◀第02章「聖裸の魔女と、消えない経費と見えない衣服」
▶第04章『壊れた帰還陣と、帰れない天才』
|
|
第3章「聖裸の魔女と、見えざる学者と鉄壁の寄生虫」
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: ずんだもん」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 櫻歌ミコ」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: WhiteCUL」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 東北ずん子」「VOICEVOX: 満別花丸」
|
朝露を孕(はら)んだ秋の冷気が、衣服を完全に透過して、私の地肌へと直接吹き付けてくる。
物質的な防壁は確かにそこに存在している。恐る恐る指先を這わせれば、上質な最高級シルクの滑らかな手触りが指先に伝わる。しかし、無慈悲な網膜が捉えるのは、ただ剥き出しになった白磁の素肌と、足首を申し訳程度に覆う安物の綿素材の靴下のみ。
物理的な防衛質量を維持しながら、女性としての視覚的尊厳だけを精密に刈り取る悪魔のドレス。これが、天才と謳われた我が恩師が心血を注いだ、狂気の研究成果であった。

しかし、そんな理不尽な現実も、机の上に積み上げられた黄金の眩い輝きを前にすれば、すべては些末(さまつ)な問題へと退く。
「……一万、二万、三万クローネ。ふふ、計算通りです。これだけ潤沢な予算があれば、次の魔導検証が劇的に捗りますね」
学生寮の安っぽい木製テーブルの上。革袋の口から溢れ出たクローネ金貨の山を、私は指先で愛おしげになぞる。

迷宮第一層のボス、通称『布喰らい』――その実、国家の存亡を揺るがす災厄たる古代種を(余波で)討伐したことによる、破格の公式報奨金だ。
「おい、ルイズ」
ベッドの枕元から、白い大福餅のような使い魔がのそりと這い出てきた。赤い瞳を私の手元へと向け、よだれを拭うような仕草で短い前肢を卑屈にすり合わせる。

「金貨を数えてニヤついとるのもええけどな、その服、相変わらず完全透過しとるんやから、せめて上から男物Tシャツだけでも装備しとき。自分、そのうち全裸であること忘れてそのまま外に出そうで怖いわ!」
「このままでは不味いですか。……まあ、これ以上教授の胃薬の消費量を増やすのも忍びないですし、しゃあないから着ておきますか」
私は帰宅した際に脱ぎ捨てていた、例のオーバーサイズTシャツをもう一度頭から通す。

「でも、重ね着をすると生地が擦れて妙に暑いんですよね」
「じゃあ、その透けとる教授の呪いドレスをはじめから脱いだらええやんか!」
「ふふふ、はーっはっは! やっぱりトトは救いようのない大馬鹿者ですねぇ! このドレスは最高級シルクの肌触りですよ!? 安物のゴワゴワした綿Tシャツごときとは、皮膚に吸い付く官能的な質感が天と地ほど違います!」

「……。ある意味でガチの天才やな、自分。脳のブレーキ全損しとるわ」
「でしょ」
私は誇らしげに、見えないドレスの胸元を張ってみせた。

「ところでや、ルイズ」
トトは短い前肢をすり合わせ、つぶらな赤い瞳を爛々と輝かせた。
「これ、全部本物の金貨やんな。ついにワイらの血を吐くような極貧生活も終了や! 今日の昼飯は王都で一番高い高級ステーキハウスで肉の絨毯やな! デザートに極上の特大バケツプリンも付けたるわ!」
「何を言っているのですか、トト。極めて非合理的です」
私は金貨の山を素早く我が方へと引き寄せ、冷徹な手つきで革袋の闇へと次々に回収していく。

トトは、天国から地獄へ叩き落とされたような表情で、私の手の動きを凝視していた。
「今回の臨時収入は、あくまで次の等価交換魔法の実証実験における『設備投資費』です。なぜ、消費期限が著しく短い有機物(肉)ごときに、これほどの貴重な基幹資産を投じねばならないのですか」
「……嫌な予感がする。自分、まさか……」
数時間後。
安っぽいテーブルの上に無慈悲に並べられたのは、硬い黒パンと、底の木目が透けて見えるほど薄い塩豆スープ。そして床に無造作に置かれた、明らかに安物と分かるバーゲン品の替えの衣服と、辛うじてシルク混紡の少しだけ高価な下着(計三着、しめて三万クローネ)だった。

