「あ、見て見て、りんちゃん! あそこ、光の帯が見えるよぉ!」
あたしは錆びついた高架橋の手すりに身を乗り出し、雨のカーテンの向こうを指差した。 沈みかけた街の地平を、一本の光がゆっくりと這っていく。
週末の風物詩――いや、この世界における“終わりの合図”。 安楽死列車だ。
「……そんなに乗り出すな。風が強い。落ちたら、その列車に乗るより早く終わるぞ」
背後から、りんちゃんの冷たい声。 でも、ほんの少しだけ温度が上がっている。
(心配してくれてる……! りんちゃんの優しさ、今日も健在!)
「まさかぁ! あたしはまだまだ、この世界でやりたいことが山ほどあるのだ! でもさ、あの列車に乗ってる人たち……なんだか寂しそうじゃない?」
あたしはポケットからガラクタを取り出した。 給湯室で拾ったビニール袋の端切れと、さっき見つけた綺麗な石ころ。 これに“なぎさ式・超雑防水加工”を施して、お守りにする予定だ。
「これをね、あそこまで投げたいんだ。“あたしたちはまだ元気だよー!”って。冒険的エールだよ!」
「……馬鹿げてる。あそこまで何メートルあると思ってる。物理的に不可能だ」
りんちゃんは呆れたように首を振る。 その視線は、一瞬だけ列車の光から逸れて、あたしの手元へ落ちた。
(ほら、りんちゃん、なんだかんだで気にしてるんだよね……かわいい)
「りんちゃん。この世界はね、物理法則だけで動いてるわけじゃないのだよ。あたしの“ワクワク指数”が今、最大値を叩き出しているのだ!」
(※ワクワク指数:なぎさの脳内でのみ観測される謎の物理量)
雨は絶え間なく降り続け、街の輪郭を静かに削っていく。 その中で、あたしのテンションだけが異常に元気だ。
でも、それは――
(だって、りんちゃんが隣にいるんだもん)
安楽死列車の光は、遠くで静かに揺れていた。 あたしたちはまだ、そこへ向かう理由を持っていない。
あたしは、コンクリートが剥き出しになった高架の縁にそっと足をかけた。 雨で濡れた表面は、まるで「滑って落ちてみない?」と誘惑してくる悪魔のスケートリンクだ。
「なぎさ、戻れ! そこは地盤が脆くなってる!」
りんちゃんの声が、雨音を切り裂いて飛んできた。 でも、あたしの耳には――
(風が“今だよ”って言ってるんだよね……? ね?)
風の囁きは、だいたい命を縮める方向に誘導してくる。 でも、今のあたしはワクワク指数が限界突破しているので、聞こえなかったことにする。
「ねえ、あそこまで届きそうじゃない? 今なら風も味方してるし! ほら、世界が“投げろ”って言ってる!」
(※世界は言っていない。りんの内心より)
あたしはお守りを握りしめた。 ビニールの端切れと石ころのくせに、今は“勇者の装備”みたいに見える。
指先に力を込め、全身のバネを使って―― 光の帯へ向けて腕を振り抜こうとした、その瞬間。
足元の世界が、不気味に震えた。 ひび割れる音が、雨音の下で小さく弾けた。
「……あ」
ぐにゃり、と感覚が歪む。 踏みしめていた縁が、重力に負けて崩れ落ちていくのが分かった。
視界が急速に傾き、空と地面が入れ替わる。 雨粒が逆方向に飛んでくるの、初めて見た。
「足、見てって言っただろ! 風、読めてない!」
りんちゃんの怒鳴り声が、今まで聞いたことがないくらい近い。 そして激しい。
(りんちゃん、怒ると語彙が増えるんだ……!)
あたしの身体は、冷たい空気に投げ出された。 あ、これ、マズいかも。
(人生のHP、今ので一気に1まで削れた気がする……!)
反射的に手を伸ばす。 空を掴もうとして、でもそこには何もなくて。
「だいじょ――」
「大丈夫なわけないだろ!」
あたしの能天気な台詞を、りんちゃんの怒りが叩き潰した。 その声は、落下の恐怖よりずっと強くて、あたしの心臓を一瞬だけ現実に引き戻した。
(……りんちゃん、そんな声出すんだ)
雨の中、あたしの身体は落ち続けていた。
風が唸りを上げ、あたしの身体を外側へ押し出そうとする。 雨粒が横殴りで顔に当たり、痛い。
(ねえ風さん、今日だけは味方してくれても良くない? なんで全力で敵側なの?)
