窓の外、海峡に架かる大橋のライトアップが深い夜の闇に浮かび上がっている。研究室の壁掛け時計は午後9時を過ぎていた。真宮寺教授は淹れたての三杯目のコーヒーをデスクに置き、モニターに映し出されたネット競馬の予想オッズ表を静かに睨みつけた。
「さあて、ここからが本番や! 予定調和で終わるアニメなんておもろない! 主人公のレッドバンデが勝つんもええけど、もっとドッカーンと爆発するような『超絶大波乱』のシナリオも用意しときましょ!」
若葉が、空になったカップ麺の容器をゴミ箱にダイブさせながら叫んだ。その元気な声に、佐倉助手が苦笑いを浮かべて手元のタブレットを操作する。
「大波乱、ですか。確かに世間の予想オッズを見ると、アドマイヤテラとダノンシーマの2強が圧倒的な人気を集めていますね。この2頭が馬券圏外に飛ぶ……つまり、人気上位が揃って沈むような『地獄の消耗戦』になれば、若葉さんの言う大爆発が起きます」
(人気馬が飛ぶ。それは大衆の願望であり、同時にデータ分析が最も輝く瞬間でもある。過酷な3000メートルという舞台なら、その特異点は十分に発生し得るわ)
真宮寺教授はコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと口を開いた。
「もしその2強が消えるなら、原因は明確よ。アドマイヤテラは重い58キロと疲労の限界。ダノンシーマは短距離からの急激な距離延長によるパニック。彼らが自滅するほどペースが過酷になった時、浮上してくる顔ぶれは大きく変わるわ」
「うわっ、人気者が揃って自滅! パニックホラー映画の序盤でいきなりリア充グループが全滅する定番のやつですやん! ほな、生き残るんは誰ですか!?」
若葉が身を乗り出すと、佐倉がホワイトボードの空きスペースに『波乱時のTOP5』と書き出し、その下に力強く名前を記した。
「1位と2位は揺るぎません。本命のレッドバンデと、対抗のアクアヴァーナルです」
「ええっ、そこは変わらんのですか!? 主人公と女神様はホラー映画でも生き残るんや! なんでですか?」
佐倉の言葉に、真宮寺教授が涼しい顔で答える。
「過酷な消耗戦になればなるほど、レッドバンデの『菊花賞5着』という同世代トップクラスとの長距離激闘の実績と、56キロという軽さが絶対的な力を持つの。そしてアクアヴァーナルも同じよ。スタミナ勝負になれば、彼女の無双の3000メートル適性と55キロの最軽量ハンデが、バテた男たちを撫で斬りにするわ」
「おおー! 男たちがバタバタ倒れる中、涼しい顔で駆け抜けるヒロイン! かっこええ! ほな、次が問題や。3位は誰ですか!?」
「3位は、私が先ほど『泥沼のラスボス』と評したマイネルエンペラーよ」
真宮寺教授の言葉に、若葉が「やっぱり!」と手を叩いた。
「出た! ここでラスボス覚醒や! みんなが泥沼で苦しむ中、一人だけスタミナ無尽蔵で突っ込んでくるんですね!」
佐倉が大きく頷く。
「その通りです。世間の予想オッズでは7番人気、17倍もつく大穴です。近走の不振だけで見くびられていますが、天皇賞5着、日経賞1着の実績を持つ彼にとって、タフな展開はまさに独壇場。波乱の立役者として、最も美味しい馬券になります」
「泥沼のラスボスが美味しい馬券に変身! 最高や! ほな、4位と5位は?」
若葉が目を輝かせながら急かす。
「ここで、一度は『実力不足の王様』として切り捨てたキングスコールが4位に浮上します」
佐倉がホワイトボードに名前を書き加えた。
「えっ、王様復活!? なんでですか! さっき『プロの豪速球にバットへし折られる』って言うてましたやん!」
真宮寺教授は眼鏡の奥で鋭い光を放った。
「ええ、実力不足なのは事実よ。でも、人気馬たちが重圧と距離で自滅して『豪速球を投げられなくなった』としたら? キングスコールは前走、今回と全く同じ阪神3000メートルで2着に入っているわ。強豪が勝手に崩れていく泥仕合なら、この『同じコースを走り切った経験値』だけで、しぶとく3着に滑り込む確率が跳ね上がるの」
「なるほど! 周りが自滅するんやったら、コースを知ってる王様が棚からぼた餅で生き残るんや! ほな、最後の5位は!?」
「5位は、消去法でファミリータイムね」
真宮寺教授の言葉に、若葉がズコーッと大げさにずり落ちた。
「消去法!? 家族の絆、まさかのギリギリ滑り込み!? でも、なんで『実力不足の王様』より下なんですか? ファミリータイム、2400メートル以上なら【4-2-1-2】って、めっちゃええ成績持ってますやん! むしろ王様より上ちゃうん!?」
(鋭いわね、若葉。素人の直感は時に、データが示す見せかけの優位性を突く。でも、そのデータの奥底にある『質』の違いまでは見えていない)
真宮寺教授は少しだけ口角を上げ、若葉に向き直った。
「素晴らしいデータを見つけてきたわね。でも、競馬において『2400メートル』と『3000メートル』は、別の競技と言っていいほど違うの。ファミリータイムの好成績は、あくまで中距離の延長線上にあるもの。未知の3000メートルを走る彼と、すでに今回と同じ阪神3000メートルで結果を出しているキングスコール。極限の消耗戦で頼りになるのは、圧倒的に後者の経験値よ」
「うわぁ……距離の壁、どんだけ高いんや! 2400と3000は別のスポーツ! サッカーとラグビーくらい違うんか!」
若葉の極端な例えに、佐倉が吹き出しそうになるのを堪えながらまとめた。
「つまり、人気馬が飛ぶ大波乱を想定した場合、1位レッドバンデと3位マイネルエンペラーの組み合わせが、最も論理的で爆発力のある『黄金の馬券』になるということです」
「よっしゃー! 黄金の馬券、見えたり! これで今週末は焼肉食べ放題やー!」
若葉が両手を突き上げて歓喜の声を上げる中、真宮寺教授はモニターに映る完成した予想印を、どこか冷めた目で見つめていた。