◀第13話:すれ違いの一ページ、アイリスのための空席
▶第17話:リンネの夜、コトネの朝 — それぞれの物語
|
|
第15話:影の観客たち — 目を細める二人 風が丘の稜線を渡り、枯れ草をざわめかせる。遠くでは森の奥から黒い煙が立ち上り、時折、戦闘の音が響いてきた。金属がぶつかる音、魔法の閃光、獣の咆哮――それらは距離を隔てても十分に緊張を伝えてくる。
その稜線の上に、二人の影が潜んでいた。 一人は低姿勢で岩陰に身を寄せ、魔導観測器を静かに覗き込むナギ。冷静な眼差しは戦場を盤面のように捉え、指先は淡々と記録を走らせている。 もう一人は少し離れた場所で、落ち着かずに手を動かし続けるマーク。草をむしったり、拳を握ったり、時折立ち上がりそうになってはナギに睨まれて座り直す。
「……静かにしろ。音が響く」 ナギが低く告げる。
「うわぁ、見ろ、見ろ! あそこ! アリアが結界張った! すげぇ!」 マークは少年のように興奮し、声を抑えきれない。手をばたばたさせながらナギの肩を叩こうとするが、冷たい視線で止められる。
「実況は不要だ。黙って観ろ」 「だって! あの動き、英雄だろ!? 俺、鳥肌立ったぞ!」 「鳥肌は勝手に立て。こちらに報告するな」
ナギの毒舌に、マークは「ひどいなぁ」と笑いながらも、目は戦場から離れない。 彼らがここにいる目的は曖昧だ。雇われて視察しているのか、好奇心で覗いているのか――それはまだ明かされない。だが二人の第一印象ははっきりしていた。冷静沈着な観察者と、陽気で心酔する観客。性格の対比が、稜線の風よりも鮮やかに際立っていた。
ナギは岩陰に身を潜め、魔導観測器を覗き込んだ。遠くの戦場ではアリアたちが動いている。結界の光が断続的に揺らぎ、クロスの剣閃が時折火花を散らす。アイリスの旋律魔法は淡い光の波となって森を震わせ、リンネの結界補助がその隙間を埋めていた。
(……配置は悪くない。囮、封鎖、支援、そしてフィニッシュ。基本的な四役が噛み合っている。問題は残滓の干渉だな)
ナギは冷静に分析を続ける。 結界の揺らぎは周期的だ。アリアはそれを読んで小結界を分散させている。棋士が盤面を読むように、数手先を想定しているのが見える。
(三秒後に残滓の波。アリアはそれを計算している。……面白い。理論だけでなく、即応の柔軟さもある)
観測器のレンズ越しに、アリアの指先がとんとんと動くのが見えた。ナギは小さく頷く。
(癖を戦術に組み込んでいるのか。指先のリズムが思考のテンポ……なるほど)
その横で、マークが小声で騒いでいる。 「見た!? 今の! アリアが結界を割って、すぐに組み直した! 天才だろ!」 「……騒ぐな。こちらは分析中だ」 「いやいや、俺は感動中だ!」 「感動は勝手にしろ。報告は要らない」
ナギの辛辣な一言に、マークは「冷たいなぁ」と笑う。だがナギは観測器から目を離さない。
(この者は……ただの理論屋ではない。盤面を読む眼を持ち、仲間を活かす指揮をしている。……面白い)
冷静な観察の中に、ナギの心に小さな興味が芽生え始めていた。
マークは岩陰から身を乗り出し、戦場を見ては小さな歓声を漏らしていた。 「うおおっ! 見たか!? アリアが結界を割って、すぐ組み直した! あれは芸術だ!」 拳を握りしめ、まるでスポーツ観戦の観客のように熱を込める。
ナギは観測器を覗いたまま、冷静に返す。 「芸術ではなく、応急処置だ。結界の揺らぎを分散させただけだ」 「いやいや! その応急処置が美しいんだよ! ほら、指先のリズム! とんとんって、あれはまさに英雄の鼓動!」 「……鼓動を指で表現する者がいるか。比喩が雑だ」
