第4章
王宮の落日と、届かない永遠の四等賞
春の生暖かい風が、少しだけ開いた窓の隙間から滑り込んできた。デスクの上に散乱したプリントの端がパタパタと音を立てて波打つ。佐倉が気を利かせて作ってくれた自家製のレモン炭酸水から、シュワシュワと弾ける小気味よい音が響いていた。グラスの表面には冷たい水滴がびっしりと付き、鼻を近づけると柑橘系の鋭く爽やかな香りが脳をスッキリと刺激する。
ハムとレタスのサンドイッチをウサギのように咀嚼し終えた若葉が、ゴクンと炭酸水を喉に流し込んでから、勢いよく手を挙げた。
「ぷはーっ! 炭酸の刺激が脳みそに効きますわ! さて教授、残った8頭の中に、めっちゃ強そうなボスの名前がありますよ! 『キングズパレス』! 最近流行りのVRゲームのファンタジーアニメで、最後に待ち構えとる無敵の老王みたいでかっこええですやん!」
キーボードを叩く手を止め、佐倉が眼鏡の位置を直しながら首を傾げた。
「老王……あ、確かにこの馬、7歳ですね。でも若葉さん、さっきの章で教授が『7歳以上の馬は過去9年間で一度も3着以内に入っていない』って言ってませんでしたか? それなら、この王様も真っ先に消えるんじゃ……」
冷たいグラスの縁を指でなぞりながら、神宮寺は静かに口を開いた。
「佐倉くん、単純な暗記力は評価するわ。でも、リストをよく見てごらんなさい。残っている8頭の中には、『ドゥラドーレス』というもう一頭の7歳馬がいるのよ。なぜ私が彼らを二次選考まで残したか、分かるかしら?」
「えっと……あっ、キングズパレスは過去の金鯱賞で3着に入った実績がありますね。ドゥラドーレスは最近のレースでずっと2着に粘っています。だから、年齢の壁を越える『例外』かもしれないと判断して、一旦保留にしたんですね?」
「その通りよ。データは絶対的な武器だけれど、盲信すればただの足枷になる。だからこそ、ここで彼らの『直近の実力テスト』を虫眼鏡で覗き込むのよ」 神宮寺は手元のポインターで、キングズパレスの成績の欄を赤く丸で囲んだ。 「若葉、あなたの言う老王は、前回のレースで何着だったかしら?」
「えーっと……『白富士ステークス』っていうレースで、6着です。あれ? 6着なら、さっき言うてた『優勝する馬は前回6着以内』っていう条件、ギリギリセーフでクリアしてません?」
「数字の上ではね。でも、中身がスッカスカなのよ」 神宮寺は冷ややかな声でバッサリと切り捨てた。 「その白富士ステークスというのは、言うなれば『マイナーリーグ』の試合よ。今回のようなメジャーリーグの重賞レースではないの。マイナーリーグでギリギリ6着の王様に、メジャーリーグの強打者を抑え込める力があると思う? おまけに彼の実力を示す点数(レーティング)は『101点』。これは今回のクラスの生徒の中で、ダントツの最下位よ」
「なるほど……。名前は豪華な宮殿やけど、柱はシロアリに食われてボロボロっちゅうことですね。悲しいけど、王様はここでリタイアですわ。ほな次は……女の子の『セキトバイースト』! 三国志に出てくる、一日で千里を走る伝説の赤い馬ちゃいます!? これなら体力無限大ですやん!」
「若葉さん、また連想ゲームになってるよ。でも教授、この馬、女の子なのに重賞レースで2回も勝ってる実力派だよ。斤量も55キロで一番軽い部類だし、千里を走るかはともかく、かなり強いんじゃないかな?」
「佐倉くん、君は本当に表面的な勲章に騙されやすいわね。彼女が勝ったレースの『距離』を、声に出して読んでみなさい」
「えっと……府中牝馬ステークス、1800メートル。都大路ステークス、1800メートル。……あっ」
「気付いたかしら?」 神宮寺は鋭い視線で二人を射抜いた。 「彼女が勝ったのは、すべて『1800メートル』までの距離よ。今回の金鯱賞は2000メートル。たった200メートルの違いに見えるかもしれないけれど、人間で例えるなら、400メートル走の選手にいきなり800メートルを本気で走れと命令するようなものよ」
「ええっ!? 200メートルくらい、気合と根性でなんとかなりませんの!?」
「ならないわ。競馬において距離適性という名の『ガソリンタンクの容量』は絶対よ」 神宮寺は氷の溶けかけたグラスを揺らし、カランと涼しげな音を立てた。 「彼女は1800メートルでガソリンがピタリと空になるように設計されているの。証拠に、過去に2000メートル以上のレースに出た時は、見事に失速して負けている。今回も最後の急な上り坂で、間違いなく足が止まるわ」
「うわぁ……伝説の赤い馬、坂道の途中でガス欠ですか……。まるで私が朝の通勤電車に駆け込もうとして、駅の階段の途中で息切れするのと同じですわ」
「あなたの怠慢な肺活量と一緒にしないでちょうだい。はい、セキトバイーストも消去よ」
「ほな! 西部劇のクールなアウトローみたいな名前の『ディマイザキッド』はどうですか!? いつも斜に構えとるけど、いざという時に主人公を助けにくるライバルキャラ! こういうヤツが最後にドカンと大穴を開けるんですわ!」
「主人公を助けに来る……というか、この馬、成績を見るとすごく『惜しい』んですよね。4着、4着、3着、6着。重賞レースでいつも良いところまで来るんですが、どうしても1着になれないんです」
「それ、ただの万年四位のモブキャラやん!」
「若葉の言う通りよ。佐倉くん、君はそれを『堅実で惜しい』と評価したけれど、プロの分析家はそれを『勝ち切るための決定的な武器が欠如している』と評価するの」 神宮寺は立ち上がり、ディマイザキッドの成績表の横に『限界の壁』と書き殴った。 「彼は優等生よ。でも、最後にライバルを追い抜く『爆発力』がない。だからいつも、3着や4着という指定席に綺麗に収まってしまう。この『勝ち切れないパターン』が完全に固定化してしまっているのよ」
「でも教授、1番人気に推されたこともあるんですよ? みんなが期待しているってことじゃないですか?」
「期待と結果は別物よ、佐倉くん。1番人気に推されながら勝てなかったという事実こそが、彼が『人気を裏切るモブキャラ』である最大の証拠よ。おまけに前走の内容も上昇の気配が全くないわ」
「そういうこと。老いた王様キングズパレス、ガス欠の女の子セキトバイースト、万年四位のディマイザキッド。この3頭を三次選考で切り捨てるわ」