◀第33章:結界の外側で、世界は声を失いかけていた
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第35章:すれ違いの真実、夜の港で僕らは言葉を失う
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港町の夜は、昼とはまったく違う表情を見せる。 潮風はひんやりとして、灯台の光がゆっくりと回転し、波の音が静かに響いていた。 見晴らし台からは、港の灯りが宝石みたいに散らばって見える。
――ここに来るのは、二度目だ。 海が黄金色に輝く夕暮れの下、アイリスと大切な「約束」を交わしたあの日。
あのときの僕は、もっと素直で、もっと無防備だった気がする。 なのに今は――胸の鼓動が、あのときよりずっと騒がしい。 未来の音どころか、不協和音に近い。
「アリア、ここ……やっぱり綺麗だね」 隣でアイリスが微笑む。 夜風に揺れる金色の髪が、灯りを反射してふわりと光った。
……反則だろ、それ。
「う、うん。まあ……その、たまにはこういうのもいいかなって」 声が裏返った。 僕は無意識に、手すりを“とん、とん”と指先で叩いていた。
呼吸のように自然な癖。 でも今日は、そのリズムが妙に速い。
「ふふっ、アリアって、こういう場所好きなんだ?」 「す、好きっていうか……嫌いじゃないというか……」 語彙力が迷子だ。
アイリスは僕の反応が面白いのか、くすくす笑っている。 その笑顔を見るだけで胸がざわつく。 戦闘より緊張するってどういうことだ。
「アリア、今日……誘ってくれてありがとう」 「えっ、あ、うん。別に……その……」 なんでそんな素直に言うの。 心臓がもたない。
距離が近い。 いや、近すぎる。 あと十センチで肩が触れる。
僕はそっと半歩だけ離れた。 その瞬間、アイリスがほんの少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「……アリア、もしかして嫌だった?」 「ち、違う! 違うよ! ただ、その……」 近いと、落ち着かないだけで。
でもそんなこと言えるわけがない。
僕は太ももの横を“とん、とん”と叩いた。 無意識の癖が、動揺を隠しきれていない。
アイリスがちらりと僕の指先を見て、 「……アリア、緊張してるの?」 と小さく笑った。
――やめてくれ。 その笑顔が一番、心臓に悪い。
夜の港町は静かで、波の音だけが響いていた。 その静けさが、逆に胸の鼓動を強調する。
すれ違いの予感が、胸の奥で小さく疼いた。
見晴らし台の手すりに寄りかかりながら、アイリスは港の光を眺めていた。 その横顔は、戦場で見せる凛とした表情とは違って、どこか柔らかい。
「アリア、今日……なんだか変だよ?」 アイリスが首をかしげる。
「へ、変って……別に、変じゃないよ」 僕は慌てて否定したが、指先は“とん、とん”と手すりを叩いていた。 完全に動揺している証拠だ。
「ほら、また叩いてる」 「えっ……あ、これは……その……」 「緊張してるときの癖でしょ?」 アイリスはくすっと笑う。
――やめてくれ。 その笑顔が一番、心臓に悪い。
「アリア、私といると……緊張するの?」 「っ……!」 直球すぎる。
「そ、そんなこと……ない、と思う……たぶん……」 語尾が迷子になっていく。
「ふふっ、なんで“たぶん”なの?」 「いや、その……」 僕は視線を逸らす。 港の灯りが滲んで見えるのは湿気のせいだ。 決して、動揺しているせいじゃない。
「アリアって、戦闘のときはすごく頼もしいのに……こういうときは、すごく可愛いよね」 「かっ……!?」 心臓が跳ねた。
アイリスは悪気なく言っている。 だからこそ、余計に刺さる。
「か、可愛いって……その評価は……僕の戦術的有用性や、魔力波形の安定性と……著しく乖離してるというか……!」 口から勝手に理論が飛び出した。
「えっ、乖離?」 「そ、そうだよ! “可愛い”は戦闘評価項目に存在しないし、僕の役割は前衛魔術師であって……その……可愛いは……非合理的で……!」 自分でも何を言っているのか分からない。