マークは気にせず、さらに実況を続ける。 「アイリスの旋律! 見ろよ、光が舞ってる! あれは奇跡だ! 俺、泣きそう!」 「泣くな。観察に支障が出る」 「リンネの結界もすごい! あの細やかさ、まるで母のような包容力!」 「母と比較するな。戦術的補助だ」
ナギの淡々としたツッコミに、マークは笑いながらも止まらない。 「クロスの突撃! あれは勇者の一撃だ! 俺も走りたい!」 「走るな。こちらは観察者だ」 「でも心が走ってる!」 「……心が走るなら黙って座っていろ」
マークの実況は止まらず、ナギの冷静さとの対比が際立つ。 ナギは分析を続けながらも、マークの熱量に呆れ半分、妙な面白さを感じていた。
(……この男の心酔は過剰だが、観察対象への評価を高める効果はある。アリアの動きが“英雄的”に見えるのも事実だ)
戦場の光と影を前に、二人の観察は冷静と熱狂の二重奏となっていた。
戦場の光が一瞬落ち着き、遠景にアリアたちの姿が小さく映る。ナギは観測器を下ろし、冷静に記録を取った。
(……結論。彼らの戦術は未熟だが、柔軟性がある。特にアリア。盤面を読む眼は確かだ。だが、仲間への負担を軽視している節がある。アイリスの消耗は顕著だ。……それでも、彼の指揮は“可能性”を感じさせる)
ナギの思考は冷静そのものだった。だが、心の奥に小さな揺らぎが生まれていた。 (……面白い。観察対象としてだけでなく、個人的に興味を持ち始めている。これは……余計な感情か?)
その横で、マークが拳を握りしめて叫んだ。 「よし! 決めた! 俺、アリアに弟子入りする! 師匠になってもらう!」 「……は?」 ナギが冷たい視線を向ける。 「お前は単純すぎる。弟子入り? 観察対象に飛び込む愚か者がどこにいる」 「愚か者でもいい! 俺は心が決めたんだ!」 「心で決めるな。頭で考えろ」 「頭はもう心酔してる!」 「……救いようがないな」
ナギは呆れながらも、マークの直球な熱意に少しだけ笑みを漏らしそうになる。だがすぐに表情を引き締めた。
(……アリアの弱さは、仲間を守りきれないこと。だが、その弱さを補う仲間がいる。だからこそ、彼は伸びる。……観察を続ける価値はある)
冷静な観察者のはずのナギが、初めて「個人的な興味」を抱いた瞬間だった。
戦場の音が遠ざかり、稜線には再び風の音だけが残った。ナギは観測器を静かに閉じ、手帳に短い記録を走らせる。筆跡は冷たく整然としていて、感情の揺れを一切見せない。
「観察完了――潜在値高し。接触は慎重に」 短い一行を残し、ページを閉じた。
一方のマークは、まだ興奮冷めやらぬ様子で拳を振り上げていた。 「よっしゃ! アリア最高! 俺、応援歌作るわ!」 その場で即興の歌を口ずさみ始める。調子は外れ、歌詞は「アリア! 結界! とんとん!」と意味不明だが、本人は満足げだ。
「……騒ぐな。風に乗って届く」 「届いたらいいじゃん! 応援だぞ!」 「応援は本人の耳に届いてからにしろ」
ナギは呆れたようにため息をつき、立ち上がった。枯れ草を踏みしめ、稜線を下りていく。マークは鼻歌を続けながら後を追う。
遠くに見えるアリアたちの背中は、小さく揺れていた。 ナギは冷静な観察者として、戦術的価値を見出した。 マークは心酔する観客として、英雄を夢見た。
二人の理由は違えど、視線の先は同じ。 その背中に、これからの物語の伏線が静かに刻まれていた。
|
