◀第19話:小さな勝利、仲間と分け合った泥だらけの笑顔
▶第23話:熱血のマーク、僕の前で師匠ごっこを始める
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第21話:君との約束は、まだ歌にならない 夕暮れの港町は、まるで世界が一度深呼吸をしたかのように静かだった。 見晴らし台――灯台の近くにある高台は、海と街並みを一望できる場所だ。 沈みゆく太陽が海面に金色の帯を描き、潮風が髪を揺らす。遠くでは屋台の灯りがぽつぽつと灯り始め、波音がゆっくりと寄せては返していた。
僕――アリアは、手すりに軽く寄りかかりながら、指先をとんとんと叩いていた。 (……緊張してるのか、僕) 自分でも理由がよくわからない。けれど、隣にいる彼女の存在が、胸の奥をそわそわさせる。
アイリスは僕の少し前に立ち、海を見下ろしていた。 風に揺れる淡い髪、夕陽に照らされた横顔。 彼女は両手を広げて、潮風を受け止めるように深呼吸した。
「ねぇアリア、海って……なんか“しょっぱい音”がするよね!」 ……しょっぱい音? (いや、音に味はないと思うんだけど……いや、アイリスなら言いそうだな)
「……しょっぱい音って、どういう音?」 「んー……こう、きらきらしてて、ちょっと泣きそうになる感じ?」 「それは味じゃなくて感情では……?」 「えっ、そうなの?」 彼女は本気で不思議そうに首をかしげる。
その仕草に、思わず笑いそうになる。 緊張が少しだけほどけた。
僕たちの距離は、手を伸ばせば触れられるくらい。 でも、触れない。 触れられない。 その微妙な距離が、逆に心地よかった。
夕陽が沈みかけ、空が紫に染まり始める。 この静かな時間が、少しだけ特別に思えた。
夕陽が沈み、空が群青へと変わり始めたころ。 アイリスは手すりに寄りかかり、海を見つめたまま小さく息を吐いた。
「ねぇ、アリア。……最近ね、ちょっとだけ怖いの」
その声は、いつもの明るさをほんの少しだけ薄めたような、柔らかい揺らぎを含んでいた。
僕は思わず指先をとんとんと叩く。 (……来た。こういう時、どう返せばいいんだ? 理論? 感情? いや、どっちも違う気がする)
「怖いって……何が?」 慎重に問い返すと、アイリスは笑った。 いつもの無邪気な笑顔。でも、その奥に影がある。
「うまく言えないけど……体の奥が、時々“止まりそう”になるの。音が途切れるみたいに」 胸の奥がぎゅっと縮む。 (……短命の伏線。彼女はそれを、こんなふうに感じているのか)
アイリスは続ける。 「でもね、不思議と絶望って感じじゃないんだ。むしろ……“まだやりたいことがある”って思うの。だから怖いのに、前に進みたくなる」
彼女の声は震えていない。 それが逆に、強さと儚さを同時に感じさせた。
「アリアがいるから、かな」 「……え?」 思わず変な声が出た。 (ちょっと待って、今のはどういう意味? いや、深読みしすぎ? いやでも……)
アイリスはくるりと振り返り、僕の目をまっすぐ見た。 「アリアって、なんか……“未来の音”がするんだよね」 「未来の……音?」 「うん。まだ形になってないけど、すごく綺麗な音。だから、私もそこに行きたいって思うの」
胸の奥が熱くなる。 理論では説明できない感覚。 でも、確かに心が揺れた。
「……僕なんて、そんな大したものじゃないよ」 「えー? じゃあ毎日私に好きな食べ物持ってきてくれる?」 「話の流れどこ行った!?」 「だって、未来の音ってお腹空くじゃん」 「そんな理論聞いたことないよ!」
彼女の天然さに、思わず笑ってしまう。 でも、その笑いの奥には確かに“希望”があった。
(……アイリスは、自分の不安を隠さず、それでも前を向いている。僕は……どう応えればいい?)