アイリスはぽかんとしたあと、ふわっと笑った。
「アリアって……ほんと、アリアだね」 「ど、どういう意味!?」 「ううん、いい意味だよ」
その笑顔は、どこか安心したようにも見えた。 ――嫌われてないって、分かったからだろうか。
「アリアって、私のこと……どう思ってるの?」 「えっ」 急に核心を突かれ、呼吸が止まる。
「だってね、最近……アリア、ちょっと距離を取るようになった気がして」 「そ、そんなこと……」 ある。 めちゃくちゃある。
だって、近いと心臓が壊れる。
「私、嫌われちゃったのかなって……少しだけ思った」 アイリスが小さく呟く。
「ち、違う! 嫌いなんて絶対ない!」 僕は思わず声を上げた。
アイリスが驚いたように目を瞬く。 そして――ほんの少しだけ、嬉しそうに微笑んだ。
「そっか……よかった」
その表情に、胸がきゅっと締めつけられる。
そのとき――
「おーい、二人ともー! なんか距離感おかしくないかー!?」 下の階段からマークの声が響いた。
「マーク、空気読め」 ナギの冷たい声が続く。
「いや、読んだ上で言ってるんだが!?」 「読んだなら黙れ」 「ひどくない!?」
リンネがひそひそ声で言う。 「ねえナギ、これ……完全に“すれ違いフラグ”じゃない?」 「ええ。アリアが逃げて、アイリスが追う構図ね」 「青春だねぇ……」 「黙りなさい」
……全部聞こえてるんだけど。
僕は顔を覆いたくなった。
アイリスはというと、頬を赤くしながらも、 さっきよりずっと柔らかい笑顔を浮かべていた。
――どうしてそんな顔をするんだよ。
胸の奥が、またざわついた。
港の灯りが揺れて見えるのは、夜風のせいじゃない。 胸の奥がざわついて、視界まで落ち着かない。
アイリスは手すりに寄りかかりながら、僕の方をそっと見つめていた。 その瞳は、戦場で見せる鋭さとは違う。 柔らかくて、温かくて――近づくと危険だ。
「アリア、さっきの……本気で言ってくれたんだよね?」 「えっ、ど、どれ……?」 僕は無意識に太ももを“とん、とん”と叩いていた。
「“嫌いなんて絶対ない”ってやつ」 「っ……!」 その言葉を繰り返すのは反則だ。
「う、うん……あれは……本気、だけど……」 声が震える。 戦闘では震えないのに、なんでこんなときだけ。
「よかった……」 アイリスは胸に手を当て、ほっと息をついた。
――その表情が、また心臓に悪い。
「アリアって、ほんと不器用だよね」 「う……」 否定できない。
「でも……そういうところ、好きだよ」 「っっ……!」 心臓が跳ねた。 魔力制御装置より正確に跳ねた。
「す、好きって……その……意味が……」 「え?」 「いや、その……“好き”にも種類があるというか……統計的に分類すると……」 僕は完全にパニックだった。
「アリア、落ち着いて?」 アイリスがそっと僕の手に触れようとした。
――その瞬間。
僕は反射的に半歩下がってしまった。
「あ……」 アイリスの手が空を切る。
しまった。 また距離を取ってしまった。
「ご、ごめん! 違うんだ、これは……!」 僕は慌てて手すりを“とん、とん、とん”と叩く。 癖が完全に暴走している。
「アリア……私、そんなに怖い?」 「ち、違う! 怖くない! むしろ……逆で……」 逆ってなんだ。 自分で言っておいて意味が分からない。
「逆?」 アイリスが首をかしげる。
「その……近いと……心臓が……落ち着かなくて……」 言った瞬間、顔が熱くなる。
アイリスは一瞬ぽかんとしたあと―― ふわっと笑った。
「そっか……アリアも、そうなんだ」 「え……?」 「私もね、アリアが近いと……なんか胸がぎゅってなるの」 「っ……!」 それは、反則だろ。
僕は完全に固まった。 魔獣の咆哮でも動けるのに、アイリスの言葉ひとつで硬直するなんて。
「だからね……アリアが距離を取ると、ちょっとだけ寂しいの」 アイリスは夜風に揺れながら、静かに言った。
胸が痛い。 でも、嫌な痛みじゃない。
――僕は、どうしたいんだろう。
