「……なぎさ?」
わたしの声は、降り続く雨と、巨大な穴へ吸い込まれていく濁流の音に、あっけなく飲まれた。 返事はない。 当然だ。
つい数分前まで、わたしの耳元で 「人生のHPがー」とか「パフェがー」とか、 脈絡のない“生活騒音”を撒き散らしていた存在は、 茶色い濁流の中に消えた。
指先には、彼女の襟首を掴んだときの熱が、まだ残っている。 まるで呪いのように。
世界は、異常なほど静かだった。
かつては、この静寂こそがわたしの望んでいた平穏だったはずだ。 本を読むのを邪魔されず、ただ雨の音だけを聞いていられる時間。 けれど、いざその静寂が戻ってくると――
耳の奥を針で刺すような、不快なノイズにしか聞こえない。
「……静かすぎる。耳鳴りがするほどに」
ひとりで歩くこと。 それはわたしにとって、この世界で最も慣れ親しんだ“基本設定”だった。 なのに今のわたしは、自分の歩幅さえ分からなくなっている。
なぎさという、制御不能で、非論理的で、 常に最大誤差を叩き出す“巨大な変数”。
それが欠落しただけで、 わたしの生存数式は、修復不能なエラーを吐き続けている。
(……計算、合わない。 なぎさがいないと、変数の制御ができない……? そんな馬鹿な……いや、馬鹿なのはあの子だけど……)
膝が笑うのを、冷たい雨のせいだと言い聞かせた。 泣いている暇などない。 感情を動かすのは、酸素の無駄だ。
今は、わたしの手が動くうちに、 この“バグ”を修正しなければならない。
なぎさが、いもしない子供を救おうとして飛び込んだ、あの泥沼から。 わたしは、彼女が残した“生”という名のガラクタを拾い上げる必要がある。
(……動け。わたし。 なぎさが残した混沌を、わたしが片付けるしかない)
雨は止まない。 静寂は続く。 わたしの世界から、騒がしい変数が消えたまま。
瓦礫の山を這いずり回り、わたしは一つの“死骸”を見つけた。
派手なオレンジ色のデリバリードローン。 かつてどこかの子供が遊んでいたのだろう。 プロペラは三本折れ、カメラのレンズは泥を噛んで砕け、 機体は雨に濡れて冷たく、まるで“ここで死にました”と自己申告している。
(……なぎさなら絶対に言う。「カニさんドローンだー!」って。 うるさい。黙れ。今は脳内で再生されるな)
「……動け」
わたしは震える手で、防水ケースから小型ドライバーセットを取り出した。 指先の感覚は、冷たさでほとんど失われている。 けれど、それがむしろ都合がいい。
痛みを感じなければ、 わたしの手は“精密機械の一部”として働き続けられる。
「……回路のバイパス、形成。 バッテリーは照明弾用の予備を直結。 プロペラのピッチ調整……」
 呟く言葉は、なぎさに聞かせるためのものではない。 ただ、自分の意識を“修理”という一点に縛りつけるための、 無機質な記号だ。
(喋らないと、思考が勝手に“なぎさ”へ流れる。 それは……今のわたしには致命的だ)
だが、玩具のドローン単体では足りない。 熱源探知も、生存信号の受信もできない。
「……玩具の脳味噌じゃ、役不足」
わたしは濡れた瓦礫の隙間から、 あの地下街で廃瓶(はいびん)から組み上げた“水中探査灯”の残骸を引きずり出した。 光学センサーはまだ生きている。 そして、なぎさが抱えていたリュックから回収した“無線機”―― もみじの声を拾った、あの受信回路。
(過去のわたしが残したガラクタ。 今は全部、命綱になる)
「……光学センサー、移植。 無線受信回路、流用。 これで……“探す”ための最低限は揃う」
なぎさがよく言っていた“ワクワク指数”なるものを否定するように、 わたしは回路基板を剥き出しにし、 玩具の脳を“生存特化”へと強制的に書き換えていく。
(なぎさのスケッチブックは失われた。 わたしたちの“過去”は濁流に飲まれた。 なら……せめて“現在”だけは……)
泥の中からでも、引きずり出す。
「……接続。……コマンド入力」
ハンダの熱で指先を焦がしながら、 わたしは強制的にシステムを起動させた。
壊れかけのモーターが、雨音を切り裂いて、 高く、鋭い悲鳴を上げる。
(泣きたいのは、わたしの方なんだけど)
その音は、まるで “まだ動ける、まだ死んでいない” と訴えているように聞こえた。
わたしは、無言で頷いた。
(そう。動け。 これがお前の“遊び”の結果だ。 直して、証明しろ。 なぎさが……まだ生きていると)
『……りん。りん、聞こえる?』
無線機から、ノイズを噛んだ声が届いた。 もみじだ。
この通信が繋がっているのは奇跡ではない。 ――観測塔が非常用ブースターを無理やり叩き起こしているからだ。 あるいは、わたしの足元に転がっている“死んだ中継局”が、 まだ息をしているだけ。
「……聞こえてる。データの同期、頼む」
『落ち着いて。あなたの心拍数、さっきから140を超えてるわ。 ……なぎさがいないのは分かっているけれど、あなたが倒れたら、本当に終わりよ』
(心拍数? 知らない。 今のわたしの心臓は、ただの“燃料ポンプ”。 止まらなければ、それでいい)
「……説教はいらない。 熱源探知の広域スキャンを。 セクター20から下流方向、半径500メートル」
