◀第24章「北を指す針、明日を掴む手」
▶第26章「二本足の覚悟、ガムテープの絆」
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 第25章「未来を釣り上げる重り」
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 離途」
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「あわわわ……! 見てよりんちゃん、ハルくんが泥のマシュマロにお代わりされそうになってるよぉ!!」
あたしは松葉杖をつきながら泥沼の縁にへばりつき、半分泣きそうな声で叫んだ。 霧の向こう、茶褐色のドロドロした塊の中で―― さっき助け出したばかりの少年、ハルくんが、またもや首まで沈みかけていた。
(えっ……ちょっと待って…… さっきの救出、チュートリアルだったの……? 本編、ここから……?)
「……マシュマロに例える余裕があるなら、そこにある鉄骨を支えろ。泥の吸い込みが予想以上に速い」
「えっ、これ支えるの!? ちょ、ちょっと待って、右足が――っ」
あたしは松葉杖を脇に挟み、 痛みで視界がチカッと白くなるのを歯を食いしばって耐えながら、 鉄骨に身体を預けるようにして押さえ込んだ。
(いったぁ……! でも、ここで離したらハルくんが沈む……! 痛みなんて、後払いでいい……!)
「……あの、無駄ですよ。お二人さん」
泥の中から、信じられないほど落ち着いた声がした。 ハルくんだ。沈んでるのに、声だけは透明で冷静。
「僕の自重と、この泥の粘性抵抗を照らし合わせれば、人力で引き上げるのは不可能です。救助の確率は、限りなく――」
「ハルくん! 今は算数のテスト中じゃないんだよぉ!! あたしたちが来たんだから、その“確率”とかいうお化けはどっか行ったの!」
「……お化け? 意味がわかりません。物理的な限界を、感情で埋めることはできませんよ」
「埋められるんだよぉ! あたしのワクワク指数は今、限界突破して逆流してるんだから!」
「……指数が逆流……? 脳の血管の心配をしたほうがいいのでは」
(この子……沈んでるのに、ツッコミの精度が高すぎる…… りんちゃんと同じ“理屈の化身”だ……)
そんなやり取りをしている間にも、泥はじわじわとハルくんの顎のラインを飲み込もうとしていた。
「……なぎさ、議論は終わりだ。道具を広げる。重力を、騙してやる」
りんちゃんが拾い集めた錆びた金属を地面に並べた。 滑車、ワイヤー、鉄骨、ボルト……どれも泥と雨にまみれた廃材ばかり。
でも―― りんちゃんの瞳には、ハルくんが言う「不可能」なんて一文字もなかった。
(りんちゃん…… “救える確率”じゃなくて、“救う方法”を探してるんだ…… あたしも……その隣に立つんだ……!)
「りんちゃん、それって……さっき廃ビルから拾ってきたエレベーターの滑車?」
あたしは、りんちゃんが泥の上に並べた三つの丸い車輪を覗き込んだ。 霧の白さの中で、金属の輪だけが鈍く光っている。
「……そう。これと耐荷重ワイヤーを組み合わせる。 なぎさ、そこに落ちてるU字ボルトを拾え」
「はーい! でもこれ、ただの車輪だよ? これでハルくんを引っ張れるの?」
「……ただの車輪じゃない。動滑車を三つ組み合わせる“三段滑車”だ。 理論上の負荷は、これで三分の一まで下がる」
 「さんぶんのいち……? つまり、あたしが三人いるのと同じパワーが出るってこと!?」
「……お前が三人いたら、うるさすぎて作業にならない。 いいか、力を距離に変換するんだ。引く距離は三倍になるが、重さは三割強になる」
「わぁ……りんちゃん、今の説明すっごく魔法使いっぽかったよぉ! でも、支える場所がなきゃダメなんじゃない?」
「……そのための、あの折れたクレーンの支柱だ。 あそこに親滑車を固定する。 なぎさ、お前はワイヤーの端を持って、あのコンクリートの塊まで登れ」
「登る……!? あたしが……?」
右足がズキッと悲鳴を上げた。 でも、あたしは松葉杖を脇に挟み、 瓦礫の斜面を這い上がった。
(……脚が、重い……! でも、あたしがここで止まったら、ハルくんまで止まっちゃう。 ……まだ、止まるわけにはいかないんだ!)
