「が、が、が……がたがたが、止まらないよぉ……」
あたしの前歯が、人生で聞いたことのないビートを刻んでいた。 もはやドラムじゃない。氷点下のDJイベントだ。 吐いた息は白を通り越して、そろそろ“氷の欠片”として床に落ちそう。
ここは、かつてサラリーマンたちが戦っていたオフィスビル。 でも今の主役は、割れた窓から吹き込む“北極の刺客”みたいな寒風。 書類も椅子も机も、みんな凍死寸前で静かに震えている。
(ほんとは三時間以内にここを出なきゃいけないのに…… この寒さじゃ三時間どころか三十分も歩けないよ…… 外に出た瞬間、あたし“氷のオブジェ”として展示されちゃう……)
だから、りんちゃんはまず暖房機を生かそうとしている。 逃げるために暖を取る――なんか矛盾してるけど、正しい作戦だ。
「りんちゃん、見て……あたしの指、まるでお釈迦様が供えた氷菓子(シャーベット)みたいに綺麗……」
「……アホなこと言ってないで、毛布を被ってろ」
りんちゃんの声は、いつもより低くて、温度が完全にゼロ。 彼女は部屋の隅にある古びた鉄の箱――蓄熱暖房機に張り付いていた。
カチッ、カチッ。 その直後、小さく パチッ と火花が散る音がした。 続いて、冷え切った金属が ギギ……ッ と軋む。
 (ひえぇ……なんか“生き返ろうとしてる音”と“死にかけてる音”が混ざってる……! これ、直るの? 直らないの? どっちなの……!?)
その音が、やけに冷たくて、やけに孤独で、 でもどこかで「まだ間に合うかもしれない」と言っているようにも聞こえた。
「ねえねえ、りんちゃん。こういう時こそ 『無茶しちゃダメだよ』とか 『あたしの後ろに隠れてろ』とか、 いつもの小言(アドバイス)はないの?」
あたしは軽く笑いながら言ってみた。 でも、りんちゃんは振り返らない。
ただ、 カチッ → パチッ → ギギ……ッ という、死神と綱引きしてるみたいな音だけが響く。
(え……りんちゃん? いつもの“なぎさ制止マシーン”はどこ行ったの……?)
これまでの冒険なら、 「危険だ」「数値が悪い」「やめろ」 って、必死に言葉を尽くしてくれたのに。
今のりんちゃんは―― ただ、機械みたいに手を動かしている。
その沈黙が、 外の寒風よりも、 あたしの心を冷やしていく。
(りんちゃん……どうしたの……? 寒いのは外だけでいいのに……)
「……基板は死んでる。配線を直結して、強制的にレンガを加熱させる」
りんちゃんの声は、氷点下の空気より冷たかった。 感情の欠片もない、ただの“状況報告”。 彼女の指先は紫を通り越して白くなっているのに、その動きには一切の迷いがない。
(え、ちょっと……その手、もう“人間の色”じゃないよ……? りんちゃん、もしかしてロボットだったの……?)
「……りんちゃん、手が震えてるよ。あたしが温めてあげよっか?」
あたしは震える自分の手を差し出した。 でもりんちゃんは、それをまるで“空気の揺らぎ”みたいに無視した。
「……喋るな。酸素と体温の無駄だ。 ……あと三十分で、ここは完全に氷点下になる」
その声には、あたしを心配する響きさえなかった。 ただ、生存条件を淡々と読み上げるだけ。
(りんちゃんの警告……“劣化”してる…… 怒鳴る気力すら凍りついちゃったの……? やだ……静かな絶望ってこんな音するんだ……)
カチッ、カチッ。 その直後、小さく パチッ と火花が散る。 冷え切った金属が ギギ……ッ と軋む。
(ひぃ……これ、直ってるの? 壊れてるの? “生き返ろうとしてる音”と“死にかけてる音”が同時に聞こえるんだけど……!?)
あたしは、自分の役割を探した。 りんちゃんが「中身」を直すなら、あたしはこの極寒の「環境」をなんとかしなきゃいけない。
フロアの片隅には、かつての栄光を物語るような 『新装開店!』 『大還元セール!』 なんて書かれた派手なビニール製の旗や、埃を被った分厚いカーテンが散乱していた。
(うわぁ……このビニール、絶対寒さに弱いタイプ…… でも今は“素材があるだけで勝ち”なんだよね……!)
