雨は相変わらず、街を静かに沈めていた。 だが、なぎさとりんにとって、この道はもう“初めての冒険”ではない。
「ここだよ、りんちゃん! ほら、前に来たおうち! おじいちゃんがランタン自慢してくれたとこ!」
「……自慢じゃなかったと思う」
(でも、なぎさは“ランタン講座”を完全に自慢扱いしてる……)
水に揺れる街灯の向こう、見覚えのある木の門が姿を現す。 半分沈んだ庭石も、苔むした敷石も、記憶の中とほとんど変わらない。
「……ランタン、まだ点いてる」
りんは小さく呟いた。 軒先の古いランタンが、雨の中でかすかな光を灯している。 それを見ただけで、胸の奥がほんの少しだけ緩む。
「よかったぁ〜! おじいちゃんおばあちゃん、元気そうだねぇ!」
なぎさは弾む足取りで門を押す。 きい、と前と同じ音がして、門は素直に開いた。
戸を叩く前に、内側から足音が近づく。
「……あら」
扉を開けた老婦人は、二人の顔を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「まあ、あなたたち……また来てくれたのね」
「来ちゃいましたー! おばあちゃんの家、落ち着くんだもん!」
「……こんにちは」
(なぎさの“来ちゃいました”の破壊力……二度目でも変わらない……)
老夫も奥から姿を現し、ゆっくりと頷いた。
「こんな雨の日に……前と同じだな。相変わらず元気だ」
「えへへー! 雨の日はテンション上がるんだよー!」
「……わたしは下がる」
(むしろゼロに沈む……)
老婦人は嬉しそうに笑った。
「邪魔だなんて言わせないわよ。さぁ、早く中へ。今日は前より冷えるから」
家の中は、前に来た時と同じ匂いがした。 古い木の香りと、ほのかな灯油の匂い。 写真の並ぶ壁も、低い天井も、すでに“知っている場所”だ。
「……前より、雨音が近い」
りんの言葉に、老夫は苦笑する。
「この前より屋根が弱ってきてな。後で見てもらえると助かる」
「任せてー! りんちゃんがなんとかしてくれるよ!」
「……なんでわたし前提」
(なぎさは“りんちゃん万能説”を信じすぎてる……)
なぎさはきゅっと拳を握り、胸を張った。
「よーし! 今日はいっぱいお手伝いするよー! りんちゃんもね!」
「……巻き込むな」
(でも……やるけど……)
雨音の中、二度目の訪問は、前より少しだけ賑やかに始まった。
居間のランタンは、前より少し暗くなっていた。 芯が短くなったのだろう。炎は揺れながら、かろうじて部屋を照らしている。
「……やっぱり、ちょっと暗いねぇ。りんちゃんの心の明るさで照らしてよー!」
「……無理」
(なぎさの“心の明るさ換算”はいつも雑……)
老婦人は小さく笑った。
「前に来てくれた後ね、芯を替えようと思ったんだけど……なかなかね」
「……物も、人も。時間が要る」
老夫がそう付け加える。
「じゃあさ! 今日は元気出ることしよー! お昼ごはん、また作ってもいい? 前に作ったやつ、すっごく喜んでくれたし!」
「また、って……」
りんは小さく眉を動かした。 前回、なぎさが即席で作った料理を、老夫婦が驚くほど喜んでいたのを思い出す。
 「まあ……あれは、美味しかったわ」
老婦人の言葉に、なぎさは得意げに胸を張る。
「でしょでしょー! 今回はね、もっとパワーアップするんだよー! “りんちゃんの笑顔+5”くらい!」
「……そんな数値化いらない」
(+5って何……?)
