夜の雨は、昼よりも冷たく、深く、そして静かだった。 沈みゆく街は、まるで巨大な水槽の底に沈んだ廃墟のようで、 街灯の光だけが、かろうじて水面に揺れていた。
なぎさは傘をくるくる回しながら歩道の端に立った。
 その回転が速すぎて、りんの頬に水しぶきが飛んだ。
「……昨日より深い。二十五センチは沈んでる」
「二十五センチ!? え、もう“プリン界の総理大臣”じゃん!」
「プリンに政治制度はない」
「あるよ! だってカラメルが“財政”で、スポンジが“国土”で……」
「やめろ」
(プリンで国家運営する発想、どこから出てくるんだ…… この子の脳内、スイーツが議会開いてるのか……?)
なぎさは水面を覗き込み、真剣な顔で言った。
「りん、この水……なんか“人生の深み”があるね」
「深いからな」
「違うよ、心の深み!」
「水に心はない」
なぎさはショックで肩を落とした。 その瞬間、傘の先から水がぽたぽた落ちて、りんの靴に直撃した。
(落ち込むと物理的な被害が出るのやめてほしい……)
雨粒が街灯に当たり、細かい光の粒となって散る。 遠くでは、沈んだ建物の屋根だけが黒い影のように浮かんでいた。
「りん、あの街灯……もうすぐ消えちゃいそう」
なぎさが指差した先で、街灯が弱々しく瞬いていた。 光は雨に吸い込まれ、まるで最後の呼吸をしているようだった。
「……電力が限界なんだろうな」
「そっかぁ……じゃあ、消える瞬間、ちゃんと見届けてあげよ?」
なぎさは街灯に向かって小さく手を振った。 まるで“ありがとう”と言っているように。
(なんで街灯に別れの挨拶を……? いや、でも……そういうの、嫌いじゃない……)
りんがそんなことを考えていると、 なぎさが急に真剣な顔で言った。
「りん……街灯ってさ……人生で言うとどのポジション?」
「ポジション?」
「うん。“人生のサブキャラ”みたいな?」
「サブキャラではない」
「じゃあ“人生の照明係”!」
「それは……まあ、間違ってはないかもしれない」
「でしょ!? りんも照明係だよ!」
「私は照らしてない」
「照らしてるよ! 私の人生を!」
「……」
(急に直球を投げるのやめてほしい…… 心の準備が……いや、準備してても無理だ……)
なぎさは雨に濡れた街を見渡し、ぽつりと言った。
「ねぇりん……この街、なんか“泣いてる”みたいだね」
「雨だからな」
「違うよ、心の涙!」
「街に心はない」
「えっ……じゃあ私、今まで街の心と会話してたの……?」
「会話してない」
なぎさは胸を押さえ、深刻そうに言った。
「よかった……私、まだギリギリ現実にいる……!」
(ギリギリって言うな…… でも……この子の声があるだけで、街が少しだけ明るく見える……)
雨音は静かで、街は沈み、光は消えかけている。 それでも、なぎさの傘の下だけは、どこか温かかった。
沈む街の中心へ向かうほど、雨音は深く、重くなっていった。 水面に映る街灯の光は細く揺れ、まるで息をするのを忘れた生き物のようだ。
なぎさは足元の水をぱしゃぱしゃと蹴りながら進む。 そのたびに水しぶきが上がり、りんは無言で距離を取った。
「りん、この水……なんか“味”しそう」
「飲むなよ」
「飲まないよ! でも見た目が“薄めたラムネ”っぽくて……」
なぎさが水面に顔を近づけた瞬間、雨が強まり、 水面がざわざわと揺れた。
「わっ、水が怒ってる!」
「怒ってない」
「じゃあ照れてる?」
「照れない」
なぎさは水面に向かって小声で言った。
「ごめんね……勝手に味の話して……」
「謝るな」
(なぜ水に謝罪を……? いや、でも……この子のこういうところ、嫌いじゃない……)
沈んだ商店街のアーケードは、骨組みだけが残り、 雨に濡れた鉄骨が冷たく光っている。
なぎさは鉄骨を見上げて言った。
「りん、あれ……なんか“骨だけの恐竜”みたい」
「恐竜はもっと大きい」
「じゃあ“雨に濡れたスリム恐竜”!」
「そんな恐竜はいない」
「じゃあ“恐竜の幽霊”!」
「もっといない」
なぎさは鉄骨に向かって手を合わせた。
「恐竜さん……成仏して……」
「成仏しない」
(でも……ちょっと想像してしまった…… スリム恐竜の幽霊ってなんだ……?)
