通信不能の静寂
「あー、あー、テステス。こちら、なぎさ探検隊! もみじちゃん、聞こえてるー? 美味しいパフェの在庫、まだ残ってるかなー?」
あたしは、雨に濡れた無線機に向かって、できる限り明るい声を投げかけた。 でも返ってくるのは――
『ザ……ザザッ……』
まるで機嫌の悪い猫が、世界の喉奥で文句を言っているみたいな砂嵐だけ。
(やだ……猫ちゃん……そんな声で怒らないで…… あたし、今ほんとにメンタルHPが紙装甲なんだから……)
あの暗い地下街での渦から命からがら逃げ出したあたしたちが辿り着いたのは、 今にも水面に沈みそうな商業ビルの屋上だった。
雨は絶え間なく降り続け、 街は濁流に飲まれ、 屋上の床はわずかに傾いている。
(この傾き……ジェットコースターの出発前みたい…… いや、もっと怖い……安全バーないし……)
「……無駄だ、なぎさ。 中継地点の電圧が不安定すぎる。 もみじのいる観測塔とのパスが、物理的に寸断されてる」
りんちゃんは、錆びついた通信アンテナの根元に座り込み、 濡れた配線をいじりながら短く言った。
その横顔には、 あたしの無鉄砲さを叱ってくれた時の“熱”がもうない。
ただ―― 生存確率だけを計算する、冷たいガラス細工みたいな瞳。
(りんちゃん…… そんな目しないでよ…… あたし、また泣いちゃうよ……? いや泣かないけど……泣きそうだけど……)
「そんなことないよぉ! もみじちゃん、きっと今ごろ、 あたしたちに聞かせるための面白い冗談を考えてて、 電波を止めてるだけだよ!」
自分でもわかってる。 これは“強がり”じゃなくて、“祈り”だ。
雨音以外の音が聞こえない世界は、 あたしにとって――
食べかけのアイスが溶けていくのを見てる時よりずっと悲しい。
(あれほんとに悲しいんだよ…… 世界の終わりより悲しい瞬間あるんだよ……)
「ねえ、りんちゃん。 このアンテナ、あたしたちの“釣り竿”にしようよ。 もみじちゃんの迷子になった声を、 あたしたちの手で釣り上げるんだ!」
あたしは片腕で録音機をぎゅっと抱えたまま、 残った手で足元の太い針金をつまみ上げ、 アルミの看板は脇に無理やり挟み込んだ。
(よし……これで“声釣り”作戦開始……! 片手作業の難易度、もはやラスボス級…… でも録音機は絶対に離さない……!)
雨の中、あたしの暴走は静かに始まった。
「……感度、マイナス40デシベル。 これじゃ、悲鳴さえ拾えない」
りんちゃんが呟く数字は、あたしには難しい呪文みたいに聞こえた。 でも、小さなドライバーを握る指先が、寒さと焦りで白くなっているのは分かった。
(りんちゃん……その指、冷たすぎない……? あたしの心の温度まで下がっちゃうよ……)
「よーし、技術顧問のりんちゃん! あたしが特製の“スカイ・ボイス・キャッチャー”を増設してあげるからね!」
片腕で録音機を抱えたまま、残った手で太い針金を掴む。 そのまま膝で押さえつけたり、錆びたアンテナ支柱の角に押し付けたりしながら、 無理やり渦巻き状に曲げていく。
(うわ……これ、絶対に片手でやる作業じゃない…… でも録音機は離さない……! この子を手放したら、あたしの心まで落っこちちゃう……)
コンセプトは“宇宙の耳”。 不格好だけど、あたしのDIY魂が「これならいける!」って囁いている。
(宇宙の耳ってなんだろ…… でも響きが可愛いからOK……)
「……なぎさ。そのアルミ看板、放物線の角度が足りない。 ……こっちに向けろ。焦点距離を計算する」
りんちゃんは、あたしの手元を見ずに指示を出した。 彼女はもう、あたしの“遊び”を否定しなくなった。
それが彼女なりの“警告の劣化”。 つまり―― あたしの無茶を止めても無駄だと悟ってしまった証拠。
(りんちゃん……諦めないで…… あたし、そんなに扱いづらい? いや扱いづらいか……)
あたしはりんちゃんの指示通り、錆びたアンテナの支柱に、 アルミの看板を針金で強引に固定した。
看板には『24時間営業』って文字が半分だけ残っていて、 この終わった世界への皮肉みたいで、ちょっと可笑しい。
(24時間営業…… この世界、もう“永遠に閉店”なんだけど…… でも看板だけは働き続けてる……健気……)
「これでどう? あたしのワクワク感度と、看板の反射パワーの合体技だよぉ!」
 片手で録音機を抱えたまま、 もう片方の手でアンテナの端を無線機の端子に無理やり押し込む。
(片手作業、ほんとに難易度高い…… でも録音機は絶対に離さない…… これだけは、あたしの“心の重心”だから……)
りんちゃんがゆっくりとボリュームを上げた。
――『……ザ……ザザザッ……』
さっきまでの不機嫌な砂嵐に、 ほんの少しだけ“人間の気配”が混ざり始めた。
(きた……! これ、絶対もみじちゃんの声の“かけら”だ……! 迷子の音楽、帰ってきて……!)