「……っ!」
突然の衝撃。 腕が千切れるかと思うほどの力で、あたしの手首が固定された。
見上げれば―― 顔を真っ赤にして、歯を食いしばりながら、あたしを繋ぎ止めているりんちゃん。
 りんちゃんが叫んだ。
「……っ、掴め! 絶対に、離すな!」
りんちゃんの細い腕が震えている。 その瞳には、いつもの冷静さなんて欠片もなくて、ただひとつ――
「失うことへの剥き出しの恐怖」
だけが焼き付いていた。
(りんちゃん……そんな顔、させたくないよ……)
あたしは必死に、崩れかけたコンクリートの支柱にしがみつく。 指先が滑る。 雨水が容赦なく流れ落ちて、支柱はまるで「握れたら奇跡だよ?」と言わんばかりにツルツルだ。
りんちゃんはあたしの襟首を掴み、渾身の力で引き寄せる。
「いいから! 今、離したら死ぬんだぞ!」
「わ、わかってるよぉ!」
ユーモアで返そうとしたけれど、声が掠れてうまく出ない。 雨水が口に入り、鉄の味が広がった。
(あ、これ絶対サビの味だ……身体に悪いやつ……)
あたしたちは、崩落の淵で、もがきながら一つの命を繋いでいた。 りんちゃんの指先が、あたしの肌に食い込む。 冷たいはずの雨の中で、彼女の手のひらだけが、火傷しそうなくらい熱かった。
(りんちゃん、こんなに必死に……あたし、ほんとに落ちるところだったんだ……)
遠くで、安楽死列車の汽笛がポーッと鳴った。 まるであたしたちの無様さを嘲笑うかのような、穏やかすぎる音色。
(ちょっと列車さん、今は静かにしてて……!)
「……っしょ!」
最後の一踏ん張り。 りんちゃんが身体を後ろに倒すようにして、あたしを引きずり上げた。
世界が一瞬だけ止まったように感じた。 雨音も、風の唸りも、汽笛の残響も、全部遠くへ押しやられて――
あたしは、りんちゃんの腕の中に転がり込んだ。
(……助かった。ほんとに、助けられたんだ)
高架橋の、まだ安全と呼べる地面の上に、あたしたちは転がり込んだ。
冷たい雨が容赦なく顔を叩く。 背中越しに伝わるコンクリートの硬さが、あたしがまだ「こっち側」にいることを、無言で告げてくる。
「はぁ……はぁ……っ、はぁ……」
隣で、りんちゃんが激しく呼吸を乱していた。 肩が上下して、雨と汗が混ざって滴り落ちている。
(りんちゃん……こんなに乱れてるの、初めて見る……)
何か言わなきゃ。 この沈黙は、雨より冷たい。
「あ……その……ごめんね、りんちゃん。お守り、投げられなかった……」
冗談めかして言ったつもりだった。 いつものように「冒険失敗!」って笑えば、この重苦しい空気が少しは晴れると思った。
でも。
「……ふざけるな」
りんちゃんの声は、低く、低く沈んでいた。 雨音より冷たくて、胸の奥に刺さる。
「……計算がどうとか、そんなんじゃない。お前が、消えると思ったんだ。目の前で、ただの石ころみたいに」
彼女の手は、まだ小刻みに震えていた。 あたしの襟首を掴んでいた指の跡が、じんわりと熱を残している。
(……あたし、そんな顔させてたんだ)
あたしは、自分の軽薄さが、りんちゃんの“何か大事なもの”をどれだけ削ってしまったのかを、その時初めて理解した。
あたしの「大丈夫」は、彼女にとっては呪文でもなんでもなかった。 ただの、無責任な音だった。
(あたし……ずっと、りんちゃんを守りたいって思ってたのに……逆に、りんちゃんの心を削ってたんだ……)
「……さっきの、あれ……」
言葉が続かなかった。 喉の奥で、雨と後悔が絡まって、声にならない。
りんちゃんはあたしを見ようともしない。 ただ、荒い呼吸を整えることに必死だった。
 雨は止む気配もなく、沈む街の上に、静かに降り続けていた。
光の帯は、すっかり遠ざかっていた。 安楽死列車は、あたしたちの騒動なんて知る由もなく、静かに闇の向こうへと消えていった。
あたしたちはしばらくの間、並んで座ったまま、降り止まぬ雨をただ眺めていた。 雨粒が地面に落ちる音だけが、世界の残り時間を刻んでいるみたいだった。
「……あ、これ」
足元に、小さな物体が転がっているのに気づいた。 さっき握りしめていたはずの“防水お守りの石ころ”……ではなかった。
「……無線機?」
泥にまみれ、外装が割れた古い無線機。 今の崩落で、土の中から掘り出されたんだろう。
(え、ちょっと待って……石ころよりレアアイテム出てきたんだけど? あたし、ガチャ運だけは強いタイプ?)
りんちゃんが無言でそれを拾い上げ、濡れた指先でスイッチを押した。
『……ザ……ザザッ……聞こえ……ますか……?』
ノイズの向こう側から、誰かの声がした気がした。 もみじちゃんだろうか。それとも、まったく別の誰か……?
あたしたちは、顔を見合わせた。
 (……生きてる声、だ)
救われた命と、壊れた無線機。 あたしの無鉄砲さが招いた事故は、予期せぬ“外の世界への扉”をこじ開けてしまったのかもしれない。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。 さっきまでの恐怖とは違う、別の熱。
「……行こう。ここにいたら、風邪を引く」
りんちゃんは立ち上がり、あたしに背を向けた。 その背中は、さっきの必死な熱が嘘みたいに、また冷たく、静かなものに戻っていた。
(でも……さっきの熱、ちゃんと覚えてるよ)
あたしも立ち上がり、りんちゃんの後ろを歩き出す。
雨はまだ止まない。 街は沈み続ける。
でも―― あたしたちの「冒険」は、まだ始まったばかりだ。
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