りんは自分の脳内に浮かんだ謎の恐竜を必死に追い出した。
なぎさは突然、りんの袖を引いた。
「りん……この辺、なんか“気配”しない?」
「気配?」
「うん……“湿った気配”!」
「湿ってるのは雨だ」
「じゃあ“濡れた気配”!」
「それも雨だ」
「じゃあ“しっとり気配”!」
「語彙を増やすな」
なぎさは周囲を見回し、さらに言った。
「りん、あっちから“しんみり気配”がする!」
「それは……まあ、街の雰囲気かもしれない」
「ほら! りんも感じてる!」
「感じてない」
(感じてない……けど…… この街の静けさは、確かに胸に刺さる……)
りんが少しだけ視線を落とした瞬間、 なぎさがりんの顔を覗き込んだ。
「りん、今ちょっと“しんみり顔”してた!」
「してない」
「してたよ! ほら、眉が“しんみり角度”!」
「そんな角度はない」
「あるよ! ほら、こう!」
なぎさは自分の眉を無理やり曲げて見せた。 その結果、顔全体が妙に歪んだ。
「……それは違う」
(違う……けど……なんか可愛いな……)
りんは心の中で静かに目をそらした。
雨はさらに強くなり、街灯の光はほとんど消えかけていた。 沈む街の奥へ進むほど、世界は静かに、確実に終わりへ向かっている。
なぎさは突然、りんの腕を掴んだ。
「りん、見て! あの建物、昨日より沈んでる!」
「知ってる」
「なんか……“沈みのプロ”って感じ!」
「プロではない」
「じゃあ“沈み界のエリート”!」
「そんな界隈はない」
なぎさは沈んだ建物に向かって手を振った。
「沈みの才能、今日も絶好調だねー!」
「応援するな」
(沈む建物を応援する人類、他にいないと思う…… でも……この子の声があるだけで、街が少しだけ明るく見える……)
りんは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
沈んだ商店街を抜けた先、ふたりは古い街灯の下に立ち止まった。 街灯は根元から傾き、雨に濡れた鉄柱が不気味に軋んでいる。 光は弱々しく、今にも消えそうだった。
なぎさは街灯を見上げ、なぜか眉間にしわを寄せた。
「りん……この街灯、なんか“悟りの直前”みたいな顔してる」
「顔はない」
「でもほら、光が“もうすぐ無になる……”って言ってる」
「言ってない」
なぎさは街灯に向かって深々とお辞儀した。
「無になる前に……ありがとうございました……!」
「供養するな」
(なんで街灯に供養を……? いや、でも……この子のこういうところ、嫌いじゃない……)
りんがそんなことを考えていると、 街灯の上から「パキッ」と乾いた音がした。
「りん、今の……?」
「上だ、離れろ!」
りんがなぎさの腕を引いた瞬間、街灯の一部が崩れ落ちた。 水面に激しく落下し、しぶきがふたりの足元を濡らす。
「わっ……! 今、私の“今日の運勢”が落ちた気がする!」
「落ちてない」
「じゃあ……“運勢の皮”だけ落ちた……?」
「そんな皮はない」
なぎさは胸を押さえながら深呼吸した。 その動きで傘が揺れ、りんの肩に雨水が落ちた。
「りん……私、今ので“人生のHP”が3くらい減った……」
「HP制なのか」
「うん。でもりんが隣にいるから“自動回復”してる」
「……」
(なんでそんなこと言うんだ…… いや、嬉しい……けど……)
足元の水が大きく揺れた。
「りん、今の揺れ……なんか、街が“ため息”ついたみたい」
「ため息ではない。沈んだだけだ」
「じゃあ“街の寝返り”!」
「寝てない」
「じゃあ“街の寝相悪い期”!」
「そんな時期はない」
なぎさは水面をじっと見つめた。
「ねぇりん……この水、なんか語りかけてこない?」
「こない」
「“お前もいずれ沈むのだ……”って」
「悪役のセリフみたいだな」
「じゃあ“沈むのも悪くないぞ……”って優しいパターンもある!」
「どっちにしろ沈む前提なのはやめろ」
