霧深き王国リュミエール――その北端にそびえる図書塔の最上階。 そこは魔法学徒ルイにとって、世界から切り離された“聖域”だった。
誰も来ない。誰も触れない。 だからこそ彼は、現実よりも鮮烈な世界を生み出すことができた。
妄想。記録。追憶。

そのすべての中心にいるのは――ひとりの少女。
白い衣をまとい、窓辺に腰掛け、かすかに鼻歌をこぼす少女。 名を、エリナ。
「……また、来たんだね」
手を伸ばしても届かない距離で、彼女は微笑む。
 当然だ。彼女はもう、この世界にはいないのだから。
それでも――
「君がいない世界なんて、意味がない」
ルイの声は、静寂に溶けていく。 切り分けられた果実の片割れのように、彼の心は欠けたままだった。
雨は、止まない。
あの日からずっと。 記憶の奥で繰り返される声、笑顔、指先の温度。
彼はそれを、こう呼んだ。
――残響、と。
「……あの日の雨は、まだ止まっていない」
これは、喪失の物語だ。 そして――救済の物語でもある。
すべては、あの春の日から始まった。

春。 神託の巫女として学院に派遣された少女――エリナは、ある日ふらりと図書塔を訪れた。
「ねえ、ここって……すごく静かだね」
 初対面でそう言って、彼女は笑った。 場違いなほど柔らかく、あたたかい声だった。
ルイは彼女を“観察対象”として距離を置いた。 だが、エリナはそんな壁など知らないかのように踏み込んでくる。
窓辺に座り、鼻歌を歌い、焼き菓子を差し出す。
「はい。ちょっと失敗したかもだけど」
差し出されたのは、レモンの焼き菓子。 一口かじると、わずかな苦味――そして、遅れて広がる甘さ。
「……変な味だ」
「でしょ?でもね、後からちゃんと甘くなるの」
そう言って笑う彼女の横顔を、ルイはなぜか逸らせなかった。
エリナは、ときどき遠くを見るような目をした。 まるで、自分自身の奥底を覗き込むように。
「空ってね、人の心みたいだと思うの」
「……根拠は?」
「ないよ。でも、そう思うの」
非合理で、曖昧で、けれどどこか真実を含んだ言葉。 それは、観察者としてのルイの内側を静かに揺らしていった。
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やがて、日常は変わる。
エリナが来る。 笑う。話す。焼き菓子を置いていく。
それだけで、“聖域”だったはずの場所に色が差していく。
だが――
「やあ、エリナ」
王宮騎士カイルの登場は、その均衡を崩した。
社交的で、堂々としていて、誰からも好かれる男。 エリナもまた、彼に親しげに笑いかける。
 ルイの胸に生まれたのは、理解不能な感情。
嫉妬。 不安。 そして――自己否定。
(僕には、干渉する資格なんてない)
そう結論づけたはずだった。
だが、エリナは言った。
「ルイはね、ちゃんと見てくれてる」
「……観察しているだけだ」
「ううん。“見てる”の。違うよ、それ」
その言葉は、刃のように彼の内面を切り開いた。
「私ね、選ばれることは多かったの」
彼女は静かに続ける。
「でも、自分で選ぶのって……すごく怖いんだよ」

――選ぶこと。
ルイがずっと避けてきたものだった。
だから彼は、初めて描く。
妄想の中で。 記録の中で。
エリナの手を、取るという選択を。
物語は、やがて現実を侵食する。
旅の途中。 彼は確信する。
――エリナは、“生きている”。
魔力を返すかどうか。 存在を繋ぎ止めるかどうか。
涙を流しながら、彼女は言った。
「……ありがとう」
泉のほとり。 二人は隣り合う。
欠けていた果実の片割れが、再び触れ合うように。
「ずっと、隣にいよう」
「ああ」
それは、選び取った未来だった。
やがて彼らは、図書塔へと帰る。
始まりの場所を、“続き”として迎えるために。
夕暮れの窓辺。 ルイは白紙のページを開く。
ペンを取り、書き始める。
これは記録。 そして、告白。
「――エリナ。君は、僕の光だ」
 彼女は何も言わず、焼き菓子を差し出す。 あの日と同じ、レモンの味。
苦くて、甘い。
二人は静かに涙を流す。 それは喪失ではなく、確かな“存在の証”だった。
幾年後。
小さな村の外れ。 二人は果樹園を営んでいる。
土に触れ、木を育て、実を結ぶ。
かつて失われたはずの力は、ゆっくりと戻っていた。
「ねえ、ルイ。今年のは甘いよ」
「……ああ。ちゃんと、後からな」
子どもたちが集まり、物語をせがむ。 果実と焼き菓子と、少しの魔法。
ここは、彼らの新しい“記録帳”。
夜、空を見上げる。
あの日と同じ星。 けれど、もう違う。
 「……雨、止んだね」
「最初から、止んでいたのかもしれない」
選び合った命は、確かにここに根を張っている。
もう、果実は分かれていない。
エリナは、再び焼き菓子を差し出す。
「はい。今度はちゃんと成功」
一口かじる。
苦味のあとに、優しい甘さ。
ルイは、静かに笑った。
「……いい味だ」
二人は並んで歩いていく。 光と光として。
物語は終わらない。 選び取った“続き”が、未来へと繋がっていく限り。
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