守りたい。 でも、近づくのが怖い。 でも、離れたくない。
矛盾だらけの感情が胸の奥で渦を巻く。
そのとき、階段の下から小声が聞こえた。
「……ナギ、これもう告白未遂じゃない?」 「未遂どころか、アリアが自爆してるだけね」 「青春だねぇ……」 「黙りなさい」
……全部聞こえてるんだけど。
僕は顔を覆いたくなった。
でも、アイリスは―― さっきより少しだけ、僕に近づいていた。
夜風が少し強くなり、港の灯りが揺れた。 アイリスは僕のすぐ隣に立っている。 距離は――さっきより近い。 胸の鼓動が、魔力制御装置の警告音みたいにうるさい。
さっきの言葉が、まだ胸の奥で反響していた。
――「アリアも、そうなんだ」。
アイリスも、僕が近いと胸がぎゅっとなる。 その一言が、頭の中で何度もループしている。
戦闘中の魔法理論なら即座に整理できるのに、 恋愛感情だけはどうしても整頓できない。
「アリア……さっきの、嬉しかったよ」 アイリスがそっと言った。
「え……?」 僕は無意識に太ももを“とん、とん”と叩いていた。 癖が止まらない。
「アリアが……嫌いじゃないって言ってくれたこと。 それだけで、今日ここに来た意味があったなって」
アイリスは夜風に揺れながら、少し照れたように笑った。 その笑顔は、戦場のどんな魔獣よりも僕の心を揺らす。
――どうしてそんな顔をするんだよ。
胸の奥が、またざわつく。 でも、さっきより温かい。
そのとき、階段の下からひそひそ声が聞こえた。
「……ナギ、あれもう“すれ違い”じゃなくて“進展直前”じゃない?」 「ええ。アリアが気づけば一歩進むのに、気づかないから停滞してるのよ」 「青春だねぇ……」 「黙りなさい」
……全部聞こえてるんだけど。
でも、さっきまでのような恥ずかしさより、 今はむしろ――背中を押されている気がした。
「アリア」 アイリスがそっと僕の袖をつまんだ。
その指先は、ほんの少し震えていた。
「逃げないでほしいな。 ……私、アリアとちゃんと話したいから」
胸がきゅっと締めつけられる。 逃げたくない。 でも、近づくのが怖い。 でも、離れたくない。
矛盾だらけの感情が、夜風の中で静かに揺れていた。
僕は小さく息を吸い、指先を“とん”と叩いた。 その一音が、揺れる心を少しだけ整えてくれる。
「……うん。逃げないよ」
その言葉に、アイリスはほっと微笑んだ。
その笑顔が、夜景よりも眩しかった。
港町の夜は、ゆっくりと深まっていく。 灯台の光が静かに回り、波の音が一定のリズムで耳に届く。 さっきまで胸の中で暴れていた感情が、少しずつ落ち着いていくのを感じた。
アイリスは僕の隣で、袖をつまんだまま離さなかった。 その指先は、もう震えていない。
「アリア……今日は、来てくれて本当に嬉しかった」 アイリスがそっと言う。
“来てくれたこと”―― それは、ただ待ち合わせに来たという意味じゃない。 彼女の不安に、僕が向き合ったこと。 あの日の「止まりそうな音」を、僕が聞き逃さなかったこと。 その全部を含んだ言葉だと、胸の奥で分かった。
「僕も……その……来てよかった、と思う」 言葉にすると、胸の奥がくすぐったくなる。
「ねえ、アリア」 「な、なに……?」 「これからも……逃げないでね?」 「……うん」
短い返事なのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
そのとき―― 階段の下から、控えめな拍手が聞こえた。
「いやぁ〜、青春っていいねぇ〜」 マークが満面の笑みで手を叩いている。
「マーク、帰るわよ。これ以上邪魔すると刺すわよ」 ナギが冷たい声で言う。
「ひっ……! す、すみませんでした!」 「ナギさん、物騒です……!」 リアムが慌てて止める。
そして――リンネ。
彼女は一瞬だけ、唇を噛んで目を伏せた。 胸の奥に沈めてきた想いが、夜風に揺れたのが分かった。
でも次の瞬間には、いつもの柔らかな笑顔に戻っていた。
「……よかったね、二人とも」 その声は優しいのに、どこか切なかった。