夕暮れの風が、二人の間をそっと通り抜けた。
アイリスの言葉が胸の奥に残ったまま、僕たちはしばらく海を眺めていた。 夜の気配がゆっくりと降りてきて、空は群青から深い藍へと変わっていく。 屋台の灯りが遠くで瞬き、波音が静かに寄せては返す。
(……未来の音、か。僕にそんなものがあるなんて、思ったこともなかった)
指先をとんとんと叩く。 そのリズムが、さっきまでより少しだけ柔らかい。
「ねぇアリア」 アイリスが僕の横顔を覗き込む。 「さっきの話、気にしすぎなくていいからね? 私、暗い話をしたいわけじゃなくて……ただ、アリアに聞いてほしかっただけ」
「……うん。聞けてよかったよ」
そう言いながら、胸の奥で何かが動いた。 言葉にできない感情。 でも、それを魔法に乗せてみたいと思った。
「アイリス、ちょっとだけ……実験してもいい?」 「えっ、また爆発するやつ?」 「しないよ!」 (……いや、たぶんしない。いや、しないはず)
僕は手を軽く上げ、指先に魔力を集める。 理論的には単純な光の魔法。 でも、今回はそこに“感情”を少しだけ混ぜてみる。
(……未来の音。アイリスが言ってくれた言葉。 それを、形にするなら……)
指先が淡く光り、ふわりと小さな輪が生まれた。 光の輪は海風に乗って揺れ、まるで音符のように漂う。
「わぁ……」 アイリスが息を呑む。 その瞳に映る光が、僕の胸をくすぐった。
「これ……アリアの“音”だね」 「音じゃなくて光だけど……」 「ううん、ちゃんと聞こえるよ。ほら、きらきらって」 (……擬音で説明されると逆に説得力があるのがアイリスのすごいところだ)
光の輪はゆっくりと上昇し、夜空へ溶けていく。 その瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
「……もう一個、作ってみようかな」 調子に乗った僕は、紙片を折って簡単な紙飛行機を作り、魔力で少しだけ浮力を与えて飛ばしてみた。
――が。
「そっちじゃない!?」 紙飛行機は予想外の方向へ飛び、アイリスの頭上をかすめて灯台の壁にぶつかった。
「……アリア、今のは未来の音じゃなくて“迷子の音”だよ」 「うるさいよ!」
二人で思わず笑ってしまう。 ぎこちないけれど、確かに心が近づいた瞬間だった。
光の輪が夜空へ溶けていったあと、見晴らし台には静かな余韻が残った。 潮風がそっと吹き抜け、灯台の明かりが二人の影を長く伸ばす。
アイリスは手すりに寄りかかり、少しだけ目を細めた。 「ねぇアリア。さっきの光……すごく綺麗だったよ」 「ただの小さな魔法だよ。理論的には簡単で……」 「ううん。あれは“アリアの気持ち”が入ってた」
胸の奥が跳ねた。 そんなふうに言われるとは思っていなかった。
アイリスは続ける。 「私ね、未来のことを考えると……ちょっとだけ不安になるの。 でも、アリアと一緒にいると、不思議と“まだ大丈夫だ”って思えるんだ」
その声は、風に溶けるように柔らかかった。 強がりでも、無理な笑顔でもない。 ただ、まっすぐな気持ち。
(……僕なんかが、そんなふうに思ってもらえていいのかな)
指先をとんとんと叩く。 でも、さっきよりもその音は静かで、迷いが少なかった。
「アリア」 アイリスがそっと僕の方へ向き直る。 その瞳は、夜空よりも深く澄んでいた。
「もしね……もし私が途中で立ち止まりそうになったら。 その時は、アリアが“未来の音”を聞かせてくれる?」
胸が熱くなる。 言葉がすぐには出てこない。 でも、僕はゆっくりと手を伸ばし、彼女の手の上にそっと重ねた。
「……うん。何度でも聞かせるよ。 僕ができる限りの音を……君に届ける」
アイリスは驚いたように目を瞬かせ、それからふわりと笑った。 「じゃあ、約束だね」
その笑顔は、どんな魔法よりも温かかった。
しばらく沈黙が続いた。 でも、それは気まずさではなく、心が寄り添う静けさだった。