第16話:夕焼けの屋上で、君は自分のことを笑った 学院の屋上は、夕暮れの光に包まれていた。空は茜から群青へとゆっくり色を変え、遠くの海からは潮風が吹き抜けてくる。古い鉄柵がきしむ音が微かに響き、屋根並みの影が長く伸びていた。戦いの喧騒から離れたこの場所は、不思議なほど静謐で、まるで世界が一度息を止めているようだった。
アリアは柵のそばに腰を下ろし、指先をとんとんと叩いていた。討伐の緊張がまだ体に残っているが、こうして屋上に座ると少しずつ心が落ち着いていく。彼にとって「とんとん」は呼吸のようなものだ。落ち着きを取り戻すバロメーターであり、無意識の癖でもある。
隣に座ったアイリスは、夕陽を受けて髪を金色に輝かせていた。頬にかかる風を楽しむように目を細め、ふっと笑う。 「ねえ、アリア。屋上って、パンの匂いがする気がしない?」 唐突な天然発言に、アリアは思わず指先のリズムを止めた。 「……潮風と夕陽の匂いじゃなくて?」 「うーん、でもほら、焼きたてのパンみたいにあったかい匂いがするんだよ」 (……いや、それは完全に君の空腹のせいだろ) 内心でツッコミを入れつつも、アリアは口元をわずかに緩めた。緊張がほどける瞬間だった。
屋上の空気は、二人だけの時間を優しく包み込んでいた。戦いの余韻と、これから語られる深い話の予感が、夕暮れの光に溶けていく。
夕暮れの屋上に、潮風が少し冷たく吹き込んだ。アイリスは柵に背を預け、空を見上げる。金色の髪が風に揺れ、彼女の横顔はどこか儚げだった。
「ねえ、アリア……」 声はいつもの明るさよりも少しだけ低い。 「私ね、時々怖くなるんだ。魔法を使うと、体がすごく疲れるでしょ? みんなを守りたいのに、私が先に倒れちゃうんじゃないかって」
アリアは黙って聞いていた。指先をとんとんと叩きながら、彼女の言葉を遮らないように心を落ち着ける。 (……やっぱり、彼女も不安を抱えている。どう支えればいい? 理論で説明するべきか、それともただ聞くべきか)
アイリスは続ける。 「短命だって言われてるの、知ってるでしょ? 私、あんまり長く生きられないかもしれないって。でも……それでも笑っていたいんだ。だって、暗い顔してたら、みんなも暗くなっちゃうから」
その言葉に、アリアの胸が少し痛んだ。彼女の明るさの裏に、そんな切なさが隠れていたのか。 「……」 彼は小さく頷くだけで、言葉を挟まない。聞くことが今は一番の支えだと感じたからだ。
アイリスはふっと笑って、唐突に言った。 「だからね、不安になったらチョコを三つ食べることにしてるの。三つ食べたら、なんか勝った気がするんだ」 (……いや、それは完全に糖分で誤魔化してるだけだろ) アリアは内心でツッコミを入れたが、口には出さない。彼女の天然な言葉が、場の空気を少しだけ軽くしてくれた。
屋上の風は冷たいが、二人の間には温かな時間が流れていた。アイリスの不安は確かに重いものだったが、それを語ることで少しだけ軽くなったように見えた。
アリアは指先をとんとんと叩きながら、少し考え込んだ。 「……感情魔法って、僕からすると“振幅の変化”に近いんだ。魔力の波を数式で表すと、感情が加わることで波形が歪む。普通なら不安定になるはずなのに、君はそれを旋律に変えて安定させている」
アイリスは首を傾げて笑った。 「難しい言葉だね。でも、私にとっては“歌う”みたいなものなんだ。心が震えると、魔力も震える。それを旋律に合わせると、綺麗に響くんだよ」 (……理論を感覚で説明されると、逆に納得してしまうのが悔しい)
アリアは小さな実験を試みることにした。 「じゃあ、少し合わせてみよう。僕が結界を組み替えるから、君は旋律を重ねてみて」 彼は無詠唱で小さな多重結界を展開する。透明な膜が空気に重なり、夕暮れの光を反射して淡く揺らめいた。
