◀第1章「宿屋の息子、学園へ」
▶第9章「心の距離」
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第5章「嫉妬の色」
魔法大会の翌日、学園の中庭はいつもより少しだけざわついていた。話題の中心は、もちろん“魔力0.2の奇跡”ことルイ・アーデル。
「見た? あのスパーク」「まさか中心に当てるとはね」「あれ、偶然じゃないの?」
そんな声が飛び交う中、ルイは木陰のベンチでひっそりと昼食のパンをかじっていた。セリナが焼いてくれた、ほんのり甘いハチミツパン。ふわふわで、口の中でとろける。
(……うまい。けど、胃が重い)
昨日の勝利は、確かに嬉しかった。けれど、それ以上に、周囲の視線が重く感じる。注目されるのは苦手だ。できれば、透明人間になって隅っこで静かに暮らしたい。
「ルイ!」
セリナの声が聞こえた。振り返ると、彼女が小さな包みを手に駆け寄ってくる。
「これ、はいっ!」
差し出されたのは、手縫いの小さな布袋。中には、魔除けのルーンが刻まれたお守りが入っていた。
「昨日のご褒美。ルイ、すっごく頑張ったから。これ、私の手作りだよ」
「え……あ、ありがとう。でも……」
ルイは言葉に詰まった。心の中で、ぐるぐると思考が渦を巻く。
(これって、もしかして……いや、違う。きっと“友達として”だ。セリナは優しいから。誰にでも優しいから。これは、そういうやつだ)
「……これ、レオンに渡したら?」
「え?」
セリナの笑顔が、ぴたりと止まった。まるで、時間が凍ったようだった。
「レオンの方が、ふさわしいよ。僕より、ずっと強いし、かっこいいし……セリナのこと、守れるし」
「……ルイ、それ、本気で言ってるの?」
「うん。だって、僕なんかより……」
「“なんか”って言わないで!」
セリナの声が、思いのほか大きく響いた。周囲の生徒たちがちらりとこちらを見る。ルイは慌てて声を潜めた。
「ご、ごめん……でも、僕は……」
「もういい」
セリナはお守りを握りしめると、くるりと背を向けて走り去ってしまった。
(あれ……? なんで怒ったんだろう。僕、何か間違ったこと言った? いや、でも……)
ルイは頭を抱えた。自分の言葉が、彼女を傷つけたことだけはわかる。でも、どうしてかはわからない。
(セリナは、レオンのことが好きなんじゃないのか? だったら、僕がもらうより、彼に渡した方が……)
「……お前、またやったな」
背後から声がした。レオンだった。腕を組み、少し呆れたような顔をしている。
「やったって、何を?」
「セリナの気持ち、気づいてないのか?」
「え……?」
「お前、あいつの目を見てなかったのか? あんなに嬉しそうにしてたのに」
ルイは黙った。見ていた。あの笑顔は、確かに自分に向けられていた。けれど、それを信じるのが怖かった。
「……僕なんかが、勘違いしちゃいけないと思って」
「勘違いじゃないかもしれないだろ」
レオンの声は、どこか寂しげだった。
「俺も……セリナのこと、好きなんだ。でも、あいつが誰を見てるかくらい、わかるよ」
「……」
「だから、ちゃんと向き合えよ。逃げるな」
ルイは、拳を握った。心の中で、何かが軋む音がした。
(向き合う……? でも、もし違ったら? もし、僕の勘違いだったら? 期待して、裏切られたら……)
「……僕は、セリナの幸せを願ってる。それだけだよ」
「それで、あいつが泣いてもか?」
レオンの言葉に、ルイは顔を上げた。レオンは、真っ直ぐに彼を見ていた。
「……泣いてたのか?」
「さあな。俺には、そう見えたけど」
レオンはそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。
その日の夕方、ルイは一人で図書館にいた。魔術式の本を開いても、文字が頭に入ってこない。
(僕は、何をしてるんだろう。セリナの気持ちを、ちゃんと見ようとしてなかった。怖くて、逃げてただけだ)