「なんで金貨が山ほどあるのに、飯がこれ(干からびたパンの耳付き)なんや! おまけに買い込んできた服も最安のワゴンセール品やんけ!」
トトが短い足をじたばたとさせてスープの皿を激しく叩く。

「当然の帰結です。研究者にとって、自らの身体を覆う布地はただの使い捨ての消耗品(弾薬)。ただし、シルクの下着は万が一の緊急用弾薬です。安価で調達できるに越したことはありません。残りの数万クローネは、すべて新しい魔術用触媒と最新の演算機器の購入に充てました」
「銭ゲバオタクの極みやな、自分。……って、結局その透明ドレスは普段着のままにするんか?」
トトの視線が、私の首元――物理的にはシルクの美しい襟が存在しているが、視覚的には完全に透過して白磁の鎖骨だけが浮き上がっているあたりへと注がれる。

「ええ。可視光線の屈折率こそマイナスに狂っていますが、防具としての物理的性能はドレス全体の保護術式によって極めて高いレベルにあります。常に着用していれば、次元魔法の等価交換がもたらす反動の衝撃波も、最小限に抑えられるはずです」
「じゃあ、このドレス自体を等価交換のコストとして支払わん限りは、服自体が消し飛んだりすることはない。つまり――」
「はい。次の次元魔法の等価交換は、この透明ドレスの下に着用している下着から順番に美しく消費される設計(プログラム)になっています」
「設計って言うなや! 下着パージ確定ルートを自分で構築してどうするんや!」
トトが呆れたように不満の鼻を鳴らす。その不遜な表情を見据えながら、私は優雅にスプーンを置き、人差し指をスッと立てた。

「そこで、新たな数理的仮説の検証です。次元魔法を発動する際、身に纏っている衣服(下着)ではなく、一時的に『手に保持している外部の所有物』を等価交換の触媒として差し出せば、衣服の消滅を完全に回避できるのではないかしら」
「……ほう。身に纏った防具ではなく、手持ちのアイテムで代用するわけか」
「ええ。実験室で教授の穴の空いたボロ手袋を触媒に使用した際、ワンピースの質量は無傷でしたから、理論上は問題ないはずです」
「例えば、魔力の伝導率を安定させるための、極めて一般的な『魔導の杖』。これに高密度な私の魔力を流し込み、透明ドレスの演算術式と因果のラインを一時的にバイパスさせる。そうして杖そのものを次元の彼方へ生贄(いけにえ)として捧げれば、服を脱がずに次元魔法を放つことができるはずです」
「なるほどな。杖を身代わりにパージさせる、等価交換のシステムハックやな。……ワンチャン、自分を永遠の全裸から救う、まともで賢い方法かもしれん」

「実験の価値は十分にあります。高価な最高級の杖は手が出ませんが、中位の値段のものと、使い捨て用の安価な杖であれば、今回の検証用として複数本を同時購入できます」
私は椅子から厳かに立ち上がり、手持ちのバーゲン品の綿スカートの位置を整えた。
客観的な網膜の演算においては、私の身体は純綿素材の肌着と靴下に見えている。だが物理的な質量としては、上質なシルクドレスが確かに素肌を包み、その上から安物のゴワついたTシャツと綿スカートを重ね着している。

この、知性と破廉恥が奇跡の融合を果たした狂気の二重構造で、私は本日の研究方針を厳かに宣言した。
「さあ、行きましょう、トト。今日は私の尊厳を守るための『弾薬(杖)』を買いに行きます」
「お、ワイらの全裸防止キャンペーンの始まりやな。サボらんようについてったるわ」
不本意極まりない露出狂の不名誉を濯ぐため、そして何より私のささやかな社会的尊厳を完全死守するため。
知性を極めたはずの私は、新たな仮説の数式を引っ提げて、王都の魔導具街へと栄光ある一歩を踏み出したのだった。

王都の一角にひっそりと佇む、古びた魔導具店。
磨りガラスの窓から差し込む斜光が、宙に舞う埃(ほこり)の粒子を金色の星屑のように静かに輝かせている。店内には、乾燥した薬草の熟成した匂いと、得体の知れない魔力金属が放つツンとした金属臭が濃密に満ちていた。