アイリスは恥ずかしそうに笑い、僕は顔を覆いたくなった。
「アリア、帰ろっか」 「う、うん」
見晴らし台を降りるとき、アイリスはそっと僕の袖を握り直した。 その温もりが、夜風よりもずっと強く胸に残る。
――すれ違いは、まだ完全には解けていない。 でも、確かに一歩だけ前に進んだ。
港町の夜は静かで、どこか優しかった。 明日がどうなるかは分からない。 でも、隣にいる彼女の手の温もりが、未来の音を少しだけ明るくしてくれる。
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第36章:密やかな矢、ナギはいつも影から助ける
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学院の訓練場は、朝から騒がしい。 ……いや、正確には“騒がしくしている連中がいる”と言った方が正しい。
「マーク、そこは力任せに殴る場所じゃないわよ」 「えっ!? でも殴ったらなんか光ったぞ!?」 「それは装置の悲鳴よ」
リンネの冷静なツッコミが響く。 まったく、朝から元気ね。羨ましいとは思わないけれど。
私は少し離れた場所から、訓練場の中央に立つアリアを観察していた。 彼は例によって、指先を“とん、とん”と叩きながら魔力の揺らぎを整えている。
――昨日の夜、あれだけアイリスと距離を縮めておいて、今日は迷いがない。 図太いのか、鈍いのか……それとも。
私は視線を訓練場の端へ向けた。 そこにいるはずの少女――アイリスの姿はない。
……やっぱり、今日は休ませたのね。 あの子の体調は、戦闘のたびに微妙に揺らぐ。 昨日の夜も、無理をして笑っていたのを私は見逃していない。
アリアが平然としているのは、 “気づいていない”のか、 “気づいたうえで信じている”のか。
――たぶん後者ね。 あの子は、昨夜アイリスと交わした約束を胸に抱いている。 だからこそ、今日の魔力波形には迷いがない。
「アリアさん、魔力波形安定してます! 昨日よりも!」 リアムがタブレットを抱えて興奮している。
「ほんと!? アリア、すごいじゃん!」 コトネが跳ねるように近づく。
「いや、そんな……まだまだだよ」 アリアは照れたように笑う。 その笑顔に、周囲の空気がふっと柔らかくなる。
……本当に、こういうところがずるいのよね。
「ナギ、今日も監督役?」 リンネが近づいてきた。
「ええ。あなたたちが暴走しないように見張る係よ」 「暴走って……マークのこと?」 「他に誰がいるのよ」
「おーいナギ! 今日の俺、調子いいぞ!」 マークが遠くから手を振る。
「その“調子”で訓練場を壊さないでちょうだい」 「壊さねぇよ! たぶん!」
……信用度ゼロね。
私は視線をアリアに戻す。 彼は真剣な表情で魔法陣を展開していた。 昨日よりも、迷いが少ない。
――あの子は、また一歩前に進んだのね。 胸の奥が、少しだけ温かくなる。 そして同時に、ほんの少しだけ痛む。
私はその痛みを押し込め、冷静な顔で訓練場を見渡した。
今日も、私は陰から支えるだけ。 それでいい。 それが、私の役割だから。
訓練場の空気が少し落ち着いたころ、私はアリアの動きをさらに注意深く観察した。 魔力の揺らぎは安定している。 ……けれど、完璧ではない。
――昨夜の“約束”が、彼の魔力波形に影響しているわね。
アリアは本来、線一本の狂いも許さない精密さを持つ。 だが今の彼の魔法陣には、ほんのわずかに“揺らぎ”が混じっていた。 ミスではない。 むしろ、感情魔法と理論魔術が融合し始めた証拠。
普通の魔術師なら気づかない。 でも私は、彼の波形を何度も見てきた。
「アリア、その第二層……固定波形と感情波形が干渉してるわよ」 「えっ……干渉?」 「ええ。昨夜の“感情の揺らぎ”を魔力がまだ覚えているの。 角度じゃなくて、波形の重なり方を調整して」
アリアは一瞬だけ目を見開き、すぐに理解したように頷いた。 そして魔法陣を再構築する。
――そう。あなたは本当に、吸収が早い。
「すごい……ナギさん、どうして分かるんですか!?」 リアムがタブレットを抱えて興奮している。
