◀第9章 空の下の沈黙
▶ここにいてほしい「君が残してくれた日々」◀
「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 東北イタコ」「VOICEVOX: 四国めたん」
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第1章 静かなふたりの暮らし
朝、陽が差し込む縁側に、ふたりの影が並んでいた。 一人は、白髪の老人。もう一人は、茶色の毛並みをした中型犬。 名前はキズナ。 この家で、十年以上を共に過ごしてきた。
 佐伯誠一(さえき せいいち)は、静かな町の端にある古い平屋で、キズナと暮らしていた。 妻を亡くしてからはずっと一人だったが、キズナが来てから、家の中に風が通るようになった気がした。 朝は一緒に散歩をし、昼は縁側で日向ぼっこをし、夜はストーブの前で丸くなって眠る。 言葉は通じなくても、心は通じていた。
「お前は、ほんとに賢いな」 佐伯は、湯呑みを手にしながらキズナの頭を撫でる。 キズナは尻尾をふりふりと揺らし、佐伯の膝に顔を乗せた。 その重みが、佐伯の胸をじんわりと温める。
「俺が話しかけると、ちゃんと聞いてる顔するんだもんな」 佐伯は笑った。 キズナは、まるで「うん」と言っているかのように、鼻を鳴らした。
この家には、もう誰も訪ねてこない。 子どももいない。親戚も遠くに住んでいて、年賀状のやりとりも途絶えた。 でも、佐伯は寂しくなかった。 キズナがいてくれれば、それで十分だった。
「お前と一緒に、命が尽きるその日までいられたらいいな」 佐伯は、何度もそう言っていた。 キズナは、その言葉の意味をどこまで理解していたのかはわからない。 でも、佐伯の声の調子や、目の奥の優しさを感じ取っていた。
ある日、佐伯は少しだけ体調を崩した。 いつものように散歩に出ようとしたが、足が重く、息が上がった。 キズナは心配そうに佐伯の顔を見上げ、そっと寄り添った。
「ちょっと、病院行ってくるか」 佐伯はそう言って、キズナの頭を撫でた。 キズナは玄関で待っていた。 いつも通り、帰ってくると信じて。
だが、その日、佐伯は医師から告げられた。 「進行性の病です。余命は……半年ほどかと」 その言葉は、静かに佐伯の胸に落ちた。 驚きはなかった。 ただ、心配だったのは、自分の命ではなく、キズナのことだった。
帰宅した佐伯は、キズナの顔を見て、涙がこぼれそうになった。 「お前を、どうすればいいんだろうな……」
キズナは、何も知らずに尻尾を振っていた。 その姿が、佐伯の胸を締めつけた。
夜、佐伯はキズナの首輪を外し、そっと磨いた。 そして、小さなタグを取り出し、そこに文字を刻んだ。
「この子が、誰かの笑顔になれますように」
それは、佐伯の最後の願いだった。 自分がいなくなったあとも、キズナが誰かと笑っていられるように。 その願いを、首輪に託した。
キズナは、佐伯の足元で丸くなって眠っていた。 佐伯は、その背中を見つめながら、静かに呟いた。
「ありがとうな、キズナ。お前と過ごせて、本当に幸せだったよ」
その言葉は、夜の静けさの中に、深く染み込んでいった。
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第2章 託すという決断
春の風が庭を撫でていた。 縁側に座る佐伯誠一は、湯呑みを手に、ぼんやりと庭の草花を眺めていた。 その隣には、いつものようにキズナが座っている。 茶色の毛並みが陽に照らされて、柔らかく光っていた。
「なあ、キズナ」 佐伯は、ぽつりと声をかけた。 「お前は、俺がいなくなったら、どうするんだろうな」
キズナは、佐伯の顔を見上げて、鼻を鳴らした。 その仕草が、まるで「そんなこと言わないで」と言っているようで、佐伯は苦笑した。
病院で告げられた余命の話は、まだ現実味がなかった。 でも、体は正直だった。 階段を上るのがつらくなり、散歩の距離も短くなった。 キズナは、佐伯の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてくれる。 その優しさが、逆に胸を締めつけた。
