でどう?」
第2章大外枠と、数字にならなかった呼吸
電気ケトルが、カチリと音を立てて止まった。
若葉は半分に割った焼き芋に、ふーふーと息を吹きかけている。 研究室には、ほうじ茶と焼き芋の香りが混じり合っていた。

若葉:「うち、大外て聞いた時点であ、終わったて思うたんよ。 過去10年の勝ち馬、全員1番から9番やったやん」
佐倉助手:「おっしゃる通りです。 10番より外から勝った馬は、過去10年で一頭もいませんでした」
佐倉助手が、ケトルから急須にお湯を注ぎながら言う。
佐倉助手:「今回、その記録は止まりました」
教授が、通過順位の表示を指した。

神宮寺教授:「ダノンデサイルの通過順位は、14番手、16番手、16番手」
若葉:「17頭で16番手て、ほぼ最後方やん! 戸崎さん、焦らんかったん?」
神宮寺教授:「焦る場面だったでしょうね。 騎手は枠順を見た時は驚いたと話していて、調教師さんとも何度か作戦を変えたそうよ。 それでも本番では、ポジションは決めつけず、リズム重視でいった」
若葉:「前に行かへんって決めたんと違て、決めへんかったんか」
神宮寺教授:「そこが面白いのよね。 決めないって、案外いちばん勇気のいる選択だもの」
画面が切り替わり、直線の映像が流れる。 大外へ持ち出された一頭が、馬群を横目に伸びていく。

神宮寺教授:「上がり3ハロンは32秒9。 17頭の中で最速です。 ちなみにレース全体の上がりは34秒0でした」
神宮寺教授:「勝った本人が、仕掛けが早くなって、先に抜け出してしまったと話しているわ」
若葉:「本人があれ、もう先頭?て思うくらい、馬が勝手に伸びたってことやな」
神宮寺教授:「それは推測の箱ね。 事実の箱には、騎手が仕掛けを早いと感じたとだけ書いておきましょう。 ……ちなみに戸崎騎手、これが天皇賞の初制覇なのよ」
若葉:「ほな、同じ外回しでも、うまくいかんかった子もおるんやろ?」
若葉が、画面の端の6着の欄に目を留める。
佐倉助手:「⑪シェイクユアハートです。 古川騎手は、結果的に3頭分外を回ることになって、最後はしんどくなったと話しています」
若葉:「同じ外を回っとるのに、片方は突き抜けて、片方はしんどなったんか」
神宮寺教授:「外を回ったことが悪いのか、回り方が悪いのか。 そこはまだ、どちらの箱にも入れられないわね」
教授は楽しそうに首をかしげた。
神宮寺教授:「さて、お待ちかね。 私たちのゴミ箱から出てきた二頭よ」
教授が、モニターに⑩ネブラディスクと⑭タガノデュードの名前を並べた。

若葉が、湯のみを持ったまま固まる。

若葉:「……待って。 この二頭、第1次スクリーニングと第2次のスクリーニングで、うちらがバツつけた子らやん!」
佐倉助手:「⑩は3勝クラスからの相手強化に耐える証拠がない、⑭は展開への依存が強く、調教にも不安。 そう記録しています」
若葉:「それが2着と4着て! うちら、ゴミ箱漁ったら宝石が出てくるタイプの予想屋やん!」
神宮寺教授:「胸を張って言うことじゃないけどね」
教授が、肩をすくめて笑った。

神宮寺教授:「ただ、証拠がないと走れないは別物よ。 私の判断は前者で、現実は後者を否定した。 それだけのこと」
佐倉助手:「ネブラディスクは8番人気、4角は10番手。 川田騎手は、条件クラスを勝ったばかりでも、素晴らしい走りをしてくれたと話しています。 タガノデュードは14番人気で、道中は最後方、4角は17番手。 M.デムーロ騎手は、ダノンデサイルが前にいて、良い目標になった離された後も、ギアがもう一つ上がったと」
佐倉助手:「上がり3ハロンの上位は、ダノンデサイルの32秒9、タガノデュードの33秒3、ネブラディスクの33秒7、レガレイラの33秒8。 上位4頭が、そのまま1着から4着になっています」
若葉:「4角で後ろにおった子ばっかりや! 4頭とも、10番手より後ろやん!」
神宮寺教授:「ええ。 ここまでが事実の箱ね」
若葉:「前に強い馬が走っとると、道しるべになるんやね。 夜道で、前を歩く人の背中を追いかけるみたいなもんか」
神宮寺教授:「いい例えね。 先導してくれる背中があると、迷いが減るのかもしれない。 ……ただし、これも推測の箱」
教授は、満足そうに湯のみに口をつけた。
若葉:「ほな、肝心の二強は? 単勝2倍台の二頭は、どこで何があったん?」
若葉が身を乗り出す。
神宮寺教授:「それは、夜が深くなってからの第3章にしましょ」
第3章渦潮に呑まれた二強
窓の外では、遠くの海で漁船の灯りがちらちらと揺れていた。