自分でも驚くほど冷徹な声が出た。
もみじの気遣いさえ、今のわたしにとっては処理を遅らせるだけの“ノイズ”だ。 なぎさなら、今のわたしの顔を見て 「りんちゃん、怖いよー」 とでも言って笑っただろう。
(……笑えよ。 今はその“騒音”が必要なんだよ)
『……わかったわ。広域データを送信する。 でも、この磁気嵐の中じゃ、ドローンの制御は難しいわよ。 ……りん、本当にやるの?』
「……やる、じゃない。 直すんだ。壊れた状況を」
わたしは、自作したコントローラーのレバーを押し込んだ。
ドローンは、もともと六枚羽の大型玩具だった。 そのうち三本は折れ、残った三本だけが必死に空気を掴んでいる。 不安定で、危うくて、 まるで――なぎさの無鉄砲さをそのまま形にしたような飛び方だった。
(……ほら。 お前まで“なぎさ化”しなくていい)
それでも、雨空へと舞い上がる。
 「……なぎさが死ぬ。 ……そんな計算、わたしは認めていない」
口をついて出た言葉は、 後に訪れる絶望の瞬間へと繋がる“拒絶”の予兆だった。
わたしは、モニターに映し出される灰色の世界を、 瞬きも忘れて凝視した。
(動け。探せ。 なぎさの“生存”という答えを、 この世界から引きずり出せ)
雨音だけが、わたしの背中を押していた。
ドローンのカメラが、陥没した街の姿を映し出す。
かつて、なぎさと歩いた商店街。 二人でスケッチを描いた屋根。 雨宿りしながら、くだらない話をした古い街灯の下。
 全部、茶色い泥の底に沈んでいた。
『……スキャン開始。 ……建物内の熱源、ゼロ。 瓦礫の中の生体反応、なし』
もみじの報告が、冷酷なカウントダウンのように響く。
(ゼロ。なし。 数字って、こんなに簡単に“死”を言うんだ……)
モニター越しに見る世界は、 わたしが一人で本を読んでいた頃の世界よりも、 ずっと空虚で、価値のないものに見えた。
「……探し方が足りない。 ……感度を、上げろ」
『これ以上上げると、ノイズで何も見えなくなるわ!』
「……上げろ」
わたしは、ドローンをあえて危険な、 崩落が進むビル群の隙間へと滑り込ませた。
その瞬間―― 三本しか残っていないプロペラが、 ビルの壁をガリッと削った。
機体が大きく揺れ、 モーターが悲鳴のような高音を上げる。
(……落ちるなよ。 お前まで“なぎさみたいに”突っ込んで死ぬな)
それでも、わたしはレバーを押し込んだ。
(なぎさ。 お前はいつも、わたしの警告を無視して笑っていた。 “危ないよ”と言うたびに、一歩先へ進んで…… そのくせ、わたしの手は絶対に離さなかった)
なら、わたしだって―― 自分の警告を無視してやる。
論理的に考えれば、 あの濁流に飲まれて生きている確率は限りなくゼロに近い。
(でも……なぎさは、確率なんて信じたこと、一度もなかった)
わたしの“正しさ”を、いつも笑ってひっくり返してきた。
「……お前が信じていた世界を、わたしに押し付けたんだろ。 ……なら、責任を取れ。勝手に終わるな」
ドローンのバッテリーインジケーターが、激しく点滅し始めた。 電力の限界だ。
視界はノイズで埋まり、 レンズには泥がこびりつき、 画面はほとんど“砂嵐”になっている。
(……終わるな。 終わるなよ。 わたしがまだ、終わっていないんだから)
その砂嵐の向こう側で―― 何かが、ほんの一瞬だけ光った気がした。
(……なに?)
わたしは息を止めた。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
コントローラーから、短く鋭い電子音が漏れた。
「……熱源?」
『……捉えたわ! りん、セクター22! 孤島みたいに取り残されたビルの、最上階よ!』
モニターのノイズを突き抜けて、 小さな、本当に小さな“赤”が点灯した。
 生体反応。
(……なぎさの“人生のHP”、まだゼロじゃない)
「……あ」
安堵で膝が抜けそうになるのを、 奥歯を噛み締めて耐えた。
ドローンのバッテリーは今にも死にそうだ。 モニターの端で、電池マークが断末魔のように点滅している。
(落ちるなよ……最後まで働け…… お前はもう“なぎさの代わり”なんだから)
「……座標、固定。 ……もみじ、なぎさのバイタルを監視し続けろ。 ……わたしは、今からそこへ行く」
『待って、りん! 今の地盤じゃ、歩いて行くのは無理よ!』
「……無理かどうかは、わたしが決める」
わたしはコントローラーを放り投げ、 泥にまみれたリュックを背負い直した。
なぎさは生きている。
ただそれだけで、 わたしの世界から“静寂”という不快なエラーが消え去った。
(……戻ってきた。 騒音の幻聴でもいい。 お前が生きてるなら、それでいい)
雨はまだ降り止まない。 けれど、わたしの目には、 あの泥だらけのビルの屋上が、 世界で一番鮮明な目的地として映っていた。
「……待ってろ、なぎさ」
まだ震えの止まらない足で、 わたしは崩れかけたガレキの海へと踏み出した。
 バッテリー残量の点滅が、 暗い夜の底で、 唯一の鼓動のように脈打っていた。
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