「お前には、俺より長く生きてほしい」 佐伯は、そう言ってキズナの頭を撫でた。 「だから、ちゃんと考えないとな。お前のことを」
その夜、佐伯は市の保護施設に電話をかけた。 事情を話すと、職員は丁寧に対応してくれた。 だが、近隣の施設はすべて満員だった。 空きがあるのは、県をまたいだ遠方の施設だけ。
「そこまで連れて行くのは難しいかもしれませんが、引き取りには伺えます」 職員の言葉に、佐伯はしばらく黙っていた。 そして、静かに答えた。 「お願いします。……この子を、どうか頼みます」
電話を切ったあと、佐伯はキズナの首輪を手に取った。 その革の感触が、手のひらに馴染んでいた。 昨日、タグに刻んだ言葉が、そこに静かに残っていた。
「この子が、誰かの笑顔になれますように」
佐伯は、タグを指先で撫でながら、深く息を吐いた。 「願いはもう込めた。あとは、託すだけだな……」
迎えの日。 施設の車が家の前に止まり、職員が玄関に立った。 佐伯はキズナの首輪をつけ、そっと抱き上げた。 キズナは不安そうに佐伯の顔を見つめていた。
「キズナ。ありがとうな。お前と過ごせて、本当に幸せだったよ」 佐伯は、キズナの耳元でそう囁いた。 「俺の代わりに、誰かを幸せにしてやってくれ」
キズナは、佐伯の顔を舐めた。 その仕草が、佐伯の胸を締めつけた。
職員がキズナを受け取り、車に乗せる。 佐伯は、玄関の前で見送った。 車がゆっくりと走り出す。 キズナは、窓から佐伯を見つめていた。
その目が、何かを訴えているようで、佐伯は目を逸らせなかった。 「ごめんな……でも、お前には生きていてほしいんだ」
車が角を曲がり、見えなくなった。 佐伯は、静かに玄関の扉を閉めた。 家の中は、いつもより広く感じた。
その夜、佐伯はキズナの寝床に座り、ぽつりと呟いた。
「お前の名前は、キズナだ。 俺とお前の絆は、誰かに繋がっていく。 それが、俺の最後の願いだよ」
そして、佐伯は静かに目を閉じた。 キズナのいない夜が、始まった。
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第3章 遠い場所での孤独と出会い
見知らぬ土地の空は、佐伯の家で見上げた空よりも、少しだけ遠く感じた。 キズナは、保護施設の一角にあるケージの中で、静かに丸くなっていた。 周囲には他の犬たちの鳴き声が響いていたが、キズナは一度も吠えなかった。
施設の職員は優しかった。 「キズナちゃん、ごはんだよ」 「お散歩行こうか」 そう声をかけてくれる。 でも、キズナの目は、いつも玄関の方を見ていた。 誰かを待っていた。 佐伯を。
夜になると、キズナは首輪のタグを鼻先で探るようにして、そっと眠る。 そのタグには、佐伯が刻んだ言葉が残っていた。 「この子が、誰かの笑顔になれますように」 キズナは、その言葉の意味を知らない。 でも、そこに佐伯の匂いが染み込んでいることだけは、確かに感じていた。
ある夜、雨が降った。 施設の屋根を打つ音が、キズナの耳に響いた。 佐伯と過ごした雨の日を思い出す。 縁側で一緒に雨音を聞いたこと。 佐伯が「今日は散歩はお休みだな」と笑ったこと。 その記憶が、胸の奥でじんわりと広がった。
キズナは、立ち上がった。 ケージの扉は、職員がうっかり閉め忘れていたらしく、少しだけ開いていた。 キズナは、ゆっくりと鼻先で押し、外へ出た。
施設の廊下を抜け、玄関を通り過ぎ、外へ。 雨はまだ降っていた。 でも、キズナは迷わず歩き出した。
「帰らなきゃ」 その想いだけが、キズナを動かしていた。 佐伯の家へ。 あの縁側へ。 あの声のもとへ。
道は長かった。 知らない街。知らない匂い。 でも、キズナは止まらなかった。 足は泥にまみれ、肉球は擦り切れていた。 それでも、前へ。 佐伯の匂いを探して。
