◀第3話:盾の陽気な男と、へっぽこ戦訓練の朝
▶第7話:はじめての討伐、僕らの足並みはまだ揃わない
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第5話:黒板の前で、僕は“感情”を数式にした
王立魔導学院の教室は、今日も“古き良き魔導空間”だった。
木造の机には魔力の焦げ跡が残り、壁には色褪せた魔導図が斜めに掛かっている。窓から差す光が、結界の光輪に反射して、教室全体がうっすらと青く染まっていた。
生徒たちはざわざわと席につきながら、今日の授業内容を予想していた。
「今日は“魔法でパンを焼く”とかだったらいいな〜」と、後ろの席のマークが言えば、
「お前、それ毎回言ってるだろ」とクロスがツッコミを入れる。
「だって、魔法で焼いたパンって、なんか“運命の味”しそうじゃん?」
「お前の運命、炭になってるぞ」
(……パンの話で盛り上がる魔導学院、平和すぎる)
アリア・アーデルは、教室の前方の席に静かに座っていた。 指先をとんとんと叩きながら、黒板の前に立つ教授を見つめる。
年配の魔導教授——グレイ・バルムート。 白髪を後ろに束ね、眼鏡の奥の目は鋭いが、どこか優しさが滲んでいる。
「さて、諸君。今日は“理論と感情の接点”について、実験的に学んでもらう」
その一言で、教室の空気がぴりりと引き締まった。
「魔法は、構築と演奏の両面を持つ。構築は精密さ、演奏は感情の流れ。今日はその“交差点”に立ってもらう」
(……交差点、か)
アリアの胸が、少しだけざわついた。 理論ならわかる。構築式も演算も、頭の中にはある。 でも、“感情”を魔法に乗せるなんて——それは、彼にとって未知の領域だった。
隣の席で、リンネが小声で囁く。
「アリア、今日こそ“ぽわ〜ん”ってやるチャンスだよ」
「……それ、アイリス語録じゃない?」
「うん! でも、気持ちが乗れば“ぽわ〜ん”ってなるって、アイリスが言ってた!」
(……定義が曖昧すぎる)
それでも、アリアは指先をとんとんと叩きながら、黒板に書かれた“感情魔法の基礎式”を見つめた。
今日の授業は、彼にとって——小さな一歩になるかもしれない。
「では、まず理論魔法と感情魔法の違いを、簡単におさらいしよう」
グレイ教授が、黒板にチョークで二本の線を引いた。 一方には「構築式」、もう一方には「感情波動」と書かれている。
「構築式とは、魔力の流れを数式と図式で制御するもの。精密で安定しているが、柔軟性に欠ける。対して感情魔法は、魔力を“感情の波”に乗せて増幅・変調する。即興性が高く、演奏に近い」
教授は、手元の魔導具を軽く叩いた。 すると、机の上に小さな光の球が浮かび上がる。
「これは構築式による光球。安定しているが、変化はしない」
次に、アイリスが前に呼ばれた。
「アイリス、君の“演奏”を見せてくれ」
「はーいっ!」
彼女は、両手を胸の前で合わせ、目を閉じた。 そして、ふわりと息を吐くと——
光が、舞った。
まるで音符のように、空中を跳ね、揺れ、踊る。 色も形も、彼女の感情に合わせて変化し、まるで“魔法のワルツ”のようだった。
「……すごい」
教室中が、息を呑んだ。
アリアも、思わず見入っていた。 構築式ではありえない、自由で、柔らかくて、でも確かに“魔法”だった。
(……あれが、感情魔法)
教授が頷きながら言う。
「感情魔法は、理論では説明しきれない“揺らぎ”を含む。だが、それが力になることもある。今日は、その“揺らぎ”を体験してもらう」
アリアは、ノートに構築式を書きながら、ふと手を止めた。
(……感情を、魔法に乗せる? どうやって?)