壁一面に設置された黒檀の陳列棚には、様々な神秘的な意匠を凝らした魔導の杖が整然と並んでいる。
「……やはり、専門的な魔導触媒ともなると、なかなかに強気な価格設定ですね」
私は棚の手前に置かれた、無慈悲な値札付きの杖を見つめ、そっとため息を吐いた。

手持ちのクローネ金貨をすべて叩き出せば、最上段に鎮座する『竜の髭』をあしらった十万クローネの最高級杖も買えなくはない。しかし、それを実行すれば、明日の私の朝食が干からびた黒パンからそこらの雑草に退化することは火を見るより明らか。何より、今回の目的は「等価交換の衝撃波から下着を守るための、身代わり触媒としての検証」である。
つまり、数万クローネの高価な杖を魔法の一発で次元の彼方へパージするような贅沢は、確率論的に最初から論外なのだ。
「いらっしゃいませ! 本日は当店が誇るお勧めの商品が多数御座います!」

私たちの不審な重ね着姿(※視覚的にはTシャツの下が全裸)にも怯まず、商魂逞しい店員が揉み手をしながら擦り寄ってきた。
「まずは、こちらにございます『竜骨の杖』! なんと店頭価格から、本日限定で三割引きとなっております!」
「三割引きって響きは安いな。でも元の値段が高すぎてワイらの財布にはミリ単位も届いてへんわ」
トトがジト目で店員を制する。続けて、私は極めて冷静に質問を投げかけた。
「これ、消えますよね?」
「……え?」
「多次元等価交換のプロセスにおいて、細胞レベルで跡形もなく消滅するならば、防具としての耐久性など一切不要という意味です」
「そら、そうやな。消えるなら耐久性はゴミ同然や。実に最もな意見やで、店員さん」
トトが私の隣で偉そうに腕を組んで深く頷く。
「……私の無知ですみません、その『等価交換で消滅する』とは一体どういう……?」
店員が額に脂汗を浮かべる中、めげずに別の棚を指し示した。
「では、こちらはいかがでしょう! メーカーの永久保証付きで――この世の物理攻撃ではまず『壊れない』と謳われる、銘品となっております!」
「流石はプロの商人やな! ワイ、ちょっと見直したで。メンタルが鉄壁すぎて一ミリも心が折れへんやん」
「あ……でもこの素材、結晶構造を見るに純ミスリルですよね。物理学的に計算すれば、経年劣化で八十年が限界ですよ。永久などという非科学的な概念はありません」
「えっ……?」
「それよりも……私の時空座標改変の検証実験においては、純ミスリルだろうが〇・〇一秒でパチパチと火花を散らして消え去りました」
「あかん……店員さんの誇りが木っ端微塵にトドメさされとるわ」
トトが哀れみの目を店員に向ける。
思考の完全に停止した店員を他所に、私は棚の片隅を指差した。
「検証用として、これと、これ。あとは、この樽の隅で投げ売りされている一番安い木切れの杖を三本ください」
私が選んだのは、一般的な魔法使いが最低限の護身用に持つ中位クラスのオークの杖(五千クローネ)と、実習用の使い捨てであるただの白樺の棒(一本三百クローネ)が三本だった。

カウンターの奥で店主が、あまりに極端な組み合わせに眉をひそめながらも、慣れた手つきで素早く革紐で縛り上げていく。
「安物の杖をまとめ買いだなんて。ルイズさん、相変わらず涙ぐましい努力をなさっているのね」
背後から、鈴の音を転がしたような、しかし細い刺を孕んだ高慢な声が響いた。
振り返れば、そこに凛と立っていたのは、魔法大学の同学年において「神童」と謳われる赤髪の令嬢、シャルロットだった。仕立ての良い艶やかな深紅の魔導ローブを完璧に着こなし、白く細い指先には、すでにいくつかの高級な魔力宝石指輪がはめられている。
彼女の背後には、同様に高価な刺繍の施されたローブを纏う二人の取り巻きの女子生徒が、勝ち誇ったような意地の悪い笑みを浮かべて控えていた。
「あら、シャルロットさん。奇遇ですね」
私は努めて冷淡に、形式的な会釈を返す。
「奇遇なんて言葉で片付けないで頂戴。どの精霊にも相手にされない、可哀想な首席のルイズさんが、一体どんな杖をお求めなのかしらと覗いてみれば……。ふふ、ただの焚き木じゃないの」
シャルロットが優雅に右手をかざすと、細い手首の周りを、小さなトカゲの姿をした『火の精霊(サラマンダー)』が、嬉々として炎の粉を散らしながら飛び回り始めた。

