◀第17話:リンネの夜、コトネの朝 — それぞれの物語
▶第21話:君との約束は、まだ歌にならない
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第19話:小さな勝利、仲間と分け合った泥だらけの笑顔
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港町の朝は、潮風がほんのり甘く、空は薄い金色に染まっていた。波の音が遠くで揺れ、村人たちが早朝の市場を開き始める。そんな中、僕――アリアは装備の最終確認をしていた。指先をとんとんと叩きながら、結界具の調整をもう一度見直す。
「アリア、準備できた?」 リンネがパンの袋を抱えて駆け寄ってくる。朝食を配るのは彼女の恒例だ。 「うん。ありがとう、リンネ。……そのパン、クロスの分は?」 「もちろんあるよ。三つ」 「三つ!?」 「だってクロスだし」 (……確かに、彼は三つ食べそうだ)
そのクロスはというと、すでに気合い十分で跳躍の練習をしていた。 「よーし! 今日こそ俺の華麗な囮テクを見せてやるぜ!」 勢いよく踏み込んだ瞬間―― 「うおっ!?」 石につまずいて前のめりに転んだ。 「……開始前に倒れる囮ってどうなの?」 「いや、今のはウォーミングアップだ!」 (どんなウォーミングアップだよ)
村人の一人が笑いながら声をかけてくる。 「みんな、気をつけてな。最近、森の方で魔獣の影が見えるって噂だ」 「任せてください。被害は出させません」 僕は短く答え、仲間たちに向き直る。
「今回の目的は二つ。住民被害の防止と、魔獣の残滓適応の兆候を調べること。森の地形は複雑だから、クロスは囮、リンネは側面支援、アイリスは決定打の準備を。僕は結界の再構築を担当する」
「了解!」 「任せて!」 「おっけー! 囮は俺に任せろ!」
こうして僕たちは森へ向かう小径を歩き始めた。潮風が背中を押し、緊張と期待が胸の奥で静かに混ざり合う。 (……初めての本格的な討伐任務。絶対に成功させる)
森へ近づくにつれ、空気がひんやりと湿り始めた。港町の明るい潮風とは違い、森の入口には残滓が薄く漂っている。木々の葉はところどころ黒ずみ、小動物の姿が見えない。足元の土は柔らかく、踏むたびにじわりと水気が滲んだ。
「……嫌な気配がするね」 リンネが小声で言う。彼女は前方を見つめながら、耳を澄ませていた。 「小動物の足音がない。普段ならリスとか鳥とか、もっと騒がしいのに」 「残滓の影響だろうな」 僕は周囲の地形を確認しながら、指先をとんとんと叩く。
アイリスが目を閉じ、風の流れを読むように深呼吸した。 「……うん、森の奥に“ざわっ”てする気配がある。たぶん群れで動いてる」 「感覚的な表現なのに、妙に説得力あるよな」 クロスが苦笑する。 「だって本当に“ざわっ”てするんだもん」 (……擬音で説明されると逆に分かりやすいのがアイリスのすごいところだ)
僕は地形をざっと見渡し、魔獣の行動パターンを頭の中で組み立てる。 (湿地帯を避けて倒木の影を使う……群れで動くなら、先頭を誘導して側面を封じるのが最適だ)
「クロス、囮は倒木の右側から。魔獣は湿地を嫌うから、必ずそっちへ回り込む。リンネは左側の茂みで封鎖。アイリスは後方で魔力を温存して、決定打の準備を」 「了解!」 「任せて!」 「囮は俺に任せろぉぉぉ!」
クロスは気合いを入れすぎて、囮の練習を始めた。 「おーい魔獣ども! こっちだぞー!」 まだ魔獣はいないのに全力で叫ぶ。 「……クロス、まだ早い」 「えっ、そうなの?」 「当たり前だよ!」 リンネがツッコミを入れ、アイリスがくすくす笑う。
緊張感の中にも、いつもの空気がある。 (……大丈夫。みんながいる。連携さえ崩れなければ、必ず成功できる)
僕たちは慎重に森の奥へと進んでいった。
森の奥へ踏み込んだ瞬間、空気が一気に張り詰めた。湿地の匂いと残滓のざらついた気配が肌にまとわりつく。倒木の影が揺れ、低い唸り声が響いた。
「来るよ……!」 リンネの声が震える。だがその目は鋭い。
次の瞬間、茂みが弾け、黒い影が飛び出した。小型の魔獣――犬ほどの大きさだが、残滓に侵された体は異様にしなやかで、目が赤く光っている。しかも一体ではない。二体、三体……群れだ。