そして―― 「……あ、でもアリア」 「うん?」 「未来の音って、お腹空くから……帰ったら何か奢ってね」 「やっぱり食べ物の話に戻るんだね!?」
二人の笑い声が、夜の海へ溶けていった。
夜の帳がゆっくりと降りてきた。 見晴らし台の上には、灯台の明かりと星の瞬きだけが残り、海は深い藍色に沈んでいく。 潮風は少し冷たくなったが、不思議と心は温かかった。
「そろそろ戻ろっか」 アイリスがそう言って、くるりと振り返る。 その笑顔は、さっきよりもずっと柔らかい。
「うん。……帰ろう」 僕も歩き出す。 けれど、数歩進んだところでアイリスが立ち止まり、振り返って僕を見た。
「アリア」 「ん?」 「さっきの光……また見せてね。未来の音も」 その声は小さかったけれど、確かに届いた。
「……うん。何度でも」 自然と答えていた。 言葉よりも先に、気持ちが動いた。
アイリスは満足そうに微笑み、僕の横に並んで歩き出す。 足音が二つ、静かな夜道に溶けていく。
遠くでは、リンネとクロスが屋台の前で何かを言い合っていた。 その賑やかな声が、妙に心地よい。 (……この時間が、ずっと続けばいいのに)
見晴らし台を離れる直前、アイリスがふと空を見上げた。 その横顔が一瞬だけ曇ったように見えたのは、気のせいだろうか。
――その時。
港町の遠く、結界灯の方角から、かすかな警報音が鳴った。 小さく、しかし確かに。
僕たちは顔を見合わせる。 静かな夜に、わずかな緊張が戻る。
(……でも、もう怖くない。 希望は、確かにここにある)
そう思いながら、僕たちはゆっくりと歩き出した。
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第22話:静かな支え、ナギが紡ぐ無言の手綱 学院研究棟の夜は、昼間とはまるで別世界だった。 廊下には人影がなく、壁に取り付けられたランプが淡い橙色の光を落としている。 静寂の中、魔導器具のかすかな振動音だけが空気を震わせていた。
その一室――資料と魔導装置が整然と並ぶ研究室で、ナギは机に向かっていた。 無表情の横顔。 細い指がペンを走らせ、ノートには数式と魔力波形の走り書きが並ぶ。 視線は冷静で、必要な情報だけを正確に拾い上げていく。
(……結界の位相がまた乱れている。原因は残滓濃度の上昇か、それとも――)
そんな思考の途中、扉が控えめにノックされた。
「ナギ、まだ起きてる?」 アリアの声だ。
ナギは顔を上げる。 アリアは少し戸惑ったように立っていた。 手には資料の束、そして――指先がいつものように“とんとん”とリズムを刻んでいる。
(……緊張している時の癖。相変わらず分かりやすい)
「入れば?」 ナギは淡々と告げる。
アリアは遠慮がちに入室し、机の前に立った。 「えっと……少し相談があって。残滓の波形が、どうにも読めなくて……」
ナギはアリアの手元を一瞥した。 資料の端が微妙に揺れている。 指先の“とんとん”は加速気味。
「まず落ち着いて。紙が震えてる」 「えっ……あ、ほんとだ」 「その癖、直す気はないの?」 「いや……無意識で……」 「知ってる」
無表情のまま淡々と返すナギ。 アリアは苦笑し、少しだけ肩の力を抜いた。
(……この程度で安心するあたり、本当に扱いやすい。いや、扱いやすいと言うと語弊があるか)
ナギは資料を受け取り、静かにページをめくった。 アリアの戸惑いと緊張が、研究室の空気に溶けていく。
夜の研究棟に、二人の静かな再会が始まった。
アリアが持ち込んだ資料を机に広げると、ナギは無言のまま視線を走らせた。 魔力波形の揺らぎ、詠唱のリズム、結界の位相ズレ――どれも微細だが、確かに“乱れ”がある。
(……やはり。アリアの魔力は最近、感情の影響を受けやすくなっている。理論だけで制御していた頃とは違う)
ナギは横目でアリアの手元を見る。 指先が“とんとん”と机を叩くリズムは、緊張と集中の混ざったテンポだ。