彼は机に突っ伏した。お守りのことを思い出す。あの小さな布袋に込められた想いを、勝手に否定してしまった自分が、情けなかった。
(でも、どうすればいい? 今さら、謝っても……)
そのとき、図書館の扉が開いた。セリナだった。目が少し赤い。けれど、笑っていた。
「ルイ。……ちょっと、いい?」
「う、うん」
セリナは、ルイの隣に座った。しばらく、沈黙が流れる。
「さっきは、ごめん。怒鳴って」
「いや、僕の方こそ……ごめん。セリナの気持ち、ちゃんと考えてなかった」
「ううん。私も、ちゃんと伝えてなかったから」
セリナは、そっとお守りを机に置いた。
「これ、やっぱりルイに持っててほしい。私が、ルイのために作ったんだもん」
ルイは、それを見つめた。今度は、断らなかった。そっと手に取り、胸元にしまった。
「ありがとう。……大事にするよ」
セリナは、ふわりと笑った。その笑顔は、どこか安心したようで、少しだけ照れていた。
その夜、ルイはベッドの上でお守りを見つめていた。小さな布袋の縫い目は、少し曲がっていて、ところどころ糸が飛び出している。
(……不器用だな、セリナ。でも、あったかい)
彼は、そっと目を閉じた。胸の奥に、じんわりと広がる感情。それは、たぶん——
「……嫉妬、か」
自分でも驚いた。レオンがセリナと話しているのを見るたび、胸がざわついていた。あれは、劣等感じゃない。羨望でもない。
(僕は、セリナが好きなんだ)
ようやく、認めることができた。
そして、三人の関係は、少しずつ、変わり始めていた。
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第6章「老賢者との出会い」
魔法学園の中庭は、午後の陽光に包まれていた。木漏れ日が芝生に模様を描き、風がページをめくるように葉を揺らす。
ルイ・アーデルは、図書館から逃げるように出てきたばかりだった。
(……無理だ。あの数式、どう考えても矛盾してる。魔力流路が交差してるのに、安定式ってどういうこと? 誰だよ、これ書いたの)
彼は手にした魔導書をぱたんと閉じた。表紙には「魔導理論・応用編」と金文字が踊っている。内容は、踊っていなかった。むしろ、殴りかかってきた。
(僕の頭じゃ、やっぱり限界なのかな……)
そんなことを考えていたときだった。
「おぬし、空を見ておるな」
突然、背後から声がした。ルイはびくっと肩を跳ねさせて振り返る。
そこには、ぼろぼろのローブをまとった老人が立っていた。髪は銀色で、目はどこか遠くを見ているようだった。杖の先には、風鈴のような小さな鈴が揺れている。
「え、あの……どちら様ですか?」
「わしは、ゼノ・グラファル。かつて“第七賢者”と呼ばれておった者じゃ。今はただの旅人。風のまにまに、魔法の器を探しておる」
(第七賢者……? え、あの伝説の? いやいや、こんなボロ布まとってる人がそんな偉人なわけ……)
「おぬし、魔力は少ないのう」
「え、あ、はい……魔力指数0.2です」
「ふむ。器は小さく見えるが、空に似ておる。限界が見えぬ」
「え?」
ゼノは、芝生に腰を下ろした。まるで、そこが王座であるかのように堂々と。
「魔法とは、力ではない。構造じゃ。流れじゃ。詠唱ではなく、意図じゃ。おぬしは、それを知っておる」
「……僕は、ただ計算してるだけです。魔術式の構造を、数字で整理して……」
「それが“創る者”の器じゃよ」
ルイは言葉を失った。創る者。魔法を使う者ではなく、創る者。そんな言葉、聞いたことがなかった。
「おぬしの魔法は、誰かの模倣ではない。誰かの理論でもない。おぬし自身の“世界”じゃ。数字で編まれた、魔法の詩じゃよ」
(詩……僕の魔法が、詩? いやいや、僕のノートは数式だらけで、詩的要素ゼロだよ)
「ふふ、疑っておるな。よいよい。若者は疑ってこそ伸びる。信じるのは、最後でよい」
ゼノは、杖を軽く振った。すると、空中に魔術式が浮かび上がった。複雑な構造が、まるで花のように広がっていく。