「よし、囮は任せろ!」 クロスが飛び出し、魔獣の前で派手に跳ね回る。 「おーい! こっちだぞー! 俺は美味しくないぞー!」 (……いや、囮なのに美味しくないアピールってどうなんだ)
魔獣たちはクロスに引き寄せられ、動きが一方向に集中する。僕はその隙を逃さず、指先をとんとんと叩きながら結界を展開した。
「多重小結界、位相再構築……よし、閉じる!」 透明な壁が魔獣の進路を塞ぎ、動きを制限する。魔獣がぶつかるたび、結界が低く震えた。
「リンネ、左側封鎖!」 「了解っ!」 リンネが素早く茂みに飛び込み、補助結界を重ねる。彼女の動きは不器用に見えて、実は正確だ。 (……幼馴染のくせに、こういう時だけ妙に頼もしい)
魔獣の動きが鈍った瞬間、アイリスが前に出た。 「いくよ……!」 彼女が短い旋律を口ずさむと、空気が震え、光が波紋のように広がった。魔獣たちが一瞬ひるむ。
「今だ、アイリス!」 「――響け!」
光の奔流が魔獣の群れを包み込み、残滓の膜を貫いた。魔獣たちは悲鳴を上げ、次々と倒れていく。
僕は最後の一体に向けて結界を再構築し、感情をほんの少しだけ乗せた。 (……守りたい。みんなを) その瞬間、結界の振幅がわずかに強まり、魔獣の動きを完全に封じた。
「アリア、ナイス!」 クロスが叫んだ直後―― 「うおっ!?」 倒れた魔獣の尻尾に足を取られ、派手に転んだ。 「……最後の最後で何してるの」 「いや、これは……戦術的転倒だ!」 (そんな戦術あるか)
緊張と笑いが入り混じる中、魔獣の群れは完全に沈黙した。
魔獣の群れを倒し終えた森は、さっきまでの緊張が嘘のように静まり返っていた。湿地の匂いはまだ残っているが、空気はどこか軽くなっている。僕たちは散らばった魔獣の残滓や資料になりそうな部位を回収しつつ、負傷者の確認に移った。
「クロス、腕ちょっと切れてるよ!」 リンネが駆け寄り、慌てて包帯を取り出す。 「お、おう……いや、これは戦士の勲章ってやつで――」 「はい動かない!」 リンネが強引に腕を掴み、手際よく包帯を巻く。 「いってててて! ちょ、ちょっと優しく……!」 「うるさい!」 (……リンネ、怒ると強い)
アイリスは少し息を切らしながらも、魔力の残滓を感じ取っていた。 「ふぅ……今回はちょっと歌いすぎたかも。でも、みんな無事でよかった」 「無理しないでね、アイリス。魔力の揺らぎが大きかった」 「うん、大丈夫。アリアが結界で支えてくれたから」 そう言って微笑む彼女の顔は、疲れているのにどこか誇らしげだった。
僕は回収した残滓サンプルを確認しながら、仲間たちに声をかける。 「今回の魔獣、残滓適応が進んでる。動きが速かったのはそのせいだと思う。だけど……」 指先をとんとんと叩きながら、言葉を続ける。 「みんなの連携が完璧だった。クロスの誘導、リンネの封鎖、アイリスの決定打……どれが欠けても成功しなかった」
クロスが胸を張る。 「だろ? 俺の囮テク、ついに開花したよな!」 「転んでたけどね」 リンネが冷静に突っ込む。 「いや、あれは……戦術的転倒だ!」 「そんな戦術ないよ」 アイリスがくすくす笑う。
僕は仲間たちのやり取りを見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。 (……本当に、みんな強くなってる。僕も負けていられない)
片付けが終わる頃には、森の空気はすっかり落ち着いていた。 小さな成功体験――でも、確かに僕たちの絆を強くした一戦だった。
森を抜けると、潮風が再び頬を撫でた。港町の屋根が見え始め、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえる。討伐任務の緊張がほどけ、仲間たちの表情も自然と柔らかくなっていった。
「みんな、おかえり!」 村の見張り役の老人が手を振る。 「魔獣の影が消えたって聞いたぞ。助かったよ、本当に」 その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