彼の頭の中には、数式と構造図が並んでいる。 でも、そこに“気持ち”を入れる場所は——どこにもなかった。
「アリア、顔が“とんでもない難問にぶち当たった顔”になってるよ」
隣のリンネが、ひそひそと囁く。
「……たぶん、正解」
「大丈夫! “ぽわ〜ん”ってすれば、なんとかなるって!」
「……それ、万能呪文じゃないからね?」
それでも、アリアの口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
難しい。でも、面白い。 それが、今の彼の正直な気持ちだった。
「では、各自、簡易結界を構築しつつ、感情パラメータを調整してみなさい」
グレイ教授の指示で、生徒たちは机の上に魔導具を並べ始めた。 結界の基礎式は、アリアにとってはお手の物。問題は——“感情”だった。
(……感情を、式にどう入れるんだ? “怒り+0.3”とか? “喜び×2”とか?)
アリアは、魔力制御装置を手に取り、深く息を吸った。 構築式は完璧。だが、魔力が流れ始めた瞬間——
「……あれ?」
結界が、ふわっと膨らんだかと思うと——
ぱんっ。
小さな爆ぜる音とともに、机の上に花びらが舞った。 なぜか、桜色。なぜか、香りつき。
「……え、今の何?」
「アリア、春が来たの!?」
「……いや、僕も知らない……」
周囲がざわつく中、リンネが駆け寄ってきた。
「大丈夫!? 顔が“春の魔法に戸惑う顔”になってるよ!」
「そんな顔、あるの……?」
「ある! 今のがそう!」
アリアは、思わず苦笑した。 だが、内心は焦っていた。魔力は確かに流れた。けれど、制御できなかった。
(……やっぱり、僕には無理なのか)
そのとき、アイリスがそっと近づいてきた。
「アリア、ねえ、ちょっとだけ“わくわく”してみて?」
「……わくわく?」
「うん! “できるかも”って思うと、魔法も“やってみるか”ってなるから!」
(魔法、そんなノリで動くの……?)
でも、彼女の笑顔を見ていると、不思議と——少しだけ、信じてみたくなった。
アリアは、再び構築式を描いた。 今度は、ほんの少しだけ、胸の奥にある“好奇心”を思い出しながら。
(……できるかも)
魔力が、流れた。
結界が、ふわりと立ち上がる。 今度は、暴走しない。花も咲かない。 ただ、淡い光が、机の上に静かに浮かんだ。
「……できた」
アリアの声は、驚きと喜びが混ざっていた。
「やったじゃん!」とリンネが笑い、
「“ぽわ〜ん”の第一歩だね!」とアイリスが拍手した。
アリアは、指先をとんとんと叩いた。 その音が、少しだけ弾んで聞こえた。
実技の時間が終わり、教室には静かな余韻が漂っていた。 魔導具の光がゆらゆらと揺れ、結界の残光が机の上に淡く残っている。
「おいアリア、さっきの結界、なんか“やさしい味”したぞ!」
クロスが後ろから声をかけてきた。 味じゃなくて雰囲気の話だと思いたい。
「……味はしてないと思うけど」
「いや、なんかこう……“ほんのり安心感”っていうか、“おふくろの味”っていうか!」
「それ、魔法じゃなくて味噌汁の話じゃない?」
「おっ、リンネと同じこと言ってるな!」
「えっ、私、味噌汁枠なの!?」
リンネが思わず立ち上がり、机にネギをぶつけそうになる。 (なぜか今日も持っていた)
そんなやりとりに、教室のあちこちから笑いが漏れた。
グレイ教授は、そんな生徒たちを見渡しながら、静かに言った。
「魔法は、理論だけでも、感情だけでも不完全だ。だが、両方を知る者は——強い」
その言葉に、アリアはそっと指先をとんとんと叩いた。
(……少しだけ、変わった気がする)
魔法が完璧に戻ったわけじゃない。 感情を自在に操れるようになったわけでもない。 でも、今日の“ぽわ〜ん”は、確かに自分の中から生まれたものだった。
それは、小さな一歩。けれど、確かな一歩。
「アリア、次は“きらきら”を目指そうね!」
「……それ、またアイリス語録?」
「うん! “きらきら”は“ぽわ〜ん”の進化系らしいよ!」
「……魔法、ポケ◯ンみたいになってない?」