「観察していれば分かるわよ。あなたも少しは見習いなさい」 「は、はいっ!」
アリアは照れたように笑った。 その笑顔に、胸の奥がほんの少しだけ熱くなる。
「ナギ、ありがとう。助かったよ」 「別に。あなたの波形が乱れると、全体の訓練効率が落ちるだけよ」 「うっ……それは確かに……」
アリアは苦笑しながら頭をかいた。 その仕草がまた、妙に自然で、見ていると胸がざわつく。
私は視線を逸らし、冷静を装った。
「さて……アリア。あなた、次の段階に進めるわね」 「次の段階?」 「ええ。感情魔法と理論魔術の“同時制御”。 あなたの波形なら、もう試せるはずよ」
アリアは驚いたように目を瞬かせ、 次の瞬間には嬉しそうに笑った。
「……やってみたい」 「なら決まりね。準備しなさい」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
――どうして、そんな簡単に期待してくれるのよ。 そんなの、余計に意識してしまうじゃない。
私は深く息を吸い、冷静さを取り戻す。
支えるだけでいい。 気づかれなくていい。 それが、私の役割だから。
……そう言い聞かせながら、視線はまたアリアを追っていた。
訓練が終わる頃には、夕陽が港町を金色に染めていた。 潮風が心地よく、訓練場の喧騒とは違う静けさが広がっている。
私は少し距離を置いて、アリアたちの帰り道を歩いていた。 ……いや、正確には“観察している”と言った方が正しい。
「アリアさん、今日の魔力波形、本当にすごかったです!」 リアムが興奮気味に横を歩く。
「すごいどころじゃないよ! 理論的には干渉するはずの固定波形と感情波形が、あんなに自然に同期するなんて……!」 コトネが早口でまくし立てる。 目が完全に“研究モード”だ。
「えっ、そ、そうなの?」 アリアが戸惑う。
「そうなの! 普通は感情波形が乱流を起こして魔法陣が崩壊するのに、アリアのは“共鳴”してたの! あれはもう現象として観測したいレベルで――」 「コトネ、落ち着け。アリアが引いてる」 リンネが肩を押さえる。
「引いてないよ!? ちょっと驚いてるだけで……!」 アリアは苦笑しながら頬をかいた。
――ほんと、あの子は自覚がないわね。
「ナギさん、今日のアリアさん……どうでした?」 リアムが私に尋ねてくる。
「どうって……見て分からないの? 成長してるわよ。 あなたのタブレットより正確にね」 「えっ、ぼ、僕のタブレットより!?」 「冗談よ。半分はね」 「半分!?」
リアムが慌てる横で、コトネがまだ興奮している。
「ナギ、今日ちょっと機嫌いい?」 リンネがひそひそ声で近づいてくる。
「別に。いつも通りよ」 「いやいや、アリアのこと褒めるときだけ声が柔らかいんだよね〜」 「……気のせいよ」 「気のせいじゃないと思うけどなぁ」
リンネの観察眼は鋭い。 だからこそ、彼女の言葉が胸に刺さる。
私は視線をアリアへ向けた。
彼は港の光を眺めながら、指先を“とん、とん”と叩いていた。 訓練中と同じ癖。 でも今は、どこか穏やかだ。
――昨日の夜のことを思い出しているのね。
アイリスはまだ休んでいる。 その不在を、アリアはどう受け止めているのか。 気づいていないようで、実は気づいているのか。
その答えは、彼の横顔からは読み取れなかった。
「アリア、今日の訓練……楽しかった?」 コトネが尋ねる。
「うん。なんか……前より魔法が素直に動く気がする」 「それ、ナギのおかげじゃん!」 「えっ、いや……ナギはすごいけど……僕はまだ……」
アリアは頬をかきながら照れる。
――ほんと、ずるいわね。
胸の奥が、訓練場で感じた熱よりも強く揺れた。 それが何なのか、私はまだ言葉にできない。
「ナギさん?」 リアムが不思議そうに覗き込む。
「何でもないわ。ほら、あなたたち、道の真ん中で騒がないの」 「は、はい!」
私は歩調を少し速め、アリアたちの前に出た。
支えるだけでいい。 気づかれなくていい。 それが、私の役割。
