夜の雨は、昼よりも静かに街を沈めていく。 ぽつ、ぽつ、と屋根を叩く音が、まるで遠くの誰かが小さくノックしているみたいだった。
「りんりーん! こっちこっちーっ!」 なぎさが両手をぶんぶん振りながら、沈みかけた商店街の屋根へと駆け上がっていく。雨粒を跳ね散らしながら、まるでこの世界が終わるなんて信じていないかのような足取りだ。
「……そんなに急ぐと滑るぞ」 りんは傘を少し傾け、なぎさの背中を追う。声は淡々としているのに、その歩幅はいつもより少しだけ速い。
屋根の上に出ると、視界が一気に開けた。 沈みゆく街の輪郭が、雨に溶けてゆらゆらと揺れている。街灯の光は水面に反射し、まるで夜の海に浮かぶ星のようだった。
「わぁ……今日の雨、なんかキレイだねぇ!」 なぎさは両腕を広げ、雨を受け止めるようにくるりと回る。
 「ほらほら、りんも見てよーっ! 街が光ってるよ!」
「……光ってるというより、沈んでるだけだ」 りんはそう言いながらも、視線は街の奥へと吸い込まれていた。 雨に煙る橋、半分まで水に浸かったバス停、遠くで揺れる避難灯。 どれも現実なのに、どこか夢のようだ。
「でもさ、沈んでても……なんか、まだ生きてるって感じするよねぇ」 なぎさがぽつりと言う。 その横顔は、雨に濡れているのに不思議と明るかった。
「……お前は本当に、前向きだな」 「えへへー、褒められたっ!」
「褒めてない」 りんは即答したが、耳がほんのり赤い。 なぎさはそれに気づいて、にやにや笑った。
屋根の端に腰を下ろすと、雨音がさらに近くなる。 ぽつぽつ、ざあ……と、一定のリズムで世界を包み込む音。
この音だけは、終末になっても変わらない。 「りん、今日ここに来たかったのはねー……」 なぎさが言いかけた瞬間、風が強く吹き、二人の傘が揺れた。
「……話は後でいい。まずは風が落ち着くまで待とう」 りんはなぎさの肩を軽く引き寄せ、傘の下に入れた。
 「わっ……り、りん、やさしー……」 「別に。お前が風で飛んだら困るだけだ」
雨の夜。 沈む街。 その中で、二人の距離だけが少しずつ近づいていく。
風が弱まり、雨音だけが屋根の上に戻ってきた。 なぎさはりんの傘の下から顔を出し、ぱちぱちと瞬きをする。
「ねぇねぇ、りん。こうやって夜の街を見下ろすの、なんか特別な感じしない?」 「……特別かどうかは知らん。けど、静かでいい」 「でしょーっ!」
なぎさは満足げに笑い、濡れた髪を手で払った。 りんはその仕草を横目で見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
沈みゆく街は、雨に溶けて輪郭を失いかけている。 けれど、灯りの残る家々や、まだ営業を続ける小さな店の明かりが、ぽつぽつと夜の水面に映っていた。
「……あそこ、まだ電気ついてる」 りんが指差したのは、古い喫茶店だった。 窓の向こうに、老夫婦らしき影が寄り添って座っている。
「ほんとだぁ。仲良しさんだねぇ」 「……ああ。ああいうの、悪くない」
なぎさはりんの横顔を見つめる。 りんの声はいつもより少し柔らかかった。
「りんってさ、こういうの見るとなんか優しい顔になるよねぇ」 「……別に」 「ふふーん、照れてる照れてる〜」 「照れてない」
りんはそっぽを向いたが、耳がまた赤い。 なぎさはそれを見て、くすくす笑った。
ふと、なぎさはリュックから小さなスケッチブックを取り出した。 雨に濡れないように胸元で抱えながら、ぱらぱらとページをめくる。
「ねぇりん、見て見てーっ。今日のために描いてきたんだよ!」 「……何をだ」 「じゃーんっ!」