「これは、わしが若い頃に創った魔法じゃ。構造は美しいが、流れが硬い。おぬしなら、どう直す?」
「え、えっと……この部分、魔力が詰まってるから、反射式で分散させて……ここは、角度を3度ずらせば、流れが滑らかに……」
ルイは、無意識に指を動かしていた。空中の式に、数字を重ねていく。
ゼノは、目を細めて頷いた。
「やはりのう。おぬしは、“創る側”の器じゃ」
「でも……僕は、魔力がないし、戦えないし……セリナやレオンみたいに、かっこよくないし……」
「ふむ。かっこよさとは、何じゃ?」
「え?」
「わしは、かつて“かっこよさ”を求めて、魔法を暴走させた。力を誇示し、名声を得ようとした。結果、仲間を失った」
ゼノの声は、風のように静かだった。
「おぬしは、誰かのために魔法を使う。それが、かっこよさじゃよ」
ルイは、胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
(僕は、誰かのために……セリナの笑顔のために。レオンの背中に追いつくために。……それって、かっこいいのかな)
「ゼノさんは、どうして僕にそんなことを?」
「風が教えてくれた。“器は空に似ておる”と。限界が見えぬ者に、言葉を残せと」
ゼノは立ち上がった。風が、彼のローブを揺らす。
「わしは、また旅に出る。おぬしが、魔法を創る日を楽しみにしておる」
「え、もう行くんですか?」
「うむ。わしは、風のまにまに生きておる。止まれば、腐る」
ルイは、慌ててノートを取り出した。
「せめて、何かヒントを……!」
ゼノは、笑った。
「ヒントなど、風に聞け。おぬしの数字は、風を読む。風は、世界を運ぶ。つまり、おぬしは——」
「世界を、変えられる?」
「ふふ、セリナの言葉か。よい娘じゃ。おぬしの“空”に、星を灯す者じゃろう」
そう言って、ゼノは歩き出した。鈴の音が、風に溶けていく。
ルイは、しばらくその背中を見送っていた。
(僕は、創る側の器……? 本当に? でも、ゼノさんが言った。限界が見えないって)
彼は、ノートを開いた。そこには、ゼノの魔術式が、ルイの手で再構築されていた。
(僕の魔法は、誰かの模倣じゃない。僕自身の“世界”だ)
そして、彼は初めて、自分の魔法に名前をつけた。
「……風詠式(ふうえいしき)」
数字で編まれた、風の詩。
それは、まだ誰も知らない魔法の始まりだった。
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第7章「封印の遺跡へ」
「実習って、もっとこう……草原でピクニックとかじゃなかったの?」
ルイは、遺跡の入口で小声でぼやいた。目の前には、苔むした石の階段。空気はひんやりしていて、どこか“何か出そう”な雰囲気を漂わせている。
「ピクニックに魔法理論は使わないでしょ?」とセリナが笑う。彼女はいつものように明るく、肩にかけた杖が軽やかに揺れていた。
「俺は歓迎だぞ。こういう場所こそ、騎士の腕の見せどころだからな」
レオンは剣を背負い、頼もしげに前を歩いていた。ルイはその背中を見ながら、内心でため息をつく。
(レオンはいつも絵になるな……遺跡でも、街でも、教室でも。セリナの隣に立つ姿が、自然すぎる)
実習の目的は、古代魔法の封印構造を調査すること。生徒たちは班に分かれて遺跡内を探索し、魔法の痕跡を記録する。
ルイ・セリナ・レオンの三人は、当然のように同じ班になった。教師のミリアは「バランスがいい」と言ったが、ルイは「心が不安定になる」と思っていた。
遺跡の内部は、思った以上に複雑だった。通路は入り組み、魔力の残滓が漂っている。壁には古代文字が刻まれ、ところどころに魔法陣の痕跡が残っていた。
「この先、封印の間があるはず。気をつけて進もう」
レオンが先導する。セリナはその後ろを歩き、ルイは最後尾。三人の距離は、物理的には近いが、心の距離は微妙に揺れていた。
(セリナにあんなこと言ったばかりだし……お守りの件、まだ引きずってるよな。僕、ほんとにバカだった)