笑いながら、アリアはノートを閉じた。 その手の中には、今日の授業で得た“感覚”が、確かに残っていた。
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第6話:君の笑顔が壊れないように — 小さな兆し
港町エルネアの海辺は、今日も穏やかだった。 潮風が髪を揺らし、波が砂浜をさらう音が心地よく響く。観光客の笑い声と、カモメの鳴き声が混ざり合い、まるで町全体がひとつの楽曲を奏でているようだった。
「アリア、見て見て! カモメがダンスしてる!」
アイリスが突然、両手を広げて走り出した。 彼女の足が砂を蹴り、波打ち際へと飛び込む。靴を気にする様子もなく、波に足を突っ込んで笑っている。
「……ダンスじゃなくて、ただ歩いてるだけだろ」
「違うよ! ほら、ピロリン♪」
アイリスが指先をひらりと動かすと、小さな魔法音が鳴った。 カモメが驚いたように首を振り、次の瞬間——謎のステップを踏み始めた。
「……絶対お前のせいだろ」
「えへへ、カモメもノリがいいんだね!」
アリアは額に手を当て、ため息をついた。 だが、その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
彼女は波に足を突っ込み、スカートをひらひらと揺らしながら、海鳥を追いかけている。 その姿は自由奔放で、まるで海そのもののように制御不能だ。
(……振り回されてるはずなのに、不思議と心が軽い)
アリアは指先をとんとんと叩いた。 それは考える癖だったが、今はただ、彼女の笑い声に合わせるようにリズムを刻んでいた。
「アリアも来て! 波、冷たくて気持ちいいよ!」
「……靴が濡れるだろ」
「じゃあ脱げばいいじゃん!」
「……簡単に言うな」
結局、アリアも靴を脱ぎ、波打ち際に立った。 冷たい水が足を包み、潮風が頬を撫でる。 隣で笑うアイリスの声が、海の音よりも鮮やかに響いていた。
(……こうして並んで歩くのは、悪くない)
彼の胸の奥で、ほんの少しだけ温かいものが芽生えていた。
海辺を走り回っていたアイリスが、ふと立ち止まった。 肩で息をして、胸に手を当てる。ほんの少しだけ、呼吸が乱れていた。
「……あれ、ちょっと走りすぎちゃったかな」
彼女は笑いながら、軽く咳をしてみせる。 その仕草は、まるで「たいしたことないよ」と言わんばかりに明るい。
「大丈夫か?」
アリアは思わず足を止め、彼女の横顔を見つめた。 潮風に揺れる髪、笑顔の奥にほんの一瞬だけ見えた影。 だが、次の瞬間には、アイリスが両手を広げて笑っていた。
「へへっ、海風が強いからちょっとむせただけ! ほら、見て、カモメがまだ踊ってる!」
「……いや、あれはもう普通に飛んでるだろ」
「違うよ! 心の目で見ればまだステップ踏んでる!」
(……心の目って便利だな)
アリアは、彼女の笑顔に押されるように、深く追及することをやめた。 けれど、胸の奥に小さなざわめきが残る。 ほんの一瞬の息切れ。ほんの一瞬の咳。 それは、彼女の明るさの裏に隠された何かを、かすかに示しているように思えた。
だが、アイリスは再び波打ち際へと駆け出した。 その背中は、いつも通り自由で、眩しくて、追いつけないほどに軽やかだった。
(……気のせい、か)
アリアは指先をとんとんと叩いた。 その音が、波のリズムに紛れて消えていった。
海辺を歩き疲れた二人は、港町の公園に立ち寄った。 木陰のベンチに腰を下ろすと、潮風のざわめきが少し落ち着いて、町の子供たちの笑い声が響いてくる。
「ふぅ〜、走りすぎちゃった。アリア、座ろ座ろ!」
アイリスはベンチにどさっと腰を下ろし、両手を広げて伸びをした。 アリアも隣に座り、指先をとんとんと叩きながら考え込む。
「……またそれ。アリアって、考えるとき必ず“とんとん”するよね」
「癖だから」
「じゃあ、私もやってみよ!」
アイリスはアリアの真似をして、机もないベンチの上で指先をとんとん叩き始めた。 しかもテンポがやたら良く、リズムが軽快すぎる。