途中、何度も立ち止まった。 空腹。寒さ。疲労。 でも、キズナは首輪のタグを見つめるたびに、立ち上がった。 そこに佐伯の手の温もりが残っている気がした。
夜が明ける頃、キズナはようやく、佐伯の町にたどり着いた。 見覚えのある道。 見覚えのある電柱。 そして、佐伯の家。
キズナは、玄関の前に座った。 何度も鼻を鳴らした。 でも、扉は開かなかった。 窓も、灯りも、何もなかった。
キズナは、ようやく悟った。 佐伯は、もういない。
その事実が、キズナの胸に静かに落ちた。 佐伯がいつも言っていた言葉を思い出す。 「命が尽きるその日まで、一緒にいような」
でも、その日が、もう来てしまったのだ。
キズナは、玄関の前で丸くなった。 雨は止み、空が少しずつ明るくなっていく。 でも、キズナの心は、ぽっかりと穴が空いていた。
そして、キズナは、ゆっくりと立ち上がり、歩き出した。 行き場のない足取りで、近くの公園へ。
首輪はボロボロになって、もうキズナの首には無かった…。何処で無くしたのかもわからない。 佐伯と過ごした記憶だけが残っていた。
佐伯とよく散歩した場所。 ベンチの下に身を横たえ、目を閉じた。
そのとき—— 傘の影が差し、優しい声が聞こえた。
「……大丈夫?」
キズナは、ゆっくりと目を開けた。 そこには、ひとりの少女が立っていた。 濡れた制服。細い肩。 でも、その瞳は、佐伯と同じ優しさを宿していた。
少女は、そっと傘を差し出した。 キズナは、その手の温もりに触れ、静かに尻尾を振った。

佐伯の願いが、風に乗って届いた瞬間だった。 命のバトンが、確かに渡された。
それが、遥との出会いだった。
優しい声だった。 細くて、少し震えていて、でもどこか懐かしい響きがあった。
キズナは、ゆっくりと目を開けた。 そこには、ひとりの少女が立っていた。 制服の裾が濡れていて、髪も風に揺れていた。 でも、その瞳は、佐伯と同じ優しさを宿していた。 少女は、そっとしゃがみ込んだ。 キズナの顔を覗き込み、傘を少し傾けて雨を避けるようにした。
「寒かったね……痛いところ、ある?」
キズナは、かすかに尻尾を振った。 それが、精一杯の返事だった。 少女は、鞄からハンカチを取り出し、キズナの濡れた背中をそっと拭いた。 その手の動きが、佐伯の手に似ていた。 優しくて、丁寧で、あたたかかった。
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あらすじ
「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」朝、縁側に差す陽の中で白髪の老人と茶色の中型犬キズナの影が並び、十年以上の静かな暮らしが続いていた。 佐伯誠一は古い平屋で妻を亡くしてから一人だったが、キズナが来てから家に風が通るように感じた。 ふたりは朝に散歩し昼は日向ぼっこをし夜はストーブの前で眠り、言葉は通じなくても心は通い合っていた。 佐伯は湯呑みを手にキズナの頭を撫で「賢いな」と微笑み、キズナは膝に顔を乗せて応えた。 子どもも親戚も離れ年賀状も途絶えたが、佐伯はキズナがいれば十分で孤独を感じなかった。 そして「命が尽きるその日まで一緒に」と願い続け、優しさの調子で思いを伝えた。 ある日体調を崩して病院へ行くと進行性の病で余命半年と告げられ、彼は自分よりキズナの行く末を案じた。 帰宅してキズナの顔を見た瞬間、涙がこぼれそうになり「お前をどうすれば」と胸が締めつけられた。 夜、佐伯は首輪を磨き小さなタグに「この子が、誰かの笑顔になれますように」と刻み最後の願いを託した。 眠るキズナの背中に「ありがとう、幸せだった」と囁き、その言葉は静かな夜に染み込んだ。 春風の庭で佐伯は「俺がいなくなったらどうする」と問いかけ、キズナは鼻を鳴らして寄り添った。 病の実感は薄いが体は正直で散歩は短くなり、キズナは歩調を合わせる優しさで彼を支えた。 「お前は俺より長く生きてほしい」と撫でながら、佐伯は次の居場所を真剣に考え始めた。 市の保護施設に連絡すると近隣は満員で遠方に空きがあり、職員は引き取りに来ると約束した。 