泥の中では、ハルくんが相変わらず冷めた目でこちらを見ていた。
「……三段滑車ですか。 確かに物理的には正解ですが、アンカーの強度が足りませんよ。 ワイヤーを引く側の“固定重り”がなければ、滑車ごと泥に引きずり込まれるだけです」
「固定重り……? あ、そうか! 引っ張るあたしたちのほうが、泥に負けちゃうってこと!?」
「……なぎさ、ハルの指摘は正しい。 だが、解決策はある」
りんちゃんが、ワイヤーの端をあたしの腰に―― これでもかというくらい頑丈に、容赦なく巻き付けた。
 「……え? あたしの腰に繋いで、どうするの?」
「……なぎさ。 お前の体重は、今、この世界で一番価値のある“資産”になる」
「資産!? あたし、ついに資産になっちゃったの!? なんか嬉しいけど、なんか悔しいよぉ!!」
「文句を言うな。お前が“固定重り”だ。 お前が動かない限り、滑車は沈まない」
「動かない……!? りんちゃん、あたしの右足、今にも“退職願”出しそうなんだけど……!」
「……退職は許可しない。 なぎさ、そこに踏ん張れ。 お前が支えれば、ハルを引き上げられる」
りんちゃんの声は冷静なのに、どこか震えていた。 霧の中で“誰かが沈む”光景は、彼女にとってあまりにも残酷な記憶を呼び起こす。
(りんちゃん…… 怖いんだよね。でも、今度はあたしが支える番だよ……)
あたしは腰に巻かれたワイヤーを握りしめ、 右足の痛みを押し殺して、コンクリート塊に身体を預けた。
「……よし。三段滑車を組む。 重力を、逆に利用する」
りんちゃんは泥の中に膝をつき、 滑車の軸を慎重に組み合わせていく。
霧の中で、金属が触れ合う小さな音が響いた。
あたしたちの“救助ミッション”は、 ここから本格的に動き出す。
「りんちゃん……まさか、“重り”の使い方って…… あたしが飛び降りるってことなの!?」
瓦礫のてっぺんで叫んだ瞬間、腰に巻かれたワイヤーがギチッと鳴った。 その先は泥の中のハルくんへと繋がっている。
「……そうだ。お前がその瓦礫の反対側へ飛び降りる。 お前の落下エネルギーを、ハルを引き上げる力に変換する」
「飛び降りるって……あ、あたしがバンジージャンプすれば、 ハルくんがスポンって抜けるってことだねぇ!」
「……スポンとはいかないだろうが、人力で腕を引くよりは数倍確実だ。 いいか、なぎさ。お前の役目は、重力に従って落ちることだ」
「わかった! あたしの体重は、こういう時のためにあるんだよぉ! 昨日パスタを大盛りにしておいてよかったー!」
「……なぎさ、動くな。ワイヤーの位置を調整する」
りんちゃんは、あたしの腰に巻かれたワイヤーをそっと持ち上げ、 右足の止血帯に干渉しないように角度を微調整した。
さらに、彼女は自分の作業着の袖を破り、 厚めの布をワイヤーとあたしの腰の間に挟み込んだ。
「これで衝撃が分散する。……止血帯をずらすわけにはいかない」
「りんちゃん……そんな細かいところまで……」
「当たり前だ。お前の血がこれ以上流れたら、三段滑車どころではない」
その声は冷静なのに、どこか震えていた。
(りんちゃん……怖いんだ。 “誰かが沈む”のも、あたしの血が止まらなくなるのも…… あたしが消えたときのこと、まだ心に残ってるんだ……)
あたしは瓦礫の縁に立った。 右足がズキッと悲鳴を上げ、視界が一瞬白くなる。
(……痛みは、あたしがまだ動けるっていうサインだ。 この痛みの分だけ、ハルくんを空へ押し上げてみせる……!)
眼下には茶褐色の泥。 その中で、ハルくんが驚いたようにあたしを見上げていた。
「……待ってください。 自分の身体を重りにするなんて、そんな非効率な……! もしワイヤーが切れたり、僕の体が抜けなかったら、 あなたはただ地面に叩きつけられるだけですよ!」
さっきまでの冷静さが消え、声に焦りが混じっていた。
「効率なんて、あとでアイスでも食べながら考えればいいんだよぉ! ハルくん、目を開けててね! あたしが、その“一パーセント以下”の向こう側に連れてってあげるから!」
「……なぎさ、カウントダウンはしない。いけ」
りんちゃんがワイヤーのストッパーを外した。
その瞬間―― あたしの身体は空中へ放り出された。
「いっけぇぇぇぇーー!!」
重力があたしを地面へ叩きつけようと引きずり落とす。 同時に、腰のワイヤーがガンッと張り、 強烈な力であたしの身体を引き止めた。
「っ……ぐぅぅぅぅ!!」
右足に激痛が走り、涙がにじむ。 でも、あたしの重みが滑車を通じて 泥の中のハルくんへと伝わっていくのが、はっきりわかった。
(いけ……! あたしの体重、今こそ本領発揮だよぉ……! ハルくんを……引き上げるんだ……!)
