雨は今日も止む気配を見せなかった。 灰色の空から落ち続ける水滴が街の輪郭をぼやかし、沈みかけた建物の影をゆらゆらと揺らしている。
なぎさは傘を肩に引っかけ、顔を上げて声を弾ませた。 「わー! 今日も冒険日和だねぇ!」
その隣で、りんはランタンの灯りを調整しながら小さくため息をつく。 「……これを冒険日和って言うのか。」 冷静な声とは裏腹に、なぎさの笑顔を見ていると、ほんの少し口元が緩んでしまった。
沈む街の小道には、川のように水が流れている。橋の欄干は半分崩れ、廃屋の窓からは雨水が絶え間なく滴り落ちていた。二人は足元を確かめながら、慎重に進んでいく。
「りんちゃん、見て見て! あそこ、まだ屋根が残ってるよー! 登ったら街がぜーんぶ見えるんじゃない?」 「危ない。濡れてるし、崩れるかもしれない。」 「えー、でもワクワクするよー!」
なぎさの声は、雨音に負けないほど元気だった。りんは思わず肩をすくめる。危険を避けたい気持ちと、なぎさの好奇心を止められない思いが胸の中で交錯していた。
少し離れた場所から、もみじが二人を見守っている。古びたスケッチブックを抱え、雨に濡れないよう布で覆いながら、声をかけることなく静かに背中を追っていた。必要な時だけ助ける――それが彼女の役割だった。
街の奥へ進むにつれ、水位は少しずつ高くなっていく。足元の水たまりは膝に届きそうで、なぎさは「冷たーい!」と笑いながら跳ねた。 「……はしゃぎすぎだ。」 そう呟きつつ、りんはランタンを高く掲げ、進路を照らす。
雨音は絶え間なく続き、まるで世界そのものが水に溶けていくかのようだった。 それでも、その中で二人の声だけは確かに響いている。 まるで、冒険の始まりを告げる合図のように。
沈みかけた街の奥へ進むにつれ、雨水はさらに深くなり、足元の石畳はすっかり見えなくなっていた。 なぎさは「うわぁ! まるでプールみたいだねぇ!」と笑いながら、水面をバシャバシャと蹴る。
「……遊んでる場合じゃない。」 りんは冷静にそう言いながらも、楽しそうななぎさの姿に、ほんの少し目を細めた。こんな状況でも笑っていられる彼女の強さに、心のどこかで密かな憧れを抱いている。
ふと、なぎさが足を止める。 崩れかけた建物の隙間から、古い橋が見えたのだ。木製の板は半分折れ、雨に濡れて黒く変色している。
「ねぇねぇ! あの橋、渡ったら向こうに行けるんじゃない? きっと何かあるよー!」 「危険すぎる。板が落ちたら終わりだ。」 「でも、冒険ってそういうもんだよー!」
目を輝かせたなぎさは、傘を振り回しながら橋へ駆け寄った。りんはため息をつきつつも、ランタンを掲げて後を追う。
橋の上はひどく滑りやすく、足を踏み出すたびにギシギシと不安な音を立てた。 「わー! 揺れる揺れる!」 「……落ちるぞ。」 二人の声が雨音に混じり、緊張と楽しさが入り交じった空気を作り出していく。
橋を渡りきると、小さな広場が広がっていた。水たまりの真ん中には、古びたスケッチブックが浮かんでいる。 「宝物発見ー!」 なぎさはそう叫び、勢いよく手を伸ばした。
「待て。濡れてるし、危ない。」 「だいじょーぶだよー!」
その瞬間、なぎさは足を滑らせ、水たまりにドボンと落ちた。冷たい水が全身を包み込み、「ひゃあああ!」と大きな悲鳴が上がる。 りんは慌てて手を差し伸べ、彼女を引き上げた。
 「……だから言っただろ。」 「えへへ。でも、スケッチブックはゲットだよー!」
びしょ濡れになりながらも、なぎさは満面の笑みでスケッチブックを高く掲げる。りんは呆れたように首を振りつつ、その笑顔を見て少しだけ胸をなで下ろした。
遠くから、もみじはその様子を静かに見守っていた。彼女の目には、危うさと同時に、二人の間にある確かな絆が映っている。 雨の中でも笑い合える――それこそが、この終末の世界で生き抜くための力なのだと。
なぎさが水たまりから引き上げられた直後、広場の奥で「ミシッ」と不穏な音が響いた。雨に耐えきれなくなった古い石壁が、ゆっくりと崩れ始めていたのだ。
「りんちゃん! 壁が崩れるよー!」 「……急げ、こっちだ。」