旗を掴もうとした瞬間―― 指先の感覚がなくて、布をつまむだけで一苦労だった。 震えすぎて、ビニールが カサカサカサ……ッ と情けない音を立てる。
(やば……これ、HP残量ほぼゼロじゃん……! このままじゃ“結界の魔術師”になる前に“氷漬けのオブジェ”にクラスチェンジしちゃう……!)
「よーし……あたしの出番だね。 りんちゃんが機械の司祭なら、あたしは『結界の魔術師』になってあげるよぉ!」
(※魔術師の資格はありません。 でも今は気持ちが大事なのだ!)
あたしは、自分の人生のHPが“凍結ダメージ”で本当に削りきられる前に、 持てる全てのクリエイティビティを絞り出すことにした。
(絶対に暖かくしてみせる……! りんちゃんの沈黙が、これ以上冷たくならないように……!)
「名付けて、なぎさ式『絶対零度お断り・モフモフ要塞』、建設開始!」
あたしは震える足でフロアを駆け回った。 走るたびに膝がガクガクして、まるで“氷の精霊にリモコン操作されてる”みたいに勝手に震える。
(やば……足のHP、もう赤ゲージなんだけど……! でも動かないと本当に凍死しちゃう……!)
使えそうな布をかき集める。 厚手の遮光カーテン、ビニール製の垂れ幕、そして古い事務机の引き出しから発掘したガムテープ。
「この『大還元セール!』の旗がね、意外と風を通さなくて優秀なんだよぉ」
旗を持つ手が震えすぎて、ビニールが カサカサカサ……ッ と情けない音を立てる。 指先の感覚はほぼゼロ。布を掴むだけで一苦労だ。
(あたしのHP、もう“瀕死”じゃん……! でも、りんちゃんのためにも……ここは踏ん張る……!)
あたしは、りんちゃんが作業している暖房機の周囲を四角く囲うように布を吊り下げていった。
天井の配管にガムテープを貼ろうとした瞬間―― 手がかじかんで、テープが自分の袖にベチャッと貼り付いた。
「ひゃあああ!? なんでそっちに貼り付くのぉ!? 今はそっちじゃないのにぃ!」
慌てて剥がそうとするけど、指が動かない。 仕方なく、歯でガムテープを噛み切るという、文明の終わりみたいな行動に出る。
(うわ……これ絶対、誰にも見られたくないやつ…… でも今は“恥より生存”なんだよね……!)
なんとか袖からテープを剥がし、配管に固定する。 隙間はビニールで埋めるけど、震えすぎてビニールが バサバサッ と暴れ、 まるで「寒いのはこっちのせいじゃない!」と抗議しているみたいだった。
ガムテープを引きちぎる音が、静まり返ったフロアにやけに大きく響く。
(うわ……この音、なんか“文明の最後の抵抗”って感じ……)
「りんちゃん、見て見て! この空間だけは、あたしの魔法で外の世界から切り離された『秘密の温室』だよ!」
自分でも何が面白いのかわからない冗談を言いながら、最後のカーテンを閉じた。
 不格好で、煤けていて、広告の文字がうるさいだけの断熱幕。
でも、それがあるだけで―― 肌を刺すような風が、ふっと止まった。
(……止まった……! やった……! あたし、やればできる子……!)
「……密閉度は十分。二酸化炭素濃度に気をつけろ」
幕の向こうから、りんちゃんの短い、でも確かな指示が聞こえた。 彼女はまだ、修理を続けている。
(りんちゃん……ちゃんと“生きてる声”出してくれてる……よかった……)
「もう、りんちゃんってば、こういう時くらい『すごいね』とか言ってくれてもいいんだよー?」
あたしは幕の隙間から、彼女の横顔を覗き込んだ。
りんちゃんは、あたしが作った不格好な「要塞」を一度だけ見上げて―― ほんの少しだけ、口角を上げた……気がした。
(え、今の……笑った……? いや、気のせい……? でも、りんちゃんの“気のせいレベルの笑顔”って、実質ご褒美なんだよね……)
でもすぐに、彼女はまた機械的な「生存のための部品」に戻ってしまう。
あたしたちが作っているのは、未来じゃない。 ただの、数時間分の『命の猶予』なんだ。
(でも……その数時間が、今はすごく大事なんだよ……)
「……入った。……くるぞ」
りんちゃんが、暖房機の奥にある古いスイッチを押し込んだ。 数秒の沈黙。 そのあと――
ゴォ……ッ!
