「あ! りんちゃん、見て! あそこ、誰か流されてる!」
茶色い濁流の向こう、雨のカーテンを突き破るように、 小さな影がゆらゆら揺れていた。 背中の丸み、サイズ感、漂う“弱々しさ”―― どう見ても子供。どう見ても助け待ち。
(うわぁぁぁ! あたしの“ヒーロー探知センサー”がフル稼働してる! 警報音、脳内でドゥルルルルって鳴ってる!)
「待って、なぎさ! 止まれ。地盤の強度が限界を超えてる。 その影は、ただの――」
りんちゃんの声は冷静なのに、 その奥に“焦り”が混ざっていた。 でも、今のあたしには届かない。
(だって、あの子、今にも水飲んで沈んじゃいそうなんだよ!? りんちゃん、聞こえてる!? これは“助け待ち指数100%”だよ!?)
「大丈夫だよ、りんちゃん! あたし、水泳は得意なんだから! 人生のHPが削れる前に、ちゃちゃっと救出してくるね!」
背負ったリュックが揺れた。 中には、あたしとりんちゃんが歩いてきた“証”―― スケッチブック。
そして、片腕で抱えていた録音機を、 「絶対に失くさないでね」と祈るようにリュックへ押し込んだ。
(ごめんね録音機……! 今は両手が必要なの……! でも絶対に戻ってくるから、そこで待ってて……!)
「今助けに行くから、がんばってー!」
崩れかけた歩道の縁に足をかけ、 あたしは自分の安全なんて一ミリも計算せず、 濁流へ向かって飛び込んだ。
冷たい水が全身を叩きつける。 息が一瞬止まるほどの衝撃なのに――
(うわっ冷たっ……! でも……なんか……テンション上がってきた……!? これ、もしかして“自己犠牲的ハイテンション”ってやつ……? 怖いのにワクワクしてる……脳がバグってる……!)
雨は容赦なく降り続け、 世界は沈み続けているのに、 あたしの頭の中だけが、やけに騒がしかった。
(待っててね、小さな影! あたしが絶対に助けるから! ヒーローなぎさ、ただいま参上――!)
この瞬間、あたしはまだ知らなかった。 “善意”が、取り返しのつかない喪失を呼ぶなんて。
「ぷはっ! 冷たぁい……けど、負けないんだから!」
濁流は想像以上に暴力的で、 あたしの身体を“下流という名の地獄”へ引きずり込もうとしてくる。 しかも背中のリュックは、水を吸って鉛の塊みたいに重い。 中の録音機がゴツゴツ背中に当たって痛い。
(ちょっ……録音機……! 今は宝物というより“沈める気満々の重り”なんだけど!? でも絶対に手放さないからね……!)
それでも、あの影はすぐそこ。 あと少し、あとちょっとで――手が届く。
(待っててね、小さな命! ヒーローなぎさ、ただいま水中戦モード継続中! ※ただし水泳スキルは学校の授業レベル)
腕を必死にかいて、ようやくその影に触れた瞬間――
「……え?」
 あたしの頭の中で、何かが“プツン”と切れた。
触れた感触は、子供の柔らかい肌じゃない。 温もりも、震えも、命の気配もない。
そこにあったのは―― 泥にまみれて膨らんだ、ただの巨大なゴミ袋。
中には古新聞か何かが詰まっているのか、 ぷかぷかと不気味に浮いているだけ。
「うそ……ただの、ゴミ……?」
(ちょっと待って……あたし…… 命がけで……ゴミ袋を……? ヒーロー探知センサー、今日バグりすぎじゃない……?)