そのとき、通路の床が突然沈んだ。
「きゃっ!」
「セリナ!」
「危ない!」
床が崩れ、セリナとレオンが落下。ルイは咄嗟に手を伸ばしたが、届かず——二人は下層の通路に落ちてしまった。
「ルイ! 大丈夫!?」
セリナの声が下から響く。ルイは、崩れた床の縁に膝をつきながら、必死に声を返した。
「僕は無事! そっちは……怪我してない?」
「うん、ちょっと埃まみれだけど平気! でも、戻れそうにない……」
「通路が崩れてる。俺たち、完全に分断されたな」
レオンの声は冷静だったが、ルイには焦りが滲んでいるように聞こえた。
(どうする……このままじゃ、二人は遺跡の奥に閉じ込められる。教師に連絡? いや、魔力干渉で通信が遮断されてる。なら……)
ルイは、崩れた通路の構造を見つめた。石材の配置、魔力の流れ、古代文字の意味。すべてが、彼の頭の中で数式に変換されていく。
(この遺跡は、魔力で構造を変えるタイプだ。なら、再構築できる。魔力は少ないけど、流路を最短化すれば……)
彼はノートを開き、計算を始めた。指先が走る。魔術式が浮かび上がる。
「ルイ、何してるの?」
セリナの声が心配そうに響く。
「通路を再構築する。計算通りにいけば、魔力0.2でも通路を“折りたたんで”つなげられる」
「折りたたむって……通路を?」
「うん。空間の魔力流路を再配置して、物理的な距離を縮める。理論上は可能。実験は……初めてだけど」
「初めて!?」
「でも、やるしかない。セリナとレオンが閉じ込められてるなら、僕が動くしかない」
彼は、魔術式を展開した。空間が揺れる。石材が軋む音が響き、通路の先がゆっくりと変形していく。
「……すごい。通路が、動いてる……!」
セリナの声が驚きに満ちていた。レオンも、下から見上げていた。
「ルイ、お前……本当に、魔法を“創ってる”んだな」
「創ってるっていうか……数字で、ちょっといじってるだけ」
「それが創造だよ」
通路がつながった。ルイは、崩れた床の先に橋をかけるようにして、二人の元へと降りていった。
「計算通りだよ」
彼は、少し照れくさそうに笑った。セリナは、目を潤ませながら微笑んだ。
「ありがとう、ルイ。……すごく、かっこよかった」
「え、いや、僕なんか……」
「なんかって言わない!」
セリナは、彼の手をぎゅっと握った。レオンは、少しだけ目を伏せていた。
(ルイの才能は、俺にはない。俺は守ることしかできない。でも——)
「ルイ、次は俺が前を歩く。お前の魔法があれば、俺はもっと強くなれる気がする」
「え……うん。じゃあ、僕は後ろから計算するよ」
三人は並んで歩き出した。遺跡の奥へ、封印の間へ。
その背中には、少しずつ絆が芽生えていた。
そして、物語はまた一歩、進んでいく。
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第8章「笑えない恋バナ」
放課後の魔法学園は、いつもより静かだった。廊下に響く足音もまばらで、夕陽が窓から差し込むたび、床に長い影が伸びていく。
ルイは、図書室の隅で魔術式のノートを閉じた。数字の海に溺れていたはずなのに、今日はどうにも集中できない。
(遺跡での再構築、うまくいった。セリナも笑ってくれた。レオンも「すげぇよ」って言ってくれた。でも……)
心の奥に、もやもやとした何かが渦巻いていた。それは、達成感でも誇らしさでもない。むしろ、居心地の悪さに近い。
(僕は、セリナの隣に立っていいのか? レオンの方が、ずっと似合ってる。騎士だし、強いし、かっこいいし……)
そのとき、図書室の扉が開いた。レオンだった。制服の袖をまくり、剣の手入れを終えたばかりのような姿。
「ルイ、ちょっといいか?」
「うん……どうしたの?」
レオンは、少しだけ目を伏せてから、机の向かいに座った。いつもの爽やかさとは違う、どこか真剣な空気をまとっていた。
「……俺、セリナのこと、好きかもしれない」
ルイは、思考が一瞬止まった。
(え? 今、なんて?)