「アリア、詠唱の三拍目が半拍ずれてる」 「えっ……そんな細かいところまで?」 「ずれてる。あと、魔力の立ち上がりが遅い。感情の揺れが干渉してる」 「……そんなに分かる?」 「見れば分かる」
ナギは淡々と答え、観測器の魔力位相を微調整した。 指先が滑らかに動き、結界の波形が安定していく。
「はい、これで少しは扱いやすくなるはず」 「え、もう? そんな一瞬で?」 「あなたの癖は単純だから」 「単純って……」 「褒めてる」
褒めているのかどうか分からない口調だが、アリアは少しだけ肩の力を抜いた。
ナギはさらに、アリアの詠唱に合わせて軽く指を鳴らす。 そのリズムは、アリアの“とんとん”と同じテンポだ。
「このテンポで詠唱して。魔力の揺れが収まる」 「……ほんとに?」 「ほんと。疑うなら試して」
アリアが詠唱を始めると、魔力の波形が先ほどよりも滑らかに整った。 アリアの目が驚きで丸くなる。
「すごい……本当に安定した」 「だから言った」
ナギは無表情のまま、観測器の数値を記録する。 だが内心では――
(……やはり、アリアは扱いやすい。いや、違う。サポートしがいがある、だ)
アリアが感心したようにナギを見つめる。 その視線に、ナギはほんの一瞬だけ目をそらした。
「ナギ、説明がすごく分かりやすいよ。えっと……ちょっと専門的だけど」 「じゃあ簡単に言うと――」 ナギは淡々と指を折りながらまとめる。 「あなたの魔力は揺れてる。だから私が整えた。以上」 「……簡単すぎない?」 「要点だけで十分でしょ」 「う、うん……まあ、確かに」
アリアは苦笑しながらも、どこか安心したように息をついた。
(……その表情を見ると、手間をかけた甲斐がある)
ナギはそんなことを表に出さず、ただ静かに次の資料へ手を伸ばした。
研究室の中央にある実験台には、小型の多重結界装置が置かれていた。 魔導文字が刻まれた円盤が淡く光り、周囲の空気をわずかに震わせている。
「じゃあ、これを使って結界の再構築を試すよ」 アリアが装置に手をかざす。 指先はいつものように“とんとん”とリズムを刻んでいたが、先ほどより落ち着いている。
(……さっきの調整が効いている。魔力の立ち上がりが滑らかだ)
ナギは観測器の前に立ち、波形を確認する。 魔力の流れは安定しているが、まだ微細な揺らぎが残っていた。
「アリア、二拍目の魔力を少し抑えて。強すぎると位相が跳ねる」 「こ、こう?」 「そう。あと半分」 「半分って……感覚で?」 「あなたならできる」
アリアは苦笑しながらも、指先の動きを調整した。 魔力の波形がぴたりと整う。
(……本当に素直だ。いや、魔力の話だ。魔力が素直なだけ)
ナギは自分の内心を即座に否定し、観測器の数値を記録する。
「よし、次は多重結界の重ね掛け。僕が第一層を張るから、ナギは第二層の位相を合わせて」 「了解」
二人はほぼ同時に手を動かした。 アリアの結界が淡い光を放ち、ナギの指先がその光の縁をなぞるように動く。 魔導文字が空中に浮かび、重なり合い、静かに回転を始めた。
アリアの魔力が揺れた瞬間、ナギは即座に補正を入れる。 その動きは迷いがなく、まるでアリアの癖を完全に把握しているかのようだった。
「……ナギ、すごい。僕の動き、全部読んでるみたいだ」 「読んでる」 「即答!?」 「あなたの癖は単純だから」 「また単純って言った……」 「褒めてる」
アリアは苦笑しつつも、どこか嬉しそうだった。
その時、研究室の扉が勢いよく開いた。
「おおーっ! 二人ともなんかすごいことしてる!」 マークが大げさに拍手しながら入ってきた。 「光がくるくる回ってて、なんかこう……未来感ある!」 「マーク、静かに」 ナギが無表情で言う。 「えっ、未来感ダメ?」 「未来感はどうでもいい。音がうるさい」 「ひどい!」
コトネも顔を出し、結界の光を見て目を輝かせた。 「わぁ……綺麗! アリアくん、ナギさん、すごいね!」 「コトネ、そこ踏むと危ない」 「えっ?」 ナギが淡々と指摘すると、コトネは慌てて足を引っ込めた。