濁流の真ん中で呆然とする。 いや、呆然と“立ち尽くす”なんてできない。 足元にはもう、地面なんて存在しない。
ただ、沈みゆく街と、 あたしの心だけが、同じ速度で沈んでいく。
「行くな! それはただのゴミだと言っただろ!」
りんちゃんの声が、雨と濁流を切り裂くように響いた。 彼女はまだ、崩れかけた歩道の縁に踏みとどまっている。 あたしが飛び込んだ場所は、すでに“陥没の境界線”だったのだ。
(りんちゃん……そんな声出すんだ…… ごめん……ほんとにごめん…… あたし、また“空回り”した……)
あたしは、ゴミを救うために命を懸けた。 その事実が、濁流より重く胸に沈む。
「……あ」
その瞬間だった。
りんちゃんの足元―― あたしが飛び込んだ“岸”だった場所が、 地鳴りとともに巨大な口を開けた。
アスファルトが悲鳴を上げ、 街そのものが裂けていく。
(やだ……やだやだやだ…… りんちゃんのいる場所が……崩れていく…… なんで……なんでこんな時に……!)
濁流の音が、雨の音が、 全部混ざって、世界が崩れていく音に変わった。
「ゴォォォォォ!」
耳を裂くような轟音が、雨音を一瞬で飲み込んだ。 街全体が悲鳴を上げながら、積み木みたいに崩れ落ちていく。 地面が、建物が、道路が――全部、地下の空洞へ吸い込まれていく。
(ちょっ……世界さん!? 今日の崩れ方、いつもより豪快じゃない……!? “本日のおすすめ:大規模陥没”とかやめて……!)
あたしが飛び込んだ濁流は、 その巨大な穴へ向かって一気に加速し始めた。
「なぎさ! 手を掴め!」
 対岸――と言っても、もう数メートルも離れた瓦礫の上で、 りんちゃんが必死に腕を伸ばしている。 その指先が白く震えているのが見えた。
(りんちゃん……そんな顔しないで…… あたし、ちゃんと戻るから……! いや戻れるの……? この流れ、完全に“死のウォータースライダー”なんだけど……)
「りんちゃん……っ!」
あたしも必死に手を伸ばした。 でも、濁流の力は、人間の腕一本でどうにかできるレベルじゃない。 背中のリュックは水を吸ってさらに重く、 中の録音機がゴツゴツと背骨を殴ってくる。
(痛っ……! ちょっと録音機……! 今は“心の支え”じゃなくて“物理的な攻撃力”になってるよ……! でも絶対に手放さないからね……!)
「……あ、リュックが……」
背後で嫌な音がした。
激しい水圧と、流れてきた瓦礫の衝撃。 あたしのリュックのストラップが――
ぷつん。
あまりにも簡単に弾け飛んだ。
次の瞬間、リュックそのものが あたしの背中から“剥がれ落ちる”ように濁流へ吸い込まれていった。
「待って! ダメ、それだけは!」
あたしは咄嗟にリュックへ手を伸ばした。 正確には、その中から滑り落ちそうになった――
『あの本』を。
あたしたちが拾った、あの古いスケッチブック。 りんちゃんが描いてくれた、雨の街の絵。
 あたしたちが「一緒に生きてる」って約束した、 あの大切な、大切な思い出の塊。
でも、あたしの指先が触れたのは―― スケッチブックの角ではなく、 濁流に沈んでいくリュックの“底”だった。
(やだ……やだやだやだ……! スケッチブックも……録音機も……! 全部……全部持っていかないで……!)
リュックは、濁流の中で一度だけ 金属が石に当たる鈍い音を響かせ―― そのまま深い穴の闇へと消えていった。
録音機の音だった。 あたしがずっと抱きしめてきた、あの子の声だった。
「……なぎさ、本はいい! 自分を守れ!」
りんちゃんの叫びが、雨と崩落音を切り裂いた。 その声は、今まで聞いたどんな声よりも必死で、 どんな悲鳴よりも痛かった。
(りんちゃん……そんな声出さないで…… あたし、ちゃんと……ちゃんと掴むから……! スケッチブックも、録音機も……りんちゃんの手も……!)
でも、あたしの指先は―― 濁流に消えかかっているスケッチブックの角を求めて、 空を切った。
世界は沈み、 思い出は流れ、 りんちゃんの手は遠ざかっていく。
(お願い……お願いだから…… まだ沈まないで…… あたしの大切なもの、全部……流れていかないで……!)