 「ぐ……っ、……あ……あぁぁ!」
泥の中から、ハルくんの苦しげな――でも確かに“生きようとする”声が響いた。 あたしは宙吊りのまま、必死にワイヤーを握りしめる。 地面まであと数センチ。 あたしの体重が、三段滑車を通してハルくんの身体を泥の呪縛から引き剥がしている。
(いけ……! あたしの体重、今だけはヒーロー級なんだから……!)
「……あがっ……っ、……なんで……」
ハルくんの身体が、ミリ単位で――本当に紙一枚ぶんずつ――浮き上がっていく。
 「……なんで、そこまで……するんですか……。 ……僕、救う価値なんて……」
「価値とか……そういうの……あたし、わかんないよぉ……!」
宙に浮いた足で空を蹴る。 腰に食い込むワイヤーが痛い。 右足の傷がズキンと叫ぶ。
でも―― あの激流の中で、スケッチブックが手から離れていった瞬間の、 手の中が空っぽになるあの感覚に比べたら―― この痛みなんて、お菓子の包み紙より軽い。
「……あたし、大切な思い出を守れなかったんだ。 だから、今度は――絶対離さないって決めたの!」
声が震えてもいい。 涙がにじんでもいい。 ハルくんに、そしてあたしを支えているりんちゃんに届くように、あたしは叫んだ。
「ハルくんが……そこに生きてるなら、それが正解なんだよぉ! “確率”は、あたしたちが今、新しく作ってるの!」
「……新しく……作る……?」
泥の中で、ハルくんの瞳がわずかに揺れた。 その奥に、小さな、本当に小さな光が灯る。
(そうだよ……見て、ハルくん…… あたしたちは“計算”じゃなくて、“行動”で未来を作るんだよ……)
あたしの重みが、最後のひと押しとなった。
グパッ――。
泥が空気を吐き出すような鈍い音が響き、 ハルくんの身体が、ついに腰まで泥から抜け出した。
霧の中で、その瞬間だけ世界が明るくなった気がした。
「……よし、抜けた! なぎさ、そのまま維持しろ!」
りんちゃんが泥だらけのハルくんの脇を抱え、全身の力で引き上げた。 あたしはようやく地面に足を着き、腰のワイヤーを緩める。 全身がバキバキに痛い。右足は抗議デモ中みたいにズキズキしてる。
でも―― 視線の先には、泥まみれになりながらも地面に横たわるハルくんの姿があった。
「はぁ……はぁ……っ、……助かった……の……?」
ハルくんは、真っ白な霧の空を呆然と見上げていた。 その瞳には、まだ“生きている実感”が追いついていない。
「助かったんだよぉ! 見て、あたしのDIYと、りんちゃんの技術と、あたしの体重の勝利だよー!」
あたしは笑いながら、 松葉杖を突いて、もどかしい足取りでハルくんのもとへ近づいた。 右足が悲鳴を上げても、気持ちだけは全力で駆け寄っていた。
でも、ハルくんを引き上げていたりんちゃんの表情は、ちっとも晴れていなかった。
「……どうしたの、りんちゃん? ハルくん、出られたじゃない」
「……いや、まだだ。……なぎさ、ハルの右足を見て」
りんちゃんが指差した先―― そこには、あたしの想像を軽く超える“現実”があった。
ハルくんの身体は確かに泥から出た。 けれど、右足首から先だけが、泥の下の巨大な『何か』にがっちり挟まれている。
 「……岩? 違う……これ、ビルの構造材の残骸だ」
りんちゃんが泥を払うと、歪んだ鉄筋とコンクリートの塊が姿を現した。 まるで巨大な万力みたいに、ハルくんの足を締め付けている。
「……だから言ったでしょう。……救助の確率は……低いって」
ハルくんが、力なく笑った。 その笑みは、諦めというより“自分の計算が正しかった”と確認するような、そんな色だった。
(ハルくん……そんな顔しないでよ…… せっかく、ここまで引き上げたのに……!)