研究室のモニターには、①クロワデュノールと⑦マスカレードボール。
 数字は、5着と11着。
若葉:「ここが、うちの頭がいちばんこんがらがるとこや。 人気の二頭が、5着と11着て」
佐倉助手:「事実を並べます」
佐倉助手が、ふたりの騎手のコメントを並べて表示した。

佐倉助手:「クロワデュノールのC.デムーロ騎手は、スタートが良くて、いいポジションで競馬ができた。 直線で狭くなるところはあったし、休み明けのぶん、仕掛けてからの反応が鈍かったと。 通過順位は6番手、6番手、6番手で、中団のイン。 勝ち馬とは0秒7差の5着です。 斉藤崇史調教師は、動きたいところで動けませんでした。 もう少し早めに動きたかったですが、難しい枠でしたと」
佐倉助手:「マスカレードボールは、前走が海外のキングジョージで7着でした。 ルメール騎手は、スタートで躓いてしまった。 通過順位は14番手のまま。 3、4コーナーの手応えは良かったけれど、前がごちゃついて、直線でスムーズな競馬ができなかった。 それでも最後は良い脚を使えた、と」
教授が、補足するように指を立てる。
神宮寺教授:「ひとつだけ。 騎手の言葉は事実というより、本人の証言ね。 だから箱には、そう書いておくの」
若葉:「証言の箱、いう三つ目の箱ができてもうた」
若葉が、ノートに小さく証言と書き足した。
神宮寺教授:「ここから、推測の箱よ」
教授が、ホワイトボードに馬の配置をさらさらと描く。
神宮寺教授:「鳴門の渦潮を思い出して。
 外を回る船は遠回りだけど、渦には捕まらない。 内側の最短航路は速い代わりに、前にも横にも壁ができたら、抜ける道がなくなる。 ……内枠の好位って、ちょっとそういう場所なの」
若葉:「うち、観潮船で酔うて以来、渦潮にはええ思い出ないねん」
神宮寺教授:「それはまた別の箱ね」
佐倉助手:「マスカレードボールは、スタートの躓きで位置が下がりました。 そこから前のごちゃつきに巻き込まれた形、とも読めます。 ただし本当にそうだったかは、映像を何度見直しても、推測の域を出ません」
佐倉助手が、慎重な言い回しを選ぶ。
神宮寺教授:「でも最後は良い脚を使えたという証言は、能力が落ちたわけじゃない、という方向を指しているわ。 ……あくまで、方向を指しているだけだけど」
若葉:「ほな、前に行った組は? レディネスとか、リアライズシリウスとか」
若葉が、画面の上のほうを指さす。
佐倉助手:「4角で3番手以内にいた馬は5頭います。 逃げた④レディネスが17着。 2番手の⑬リアライズシリウスが15着。 ⑨ホウオウビスケッツが14着、⑯ジョバンニが12着、⑫コスモキュランダが9着です。 5頭とも、9着以下でした」
若葉:「前で頑張った子、全滅やん……」
佐倉助手:「津村騎手は、4コーナーまでは良いリズムだったが、直線で他の馬との地力の違いを感じたと話しています」
教授が、ひとつ息を吐いて、にっこり笑った。
神宮寺教授:「それから、ひとつ告白。 私は前日、ホウオウビスケッツが先手を取ると見ていたの。 実際にハナを切ったのは、④レディネス。 ホウオウビスケッツは3番手で、結果は14着。 ここは、私の展開予想の完全な読み違いよ」
若葉:「教授が素直に外れましたって言うの、ちょっと好きやわ」
神宮寺教授:「あら、照れるじゃない」
若葉:「照れるとこちゃうで」
研究室に、ふっと笑いが広がった。