開かれたページには、沈む街と雨の夜空、そして屋根の上に座る二人の後ろ姿が描かれていた。
 線は少し歪んでいるけれど、温かさがあった。
「……お前、いつの間に」 「昨日の夜ー! りんと一緒に見たいなぁって思ってさぁ」 「……そうか」
りんは絵をじっと見つめた。 なぎさの描く世界は、終末のはずなのにどこか優しい。 その優しさが、りんの胸に静かに染み込んでいく。
「りんもさ、なんか描いてみたら?」 「……私はいい」 「えぇーっ、絶対楽しいのにぃ」 「……見る方が好きだ」
なぎさは一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑った。
「じゃあさ、今度は一緒に描こうよ! りんが描く線、見てみたいなぁ」 「……考えとく」 「でたーっ、りんの『考えとく』! それ、だいたいOKの時のやつだよねぇ?」 「違う」
りんは否定したが、声はどこか優しかった。
雨は相変わらず降り続いている。 けれど、二人の間には不思議と温かい空気が流れていた。 終末の夜でも、こうして笑い合える時間がある。
なぎさはスケッチブックを閉じ、胸に抱えた。
「ねぇりん。今日、ここに来たのはね……」 その声は、いつになく真剣だった。
りんはゆっくりと顔を向ける。 雨音が、二人の間の静けさをさらに深くした。
「……なんだ」 「ううん、あとで言うね。もうちょっとだけ、この景色見てたいの」
なぎさはそう言って、沈む街へ視線を戻した。 りんも同じ方向を見つめる。 雨の夜は、まだ終わらない。
雨脚が少し強くなり、風が屋根の端を鳴らした。 なぎさはスケッチブックを抱えたまま立ち上がり、街の方へ身を乗り出す。
「ねぇりん、あの橋の上も行ってみたくない? 絶対きれいだよーっ!」 「……おい、足元気をつけろ。濡れてるぞ」
「だいじょーぶだよー! ほら、行こっ……わっ!」
次の瞬間、なぎさの足がつるりと滑った。 スケッチブックが宙に浮き、なぎさの身体が後ろに倒れかける。
「なぎさっ!」 りんが反射的に腕を伸ばし、なぎさの手首を掴んだ。 そのままぐいっと引き寄せると、なぎさはりんの胸にぶつかるように倒れ込んだ。
「わ、わわっ……り、りん……近い……」 「……お前が勝手に動くからだ」
りんは顔をそむけたが、腕はしっかりと彼女を支えたままだった。 なぎさの心臓はどきどきと跳ね、雨音よりも大きく聞こえる。
「ご、ごめんねぇ……でも助けてくれてありがとっ」 「……気をつけろ。ほんとに」
りんはゆっくりと手を離した。 なぎさはスケッチブックを拾い上げ、胸に抱きしめる。
「よかったぁ……濡れちゃったけど、まだ描けるよーっ」 「……お前はまず自分の心配をしろ」
りんはため息をつきながらも、なぎさの髪についた雨粒を指で払った。 その仕草は驚くほど優しかった。
「りん、やさし〜……」 「違う。ただの確認だ」
なぎさはにやにや笑いながら、りんの横に並んで歩き出す。 二人は屋根から橋へと続く細い通路を渡り、雨に煙る街を見下ろした。
橋の上は、まるで水の上に浮かんでいるようだった。
 沈みかけた道路の上に架かる古い橋は、雨に濡れて光り、街灯の反射が揺れている。
「わぁ……ここ、すっごい……!」 なぎさは思わず息を呑んだ。 りんも無言で景色を見つめる。
雨の夜に沈む街は、どこか幻想的だった。 終末のはずなのに、こんなにも美しい瞬間がある。
「りん、ねぇ……」 なぎさが口を開いた瞬間、突風が吹いた。
「きゃっ!」 なぎさの傘が一気に裏返り、風に煽られて飛びそうになる。
「離すな!」 りんが傘の柄を掴み、二人で必死に押さえ込む。 雨が一気に二人の身体を叩き、服が冷たく張り付いた。