クロスは胸を張って大声を上げた。 「任せてくれ! 俺の囮テクがついに――」 「転んでたけどね」 リンネが即座に突っ込む。 「いや、あれは戦術的転倒だって!」 「そんな戦術ないよ」 アイリスが笑いながら肩をすくめる。
僕はそのやり取りを聞きながら、指先をとんとんと叩いた。 (……今日の戦いで、僕たちは一歩前へ進んだ。理論だけじゃなく、感情を込めた魔法も、仲間との連携も。全部が噛み合って初めて勝てたんだ)
リンネがそっと僕の横に並ぶ。 「アリア、今日……すごかったよ」 「みんなのおかげだよ。リンネの封鎖も完璧だった」 彼女は照れたように視線をそらす。 「そ、そんな……完璧なんて……」 (……いや、実際かなり完璧だった)
クロスが後ろから肩を叩いてくる。 「次も頼むぜ、アリア! お前の結界、マジで頼りになるからな!」 「ありがとう。次も……みんなで勝とう」
港町の空は夕焼けに染まり、波がきらきらと光っていた。 その美しい景色の中で、僕たちは確かに“チーム”になったのだと実感する。
そして――村の見張り台から、別の地域で残滓の揺らぎが観測されたという報告が届く。 新たな任務の予感が、静かに風に混ざった。
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第20話:残滓が押し寄せる夜、街は静かに息を潜めた
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森へ向かう街道は、以前よりも空気が重かった。湿った風が肌にまとわりつき、川の水は薄く濁った灰色に変わっている。村外れの結界灯はちらちらと明滅し、まるで息切れしているようだった。
「……色が、完全に変わってる」 僕――アリアは川面を覗き込み、指先をとんとんと叩いた。魔力の流れが鈍い。残滓が濃くなると、魔法の反応速度が落ちるのは理論上わかっていたが、実際に体感すると背筋が冷える。
道端の草は枯れ、葉の裏には黒い粉のようなものが付着していた。触れれば指先がざらつく。 「これ……毒素?」 リンネが眉をひそめる。 「葉が“吐き出してる”んだと思う。残滓に侵されると、植物は余剰魔力を外に押し出す傾向があるから」 「……吐き出すって表現やめて、ちょっと怖い」 (いや、僕も怖い)
村人の一人が、疲れた顔で声をかけてきた。 「最近、夜になると森の方から変な音がするんだ。鳥も飛ばなくなって……。どうか、頼むよ」 その声には、怯えと諦めが混ざっていた。
空気のざわめきは、魔力の乱れそのものだ。僕は深呼吸し、魔力を流してみる。 (……やっぱり、反応が遅い。結界の安定度も落ちてる。これは本格的にまずい)
そんな緊張感の中、クロスが突然言った。 「なあアリア、この空気……なんか“昨日の寮の食堂の匂い”に似てない?」 「似てないよ!」 リンネが即ツッコミを入れる。 「いや、あれはあれで危険だったんだって!」 「黙って歩け!」
緊張は少しだけ和らいだが、空気の重さは変わらない。 (……世界が、確実に変わり始めている)
汚染地域の中心へ近づくほど、景色は“異常”という言葉では足りないほど歪んでいた。
畑の作物は葉が黒く縮れ、触れると粉のように崩れ落ちる。 川沿いには、白い腹を見せて浮かぶ魚がいくつも流れていた。 木々の幹には黒い樹液が垂れ、地面に落ちたそれはじわりと土を溶かしている。
「……これは、ひどい」 リンネが口元を押さえる。 「昨日までは、まだここまでじゃなかったはずだよね……?」
村の老人が震える声で答えた。 「三日前から急に悪化したんだ。家畜も弱ってな……牛が立てなくなった。医者も原因がわからんと言っておる」
僕は膝をつき、黒い樹液を小瓶に採取する。 「コトネ、残滓反応を測れる?」 「もちろん!」 コトネは携帯用の魔導測定器を取り出し、樹液に魔力を流し込む。 針がぶるぶる震え、限界値近くまで跳ね上がった。 「……アリア、これ、通常の三倍以上だよ。しかも波形が不規則。自然発生じゃない」 「やっぱり……何かが“加速”してる」 指先をとんとんと叩く。魔力の流れがざらつき、嫌な汗が背中を伝う。