なぎさは水面に向かって小さく会釈した。
「沈むのはまだ先でお願いします……」
「お願いするな」
(でも……なんか可愛いな……)
りんは心の中で静かに目をそらした。
雨はさらに強くなり、街灯の光はほとんど消えかけていた。 沈む街の奥へ進むほど、世界は静かに、確実に終わりへ向かっている。
なぎさは突然、りんの腕を掴んだ。
「りん、見て! あの建物、昨日より沈んでる!」
「知ってる」
「なんか……“沈みのプロ”って感じ!」
「プロではない」
なぎさは沈んだ建物に向かって手を振った。
「沈みの才能、今日も絶好調だねー!」
「応援するな」
りんは思わず顔を覆った。
(沈む建物を応援する人類、他にいないと思う…… でも……この子の声があるだけで、街が少しだけ明るく見える……)
なぎさはりんの顔を覗き込み、急に真剣な声で言った。
「りん……沈むってさ……“地面の気まぐれ”だと思うんだよね」
「気まぐれではない」
「じゃあ“地面のストレッチ”!」
「沈んでるだけだ」
「じゃあ“地面のダイエット”!」
「痩せる方向じゃない」
なぎさは腕を組み、うんうんと頷いた。
「りん……地面って、意外と自由なんだね……」
「自由ではない」
(自由な地面ってなんだ…… でも……この子の世界は、どこまでも優しい……)
りんは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
少し高い場所へ移動すると、沈む街全体が見渡せた。 雨に濡れた屋根、消えかけた光、遠くで揺れる水面。 世界は静かに、確実に沈んでいく。
なぎさは傘を胸の前で抱え、ぽつりと言った。
「りん……街って、こんなに静かだったっけ」
「……人がいなくなったからな」
「そっか……じゃあ今は“静寂のバーゲンセール”だね」
「静寂は売らない」
なぎさは手のひらを上に向け、落ちてくる雨粒を受け止めた。 その雨粒をじっと見つめ、急に真剣な声で言う。
「りん……この雨、なんか“優しい味”する」
「飲むなよ」
「飲んでないよ! でも……なんか、心にしみる味……」
「それは……わかる気がする」
りんは自分の言葉に少し驚いた。 なぎさも驚いたように目を丸くした。
「えっ、りんが……共感……?」
「たまにはする」
「りんの共感、レアカードだ……!」
「カード化するな」
なぎさは笑いながら、りんの傘にそっと自分の傘を寄せた。 ふたりの影がひとつに重なる。
「りんってさ……なんか、こう……“雨の中の頼れる存在”って感じ」
「抽象的だな」
「じゃあ……“雨属性の守護者”!」
「属性を勝手に付けるな」
「でも、りんがいると雨が怖くないんだよ?」
りんは言葉を失った。 胸の奥が、静かに、じんわりと熱くなる。
(……そんなこと言われたら…… 守らないわけにいかないだろ……)
そのとき、遠くの水面で何かが揺れた。 人影のような、光のような、判別のつかない何か。
「りん、今の……」
「……誰かいるのかもしれない。行ってみよう」
なぎさはりんの手をぎゅっと握った。 その手は温かく、確かだった。
「りん……もしさ……この街が全部沈んでも……」
なぎさは少しだけ視線を落とし、 雨粒が頬を伝うのも気にせず続けた。
「私、りんと一緒なら……沈むのも、ちょっとだけ怖くない」
りんは息を呑んだ。
(……なんでそんなこと言うんだよ…… そんなの……守るしかないだろ……)
りんはなぎさの手を握り返した。
「沈ませない。絶対に」
 なぎさは驚いたように目を見開き、 次の瞬間、ふわりと笑った。
「……うん」
ふたりは沈む街の奥へと歩き出す。
 消えゆく街灯の代わりに、ふたりの影が寄り添って伸びていった。
雨音だけが、静かにその背中を見送っていた。
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