雨は夜になっても止む気配を見せず、街を静かに沈め続けていた。 沈みかけた道路には薄い膜のように水が張り、街灯の光がゆらりと揺れて映り込む。その光は、水底に沈む星の残骸みたいに頼りなく、触れれば消えてしまいそうだった。
最近なんでも“指数”で表したがる癖がついたなぎさは、雨の道を見るなり目を輝かせた。 「りんちゃんりんちゃん! 今日のキラキラ指数、たぶん過去最高だよ! 雨の妖精も応援してる気がするし、テンションブーストも+5くらい!」 「……指数も妖精も、意味が分からない」 (なぎさの“指数”シリーズ、いつの間にか増えてる……妖精まで登場するとは……)
なぎさは傘をぶんぶん振りながら足元を覗き込み、りんはその少し前を歩いていた。 ランタンの淡い光が、二人の足元だけをかろうじて照らしている。 雨音は一定のリズムを刻み、遠くでは何かが崩れるような低い音が混じっていた。 建物の影は水面に溶け、どこまでが道でどこからが水なのか、境界が曖昧になっている。
「ねぇねぇ、りんちゃん。この街、ほんとに静かだねぇ。雨の音しか聞こえないよ」 「……静かすぎるのは、逆に危ない」 (静か=安全、じゃないんだけど……なぎさには伝わらない気がする)
りんは足を止め、半分沈んだ橋の手前でしゃがみ込んだ。
 橋はところどころひび割れ、鉄骨が雨に濡れて鈍く光っている。
「ここ、踏み外したら落ちる。端は避けて」 「はーい! ……ひゃ、なんかドキドキするねぇ。ワクワク半分、こわいの半分! でも多分ワクワクが120%くらい!」 (その“半分”の配分、絶対ワクワクのほうが多い……120%って何……)
なぎさは傘を振りながら足を進める。水面に映った自分の顔がゆらゆら揺れ、まるで別人みたいに見えた。 「わっ、私、もう一人のなぎさがいる! ふたりで雨合戦できるね!」 「……やらない」 (傘で自分と戦う発想、どこから出てくる……でも嫌いじゃない)
傘越しに降る雨は、まるで世界の音をすべて洗い流すように静かだった。 「ねぇ、りんちゃん。ここで足踏みしたら、水が‘ぽちゃっ’って……ぷかぷか浮くのかなぁ?」 「……浮かない。泥と一緒に沈む」 (なぎさ、浮かぶイメージをどうしても入れたがる……)
この街は、確実に沈んでいる。 それでも――雨音に包まれながら並んで歩くこの時間だけは、不思議と心が落ち着いていた。 (……ひとりじゃ、こうは思えない)
胸の奥に浮かんだ感情をそっと押し込み、りんはなぎさの歩幅に合わせて歩き出す。
橋を渡りきると、街はさらに静けさを深めていた。 建物の一階部分はすでに水に浸かり、看板の文字も半分ほどしか読めない。 雨粒が傘を叩く音と、水面に落ちる小さな波紋だけが、時間の流れを教えてくれる。
「ねぇ、りんちゃん。ここ、前はお店だったんだよね?」 なぎさは水面に沈んだショーウィンドウを指さした。 割れたガラスの奥には、色あせたマネキンが斜めに倒れている。
「たぶん。服屋だな」 りんは足元を確かめながら答える。 「水、深くなってる。靴、気をつけろ」
「だいじょーぶだよー。ほら、長靴だもん!」 そう言って、なぎさはわざと水たまりをぱしゃりと踏んだ。
「……遊ぶな」 ぶっきらぼうに言いながらも、りんはなぎさの腕をそっと掴み、滑らない位置へ引き寄せる。
(なぎさの“長靴万能説”、いつから始まったんだ……)
雨音は強くも弱くもならず、ただ一定のテンポで降り続いていた。 その単調さが、逆に心を落ち着かせる。 世界が終わりへ向かっているという現実さえ、今は遠く感じられた。
「不思議だねぇ。こんな世界なのに、なんか……安心する」 なぎさは空を見上げ、ぽつりと言った。
「雨が、全部の音を隠してるからだ」 りんはそう答えてから、少し間を置く。 「……わたしも、嫌いじゃない」
(雨の音が好きなんじゃなくて……たぶん、隣にいる誰かのせいだ)
そんな考えが胸の奥に浮かび、りんはそっと押し込んだ。
なぎさは水面を覗き込み、また何かを思いついたように声を上げる。
「りんちゃんりんちゃん! 見て! 水の中のマネキン、なんか手振ってるみたいに見えない?」 「……見えない」 (見えたらそれはそれで怖い……)
「ほらぁ、こうやって傘を振るとね、マネキンも“やっほー”って……」 「やらなくていい」 (なぎさの“やっほー強要”が始まった……)
なぎさは傘を振りながら笑い、りんはその横顔をちらりと見た。 雨粒がなぎさの頬を滑り落ち、ランタンの光に一瞬だけきらりと光る。
(……ほんと、よく笑えるな)
沈む街の中で、笑顔を保てる理由が、りんにはまだよく分からなかった。
街灯が一つ、ぱちりと小さな音を立てて揺れた。 光はまだ消えていないが、水面に映るその輪郭は、どこか歪んで見える。
「ねぇ、りんちゃん」 「なんだ」
「この街、沈んでるのに……なんか、きれいだねぇ」 なぎさは水面に映る光を見つめながら言った。
「……きれい、か」 (沈んでるのに、きれい……その感性、どこから来るんだ)
りんは答えず、ただ隣に立つなぎさの横顔を見つめた。
沈み方が、少しずつ早くなっている―― りんはそう感じながらも、その不安を胸の奥にしまい込み、なぎさの歩幅に合わせて歩き続けた。