ナギは冷静にメモを取りながら言った。 「残滓の濃度上昇は、森の中心から放射状に広がっているようです。速度は……昨日の倍以上」 「倍!?」 クロスが思わず叫ぶ。 「おいおい、倍って……俺の筋肉痛の回復速度より速いじゃねぇか!」 「比較対象が雑すぎるよ!」 リンネが即ツッコミを入れる。
その横で、マークが妙に大げさに騒ぎ始めた。 「うわっ、見ろよ! 猫が……猫が俺を睨んでる!」 村の猫が、ただ単にマークの声がうるさくて警戒しているだけだった。 「マーク、それは汚染関係ない」 「いや、絶対ある! 残滓のせいで猫の機嫌が悪く――」 「元からだよ」 アイリスが淡々と切り捨てる。
しかし、笑いはすぐに消えた。 村の井戸の水は濁り、家畜小屋の前には弱った羊が横たわっている。 住民の顔には疲労と不安が刻まれ、子どもたちは外に出るのを怖がっていた。
(……これは、局地的な問題じゃない。世界そのものが、静かに壊れ始めている)
胸の奥が冷たくなる。 僕たちは、ただの討伐隊ではなく、“世界の変化”に立ち向かわなければならないのだ。
村の集会所に集まった僕たちは、汚染地域で採取したサンプルや住民の証言を机に並べ、急ごしらえの対策会議を始めた。 外では風が鳴り、結界灯が不安定に明滅している。まるで世界そのものが息を詰めているようだった。
「まずは現状の整理からだね」 ナギが淡々と資料を広げる。 「残滓濃度は三日前から急上昇。広がり方は放射状で、中心は森の奥。速度は……昨日の倍以上」 「倍って……」 クロスが頭を抱える。 「俺の筋肉痛より成長早いじゃねぇか」 「比較対象が毎回おかしいんだよ!」 リンネが即ツッコミを入れるが、笑いはすぐに消えた。
僕は深呼吸し、指先をとんとんと叩きながら魔力の流れを整える。 「残滓の広がり方は、単なる自然現象じゃない。波形が不規則で、外部から“揺らされている”ような形跡がある。もし誰かが意図的に……あるいは何かが刺激しているなら、拡大は止まらない」
コトネが眉を寄せる。 「つまり、放っておけば森だけじゃなく、街全体が汚染される可能性があるってこと?」 「……最悪の場合は、もっと広い範囲まで」 言葉にすると、胸の奥が冷たくなる。
リンネが拳を握りしめた。 「住民の避難を優先しよう。子どもたちが怯えてるの、見たでしょ? あれ以上不安を広げたくない」 「避難は必要だが、全員を移動させるには時間がかかる」 リアムが冷静に補足する。 「結界の補強も同時に進めないと、汚染の侵入速度に追いつかない」
マークが手を挙げる。 「じゃあ俺は実働班! 森の奥を偵察して――」 「マークは単独行動禁止」 全員が即答した。 「えっ!? なんで!?」 「お前、さっき猫にすら警戒されてただろ」 「猫は関係ないだろ!?」 「あるよ」 アイリスが淡々と断言する。
議論は続く。 撤退か、封鎖か、調査か。 どれも正しく、どれも危険だ。
僕は机に広げた地図を指でなぞりながら言った。 「……まずは結界の補強を最優先にするべきだと思う。森の奥の調査は必要だけど、今は住民の安全を確保しないと。結界が持ちこたえれば、時間が稼げる」
ナギが頷く。 「合理的だね。補強班と避難誘導班に分けよう」
クロスが手を挙げた。 「じゃあ俺は補強班! 力仕事は任せろ!」 「補強は力仕事じゃないよ」 「えっ!?」 「魔力制御だよ」 「……じゃあ俺は応援係で!」 「そんな係ないよ」 リンネが呆れたように笑う。
緊迫した空気の中でも、クロスの軽妙さが少しだけ場を和らげた。 だが、決断は重い。 「作戦名は……『今日も頑張ろう作戦』でどうだ!?」 「却下」 「即答!?」 「もっと内容に即した名前にして」 「じゃあ……『世界を守る作戦』!」 「雑すぎるよ!」 アイリスがくすくす笑う。
それでも、議論はまとまった。 結界補強、住民避難、汚染源の調査。 僕たちは三つの柱で動くことに決めた。
(……世界が壊れ始めている。でも、僕たちが動けば、少しは変えられるはずだ)
議論を終えた僕たちは、すぐに行動へ移った。 まずは村外れの結界灯の補強。魔力の流れが乱れているせいで、灯は明滅し、時折「ぱちっ」と火花のような音を立てていた。
「アリア、魔力供給ラインの再調整お願い!」 「了解。リンネ、そっちの安定結晶を押さえて」 「うん!」
