第17章「カチリ、と世界が途切れる音」
「聞こえる、絶対こっちだよ! りんちゃん、急ごう!」
あたしは膝まで浸かる冷たい水をバシャバシャ蹴り上げながら、霧に沈む廃ビルの廊下を突っ走った。 昨夜からずっと聞こえていた、あの泣き声。 細くて、弱々しくて、でも確かに―― 「ここにいるよ」って訴えてるみたいな、あの子の声。
(ねえ、待っててね……! あたし、こう見えて“困ってる人センサー”だけは高性能なんだから!)
「……待て。足場が不安定だ。なぎさ、お前の“直感”はたまに座標を読み間違える」
背後から、りんちゃんの冷たい声が追いかけてくる。 いつもの小言……なんだけど、今日のりんちゃんの声は、氷砂糖を奥歯で砕いたみたいに硬い。
(え、なにその声……怖い……でも好き……いや今はそんな場合じゃない!)
「大丈夫、あたしの耳は聖徳太子並みだよぉ! 右の耳でお菓子の袋が開く音を聞き、左の耳で迷子の声をキャッチする。これぞあたしの特殊能力なり!」
「……聖徳太子は一度に十人の話を聞く人だ。お前の耳はただの食いしん坊なだけだろ」
りんちゃんのツッコミは、今日も容赦がない。 でも、その冷たさの奥に、微かに揺れる“焦り”があるのを、あたしは知ってる。
(だって、りんちゃん……あたしが勝手に突っ走ると、いつも本気で困った顔するもん……)
「ほら、また聞こえた! あの角の向こう!」
霧の奥から、ヒック……ヒック……と、しゃくり上げる声が響く。 そのたびに、あたしのHPは“心配ダメージ”でゴリゴリ削られていく。
(やばい……このままだと心配しすぎて胃がキュッてなる……! でも大丈夫、あたしの胃はラーメン二杯まで耐えられる強靭さ……!)
待っててね。 今、あたしたちが助けに行くから。
あたしは崩れかけたドアの隙間に指をかけ―― 一気にこじ開けた。
ドアの向こうは、かつて保育園だったのかもしれない。 色褪せたプラスチックのブロック、泥でページが固まった絵本。 割れた窓から入り込む霧が、部屋全体を白い棺桶みたいに包んでいた。
(うわ……ここ、絶対ホラー映画のロケ地…… でも大丈夫、あたしは“困ってる人センサー”があるから……! 怖さより使命感が勝つタイプ……たぶん……勝って……お願い勝って……)
「……誰もいない。なぎさ、もう戻るぞ」
りんちゃんが入り口で足を止めた。 その瞳には、期待も希望も揺らぎもない。 ただ、この空間の 崩落確率 と 浸水速度 を計算しているだけの、無機質な光。
 (あ……これ、“心配して止めてる”んじゃないやつだ…… “ここはもう価値がない”って判断してる目……)
「そんなわけないよ! あんなに近くで聞こえたんだよ? お化け屋敷のバイト代も出ないのに、空耳でこんなに怖がるわけないもん!」
あたしは散乱したガラクタを掻き分け、部屋の奥へ進んだ。 足元の水がチャプ……チャプ……と冷たく鳴る。
その合間に――
シ、シ、シ……
不気味なノイズが混ざる。 泣き声とノイズが重なるたび、あたしの心臓はドクンと跳ねた。
(怖い……正直めちゃくちゃ怖い…… でも「助けて」を無視するなんて、あたしの冒険者ギルド(自称)の規約に反する……! ギルド会長はあたしだけど……でも反する……!)
「……なぎさ。その“音”を追うのをやめろ。 ……それは、お前が思っているものじゃない」
りんちゃんの声が、背中に突き刺さった。 いつもの「危ない」じゃない。 もっと深いところで、何かを拒絶している声。
(え……りんちゃん……なんでそんな言い方……? “危険だから止める”じゃなくて…… “その存在そのものを否定してる”みたいな……)
「りんちゃんだって聞こえてるでしょ!? 子どもの声だよ? 迷子で、寒くて、一人で泣いてるんだよ! あたしたち、さっき蓄熱暖房機を直したじゃない。 あたたかい場所、教えてあげなきゃ!」
あたしは積み上がった机の山に手をかけ、思い切り崩した。 ガラガラと音が響き、霧がふわりと舞い上がる。
その向こう―― 暗い隅っこに、小さな「影」が座っていた。
「……あ……見つけた!」
(ほらね……やっぱりいた……! あたしの耳はやっぱり高性能……! りんちゃん、これで信じてくれる……?)
胸が高鳴る。 でも、りんちゃんの足音は―― あたしの後ろで、止まったままだった。
あたしは影に向かって駆け寄った。
「大丈夫だよ、もう怖くないよぉ。お姉さんたちが――」
差し出した手が、宙で止まった。
 そこにいたのは、子供じゃなかった。
埃をかぶった、古いカセットレコーダー。 子供用の、クマの形をした録音機。 でもそのプラスチックの身体は割れ、電池蓋からは青白い液がにじみ出ている。
そして――
『……う……うあ……ぁん……っ……』
クマの口から、あの泣き声が漏れていた。 壊れたスピーカーが震えるたび、キリキリと金属が擦れる音が混ざる。
(え……ちょ……待って…… これ……子供じゃなくて……クマ……? いやクマでもない……クマの“形をした何か”……? あたしの感動返して……)
「……なんだ。ただの、機械だったんだ……」
あたしの力がふっと抜けた。 誰かが昔、子供の声を録音したんだろう。 それがこの終末の世界で、壊れた回路をショートさせながら、 永遠に同じ泣き声をループし続けていた。
(こんなの……こんなの、あんまりだよ…… こんな世界で、一人で泣き続けるなんて…… たとえ機械でも、そんなの耐えられない……)
「……なぎさ。わかったら、行くぞ」
りんちゃんが横に立っていた。 その目は、まるで行き倒れた石ころを見るみたいに冷たい。
(あ……これ、“心配してる目”じゃない…… “関わりたくないものを見た”って目…… りんちゃん、どうしてそんな顔するの……?)