「……同期、開始。フェイズ・ロック……繋がる」
りんちゃんの声に、ようやく少しだけ体温が戻った。 雨に叩かれながら看板アンテナを支え続けるあたしの腕に、 かすかな振動が伝わってくる。
これは―― 遠いどこかで、誰かがまだ生きている振動。
(うわ……これ、心臓の代わりにアンテナがドクドクしてるみたい…… あたしの生命線、完全に金属製なんだけど……)
その瞬間、無線機からノイズが裂けた。
『……こちら……観測……もみじ……応答……して……!』
「もみじちゃん! 聞こえるよ! あたしたち、アンテナをDIYしたんだよ! すごいと思わない?」
 片腕で録音機を抱えたまま、 残った手でアンテナを必死に支えながら叫ぶ。
(ああもう……腕がプルプルしてる…… これ、筋トレだったら“上級者向け”のやつ……)
「……なぎさ、アンテナを動かすな。 指向性が極端に狭い。 ……もみじ、こちらの座標はロストしていないか?」
りんちゃんは冷静に、でもどこか焦った手つきで 無線機の設定を最適化していく。
(りんちゃん……声は冷静なのに、手がちょっと震えてる…… これ、焦燥ってやつ……? りんちゃんにもそんな感情あったんだ……)
『……よかった……。 なぎさ……りん……、私の……声……届いてる……?』
もみじちゃんの声は、あの時、真空管ラジオを直して初めて声を聞いた時よりもずっと近い。 そして――ずっと切実だった。
「バッチリだよー! もみじちゃんの声、あたしの耳には最高級のメロディに聞こえてるよぉ。 ねえねえ、次は何を作ればいい? もっとすごいの、作っちゃうよ?」
(あたしのテンション、完全に暴走モード…… でも嬉しいんだもん…… “声が届く”って、こんなに温かいんだ……)
あたしは、この“繋がり”が嬉しくて、 自分の腕が痺れていることさえ忘れていた。
りんちゃんとなぎさ。 二人の技術とアイデアが合わさって、 世界の果てから声を釣り上げた。
「……同調良し、S/N比安定。 りんちゃん、あたしたち、やっぱり“無敵”じゃない?」
あたしが笑いかけると、 りんちゃんは初めてあたしの顔を見た。
でも―― その瞳に浮かんだのは、喜びじゃなかった。
もっと別の、深い恐怖の色。
 (え……りんちゃん……? なんでそんな顔……? あたし、なんかやばいスイッチ押した……?)
「……なぎさ。静かにしろ。 ……背後の音が、変わった」
雨音の向こうで、 ビルの奥から―― 軋むような、沈むような、嫌な音がした。
ビルの屋上に、今まで聞いたことのない音が響いた。
――ミシィ……ッ、ギギギギギィ!
巨大な怪物が骨を砕かれているような、 心臓に悪すぎる音だった。
(え……なにこれ…… 世界の背骨、折れてない……? やめて……あたしの心の骨も折れる……)
「……りん、ちゃん?」
「なぎさ、アンテナを捨てろ! 走るぞ!」
りんちゃんの叫びと同時に、 無線機から、かつてない音量の声が爆発した。
『……逃げて! 二人とも、今すぐそこから逃げて! 地盤が……足元のビルが、もう持たない……っ!』
もみじちゃんの絶叫。 それは“挨拶”でも“データ”でもなく――
紛れもない、死の宣告。
「……え?」
振り返ると、 あたしたちが数分前までいた背後の雑居ビルが、 まるでスローモーションのように、ゆっくりと傾いていくのが見えた。
(ちょっと待って…… ビルってそんなゆっくり倒れるの……? 映画ならカッコいいけど、現実は怖すぎる……!)