指先が、わずかに紙の感触に触れた。 でも、それは救いじゃなかった。
あたしの手が触れた瞬間、 水分をたっぷり吸って脆くなっていたスケッチブックは、 パラパラ……と音を立てて解けていった。
 あたしたちが一緒に眺めた街。 老夫婦のランタン。 屋根の上で描いた、不格好な自画像。
それらが描かれたページが、 一枚、また一枚と、泥水の中へ吸い込まれていく。
(やだ……やだよ…… そんな簡単に溶けないで…… あたしの思い出、紙装甲すぎない……? いや、紙だけど……紙だけどさ……!)
「あ……あ……」
声が出ない。
あたしの目の前で、あたしたちの“過去”が、 ただの汚れた紙屑になって消えていく。 あたしのせいで。 あたしが、いもしない子供を救おうなんていう、 身勝手な善意で暴走したせいで。
(なんで……なんであたしは…… いつも“いない誰か”を追いかけて…… “いる誰か”を傷つけるんだろ……)
「なぎさ、手を! 早く!」
りんちゃんの声が、さらに遠ざかる。 陥没は止まらない。 あたしを乗せた瓦礫は、巨大な渦に巻かれながら、 りんちゃんがいる場所とは反対側―― 暗い地下へと続く穴の向こう側へ引きずられていく。
(りんちゃん……そんなに手を伸ばしてくれてるのに…… あたし、何してるの……? なんで“紙切れ”ばっかり追いかけてるの……? でも……でもあれは……あたしの全部だったんだよ……)
「りんちゃん、ごめん……あたし、あたしのスケッチブックが――」
あたしは、消えていくページを追いかけようとして、 さらに深い水の中へ沈んだ。
冷たい。 暗い。
そして―― あたしの身体を押し流す濁流の力が、 そこで急に“重さ”を増した。
(あ……れ……? 身体が……動かない…… 水が……重い……)
腕も、脚も、思うように動かない。 さっきまで必死にかいていた水が、 今は鉄みたいに冷たく、重く、 あたしの身体を深い方へ深い方へと引きずっていく。
(やだ……やだよ…… りんちゃん……まだ……呼んでるのに…… 声……聞こえるのに……)
でも、濁流の暴力に抗う力は、 そこで ぷつん と切れた。
冷たさと暗闇が一気に押し寄せて、 あたしの意識は、ゆっくりと白く濁っていった。
視界の端で、りんちゃんが必死に手を伸ばしている。 でも、その姿は―― 雨と涙で滲んで、もう見えなかった。
「……ぎさ……なぎさ……っ!!」
 遠くで、りんちゃんがあたしの名前を叫んでいる。 あんなに感情を剥き出しにした声を聞くのは―― これが最後かもしれない。
あたしの身体は、瓦礫と一緒に暗い水路へと飲み込まれていく。 手元には、もう何もない。
スケッチブックも。 りんちゃんの温もりも。 あたしの「大丈夫」という、根拠ゼロの自信も。
(ああ……全部……なくしちゃった…… あたし、ほんとに……なにやってるんだろ……)
暗い水面が、ゆらりと揺れながら遠ざかる。 あたしはただ沈んでいく。 抗う力なんて、もう残っていない。
「……離さないで、って……言いたかったのに」
その呟きは、誰に届くこともなく、 激しい濁流の音にかき消された。
(ほんとは……りんちゃんの手…… ずっと離したくなかったのに…… なんで……なんであたしは……)
世界は沈み続けている。 そして今、あたしたちの絆さえも、 濁流に引き裂かれてしまった。
冷たさが、暗闇が、 あたしの意識をゆっくりと塗りつぶしていく。
(りんちゃん……ごめん…… ほんとに……ごめんね……)
最後に見えたのは、 雨に濡れながら必死に手を伸ばすりんちゃんの姿だった。
それもすぐに、闇に溶けた。
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