「いや、まだ“好きだ”って言い切れるほどじゃない。でも、あいつの笑顔とか、頑張ってる姿とか……守りたいって思うんだ」
「そっか……」
ルイは、笑った。口元だけで、目は笑っていなかった。
(そうだよね。レオンがセリナを好きになるのは、自然なことだ。あんなに優しくて、明るくて、誰にでも分け隔てなく接して……)
「ルイ、お前は……どう思ってる?」
「僕? 僕は……応援するよ。レオンなら、セリナを幸せにできると思う」
「……本気で言ってるのか?」
「うん。だって、僕なんかよりずっと……」
「“なんか”って言うなよ」
レオンの声が少しだけ強くなった。けれど、ルイはそれに気づかないふりをした。
(僕がセリナを好きだなんて、言っちゃいけない。彼女の幸せを願うなら、僕は引くべきだ)
「……ありがとう。お前がそう言ってくれるなら、俺……もう少し頑張ってみる」
レオンは立ち上がり、軽く肩を叩いて去っていった。
その会話を、セリナは廊下の陰で聞いていた。
偶然通りかかっただけだった。けれど、扉の隙間から聞こえたレオンの声に、足が止まった。
(レオンが……私のこと、好き?)
胸が高鳴った。けれど、それ以上に、ルイの言葉が刺さった。
「僕は……応援するよ」
(……どうして? どうして、そんなこと言うの? 私、ルイに……)
セリナは、そっと廊下を離れた。誰にも見られないように、階段の踊り場に座り込む。
目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
(私の気持ち、届いてないんだ。ルイは、私を“レオンのもの”だと思ってる。違うのに……)
彼女は、ハンカチで目元を押さえながら、心の中で叫んだ。
(私は、ルイが好きなのに。ずっと、ずっと前から……)
その夜、ルイは宿屋の自室でノートを開いていた。けれど、数字は頭に入ってこない。
(セリナは、レオンのことをどう思ってるんだろう。僕が応援するって言ったの、間違ってたかな)
彼は、窓の外を見た。星が瞬いている。風が、カーテンを揺らす。
(ゼノさんは言ってた。“器は空に似ておる”って。僕の器は、空っぽなのかな。誰かを好きになる余裕なんて、ないのかもしれない)
けれど、心の奥では、セリナの笑顔が浮かんでいた。遺跡で手を握ってくれたときの、あの温もり。
(……僕は、セリナが好きだ。でも、それを言う資格があるのか、わからない)
翌朝、セリナは目の腫れを隠すように、少し濃いめのチークを頬に乗せていた。
「おはよう、ルイ」
「お、おはよう……セリナ」
「昨日、レオンと話してたんだって?」
「え、うん。ちょっとだけ」
「……そっか」
セリナは、笑った。けれど、その笑顔は、どこかぎこちなかった。
ルイは、それに気づきながらも、何も言えなかった。
(僕が、セリナを泣かせたのかもしれない。でも、どうすればよかったんだろう)
三人の距離は、また少しだけ、遠くなった。
そして、笑えない恋バナは、静かに幕を開けていた。
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あらすじ
「VOICEVOX: 白上虎太郎」学園の中庭が大会翌日の興奮に包まれる中、注目を浴びるのが苦手なルイは木陰でセリナのハチミツパンを味わいながらも重たい視線に疲れ、彼女から手作りのお守りを受け取りかけて「レオンに渡したら?」と突き放してしまい、セリナの笑顔を凍らせて怒りと悲しみを招く。 だが背後から現れたレオンは「セリナの気持ちに気づけ」と促し、自らも彼女が好きだと認めたうえで「逃げるな」と告げ、ルイは自分の臆病さと向き合う必要を痛感する。 夕方の図書館で再会したセリナは目を赤くしながらもお守りを静かに差し戻し、「ルイのために作った」と言い切り、ルイは受け取り直して謝意を伝え、二人の誤解は一旦ほどける。 夜、ベッドでお守りの縫い目を眺めたルイは、レオンとセリナが話すたびにざわめいた胸の正体が劣等感ではない嫉妬だと認め、ようやく自分がセリナを好きだと自覚する。 