りんは声を張り、なぎさの手を強く引いた。二人は水を蹴り上げながら走り、次々と崩れ落ちる石片を必死に避ける。雨音に混じって、砕けた石の音が街中に響き渡った。
狭い路地へ逃げ込むと、そこはさらに水が深く、足元も見えない。 「うわぁ、足が沈むー!」 なぎさは笑いながらも、必死に前へ進む。
「……笑ってる場合じゃない。」 そう呟きつつも、りんは彼女の声に救われていた。恐怖の中でも笑える――それこそが、なぎさの強さだった。
しかし次の瞬間、なぎさの足が何かに引っかかり、バランスを崩す。 「きゃっ!」 声を上げ、彼女は再び水の中へ倒れ込んだ。
りんはすぐに手を伸ばし、なぎさを引き起こす。 「……無茶するな。」 「えへへ。でも、冒険ってドキドキするねぇ!」
濡れた髪を払いながら笑うなぎさを、りんは呆れたように見つめる。その一方で、その笑顔に心が少し温まるのを感じていた。
路地の奥には、もう一つ古い橋が残っていた。木板は半分腐り、雨水でひどく滑りやすくなっている。ここを渡らなければ、先へは進めない。
「りんちゃん、どうする? 渡るしかないよねぇ?」 「……慎重に行く。俺が先に。」
りんはランタンを掲げ、ゆっくりと橋に足を踏み出した。板はギシギシと不安な音を立て、今にも折れそうだ。なぎさは後ろから「がんばれー!」と声を上げ、その背中を見守る。
途中で板が大きく沈み、りんの体がぐらりと揺れた。 「りんちゃん!」 なぎさは思わず叫び、傘を差し出す。りんはそれを掴み、なんとか体勢を立て直した。雨の中、強く繋がれた二人の手に、確かな絆が伝わってくる。
 橋を渡りきると、二人は思わず顔を見合わせた。 「やったー! 成功だねぇ!」 「……ああ。」
小さく返したその声には、安堵と、ほんの少しの誇らしさが混じっていた。
遠くから、もみじはその様子を静かに見守っていた。彼女の目に映っているのは、危うさだけではない。雨の街での小さな冒険を通して確かに積み重なった、二人の成長だった。
橋を渡りきった二人は、雨に濡れた石畳の上でしばらく立ち尽くしていた。心臓の鼓動はまだ速く、呼吸も荒い。そんな緊張の余韻の中で、なぎさはぱっと顔を明るくする。
「ふぅー! やったねぇ! りんちゃんと一緒なら、どんな冒険も成功だよー!」
その言葉に、りんはぶっきらぼうに返した。 「……無茶ばかりするから、わたしが苦労する。」
そう言いながらも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。なぎさと共に困難を乗り越えたことへの誇らしさが、彼女の心の奥で静かに芽生えていた。
そこへ、もみじが静かに近づいてくる。スケッチブックを抱えたまま二人を見つめ、短く声をかけた。 「……よく頑張ったわね。」 その一言には、姉のような温かさが滲んでいた。
広場の奥を見渡すと、街の沈み具合がさらに進んでいるのが分かる。電柱の半分は水に沈み、遠くの建物は屋根だけが水面に浮かんでいた。雨は止む気配を見せず、世界は少しずつ、しかし確実に崩れていく。
 「ねぇ、りんちゃん。街がもっと沈んじゃったら……どうなるんだろう?」
「……分からない。でも、進むしかない。」
りんの言葉は冷静だったが、その瞳には拭いきれない不安が宿っていた。なぎさは一瞬だけ黙り込み、やがて顔を上げる。
「じゃあさ! 沈む前にいっぱい冒険しよー! まだまだ楽しいこと、きっと見つけられるはずだよー!」
その声は雨音に負けることなく、広場いっぱいに響いた。りんは小さく頷き、もみじもまた静かに微笑む。終末の世界にあっても、彼女たちの絆は確かに強くなっていた。
そのとき、遠く沈みゆく街の奥から、不気味な音が響いてくる。鉄の軋む音、何かが崩れる音――それは、次なる冒険の訪れを告げる予兆のようだった。
雨の中の冒険は、ひとまず終わりを迎えた。 しかし、少女たちの旅はまだ続く。友情と希望を胸に、彼女たちは次なる挑戦へと歩みを進めていく。
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