「ねえ、りんちゃん。これ、直したら何かわかるかな? この声の子、どこに行ったのか…… お父さんやお母さんはどこなのか……」
あたしは録音機に手を伸ばした。 だって、このままここで一生泣き続けさせるなんて、あまりに可哀想だ。 せめて最後に「おやすみ」って言わせてあげたい。
(直せるかどうかじゃないんだよ…… “泣いてる子”を放っておけないだけなんだよ……)
「……やめろ。それはただのゴミだ。 データは破損し、回路は腐敗してる。 直しても、何も得られない」
りんちゃんの声は、氷の刃みたいに冷たかった。 一分の隙もない正論。 でも、その正論が―― あたしの胸に、鉛みたいに重く沈んだ。
(……りんちゃん…… どうしてそんな言い方するの……? “助けたい”って気持ち、そんなに無意味なの……?)
録音機はまだ、泣いていた。 壊れた世界の片隅で、 誰にも届かない声を、ただ繰り返し続けていた。
「ゴミなんて言わないでよぉ! この子、ずっとここで一人で泣いてたんだよ? あたしたちが直してあげれば、この子の“思い出”が救われるかもしれないじゃない!」
あたしは録音機をぎゅっと抱きしめた。
 冷たくて、湿っていて、ちょっと酸っぱい匂いまでした。 でも、この機械を直すことだけが―― この空っぽの世界で、あたしの善意がまだ“生きてる”って証明できる唯一の手段のように思えた。
(だって……泣いてるんだよ……? たとえ機械でも、泣いてる子を放っておくなんて…… そんなの、あたしにはできない……)
「……思い出、か。 お前はいつも、役に立たないものばかり拾い上げる」
りんちゃんの声が、これまでで一番冷たかった。 氷の刃みたいに鋭くて、胸の奥をスパッと切られた気がした。
「……なぎさ。 わたしたちが今やるべきなのは、自分たちが生き残るための計算だ。 死んだ機械の声を繋ぎ止めることじゃない」
「わかってるよ! わかってるけど……でも、放っておけないんだよ!」
視界がじんわり滲んだ。 前に、高架橋から落ちかけた時―― あたしは自分の無責任さを反省した。 でも、それでも。
(誰かの声を無視して、自分だけ助かるなんて…… そんなの“生きてる”って言えるの……? りんちゃんは……どう思ってるの……?)
「ねえ、りんちゃん……お願い。 今だけでいいから……」
あたしは縋るように、りんちゃんを見た。
でも―― りんちゃんは、あたしを見なかった。
彼女の視線は、あたしの手の中の録音機だけに向けられていた。 その目には、哀れみも、怒りも、優しさもなかった。 ただ、冷たい“結論”だけがあった。
りんちゃんは静かに手を伸ばした。
「……りん、ちゃん?」
一瞬だけ、期待した。 もしかして、一緒に直してくれるのかなって。
でも―― 彼女の指先が触れたのは、録音機の再生ボタンではなく。
側面の主電源スイッチだった。
 (……え…… りんちゃん……それって……)
胸の奥で、何かが小さく崩れた。
「――あ」
カチッ。 あまりにも軽い、指先の癖みたいな音がした。
スピーカーから流れていた子供の泣き声が、ぷつりと途絶える。 部屋には、耳の奥がキーンと痛むほどの完全な静寂が戻った。
「……これで終わりだ。そこに“人”なんて、最初からいない」
りんちゃんはスイッチを切った手を下ろさないまま、振り返らずに歩き出した。 その背中は霧に溶け、今までで一番遠くに見えた。
(……りんちゃん…… そんな言い方……しないでよ……)
あたしは、音の出なくなったクマの録音機を抱えたまま立ち尽くした。
直せば何かが変わると思っていた。 救えば、あたしたちの未来も少しだけ明るくなると思っていた。
でも―― 現実は「カチッ」という音ひとつで、全部消えてしまう。
あたしの善意も。 この子の思い出も。 “誰かを助けたい”って気持ちも。
「……う、うう……」
あたしの啜り泣きが、静寂の中にぽつんと落ちた。
その瞬間だった。
――ズ、ズズ……ズズズズォォォォォン!!
街の底から、世界そのものが悲鳴を上げるような巨大な地鳴りが響いた。 ビルの壁に亀裂が走り、窓枠がガタガタと震える。
(え……なに……? 世界まで泣いてるの……? やめてよ……今は……今だけは……)
「……っ、なぎさ! 来い!」
入り口で、りんちゃんが叫んでいた。
 でも、あたしの足は動かなかった。 胸の奥が重くて、呼吸が浅くて、世界の揺れより心の揺れのほうが大きかった。
あたしたちの“価値観”が―― この街と一緒に、決定的に崩れていく音がした。
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