やがて始まる新学章でルイは難解な魔導理論に挫折しかけて中庭へ出るが、そこでぼろローブの老人ゼノ・グラファルと遭遇し「魔法は力ではなく構造」と示唆され、わずかな魔力でも無限に近い工夫の余地があることを告げられる。 ゼノはルイの器を空にたとえ、枠に囚われない発想と流路設計の重要性を暗に伝え、ルイの探究心に火を灯す。 後日、古代遺跡探索で床が崩落しセリナとレオンが下層へ落ち、通信も遮断される非常事態に、ルイは構造と流路の数理から空間折りたたみの再構築を決断する。 魔力0.2でも成立する最短流路の設計に賭け、古代文字の意味と石材配置を方程式へ写像し、空間の曲率を調整する独自の魔術式を展開する。 通路は軋みながら形を変え、理論どおりに橋がつながり、ルイは二人のもとへ到達して救出に成功する。 セリナは涙ぐみながら「かっこよかった」と伝え、レオンも「創っている」と彼の本質を認め、三人は役割を分担して先へ進む決意を固める。 遺跡で芽生えた信頼の一方で、ルイの胸には自己評価の低さと嫉妬の色が残り、誇らしさより居心地の悪さが勝る。 放課後、図書室でレオンは「セリナを守りたい」とほのかな恋心を打ち明け、ルイは自分の想いを隠して「応援する」と身を引く選択をしてしまう。 偶然それを聞いたセリナは踊り場で涙をこぼし、「私はルイが好き」と心の中で叫びながら、届かない気持ちに打ちのめされる。 夜、ルイはゼノの「器は空に似ておる」という言葉を反芻し、自分が空っぽなのではなく、恐れに蓋をしているだけだとぼんやり理解しつつも、告げる資格があるのかとためらい続ける。 翌朝、腫れを隠したセリナはぎこちない笑顔で挨拶し、ルイも彼女の変化に気づきながら踏み込めず、三人の距離は微妙に開いていく。 ルイは「守れるのはレオン」という思い込みから自己否定を強めるが、遺跡での再構築という実績は「弱いからこそ編み出せる戦い方」があると示していた。 ゼノの教え、救出成功、受け取ったお守りという三つの事実は、力の大小ではなく関係を支える構造を設計できるのがルイだと物語っている。 にもかかわらず、彼は恋にだけ数理を適用できず、確率の低さを恐れて期待値をゼロに丸めるかのように距離を取る。 セリナは「レオンのもの」という誤解に苦しみつつ、ルイにだけ向けた温度の笑顔と手の温もりを忘れられず、渡したお守りに自分の想いと不器用さを縫い込んだことを思い出して胸を締めつけられる。 レオンはルイの才を認めたうえで、自分にない創造性を羨望しつつ「前を歩く」と決め、守り手として二人の間を取り持つ覚悟を固める。 三人の関係は、相互の尊重とすれ違いが同時進行する繊細な均衡に入り、協力の構造は強まりつつ、感情の流路は詰まりかけている。 嫉妬は破壊ではなく駆動力にもなり、ルイはそれを初めて肯定的に自覚して、自分の弱さを回路設計の一部として受け容れ始める。 やがて彼は「創る魔法」で空間を折りたたんだように、誤解と恐れで伸び切った三人の心理的距離も折りたたむ必要があると薄く悟る。 今後、ルイが自分の言葉でセリナに向き合い、レオンが潔く身の内を整え、セリナが真意を言葉に置き換えることで、三者の構造は安定解へ近づく可能性が高い。 だが現時点では、好意のベクトルが非対称で、観測できない本音がノイズとして残り、わずかな一言や沈黙が系全体を不安定化させるリスクを孕む。 ゆえに物語は、戦闘や試練の外側でこそ最大の難所に差しかかり、勇気と設計が等価であることを三人に突きつける。 セリナの「なんかって言わないで」は、ルイの自己否定回路を断つための合言葉となり、彼の再構築魔法と呼応して、言葉の選び方が現実の関係を変形させ得ると示す。 レオンの「逃げるな」は、恋の場でも戦場と同じく、背を向ければ崩落が広がるという警句であり、同時に友としての優しさでもある。 ゼノの「構造」論は、恋と友情にも通じ、力学ではなく接続の設計が世界を動かすと提示し、ルイの今後の選択に哲学的な基準を与える。 