夜風は昼間の熱をすっかり手放し、冷えた空気を姉妹の頬に触れさせていた。廃墟となった高層ビルの屋上は静まり返り、風の音と遠くで揺れるネオンサインの微かなノイズ以外、何ひとつ響かない。世界はとっくに終わっているはずなのに、足元の都市にはいまだ灯りが点っていた。かつて人々が暮らし、笑い、泣き、働き、息づいていた街の光が、誰もいないはずの夜にぼんやりと浮かび上がっている。
姉は建物の縁に腰を下ろし、崩れた街並みの向こうに揺れる光をじっと見つめていた。黒髪が風に流れ、白いワンピースの布が細かく震える。静かな表情には懐かしさと痛みがゆっくりと滲んでいた。まるで胸の奥の傷に触れてしまわないよう、息を潜めて過去をたぐり寄せているかのように。
「……この景色、昔にも見たんだ」
ぽつりと漏れたその声は、とても優しい響きをまとっていた。
「ここに住んでいた頃ね。夜、窓から見える街の光が大好きだった。どこかで誰かがまだ起きていて、どこかで笑っていて、どこかで泣いていて……そんな全部が光になって、夜を照らしてるんだって思ってた」
あの頃の自分はそれを当然だと思っていた。街が眠らないのは、そこに確かな“生”があったからだと。だがいま、都市の灯りはただ揺れている。そこに人はいない。それなのに、まるで過去の夢をまだ照らし続けているように沈まない。
隣で妹が寄りかかってくる。ぬいぐるみを抱きしめたまま、うつらうつらと眠気と戦っているようだった。黄色いワンピースの肩が小さく上下し、規則的な呼吸が姉の腕に伝わる。
「眠い?」と姉は囁く。
妹は首を小さく横に振ったけれど、瞼は落ちかけていた。それでも、そばから離れまいとぎゅっと姉の袖を握っている。その仕草は守られているようでありながら、同時に姉を守ろうとしているようでもあった。
「……お姉ちゃん、泣いてないよね?」
消え入りそうな声だったが、耳に届いた。
姉はしばらく答えなかった。夜の冷たい風に涙を取られないように、胸の奥の揺れを静かに抑え込もうとしていた。そしてやっと、小さく笑う。
「泣いてないよ。でも、ちょっとだけ寂しいかな」
「寂しい?」
「うん。ここにいた人たちの気持ちを思うとね。みんな、明日もまた光が灯るって信じてたんだろうなって。でも、その明日は来なかった」
街の光がガラス片や水たまりに反射し、屋上まで柔らかい輝きを運んでくる。遠い星々の光と混ざり合い、世界が生きていた記憶が夜空を埋め尽くしているようだった。
妹はしばらく黙っていた。そして、不意に言った。
「でもね、光はちゃんと生きてるよ。ほら、見て。全部きれいだもん」
その声には、子どもらしい無邪気さと真っ直ぐさがあった。誰もいない世界を、それでも美しいと受け止める純粋さ。姉は胸の奥が熱くなるのを感じた。大切なものは失われても、感じる心が残っていれば光はまだ意味を持つのだと気づかせてくれる。
「……そうだね。きれいだね」
妹の頭をそっと撫でると、小さくうとうと揺れ、ついに姉の肩に体を預けて眠り込んだ。柔らかな重みが寄り添い、胸の奥に静かな温かさを満たしていく。
都市の灯りはいつまでも瞬き続けている。まるで「まだ終わりじゃない」と告げるように。滅びた世界の中でも、過去の記憶と未来への願いの境界線を曖昧にしながら、存在を主張している。
姉は空を見上げた。星が無数に散りばめられ、夜空の深さに吸い込まれそうだった。風に乗って漂う霧の粒が光源を柔らかく揺らし、世界全体が静かに呼吸をしているように思える。
「ねぇ、また旅を続けようね」
目の前の光に向け、小さく呟いた。
「まだ見ていない場所、まだ思い出していないこと、たくさんあるはずだから」
それは妹に向けた言葉であり、自分自身に向けた願いでもあった。失われた世界を歩く旅は、過去に縋るだけのものではない。思い出を確かめながら、それでも未来へ足を踏み出していくためのものなのだ。
そっと腕の中で眠る妹を抱き寄せ、軽く体を預けた。もう少しだけ休んでから歩き出せばいい。それでも夜はやさしく、世界は静かで、光はここにある。
文明を失った街が灯した明かりは、確かに人間の温度を覚えている。心の奥でまだ消えない想いが、この夜空に寄り添い続けている。
「おやすみ。大丈夫だよ。わたしがずっと一緒にいる」
哀しみを抱えながら、それでも希望を灯すように、姉はそう告げる。
風がそっと吹く。星が瞬く。光が揺れる。
滅びた世界の夜は、静かに、そして優しく二人を抱きしめていた。
|