そのとき―― 足元の泥が、ぽちゃん、と音を立てた。
水位が、じわじわと上がっている。
霧の向こうから、どこかで崩れた建物の水が流れ込んでいるのかもしれない。 このままでは、ハルくんの足が抜ける前に、泥が再び彼を飲み込む。
「りんちゃん……これ……」
「……ああ。時間がない。 次は“挟まれた足”をどうにかする。 なぎさ、準備を――」
りんちゃんの声は冷静なのに、奥底に焦りが滲んでいた。
あたしたちの“救済”の戦いは、 まだ始まったばかりだった。
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あらすじ 泥沼の縁で、松葉杖の少女なぎさは、再び首まで泥に沈みかける少年ハルを見つけ、半泣きで叫びつつも救助を決意し、理屈派の仲間りんと共に即席の救出作戦に入る。 ところがハルは冷静に救助の確率の低さを語り、粘性や自重を根拠に人力の限界を指摘するが、なぎさは感情と行動でその不可能を上書きすると反論し、りんは議論を打ち切って具体的な道具の準備に移る。 りんは廃材の滑車やワイヤー、鉄骨を集め、三段滑車で必要な力を三分の一にまで落とす計画を提示し、力を距離に変換して引き距離が増える代わりに負荷を下げると説明する。 支点と固定点の確保が課題となるが、折れたクレーン支柱をアンカーにし、さらに「固定重り」となる質量を用意する必要性をハルが指摘し、りんはその解としてなぎさの身体を固定重りに充てることを決断する。 右足を負傷したなぎさは恐れつつも同意し、腰にワイヤーを巻かれたうえで瓦礫の上へ登り、痛みを押し殺して支点となるコンクリート塊で踏ん張る役目を引き受ける。 りんは止血帯に干渉しないようワイヤー角度を微調整し、布で衝撃を分散して安全性を高め、準備が整うと重力を逆手に取る投入手順を確認する。 計画の肝は、なぎさが瓦礫の反対側へ飛び降りて落下エネルギーをワイヤーに伝え、滑車を介してハルを引き上げる「人力バンジー救助」であり、ハルは非効率と危険性を訴えるが、なぎさは確率よりも実行を重視して踏み切る。 ストッパーが外れ、なぎさは強烈な反力と激痛に耐えながら宙吊りとなり、その全体重が三段滑車を通して泥の吸引力に対抗する引き抜き力へと変換される。 右足の痛みで視界が白む中、なぎさは失われた思い出を守れなかった悔恨を原動力に、「今度は離さない」と自分に誓い、行動で未来を作ると叫んで力を込め続ける。 ハルは自分に救う価値はないと呟くが、なぎさは価値の有無より生きている事実が正解だと返し、確率は自分たちで新しく作るものだと意志を伝え、ハルの瞳にかすかな光が灯る。 泥が空気を吐く音とともにハルの体が紙一枚ずつ浮き、ついに腰まで泥から抜け出し、霧の世界が一瞬明るく感じられるほどの達成感が広がる。 りんはその瞬間を逃さず脇を抱えて全身の力で引き上げ、なぎさは地面に足を戻してワイヤーを緩め、全身の痛みにうめきながらも救助の成功を喜ぶ。 ところが、りんの表情は晴れず、原因はハルの右足首が泥下の巨大な構造材に挟まれているという新たな現実であり、引き上げ自体は成功したが完全な解放には至っていない。 歪んだ鉄筋とコンクリートの残骸が万力のように足首を固定し、ハルの「確率が低い」という計算の一端が的中していることが判明し、なぎさの胸に再び焦りが走る。 さらに周囲の水位がじわじわ上昇し、霧の向こうから流入する水が泥を満たして状況を悪化させ、時間制約が救助の難度を急激に押し上げる。 りんは冷静さを保ちながらも奥底に焦りを滲ませ、次の段階として「挟まれた足」をどうにかする作戦へ即座に頭を切り替え、工具と固定方法、てこや追加滑車の応用を視野に入れて準備を指示する。 なぎさは痛む右足を押さえつつも支点と重りの役割を継続する覚悟を固め、行動の連鎖を止めないことで確率の壁を押し広げようとする。 滑車の金属音、霧の冷たさ、泥の粘り、痛みの鋭さが交錯する中、三人の役割は明確になり、理屈と感情と技術が一つに束ねられて次の一手へと収束してゆく。 救助の第一段階は成功したが、真の難関はここからであり、引き抜きから解放へ、そして安全な退避へと、工程の切り替えと時間管理が生死を分ける局面に入った。 なぎさはワイヤーのテンションを管理し、りんは挟まれ部位の把握とてこの支点設置を検討し、ハルは諦観から意志の灯へと心を反転させ、三人は同じ方向を向く。 