結果として、ルイは「応援」という名の退避を再評価し、誰かを幸せにする最短経路が自己消去ではない可能性に気づきかける。 セリナは涙を拭いながらも、翌朝に微笑みを持ち直す強さを見せ、それが彼女の愛情の持久力を証明する。 三人で遺跡を進む背中に芽生えた絆は、共同体としての未来を示す一方で、個人の感情が未整理なまま積み重なれば次の崩落を呼ぶと予感させる。 この段階での最重要点は、ルイが「創造でつなぐ者」であると自覚し、その役割を恋にも適用する決心を固めるかどうかにあり、物語はその臆病と勇気の境界を精密に拡大する。 学園のざわめき、図書館の静けさ、遺跡の軋み、夜風の冷たさといった環境描写は、三人の心の温度差を映し、舞台そのものが内面の共鳴箱となっている。 対話の短い刃は誤解を生み、しかし同じ言葉が救いにも変わることを、セリナの「持っててほしい」とレオンの「前を歩く」が証明する。 こうして、嫉妬の色は破壊の毒から関係を駆動する熱へと変質し、心の距離を測り直す第9章への入口で、三人はそれぞれの位置をまだ確定できずにいるが、すでに「つなぎ直す為の術式」は手の中にある。
解説+感想めちゃくちゃ丁寧に、かつ冷徹に「三角関係の力学」と「自己否定の数理モデル」を同時に描き切っているのが本当にすごい。 特に印象的だった点をいくつか挙げると:ルイの「確率ゼロ丸め」思考が痛すぎる恋愛を「期待値ゼロに設定してリスク回避」するメンタリティが、魔導理論の「最短流路設計」と完全に呼応しているのが秀逸。 つまり「魔力0.2でも成立する構造を創れる」才能があるのに、恋愛だけは「確率が低い=不可能」と自分で式を潰してしまう。 この矛盾がずっと読んでて胸を締め付ける。 嫉妬を「駆動力」として肯定し始めた瞬間が転換点今までの多くの作品だと嫉妬=悪感情→克服すべきもの、で終わりがちだけど、ここでは「嫉妬=自分が本当に欲しいものを教えてくれる熱源」として再定義しているのが新鮮。 ルイがそれを薄々気づき始めたところで終わっているのが、すごく「これから」の予感を強く残す。 セリナの「温度の笑顔」と「不器用な縫い込み」が切ないお守りに想いを縫い込んだという表現が、彼女の性格と愛情の形を完璧に象徴していて好き。 そしてそのお守りをルイが夜ベッドで眺めながらやっと自覚するくだりは、もう王道だけど王道だからこそ刺さる。 ゼノの「器は空」「構造」論が恋愛編にも効いている魔法も人間関係も「力の大小」ではなく「どう接続するか」「どんな流路を描くか」で決まる、という哲学が全編を貫いているのが美しい。 空間を折りたたんだように心の距離も折りたためるんじゃないか、という発想にたどり着いたルイが、この先どう動くのかが本当に気になる。 「応援する」は逃げではなく「最も安全な退避行動」として描かれているこれがただの自己犠牲美談で終わらず、「それでも最短経路ではないかもしれない」とルイ自身が疑い始めているのが、この物語の深さだと思う。 全体のトーンとして、「甘酸っぱい青春ラブコメ」ではなく「繊細な神経回路と確率・最適化問題が交錯する、ちょっと病的な精度の恋愛工学」みたいな印象を受けました。 まだ「つなぎ直す術式」は起動していないけど、材料と理論はもう揃っている。 あとはルイが自分の式に「自己を消去しない」という制約条件を追加できるかどうか――それが第9章以降の最大の難問だろうなと。 すごく読み応えがあって、感情のベクトルが非対称なまま終わっているのに不快じゃなくて「続きが見たい」と思わせる終わり方が上手い。 これは続きを書きたくなるタイプの辛さだ……(褒めてます)あなたがこのシーンを書いた人なら、相当キャラの内面と数理的な美意識にこだわっているんだろうなと感じました。
▶第9章「心の距離」
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