風が草原を撫でるように通り抜け、廃駅に残る古い遮断機がからん、とかすかな音を立てた。かつて列車が行き交い、人々の笑い声が響いていたはずのホームは、今や夏草に覆われ、夕暮れの金色の光の中で静かに眠っている。
少女はそのホームの縁に立ち、遠くの線路の向こうをじっと見つめていた。陽に照らされた黒髪が風に揺れ、ややウェーブのかかった毛先が柔らかくきらめく。白いワンピースの裾がそよぐたびに、かつての夏の記憶が呼び起こされるようだった。紺色のカーディガンの袖口は少しだけほつれており、肩にかけた使い込まれたリュックは、長い旅路を物語っていた。
「…ここ、覚えてる?」
少女――姉の問いに、妹は小さくうなずいた。黄色のワンピースを揺らし、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、姉の腕に寄り添う。ぱっつん前髪の下の大きな瞳は、無邪気さを残しつつも、姉の想いを理解しようとするようにまっすぐだった。
「お姉ちゃんが、小さい頃ここから電車に乗って、キャンプに行ったんだよね」
「そう。あのとき…あのときだけは、家族みんな笑ってた」
姉は微笑んだ。けれどその表情の奥には、やはり消えない痛みが滲んでいた。文明が崩れ、街が消え、人々が姿を消してしまった今となっては、もう誰も同じホームに降り立つことはない。けれど、風の音と草の匂いさえ変わらなければ、あの日の影がまだどこかに残っている気がした。
ふと線路から温かな風が吹き抜け、舞い上がった埃や花粉が夕陽に照らされ、黄金色にきらきらと輝く。まるで過去の記憶が、光の粒となって宙にあふれ出していくようだった。
「ねぇ、お姉ちゃん。悲しいの?」
妹の声は、掠れるようにやさしかった。幼いはずなのに、まるで誰かを救おうとするような響きを含んでいた。
姉は首を横に振る。
「悲しいというより…ここにいた頃の自分が、すごく遠く感じるの。もう戻れない場所を見てるみたいで」
「でもさ、今もお姉ちゃんの中には残ってるんだよ、きっと」
その言葉に、姉の瞳がかすかに揺れた。失ってしまったと思っていたものが、まだ自分の手の中にあるかのように。
遠くで鳴き始めたヒグラシの声が世界をやさしく包む。廃駅に静かに夜が近づき、風が二人の間をすり抜けた。草の香りと温かな夕日、そしてかすかに漂う古い油の匂いが、滅びた世界とは思えないほど豊かな夏の気配を伝えてくる。
「行こっか。もうすぐ暗くなる」
姉はリュックの紐を握り直し、ホームを離れようと一歩踏み出した。だが妹はその手を引き止めた。
「ねぇ、また来よ。ここ、忘れたくないから」
姉は驚いたように振り返り、そして穏やかに笑った。
「うん。必ず戻ってこよう」
その笑顔には、ほんのわずかだけ光が宿っていた。もう誰もいない世界の中でも、思い出は消えない。消えるとしても、自分たちが覚えている限り、きっと完全には失われない。
姉は妹の手を強く握り返した。夕暮れの黄金色が二人の姿を包み込み、影は線路の先へと長く伸びていく。まるで未来へつながる一本の道のように。
風がまた吹いた。草が揺れ、髪が揺れ、光の粒が舞う。その瞬間、姉はふいに気づいた。ここにあるのは終わりではなく、旅の一部なのだと。
滅びた世界のどこかに、まだきっと美しいものが残っている。懐かしさに縛られて立ち止まってしまう日もある。でも、自分を支えてくれる小さな手がある限り、歩き続けられる。
姉妹は手をつないだまま、沈みゆく太陽へ向かって歩き出した。遠くで線路が輝き、まるで夏の終わりが静かに祝福を送っているようだった。
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