その場所に差しかかったとき、雨音の奥に、嫌な音が混じった。 ぎし、と湿った木が軋むような、低く短い音。
「……止まれ」
りんの声は低く、即座だった。 なぎさは一歩踏み出しかけた足を慌てて引っ込める。
「ど、どしたの? りんちゃん?」 「水面、よく見ろ」
ランタンを少し前にかざすと、水たまりだと思っていた場所の奥に、橋の一部が沈みかけているのが見えた。 舗装は崩れ、下の水が不気味に揺れている。
「うわ……道、なくなってる……?」 なぎさの声から、さっきまでの軽さが消えた。
「見た目より深い。ここ、踏んだら――」
言い終わる前に、足元がぬるりと滑った。
「わっ!? ちょ、待って待って待って! 私まだ沈む準備してないよー!」 (……こわかった。でも、りんちゃんの手、あったかかった)
なぎさの体が傾き、傘が大きく揺れる。 次の瞬間、りんは反射的に腕を伸ばしていた。
「なぎさっ!」
掴んだ手は細くて、驚くほど温かい。
 二人の体はぎりぎりで踏みとどまり、水面に波紋だけが広がった。
(……心臓、落ちたかと思った)
「ご、ごめん……」 なぎさは息を詰め、俯く。
「謝るな。わたしが前にいなかったのが悪い」 りんは短く言い、周囲を見回した。 「……回り道する。遠くなるけど、安全だ」
「うん……」 なぎさは小さく頷いてから、無理に笑顔を作る。 「でもさ、りんちゃんがいてくれてよかったよー。ひとりだったら、今ごろ水中散歩してたもん」
「散歩じゃなくて溺れるんだ」 (なぎさの“水中ポジティブ変換”、どうにかならないのか……)
りんは何も言わず、ただ手を離さなかった。 雨音が、さっきより少しだけ大きく聞こえる。
橋の向こうでは、水位がわずかに上がっているのが見えた。 街は静かに、確実に沈んでいる。
その様子を、高い建物の影から見つめる人物がいる。 もみじはフードの奥で目を細め、二人の無事を確認すると、そっと息を吐いた。 (……間に合った。でも、この沈み方は……嫌な予感がする。あの二人を守れるのは、もう長くないかもしれない)
雨は、何も語らずに降り続いていた。
街灯がまた一つ、ふっと弱く瞬いた。 光は消えなかったが、次はどうなるかわからない。 ライフラインの止まった街は、静かに終わりへ向かっている。
「ねぇ、りんちゃん」 「なんだ」
「世界が沈んでもさ……こうして一緒なら、なんとかなるよねぇ」 なぎさは雨空を見上げ、にこりと笑った。
りんは一瞬だけ足を止め、それから小さく頷いた。
「……そうだな」
二人の背後、遠くの高所で、もみじは静かに踵を返す。 街の沈みは、確実に進んでいる。 次に守るべき瞬間は、そう遠くない。
雨はただ降り続ける。 世界の終わりを告げるように、静かに、確実に、少女たちの行く先を包み込んでいた。
回り道の先は、かつて住宅街だった場所だった。 建物の二階部分まで水が迫り、郵便受けや表札が半分沈んでいる。 人の気配はなく、雨音だけが均等に世界を満たしていた。
「……さっきは、ほんとにありがとね。りんちゃん」 なぎさは歩きながら、少しだけ声を落として言った。
「当然だ」 りんは前を向いたまま答える。 「危ない場所では、ふざけない。それだけ覚えとけ」
「はーい……反省してるよ」 なぎさは小さく苦笑し、濡れた前髪を指で払った。
(……ほんとに反省してるのか、半分くらい怪しい)
りんはそう思いながらも、なぎさの歩幅に合わせて歩く。
 雨に濡れた街は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。
「でもさ、りんちゃん」 なぎさはぽつりと続けた。 「怖かったのに……今は、ちょっと落ち着いてる。不思議だねぇ」
(……不思議じゃない。隣に誰かがいるだけで、世界の見え方は変わる)
言葉にはしない。 けれど、その感情は確かに胸の奥で揺れていた。
雨粒が傘を叩く音が、規則正しく響く。 ランタンの光が揺れ、二人の影が水面に細く伸びていく。
「ねぇ、りんちゃん」 「なんだ」
「世界が沈んでもさ……こうして歩けるなら、悪くないよねぇ」 なぎさは雨空を見上げ、微笑みを浮かべた。
その笑顔は、雨に濡れても消えない灯りのようだった。
りんは一瞬だけ足を止め、それから小さく頷いた。
「……そうだな」
(ほんとに……そう思う)
胸の奥が、静かに温かくなる。 雨の冷たさとは違う、確かな温度だった。
ふと、遠くの高所で気配が動いた。 もみじがフードを深くかぶり、二人の姿を見つめている。
(……無事でよかった。でも、この沈み方……時間がない)
雨に紛れるように、もみじは静かに踵を返した。 その背中には、言葉にできない焦りが滲んでいた。
街灯がまた一つ、弱く瞬いた。 光はまだ消えていない。 けれど、水面に映るその輪郭は、どこか頼りなく揺れている。
雨はただ降り続ける。 世界の終わりを告げるように、静かに、確実に。
それでも――
二人の間に流れる心の温かさだけは、雨に打たれても決して消えなかった。 消えかけても、なお灯る小さな灯りのように。
沈みゆく街の片隅で、 二つの影は寄り添いながら、静かに揺れていた。
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