(……騒がしいけど、悪くない。アリアが落ち着いているなら、それでいい)
ナギはそう思いながら、再び観測器に視線を戻した。
結界は安定し、光は静かに脈動していた。 二人の連携は、確かに形になり始めている。
実験が一段落し、結界装置の光が静かに弱まっていく。 研究室には、魔導器具の微かな振動音と、アリアが資料を整理する紙の音だけが残った。
ナギは観測器の数値を記録しながら、横目でアリアを見た。 アリアは真剣な表情で資料をまとめているが、指先はやはり“とんとん”と机を叩いている。
(……落ち着いているようで、落ち着いていない。だが、さっきよりは安定している)
ナギは自分の胸の奥に、微かなざわつきを感じた。 それは不快ではなく、むしろ温度のある揺れだった。
(……観察対象に、こういう感情を抱くのは非効率だ。 だが……)
アリアがふと顔を上げ、ナギに向かって微笑んだ。 「ナギ、本当に助かったよ。君がいなかったら、今日の実験は絶対に失敗してた」
その笑顔は、無防備で、まっすぐで―― ナギは一瞬だけ視線をそらした。
(……やめてほしい。そういう顔をされると、距離を保つのが難しくなる)
表情には出さない。 だが、胸の奥で何かが静かに波紋を広げていく。
アリアが資料を机に置き、深く息をついた。 「ナギって、なんでそんなに僕の癖とか魔力の揺れが分かるの?」 「観察してるから」 「そんなに?」 「あなたは分かりやすい」 「褒めてる?」 「事実を述べただけ」
アリアは苦笑し、ナギは淡々と観測器の電源を落とした。
その時、研究室の扉が開き、クロスが顔を出した。 「おーい、二人ともまだやってんのか? 夜食持ってきたぞ!」 手にはパンとスープの入ったトレイ。
「クロス、静かに。結界が乱れる」 「えっ、俺の声で!?」 「あなたの声は無駄に響く」 「ひどくない!?」 クロスが大げさに肩を落とし、アリアが笑いをこらえる。
(……こういう時のアリアの表情は、実験中よりも安定している。 やはり、環境要因の影響が大きい)
ナギはそんな分析をしながら、机の端にそっと資料を置いた。 アリアが読みやすいように、必要な部分だけを抜き出したメモだ。
(……別に、気遣いではない。効率のためだ。 ……効率のため、だ)
自分に言い聞かせるように思いながら、ナギは無表情のまま椅子に座り直した。
夜が深まり、研究棟の窓の外には静かな闇が広がっていた。 ランプの灯りだけが研究室を照らし、机の上の魔導器具が淡く影を落としている。
アリアは資料を抱え、扉の前で振り返った。 「ナギ、今日は本当にありがとう。……なんか、すごく助かった」 その声は柔らかく、どこか安心した響きを帯びていた。
ナギは無表情のまま軽く頷く。 「当然のことをしただけ。あなたが安定すれば、全体の効率も上がる」 「効率……ね。うん、そうだね」 アリアは苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
扉を開ける直前、アリアの指先が“とんとん”と軽く動いた。 それは緊張ではなく、どこか落ち着いたリズムだった。
(……安定している。今日の調整が効いたのか、それとも――)
ナギはその続きを考えず、静かに視線を落とした。 アリアが去った後の研究室には、温かい余韻が残っていた。
机の上には、ナギがさりげなく残したメモが一枚。 アリアが後で気づくように、資料の上にそっと置かれている。
そこには、ナギらしい簡潔な文字でこう書かれていた。
「観察継続 — 潜在反応良好。 但し、過負荷に注意。」
冷静な分析のようでいて、どこか柔らかい。 それは、ナギなりの寄り添い方だった。
研究室のランプが小さく揺れ、静かな夜が再び訪れる。
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