「うわぁぁ、りん、飛んでっちゃうーっ!」 「……飛ばすか。ほら、こっちに寄れ」
りんは自分の傘をなぎさの頭上に差し出し、肩を寄せた。 なぎさはその温もりに驚き、少しだけ頬を赤らめる。
「りん……あったかい……」 「雨が冷たいだけだ」
りんはそう言ったが、声はどこか照れていた。
風が弱まり、二人はようやく傘を立て直した。 なぎさは胸に手を当て、ほっと息をつく。
「りん、ありがと……ほんとに」 「……別に。お前が飛んだら困る」
「ふふっ、またそれ〜」
なぎさは笑いながら、りんの袖をそっと掴んだ。 雨の中で、二人の距離は自然と近づいていく。
「ねぇりん……さっき言いかけたこと、今なら言えるかも」 「……聞く」
雨音が静かに橋を包む。 なぎさは深呼吸し、りんの方を向いた。
「りんとね……未来の約束、したいんだ」 その言葉は、雨の夜にそっと落ちた。
橋の上。 雨は静かに降り続き、街灯の光が水面に揺れていた。 なぎさは胸の前でスケッチブックを抱え、りんの方へ向き直る。
「りん……わたしね、ずっと思ってたんだ」 声は震えていない。けれど、どこか真剣で、雨よりも静かだった。
「……なんだ」 りんは少しだけ身構える。 なぎさが真面目な顔をするときは、いつも大事な話の前触れだから。
「終末の世界でもさ……わたしたち、まだ“未来”って呼べるもの、作れるんじゃないかなって」 「……未来、か」
りんは空を見上げる。 雨は止む気配を見せない。 政府は「あと一年」と宣言した。 街は沈み、電車は週末に安楽死希望者を運ぶ。
それでも。
「りんと一緒なら……なんか、まだ大丈夫な気がするんだよねぇ」 なぎさは照れたように笑った。 「だからね、約束したいの。すっごく小さくて、くだらないやつ」
「……くだらない約束?」 「うんっ!」
なぎさはスケッチブックを開き、今日描いた絵を見せる。 雨の夜の街、屋根の上の二人。 その横に、空白のページが一枚。
「この次のページにね、りんと一緒に描いた絵を残したいの」 「……私と?」 「そう! 未来がどうなるかわかんなくても、明日が来るか不安でも……“一緒に描いた”っていう証拠があれば、それだけで十分だよーっ」
りんは言葉を失った。 なぎさの言う「未来」は、壮大な夢でも希望でもない。 ただ、明日を一緒に過ごすという、小さな、小さな願い。
それが、胸に刺さる。
「……そんなことでいいのか」 「そんなこと、じゃないよーっ。りんとだから、いいの!」
なぎさは笑う。 雨に濡れた頬が、街灯に照らされてきらきら光る。
りんはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
「……わかった。描くよ」 「ほんとっ!?」 「……ああ。お前がそこまで言うなら」
なぎさの顔がぱぁっと明るくなる。 その笑顔は、雨の夜を一瞬だけ晴らしたようだった。
「やったぁぁぁ! りん大好きーっ!」 「……おい、声が大きい」
りんは照れ隠しのようにそっぽを向く。 けれど、口元はわずかに緩んでいた。
ふたりは橋の欄干に寄りかかり、沈む街を見下ろす。 雨音が静かに響き、遠くで避難灯が揺れている。
「ねぇりん。明日、屋根の上で描こうね」 「……ああ。約束だ」
その言葉は、雨の夜にそっと溶けていった。 終末の世界でも、確かに存在する“未来”の形として。
そして二人は、雨の中を並んで歩き出した。 沈む街の向こうに、まだ見ぬ明日がかすかに灯っているように見えた。
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