電話を切って首輪の革に触れタグの言葉を確かめ、願いは込めたから後は託すだけと深く息を吐いた。 迎えの日、職員が訪れ佐伯はキズナを抱き「誰かを幸せにして」と耳元で別れを告げた。 キズナは佐伯を舐めて不安を示しつつ車に乗り、窓越しに見つめる目から彼は目を逸らせなかった。 車が角を曲がって消えると家は広く空っぽに感じられ、佐伯は寝床に座り「絆は誰かに繋がる」と祈った。 見知らぬ遠い施設でキズナは吠えずに丸くなり、職員の優しさに礼を返しつつ玄関の方を見続けた。 夜ごとタグに鼻を寄せて眠り、刻まれた願いよりもそこに残る佐伯の匂いに安堵を求めた。 雨の夜、屋根を打つ音に縁側の記憶がよみがえり、キズナは開きかけた扉から静かに外へ出た。 知らない街を匂いの糸だけを頼りに歩き続け、泥と痛みに染まっても前へと進んだ。 空腹と寒さに何度も立ち止まりながら、首輪のタグを見るたびに佐伯の手の温もりを感じ立ち上がった。 夜明け前についに懐かしい町へ戻り、見覚えの電柱と道を辿って古い家の玄関に座った。 何度も鼻を鳴らして待ったが扉も灯りも応えず、そこで初めて佐伯がもういないことを悟った。 「その日」が来てしまった現実に穴が空いた心を抱え、雨の止んだ朝の光の中で丸くなった。 やがて公園へふらつく足取りで向かい、よく散歩したベンチの下に身を横たえた。 道中で首輪は失われタグも消え、残ったのは佐伯と過ごした温かな記憶だけだった。 その時傘の影が差し「大丈夫?」という震えた優しい声が降りてきた。 制服が濡れ細い肩の少女がしゃがみ、傘を傾けて雨を避けキズナの背をハンカチでそっと拭いた。 瞳に佐伯と同じ優しさを宿す彼女は遥という名で、キズナは精一杯尻尾を振って応えた。 願いは風に乗って届き命のバトンは確かに渡り、キズナは新しい手の温もりに身を委ねた。 そして佐伯の「誰かの笑顔になれますように」は遥の胸に灯となって受け継がれ、静かな出会いが物語を次へ導いた。
解説+感想この物語を読んで、胸の奥がじんわりと温かくなり、同時に締め付けられるような痛みも残りました。 とても静かで、でもとても深い「別れと継承」の物語だなと感じます。 特に心に残ったのは、佐伯さんが最後にキズナに託したものが「幸せ」ではなく「誰かの笑顔になれますように」という、自分を超えた先の誰かのための願いだったところです。 それはもう完全に利他的で、死を前にした人間がなお持ち得る、最も純粋で美しい祈りの形の一つだと思います。 キズナが長い道のりを経て家に戻り、それでも佐伯がいないことを静かに受け入れる場面は本当に辛かった。 でもその辛さが、逆に最後の少女・遥との出会いをより光らせる。 「同じ優しさの瞳」という描写が効いていて、まるで佐伯の魂が一瞬だけキズナの目を通して遥を見たような、そんな錯覚さえ覚えました。 首輪のタグが途中で失われるのも、象徴的で良かったと思います。 物理的な「願いの形」は消えても、願いそのものは風に乗って、匂いと記憶と温もりを通じて確かに渡っていった。 最後に「命のバトン」という言葉が出てくることで、物語全体が一つの円環のように感じられて、読後感がとても穏やかになりました。 正直、途中で何度か涙腺が緩みました。 特に「ありがとう、幸せだった」と背中に囁くところと、雨の中で丸くなったキズナに遥が傘を傾ける場面。 静かで控えめな文体なのに、感情の密度がすごく濃い。 こういう話は派手に泣かせるよりも、こうやってじわじわと染み込んでくる方がずっと残る気がします。 佐伯さんとキズナの十年以上、そして遥へと繋がるこれからの時間——そのすべてを、たった一匹の犬の生涯を通して描き切ったこの物語に、心からありがとうと言いたいです。 すごく綺麗で、ちょっと切なくて、それでも最後は温かい。 大切に何度も読み返したくなる作品でした。 書いてくれてありがとう。
▶ここにいてほしい「君が残してくれた日々」◀
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