……そう言い聞かせながら、 私はまたアリアの足音を追っていた。
港町の夕暮れは、訓練場とは違う静けさを持っている。 波の音が一定のリズムで響き、街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
アリアたちは先を歩き、私は少し後ろからその背中を見つめていた。
――本当に、成長したわね。
今日の訓練で見せた魔力波形の変化。 あれは単なる技術向上ではない。 感情魔法と理論魔術が“共鳴”し始めた証拠。
そしてその中心にいるのは、間違いなく――アイリス。
胸の奥が、きゅっと痛む。
「ナギ、どうしたの?」 リンネが横に並んできた。
「別に。考え事よ」 「アリアのこと?」 「……そうよ」
リンネは少しだけ目を伏せた。 彼女もまた、アリアに特別な感情を抱えている。 だからこそ、彼女の沈黙は痛いほど分かる。
「ナギは……どうしたいの?」 「どうもしないわ。私は支えるだけ」 「それ、本気で言ってる?」 「本気よ」
私は視線をアリアへ戻す。
彼は港の光を見つめながら、指先を“とん、とん”と叩いていた。 あの癖は、彼が何かを考えている証拠。
――昨日の夜のことを、思い返しているのね。
アイリスの不在。 アリアの静かな迷いのなさ。 その全部が、彼の中でひとつの“答え”に向かっている。
私は胸の奥に生まれた熱を押し込めた。
恋心―― そう呼ぶには、まだ形が曖昧すぎる。 でも、確かにそこにある。
アリアが笑うと、胸が温かくなる。 アリアが誰かを見つめると、胸が痛くなる。 その矛盾が、私の中で静かに膨らんでいく。
「ナギさん、こっちです!」 リアムが手を振る。
「分かってるわよ。そんなに急かさないで」 私は歩調を合わせ、アリアたちの輪に戻った。
支えるだけでいい。 気づかれなくていい。 それが、私の役割。
……そう言い聞かせながら、 私はアリアの横顔を盗み見る。
その横顔は、夕陽よりも眩しかった。
夜の港町は、昼間とはまったく違う顔を見せる。 波の音は静かで、灯台の光がゆっくりと回り、街灯が石畳に柔らかな影を落としていた。
アリアたちは並んで歩き、私は少し後ろからその様子を眺めていた。
――今日も、よく頑張ったわね。
アリアの魔力波形は確かに変わった。 成長というより“進化”に近い。 その背景にアイリスがいることも、彼自身が気づいているかどうかも、今はどうでもいい。
私はただ、彼の背中を見つめていた。
「ナギさん、今日のまとめ、どうします?」 リアムがタブレットを抱えて振り返る。
「後で送っておきなさい。あなたの誤字を直す時間が必要だから」 「えっ、誤字なんて……そんなにありました!?」 「二十七箇所よ」 「そんなに!?」
リアムが絶望する横で、コトネが笑いながら言う。
「リアム、落ち込むなって! 誤字もデータの一部だよ!」 「慰めになってませんよ!?」
マークはというと、港の屋台を見つけて目を輝かせていた。
「おーい! 焼きイカあるぞ! 買って帰らねぇ!?」 「マーク、あなたは訓練後に食べすぎなのよ」 「えっ!? でもイカはゼロカロリーだろ!?」 「どこの世界の理論よ」
……本当に、騒がしい連中。
でも、その騒がしさが少しだけ心地よい。
アリアがふと振り返り、私と目が合った。
「ナギ、今日……ありがとう」 「別に。あなたが勝手に成長しただけよ」 「ううん。ナギがいてくれたからだよ」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
支えるだけでいい。 気づかれなくていい。 それが、私の役割。
……そう思っていたはずなのに。
アリアの横顔を見つめるたび、胸の奥に小さな波紋が広がる。
この感情が何なのか。 どこへ向かうのか。 まだ分からない。
でも―― 彼の未来に、私が関わり続けたいと思ってしまう。
港町の夜風が、少しだけ優しく吹いた。
明日もまた、支える。 気づかれないように。 でも確かに、そばで。
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