アイリスは目を閉じ、短い旋律を口ずさむ。声は風に溶け、結界の膜に触れると光が波紋のように広がった。 「……!」 アリアは驚いた。結界の振幅が、旋律に合わせて柔らかく変化している。理論では説明できても、実際に体感すると全く違う迫力があった。
「ほらね、歌うと魔法も歌うんだよ」 「……確かに。感情が振幅を変える……理論が感覚に追いついた気がする」
その瞬間、風が強く吹き、アリアが用意していた紙片が空へ舞い上がった。 「……あ」 「わぁ、紙飛行機みたい!」 (……いや、ただのメモが飛んだだけだろ) アリアは慌てて追いかけようとしたが、アイリスが笑って手を伸ばす。その笑顔に、失敗すら実験の一部のように思えた。
屋上の空気は、光と音の残滓で満たされていた。アリアは初めて「感情が魔法を変える」という事実を肌で理解した。理論と感覚が交わる瞬間に、二人の距離も少しだけ近づいていた。
屋上の空気は、先ほどの実験の余韻をまだ抱えていた。光の波紋が消えた後も、二人の間には不思議な温度が残っている。アリアは指先をとんとんと叩きながら、静かに息を整えた。
「……やっぱり、君の魔法は特別だ。感情を旋律に変えるなんて、普通の理論じゃ説明できない」 そう言うと、アイリスは少し俯いて笑った。 「特別なんて言われると、嬉しいけど……怖いんだよ。だって、特別って壊れやすいでしょ? 私、長くは生きられないかもしれないのに、みんなに期待されて……」
その言葉に、アリアの胸が締め付けられる。彼は黙って頷き、視線を彼女に向け続けた。 (……どうすれば支えられる? 理論じゃなく、心で答えなきゃいけない)
「僕も……昔、守れなかったことがある。だから今は、守りたいって思うんだ。君の魔法も、君自身も」 言葉は穏やかだったが、内心は震えていた。自分の弱さをさらけ出すのは勇気が要る。だが、彼女の不安に寄り添うには必要なことだった。
アイリスは目を見開き、そして柔らかく笑った。 「……ありがとう。私もね、怖いけど、それでも毎日を楽しく生きたいんだ。お菓子食べて、笑って、みんなと一緒にいて……それが私の魔法の源だから」 (……やっぱり天然だな。お菓子が魔法の源って、理論的にどう説明すればいいんだ)
アリアは心の中でツッコミを入れつつも、その言葉に救われていた。互いに「支え合いたい」という気持ちが、言葉を超えて伝わっていた。
屋上の風は冷たいが、二人の心は少しだけ温かくなっていた。
夕暮れの空はすでに群青に染まり、学院の屋上に夜の気配が忍び寄っていた。潮風は少し冷たく、柵の影が長く伸びる。二人は並んで立ち上がり、屋上を後にしようとしていた。
アイリスがコートを軽く直しながら、ふとアリアに笑いかける。 「ねえ、帰りにパン屋寄っていい? さっきからずっとパンの匂いがする気がするんだ」 (……やっぱり空腹が原因だったか) アリアは内心でツッコミを入れつつ、彼女の天然さに救われる思いがした。
階段へ向かう一瞬、二人の視線が交わる。言葉はなくても、互いに「支え合いたい」という気持ちが伝わっていた。アリアは心の中で小さく呟く。 (……感情魔法の理解が少し進んだ。理論だけじゃなく、彼女の心に寄り添うことが鍵なんだ。そして――守りたい)
屋上の扉が閉まる直前、遠くで結界の警報が微かに鳴った。夜の学院に新たな影が忍び寄る予感を残しながら、二人の背中は静かに階段へ消えていった。
|
第17話:リンネの夜、コトネの朝 — それぞれの物語
|