夏の空は淡い青を溶かし込んだように柔らかく、薄桃色の雲がゆっくり流れていた。世界が静まり返ってから、季節は以前よりも穏やかになったように感じる。かつて喧騒と人の熱気で満ちていた場所も、いまはただ優しい風と陽光に抱かれて眠っている。
その廃遊園地も例外ではなかった。入口のゲートは半ば倒れかけ、看板の文字は色あせてほとんど読めない。けれど足元には色とりどりの花が咲き乱れ、舗装された道の亀裂を彩っていた。風が運ぶ草木の香りは濃く、すれ違うたびに姉妹の衣服をくすぐる。
「わぁ……お花がいっぱい!」
黄色いワンピースがぱっと明るく揺れた。妹は抱えていたぬいぐるみを片腕に持ち替え、膝をついて花を摘み始める。花の名など知らなくても、そこにある色彩の喜びを心で感じているのだろう。子どもの笑顔は、どんな世界にあっても眩しい。
姉は遠くでそびえ立つ観覧車を見つめていた。いや、正確には“観覧車だったもの”だ。巨大な骨組みは片側に傾き、錆びた鉄の軋む音が風に合わせて小さく響く。ゴンドラのいくつかは落ち、残るものも鎖にかろうじて揺れながらぶら下がっている。しかしその中心を、まるで守るように無数の花が取り囲んでいた。崩れゆく鉄の冷たさと生命の色彩が同じ場所で混ざり合い、どこまでも奇妙で、そして美しかった。
「お姉ちゃん、ここ来たことあるの?」
妹の問いかけが風に運ばれて届く。姉は小さく微笑み、うなずいた。
「うん、小さい頃。まだ遊園地が賑やかだった頃。パパがここの観覧車に乗せてくれたの。高くて、怖くて、でもね……すっごく楽しかった」
「楽しかった?」
「うん。あのときのわたしには、世界が全部キラキラして見えた」
それは嘘ではない。記憶の中の光は暖かく、真っ直ぐで、疑いを知らなかった。観覧車が上りきった瞬間、父と母が顔を見合わせて笑い、弟のように無邪気だった自分は声を上げて喜んだ。世界は無限に広がっていると信じて疑わなかった。
あれから世界は終わった。文明は音もなく崩壊し、人々は消え、思い出のほとんどは戻らない。けれど、ここにはまだ名残があった。残骸の中にこそ、確かに生きた時間が刻まれていた。
姉は観覧車のそばまで歩き、錆びついたゴンドラにそっと手を触れた。指先にひんやりした鉄の感触が伝わる。過ぎ去った時間を手繰り寄せるように、ゆっくりと目を閉じた。
「また乗りたかったな……もう一度、あの高さから景色を見たかった」
声というより、吐息だった。叶わないことを言葉にした瞬間、胸に押しとどめていた寂しさが波のように押し寄せて、喉が震えた。
そのとき、背中に温もりが触れた。妹がぎゅっと抱きしめていた。
「じゃあさ、いま見よっ。観覧車みたいに、いっしょに上から見る景色」
姉は目を開き、振り返った。妹は本気だった。幼いことばなのに、深く強い意志がこもっていた。
「ほら、ここに立って。私も立つから。高くなくてもいっしょに見たら観覧車だよ」
妹はゴンドラの前、少し高さのあるコンクリートの土台の上に立ち、手を差し伸べた。姉は思わず笑ってしまう。涙を飲み込みながら手を取り、横に並んだ。
たった数十センチの高さ。でも風の匂いと、空のひろさと、妹の手のぬくもりが重なると、それはたしかに観覧車の一番上に届くような感覚がした。
「きれい……」
視界に広がる花畑の色、空の淡い青、粉のように舞う花弁。崩れた遊具たちは寂しさではなく、静かな安らぎの中にあった。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なに?」
「思い出って、なくならないんだね」
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、そしてほぐれていく。言葉にならない感情が温かく流れ込む。
「……うん。なくならない。ちゃんとここにある。わたしたちの中にも」
姉は妹の手を握り返した。もう一度、強く。
世界が滅びても、笑い声が消えても、覚えている限り――生きてきた証はここに残る。
沈みかけた太陽が鉄骨の隙間から金色の光を注ぎ、観覧車と姉妹を照らす。傾いた巨大な輪はまるで祝福するように静かに佇んでいた。
「行こう。まだ見たい場所、いっぱいあるでしょ?」
姉がそう言うと、妹は花を胸いっぱいに抱え、嬉しそうにうなずいた。黄色のリボンが夕風になびき、二人の影が長く伸びる。
廃遊園地を出ていくその背中は、どこか誇らしげだった。過去を思うだけの旅ではない。未来を探す旅でもあるのだと、姉は気づき始めていた。
金色の光の中、風がそっと吹く。花が揺れ、鉄骨がきしむ。世界は静かで、そして美しい。
姉妹は手を取り合い、次の思い出へ続く道を歩き出した。
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