低い唸り声と共に、鉄の箱が震え始めた。 あたしが必死で作った断熱幕の内側に、じわりとオレンジ色の温もりが染み出していく。
(うわ……この色……文明の味がする……! あたし、今なら電子レンジの気持ちがわかる……!)
「……あたたかぁい……」
 あたしは思わず暖房機に抱きついた。 冷え切った身体が、急激な熱に驚いて悲鳴を上げている。 でも、その痛みすら心地よかった。
「……なぎさ。離れろ。火傷する」
りんちゃんの声は、やっぱり低いまま。 彼女は暖房機の横に、力なく座り込んだ。 熱に照らされているはずなのに、どこか青ざめて見える。
あたしは、りんちゃんの真っ白な手をそっと握った。
 氷みたいに冷たいだけじゃなく、微かに震えていた。 呼吸も浅くて、胸が上下するたびに“足りてない空気”を探してるみたいだった。
(……これ、ただの疲れじゃない…… りんちゃん、ほんとはどこか悪いんじゃ……)
「りんちゃん、頑張ったね。……ねえ、なんで今日は怒鳴ってくれないの? 『危ないだろ』って、いつものみたいに言ってよ」
甘えるように言うと、りんちゃんはしばらく黙った。 そして、煤けた天井を見上げた。
「……警告することに、意味があるのか、わからなくなっただけだ。 ……何を言っても、お前は笑って越えていく。 ……そして世界は、あたしの計算通りに沈んでいく」
(……っ)
その言葉は、どんな厳しい小言よりも胸に刺さった。
「……そんなことないよ。 あたし、りんちゃんの言葉がないと、どこまで無茶していいかわかんなくなっちゃうよぉ……」
声が震えたのは、寒さのせいじゃなかった。
その瞬間――
ガタガタガタッ!!
鉄の箱が激しく鳴動し、 内部の熱気が ボンッ と爆ぜるような音を立てた。 断熱幕の内側に、熱と振動が一気に押し寄せる。
あたしの声は、 その轟音に完全に飲み込まれた。
(……届かない…… りんちゃんにじゃなくて…… “世界そのもの”に負けた……)
身体は救われた。 でも、心は温まらない。
断熱幕の中に満ちていくオレンジ色の光が、 逆に、あたしたちの影を濃くしていく。
 (……ねえ、りんちゃん。 あたし、どうしたらいいの……?)
「……ふぅ。お腹はいっぱいにならないけど、体温だけは満タンだねぇ」
あたしは断熱幕の中で丸くなり、眠る準備をした。 暖房機は一定の熱を吐き続け、外の吹雪をなんとか拒絶している。
(ああ……このぬくもり……文明の残り香…… できれば“おかわり”したいけど、たぶん無理……)
でも、幕の外に一歩出れば、そこにはまだ死が待っている。
「りんちゃん……寝てる?」
「……起きてる。……明日は水位がさらに上がる。早めに出るぞ」
りんちゃんは目を閉じたまま答えた。 その声は、まるで“明日”を未来じゃなく、 ただの 更新された生存条件 として読み上げているだけだった。
(りんちゃんの“明日”って、いつも冷たい…… あたしの“明日”は、もうちょっとこう…… パンケーキとか、虹とか、そういうの欲しいんだけど……)
あたしたちは成功した。 一晩を凌ぐための熱を手に入れた。
でも―― あたしの胸の奥には、 このまま朝が来ないんじゃないかという予感が、 じわりと広がっていた。
この不気味な静寂。 終わりのない“数時間ごとの延命作業”。 沈み続ける船の穴を、時間切れ寸前で塞ぎ続けるだけの現実。
(ねえ……あたしたち、いつまでこうしてるんだろ……)
あたしは、りんちゃんの服の端をぎゅっと掴んだ。 その布は、ほんのり温かくて、でもどこか心細い温度だった。
その時だった。
「……え?」
遠く、吹雪の音に混じって―― 何かが聞こえた気がした。
あたしは息を止め、幕の外側の闇に耳を澄ませる。
『……う……うあ……ぁん……っ……』
それは、風の音でも、ビルの軋む音でもなかった。
(……え……これ……人の声……? いや、人っていうか……もっと小さい……)
「……りんちゃん、聞こえる? ……子供の、泣き声?」
問いかけると、りんちゃんがゆっくりと目を開けた。
その瞳には、今まで見たこともないような―― 深い、深い 諦観 の光が宿っていた。
不気味な泣き声は、 暗いオフィスの向こう側から、 何度も、何度も、繰り返されていた。
|