りんは室内を見回し、床の隅のバケツに気づく。
「……これ、前から?」
「いや……ここ数日だな」
「雨が強くなると、天井から少し……」
「……後で、見る」
なぎさは鍋を火にかけながら振り返る。
「ねぇねぇ、おばあちゃん。前に聞いたお祭りさ、あれってその後どうなったの?」
老婦人は少し遠くを見るように微笑んだ。
「もう……再開は難しいわね。でもね、不思議なことに、夢に出てくるの。灯りが揺れて、人の声がして」
「……記憶が、残ってる」
「えへへ。じゃあさ、今日のことも夢に出るね! りんちゃんが屋根直してる夢とか!」
「……それは出なくていい」
(夢にまで仕事を持ち込ませないでほしい……)
老婦人は目を細めた。
「ええ……きっと」
「……前に来てくれた時も思ったが、君たちが来ると、この家が少し賑やかになる」
「ほんと!? じゃあ、もっと賑やかにするねー! りんちゃん、太鼓叩いて!」
「……叩かない」
(なぎさの“賑やか”の基準が祭り……)
(……もう、客じゃないな)
雨音が、急に重くなった。
屋根を叩く音が低く響き、家全体がゆっくりと軋む。 その直後だった。
――ぽと。
床に、水滴が落ちる。
「……来たな」
老夫が静かに言った。
天井の隅から、水が糸を引くように垂れている。 前回よりも、明らかに量が多い。
「えっ、雨漏り!? りんちゃん、出番だよー!」
「……言われなくても」
(なぎさの“出番”の基準が雑……)
りんはすでに立ち上がり、バケツを置く。
「前に来たときから、ちょっと気になってたんだよね……」
なぎさは雑巾を手に取り、慣れた動きで床を拭く。
 「ごめんね……こんなことまで」
「ぜんっぜん! むしろ頼ってくれて嬉しいよー! りんちゃんも嬉しいよね!」
「……勝手に決めるな」
(でも……嫌じゃない)
りんは脚立を持ち、屋根裏へ上がる。
湿った空気。近すぎる雨音。 亀裂は、前回よりも広がっていた。
(時間の問題、だったな)
簡易シートを広げ、釘を打つ。 完璧ではないが、今をしのぐには十分だ。
一方、居間ではなぎさが動き回っていた。
「はいっ、ここ通行止めー! 床、つるつるだからねー!」
「前に来た時より、ずいぶん慣れたわね」
「えへへ。ここ、好きだから!」
「……またそう言ってもらえると、救われる」
やがて、屋根裏から声が落ちてくる。
「……止まった。今夜は、大丈夫」
「りんちゃん、ありがとー! 抱きつくねー!」
「……やめろ」
(でも……来ると思った)
老夫婦は顔を見合わせ、静かに笑った。
「……家ってね」
「手をかけてくれる人がいると、もう少しだけ、生きようとするのよ」
「じゃあさ。まだまだ、生きさせようよ。りんちゃんの力で!」
「……わたしの力だけじゃない」
(なぎさの騒がしさも……悪くない)
りんはランタンの芯を整えた。 炎がわずかに明るくなる。
雨は夜になっても止まなかった。 けれど、屋根を打つ音は先ほどよりも穏やかに聞こえる。
ランタンの炎が少しだけ強くなり、居間を柔らかく照らしていた。
「……助かったよ」
「こうして家の中が落ち着くと……まだ、ここで過ごせる気がする」
「でしょー! だから、ちゃんと食べなきゃだよ! 元気はお腹からだよ!」
 「また作ってくれたのね。前にいただいた料理、忘れられなくて」
「前より、味がしっかりしてるわ」
「えへへ! ちょっとだけ、工夫したんだー! “りんちゃんの笑顔+3”のやつ!」
「……そんな単位ない」
(でも……悪くない)
食後、老夫婦は窓の外を眺めていた。
 沈みゆく街の灯りが、水面に揺れている。
「最近ね……週末の電車、前より長く鳴る気がするの」
意味は言わなくても分かる。
「……それでも」
「誰かが、また来てくれると思うと……怖さが、少し和らぐ」
「また来るよ! 何回でも! りんちゃんも来るよね!」
「……必要なら、呼んで」
(なぎさの“巻き込み力”は相変わらず……)
老婦人は二人の手をそっと包んだ。
「ありがとう。あなたたちが来てくれるなら……この家は、まだ終わらないわね」
遠くで汽笛が鳴った。 週末を告げる、あの音だ。
「ねぇ、りんちゃん。次来るときは、もっと明るくしよ! ランタン3つくらい増やそ!」
「……そんなにいらない」
(でも……明るいのは悪くない)
雨の街の片隅で、小さな灯りが、確かに引き継がれていく。
それは、終わりへ向かう世界の中で、誰かが誰かを想う証だった。
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