けれど若葉は、笑いの途中でふと真顔になり、ペンの先で紙をつついた。
若葉:「……なぁ教授。 スタートの躓きも、進路がふさがるのも、ペースが想像と違うのも、全部ゲートが開いてから起こることやん。 こんなん、前の日に当てようなんて、できるんかな」
神宮寺教授:「いい問いね。 そして、とても大事な問い」
教授は赤いポインターを胸の前で止めた。
神宮寺教授:「その答えは、最後の章にとっておきましょう。 佐倉くん、お茶、もう一杯お願いできる? 長くなるから」
佐倉助手:「承知しました、教授」
第4章外れた日の海図
窓を少しだけ開けると、潮の匂いがふわりと入り込んだ。

若葉は焼き芋の最後の一切れをにらみながら、ノートの◎⑥セイウンハーデス(10着)の文字を、赤ペンでぐりぐりと囲んでいる。
若葉:「なぁ、思うんやけどな。 誰が勝つか分からへんのやったら、最初から全部買うたらええんちゃう? そしたら絶対当たるやん」
佐倉助手が、電卓をぱちぱちと叩く。
佐倉助手:「今回の3連単を全通り買うと、17×16×15で4‚080点。 1点100円なら40万8千円です。 払戻金は297‚820円でした」
若葉:「……えっと、引き算すると」
佐倉助手:「約11万円の赤字です」
若葉:「当てたのに赤字て、それ当たってへんのと同じやん!」
佐倉助手:「当たりました。 回収できなかっただけです」
若葉:「そのへんの冷静さ、ちょっと怖いわ」
教授が、くすりと笑って、ほうじ茶を一口含む。
神宮寺教授:「若葉。 もし私たちが何となく強そうな5頭をまとめて買っていたら、今夜、何を学べたと思う?」
若葉は、少し考えてから首を振った。

若葉:「……何となく外れたいうことしか、分からへんかったかも」
神宮寺教授:「そう。 セイウンハーデスを軸にしたから、持続力戦で最後の2ハロンに耐える余力という論点が見つかった。 ネブラディスクを切ったから、証拠がないと走れないの違いを思い知らされた。 軸を立てるのは、当てるためだけじゃなくて、ズレを測るための物差しを立てることでもあるのよ」
教授は、窓の外の暗い海に目をやった。

神宮寺教授:「正直に言うとね、◎を打つ瞬間は、いつだって怖いわ。 ゲートが開く直前まで、見落としはないかって、ずっと疑っている」
若葉が、目をぱちぱちさせる。
若葉:「教授でも怖いんか」
神宮寺教授:「怖いわよ。 だから、書くの。 何を根拠に、どこまでが事実で、どこからが推測か。 全部」
教授が、窓辺に立ったまま続けた。
神宮寺教授:「鳴門の漁師さんは、毎朝、潮を読むでしょう。 外れる日もある。 でも、読まない日は一日もない。 そして、外れた日の潮の記録を残している人だけが、次の朝の海図を一枚書き換えられる」
若葉:「……教授、今のはちょっとカッコよすぎやわ」
若葉が、ノートを胸にぎゅっと抱える。
若葉:「ほな、うちらの今日の海図、一枚書き換わったんやな」
神宮寺教授:「ええ。 しょっぱいけどね」
若葉:「しょっぱいのは、さっきの塩のせいや!」
佐倉助手:「若葉さんの哲学は、どんなに高尚な話をしても、最後は必ずお腹が空いたに着地しますね」
佐倉助手が、やれやれと肩を落とす。
若葉:「それ、哲学の完成形やと思わん?」
佐倉助手:「完成形なら、そろそろ完成させて、今夜の記録を保存しましょう。 今回のログは、ジャパンカップと有馬記念の検証用フォルダに入れておきます」
神宮寺教授:「頼んだわ、佐倉くん」
教授は、パン、と手を打った。
神宮寺教授:「本日の秘密講義は、これにて終了! 外れた理由は、全部ノートに残ったわ。 次は、もう少しだけ上手に外しましょう」
若葉:「上手に外す、いう新しい目標やな」
若葉が満足げに頷き、最後の焼き芋に手を伸ばす。
その指先が触れる直前、ひょいと別の手が、それをさらっていった。
神宮寺教授:「検証料、いただきます」
若葉:「あーっ! 教授、それうちの最後の一切れやで!」
神宮寺教授:「ふふ、おいしい。 ……来週は、取り返しにいきましょうね」
研究室の窓の向こうで、潮がゆっくりと満ちていく。
外れた夜の長い反省会は、いつの間にか、笑い声で終わろうとしていた。

神宮寺教授の秘密講義 天皇賞・秋編(事後検証ライブセッション)――完
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