すると、公園で遊んでいた子供たちがその音に合わせて踊り出した。 まるで即席のダンスパーティー。拍手まで起こる。
「……おい、やめろ。僕の癖が町の娯楽になってる」
「えへへ、いいじゃん! “アリアのとんとんダンス”って名前つけよう!」
「……絶対やめろ」
アリアは顔を赤くしながら、アイリスの手を止めた。 だが、その頬の熱は、潮風のせいだけではなかった。
(……こんなふうに笑われるのは、悪くない)
彼女の無邪気さに、心の壁が少しずつ崩れていく。 指先の“とんとん”は、今や彼女とのリズムになりつつあった。
「アリア、もっと笑っていいんだよ。ほら、子供たちも楽しそう!」
「……僕が笑うと、余計に踊り出すだろ」
「それでいいじゃん!」
アイリスの笑顔は、海よりも眩しく、町よりも温かかった。 アリアは、思わず視線を逸らしながらも、心の奥で小さな灯を感じていた。
散歩と公園での休憩を終えた二人は、港町の街角にある小さなカフェへと入った。 木の看板には「本日のおすすめ:海風シフォン」と書かれていて、甘い香りが漂っている。
「わぁ〜! スイーツだ! アリア、絶対食べよ!」
「……僕、甘い物はちょっと」
「大丈夫! “ちょっと”ってことは“食べられる”ってことだよ!」
(……強引な論理だな)
結局、アイリスに押し切られ、テーブルには色鮮やかなケーキが並んだ。 アイリスはフォークを手に取り、にこにこと笑いながら言う。
「はい、アリア、“あーん”!」
「……いや、自分で食べるから」
「だーめ! これは“友情の儀式”!」
アリアは渋々口を開け、一口食べた。 その瞬間——
ぱちんっ!
小さな魔力が弾け、アリアの髪が逆立った。 さらにスプーンがふわりと浮き上がり、テーブルの上でくるくる回る。
「……な、なんだこれ」
「ぷっ……あははははっ! アリア、髪が“港町のカモメ”みたいになってる!」
「……絶対お前の魔力が混ざっただろ」
「えへへ、ケーキもノリが良かったんだよ!」
店内の客たちがざわつき、子供たちが「すごーい!」と拍手する。 アリアは顔を真っ赤にしながら、浮いたスプーンを必死に掴んだ。
(……恥ずかしい。でも、なんだろう、この温かさ)
アイリスは笑いすぎて涙を浮かべていた。 その笑顔を見ていると、アリアの胸の奥に、また小さな灯がともるのを感じた。
夕暮れの港町。カフェを出た二人は、海辺の道を並んで歩いていた。 空は茜色に染まり、波が金色に輝いている。観光客の笑い声も少しずつ減り、町は穏やかな余韻に包まれていた。
「今日は楽しかったね!」 アイリスが笑顔で言う。その声は、潮風よりも柔らかく響いた。
「……楽しかった、な」 アリアは小さく頷いた。指先をとんとんと叩きながら、自分の胸の奥を探る。 そこには、確かに“動いている心”があった。彼女と過ごす時間が、魔法よりも鮮やかに、自分を揺らしている。
(……感情を魔法に込めるって、こういうことなのかもしれない)
ふと、アイリスが足を止めた。 ほんの少しだけ、肩で息をしている。けれど、すぐに笑顔を作り直した。
「アリア、次はもっと大きなケーキ食べようね!」
「……いや、それは遠慮したい」
「だーめ! 友情の儀式は続くんだから!」
彼女は明るく笑い、再び歩き出す。 その背中を見つめながら、アリアの胸に小さなざわめきが広がった。 さっきの息切れ。さっきの笑顔の影。 気のせいかもしれない。けれど、心は静かに騒いでいた。
(……僕は、もっと彼女を見ていなきゃいけない)
潮風が二人の間を抜けていく。 アリアは初めて、自分の心が確かに動いていることを意識した。 それは、魔法の新しい可能性の芽生えであり、友情と憧れの始まりでもあった。
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第7話:はじめての討伐、僕らの足並みはまだ揃わない
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