泥の吸引と構造材の圧力、水位の上昇という三重の敵に対し、重力を利用する設計思想を土台に、今度は局所的な解放力をどう捻出するかが鍵となる。 なぎさの「固定重り」としての資産性は引き続き滑車系の安定に寄与し、りんの「方法を探す」視線は常に前方にあり、ハルの「計算」は現実認識に役立つ制約条件として再配置される。 確率と感情の対立は、工程化された行動によって架橋され、失敗の想像は段取りの改善に変換され、焦燥はカウントではなく手順へと翻訳される。 痛みはまだ消えないが、それは動ける証として三人の意志を支え、過去に守れなかったものの悔恨は、今ここで「離さない」という誓いへと形を変える。 こうして、三段滑車が未来を釣り上げる仕掛けとなり、固定重りが希望の錨となって、霧と泥のただ中で三人の救済は次の局面へと踏み出す。 やがて、りんの短い「時間がない」という言葉が、物語のテンポをさらに加速させ、準備、判断、実行のサイクルは途切れることなく回り続ける。 なぎさは息を整え、りんの指示に備えて体幹を固め、ハルは意識を明瞭に保ち、痛みに耐えながら体の位置と力の向きを合わせる。 霧の白と泥の褐色、錆の赤と血の匂いが混じる現場で、まだ見ぬ解放の瞬間に向け、重力を騙し、てこを利かせ、確率を再設計する作業が始まろうとしている。 物語は、救出成功の安堵と次の危機の緊迫を同時に抱えたまま、なおも終わらず、真の「救済」のための第二幕へと入っていく。
解説+感想このシーン、めちゃくちゃ良かった。 読んでて胸が締め付けられるような熱さと、同時に「これ本当に現実的な救助か?」って冷めた部分が同時に走るのがすごく心地いい緊張感だった。特に刺さったのは、「確率」をめぐる三者の温度差が最後までずっと消えないまま、でもそれが決裂せずに「次の工程」へと変換されていくところ。ハル:確率を語ることで自分を諦めやすくしている(自己防衛) なぎさ:確率なんか知るか、今動かなきゃ全部終わる(感情の暴力) りん:確率は認めた上で、どうにかしてその数字をずらす方法を探す(現実的楽観主義)
この三つ巴が、ただの性格の違いじゃなくて、それぞれが「生き残るための最善の戦略」として描かれているのが本当に上手い。 特にハルが「価値がない」と呟いたときに、なぎさが「価値の有無より生きてる事実が正解」と返すところは、シンプルだけど残酷なくらい強い一撃だった。理屈で殴り返さず、存在そのものを肯定する言葉だからこそ、ハルの瞳に光が差す説得力がある。あと「人力バンジー救助」という発想が最高に狂っていて好き。 物理法則を騙してる感がすごい(褒めてる)。 落下エネルギーを滑車で変換して引き抜き力にするって、確かに理論上は成立するけど、実際はなぎさの右足が粉々になるリスクがデカすぎる。それを承知で「今度は離さない」と踏み切る覚悟の描写が痛々しくて、でもそこに救いがある。りんの「止血帯に干渉しないよう角度調整」「布で衝撃分散」みたいな細かい配慮が、彼女のキャラを一瞬で立体的にしてるのも良い。 冷静でドライに見えて、実は一番「仲間を壊したくない」と思ってるのが伝わってくる。そして最後の「第一段階成功→でも足首が挟まってる+水位上昇」という畳みかけが完璧。 ここで終わらせず「第二幕突入」って明示してるのが、読者に対して「まだ安心するなよ」って突きつけてくる感じでゾクゾクした。全体を通して「重力を味方につける」「確率を再設計する」という言葉が何度もリフレインしてるのが効いてるね。 物理的な仕掛けと精神的な仕掛けがパラレルに進んでるのが、このシーンの美しさだと思う。一言で言うなら 「絶望的な物理法則と、諦めきれない人間の粘着質な意志がガチで殴り合ってる話」で、まだ殴り合いは終わってない。続きが本当に気になる。 この三人がこの後どうやって「解放」と「退避」を両立させるのか、想像するだけで胃がキリキリする。 でもそれが読みたいって感情が今一番強い。すごく良いシーンをありがとう。 この泥と霧と血とワイヤーの匂いが、まだ鼻に残ってる。
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◀第24章「北を指す針、明日を掴む手」
▶第26章「二本足の覚悟、ガムテープの絆」
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