「なぎさ、こっちだ!」
りんちゃんは無線機をひったくるように掴んでリュックへ押し込み、 あたしの腕を、高架橋で奈落に落ちそうになった時よりも強く、 痛いくらいの力で掴んだ。
 (りんちゃん……そんなに強く掴んだら…… あたし、逆に折れちゃう…… でも離さないで……!)
あたしは看板も、針金も、ワクワクも全部放り投げて、 片腕で録音機だけを抱えたまま、彼女の背中を追った。
足元が波打つように揺れる。 コンクリートに巨大な亀裂が走り、 さっきまで“世界”だった場所が、 次々と濁流の中に吸い込まれていく。
(うそ…… 世界って、こんな音立てて沈むの……? やだ……やだよ……!)
「はぁ……はぁ……っ!」
ビルが崩れる轟音が、雨音を完全に消し去った。 背後で何十トンもの瓦礫が水面に叩きつけられる衝撃が、 あたしの背中を突き飛ばす。
(押さないで世界……! あたし、今ほんとにギリギリなんだから……!)
あたしたちは、崩れ落ちるビルの縁から、 隣の、まだ辛うじて立っているコンクリートの支柱へと飛び移った。
後ろを振り返る余裕なんて、どこにもなかった。
(振り返ったら…… 心まで崩れちゃう……)
「……はぁ……はぁ……っ、……りん、ちゃん……」 あたしは片腕で冷たい録音機をぎゅっと抱え、 もう片方の手だけでコンクリートの塊にしがみついたまま、 激しく肩を揺らした。 (片手しか使えないの、やっぱり大変…… でも、録音機を手放したら、あたしの心も一緒に沈んじゃう……)
後ろを向くと、さっきまであたしたちがアンテナを立てていたビルは、 もう影も形もなかった。 茶色い濁流が渦を巻き、白い泡が虚しく浮かぶだけ。 (ああ……立てたアンテナ…壊れて、全部、流されちゃった…… でも、まだ生きてる。まだ大丈夫……)
「……ギリギリだったな。……中継アンテナは、ロストした」 りんちゃんの声は震えていた。 彼女の手は、まだあたしの腕を強く掴んでいる。 (りんちゃん……声は冷静だけど、手、まだ力強く握ってる…… きっと、あたしよりずっと怖いんだ……)
繋がったばかりのもみじちゃんの声は、また沈黙の中に消えてしまった。
「……ごめんね、りんちゃん。あたしが、もっと早く……」 (どうしても、こう謝りたくなる…… でも、こんな時に謝っても、何も変わらないの、わかってる……)
「……謝るな。生きているなら、それでいい」 りんちゃんはそう言い、あたしの手を離した。 (やっぱり……りんちゃんは、強い…… あたしは、彼女に守られてるだけじゃダメなんだ……)
その時、あたしの目に、何かが映った。 激しく流れる濁流の向こう。 瓦礫とゴミが混ざり合って流れていく中に、場違いなものが浮かんでいた。
「……え? りんちゃん、あれ……」
 それは、小さな人影だった。
「……人? あんな濁流の中に……?」 りんちゃんも息を呑む。 (あの小さな体で、この濁流の中を…… まだ、あたしたちの“声”を求めてる……?)
光さえ届かない暗い水面、渦巻く泥水の中で、 小さな腕が何かを掴もうとして、必死に動いているのが見えた。
「待って! 助けなきゃ!」 あたしは叫んだ。 あの廃保育園で、壊れた録音機を抱きしめた時の、 あの拭えない空虚さを思い出しながら。 (でも、今度は違う…… これは、きっと、私たちの物語に、新しい『音』が混ざる瞬間……)
あたしたちの物語に、新しい『音』が混ざろうとしていた。 (小さな命が、まだあたしたちの世界と繋がってる…… この感覚、絶対に忘れない……!)
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