僕は指先をとんとんと叩きながら、魔力の流れを整える。 結界灯の内部はざらついた魔力で満たされていて、触れるだけで指先が痺れた。
(……残滓の干渉が強い。通常の補強じゃ追いつかないかもしれない)
リアムは周囲の警戒に立ち、コトネは補助魔導器の調整をしている。 アイリスは少し離れた場所で魔力の揺らぎを感じ取っていたが、その表情はどこか疲れていた。
「アイリス、大丈夫?」 「うん……ちょっと、頭が重いだけ。魔力の流れが変で……音が濁って聞こえるの」 (……魔力感知が鋭い彼女ほど、残滓の影響を受けやすい。無理はさせられない)
そんな緊張の中、クロスとマークは結界灯の土台を支えながら、なぜか言い合っていた。 「おいマーク、そこ押さえる方向逆だって!」 「いや、俺の直感がこっちって言ってる!」 「お前の直感は猫にも嫌われるんだよ!」 「猫は関係ないだろ!」 ……緊張が一瞬だけ和らいだ。
結界灯の補強が終わると、次は住民の避難誘導だ。 リンネが子どもたちに優しく声をかけ、リアムが荷物運びを手伝い、ナギが避難ルートを冷静に指示する。 僕は残滓の濃度を測りながら、汚染の境界線を確認した。
その時―― 遠くの空が、黒く渦を巻いた。
「……あれは?」 アイリスが震える声で呟く。 渦は雲ではない。魔力の乱流だ。 しかも、目視できるほど巨大。
さらに追い打ちをかけるように、村中の結界灯が一斉に「ぱっ」と消えた。 空気が一瞬、凍りつく。
「結界が……落ちた?」 リアムが息を呑む。
僕は魔力を流し、状況を確認する。 (……残滓の波が、結界の許容量を超えた。これは偶然じゃない。何かが“押し寄せている”)
アイリスがふらりとよろめき、リンネが慌てて支える。 「アイリス!」 「……ごめん、ちょっと……視界が揺れて……」
胸が締めつけられる。 世界の崩壊は、もう遠い未来の話ではない。
夕刻。 村の空は赤く染まり、沈む太陽が汚染された川面に揺らいだ光を落としていた。 僕たちは一日の作業を終え、拠点へ戻る道を歩いていた。足取りは重いが、誰も弱音を吐かない。
「ふぅ……今日だけで一年分働いた気がする」 クロスが背伸びをしながら言う。 「一年分は言いすぎ」 リンネが呆れたように笑うが、その声にも疲労が滲んでいた。
アイリスは少し遅れて歩いていた。 その表情は穏やかだが、時折ふっと息を詰めるように胸へ手を当てる。 (……やっぱり、残滓の影響を受けやすい。無理をさせないようにしないと)
拠点に戻ると、ナギがまとめたデータを机に広げていた。 「アリア、今日の測定結果。……見て」 グラフの線は、まるで崖を登るように急上昇していた。 「……こんな速度で?」 「うん。普通じゃない。何かが“押し広げている”」
胸の奥が冷たくなる。 僕は指先をとんとんと叩き、今日の出来事を整理する。
(残滓濃度の急上昇。結界灯の一斉消失。遠方の黒い渦。アイリスの体調の揺らぎ…… 全部が、世界の崩壊が“始まりつつある”ことを示している)
リンネがそっと僕の隣に立つ。 「アリア……怖い?」 「……正直に言うと、怖い。でも――」 僕は仲間たちを見渡す。 クロスは拳を握り、リアムは静かに頷き、コトネは測定器を抱え、アイリスは微笑んでいた。 (……この仲間がいるなら、まだ戦える)
「僕たちで止めよう。世界が壊れる前に」 そう言うと、クロスが大きく頷いた。 「おう! 世界が相手でも、俺たちならなんとかなるだろ!」 「根拠は?」 「勢い!」 「勢いで世界救えるなら苦労しないよ!」 リンネが即ツッコミを入れ、少しだけ笑いが戻る。
その瞬間―― 遠くの見張り塔から、甲高い警報が鳴り響いた。
「……また?」 リアムが顔を上げる。
警報は、森の奥――汚染源の方向からの異常を示していた。 まるで世界が「時間がない」と告げているようだった。
(……次は、もっと大きな波が来る)
僕は深く息を吸い、仲間たちを見た。 もう迷っている時間はない。
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◀第17話:リンネの夜、コトネの朝 — それぞれの物語
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