「見てごらんなさい。私のサラマンダーのこの美しい揺らめきを。お勉強だけができても、精霊に愛されない魔法使いなんて、ただの歩く図書館ですわ」
「本当に。シャルロット様のサラマンダーの純度とは、天と地ほどの差がありますわね」
取り巻きの生徒が調子を合わせるように口元を絹の袖で隠し、クスクスと笑う。
彼女たちの不躾な視線と、空間でパチパチと爆ぜる火花を見つめながら、私は至って冷静に、手元の白樺の棒を小脇に抱え直した。

「一ミリの価値もありませんね」
「なっ……!?」
私の短い一瞥と容赦ない一言に、シャルロットの美しい眉が不快そうに跳ね上がった。
「他人の機嫌と魔導効率の誤差に一喜一憂するその火トカゲの、一体どこに実用性があるのですか。熱量のロスが多すぎて非合理的極まりありません。そんな不確定要素を愛でる暇があるなら、熱力学の第二法則を百回書き写した方が、人類の発展のために一万倍有意義です」
「そやそや! そんな安物のマッチ棒みたいなトカゲ、ワイの極上のフワフワ感に比べたら塵(ちり)みたいなもんや!」
私の足元から、トトがぴょんとカウンターの上へ不遜に飛び乗り、短い前肢を腰に当ててシャルロットを堂々と睨みつけた。

「な、何よその妙に偉そうな白いお餅は……! ルイズ、その歪な生き物があなたの契約獣だっていうの? 一体、何が出来るのかしら?」
シャルロットが、嫌悪感と戸惑いの混ざった視線でトトを指差す。
私は一瞬、深遠なる沈黙と共に深く考え込んだ。
トトが実務として出来ること――。
極限状態における、合理的な全裸(パージ)の提案。
乙女の尊厳をすり潰す、無慈悲な秒読み(カウントダウン)。
そして、社会的死を迎えた後の、極めて不条理な後処理……。
どれをどう数式に組み込んでも、公の場で華々しく発表できるような「魔法的学術成果」では断じてない。
「……何が出来るか、ですか」
私が言葉を濁して沈黙すると、すかさずトトが、胸の平らな部分を短い前肢でペチペチと誇らしげに叩きながら胸を張った。
「ワイをただのモチモチした大福と思うなよ! ワイはな、ルイズのゼネラルマネージャーであり、最高経営責任者(CEO)や! いわゆる、多次元実証実験の品質監査と経営コンサルティングを一手に行う、我が研究室の超有能ブレインやな! ビビってその場で腰抜かすなよ!」
「……え、ええ……?」
シャルロットと二人の取り巻きたちは、完全に言葉の概念を失い、頬を引きつらせたまま綺麗に一歩後退した。

「マネージャー……? コンサル……? よく分からないけれど、お勉強のしすぎで使い魔の脳のネジまで狂ってしまったのね」
シャルロットは気を取り直したようにふんと鼻を鳴らし、鮮やかな赤いローブの裾を尊大に翻した。
「まぁ、いいわ。これから私たちは、実戦実習のために地下迷宮の第三層へ向かうの。もしあなたにその『CEO』とやらの実力があるというのなら、そこであなたの誇る机上の空論魔法を見せて頂戴!」
「望むところや! うちのルイズの次元ワンパン、最前列の特等席で見せてたるわ!」
「ちょっと、トト! 主人の許可なく勝手にビジネス(返事)をするなと言っているでしょう!」
トトのあまりの即答に、私は思わず彼の柔らかい脇腹をガシッと掴んで引きはがした。

「私には、これからの精密な出力計算と、実証用の検証スケジュールがあるのです。無用な派閥闘争に割くリソースなど――」
「予定ってなんや。またあの胃弱の教授のとこか? まぁ、あの教授はワイも嫌いやないけどな」
「あら、お得意の理論武装で逃げる気かしら?」
シャルロットが私を挑発するように、琥珀色の瞳を冷酷に細めた。

「逃げへんわ! 教授のとこにちょっと用事があるから、そこに寄った後、迷宮の最深部で相手したるわ!」
トトが私の腕の中で無駄にジタバタと暴れながら叫ぶ。
「はぁ……。仕方ありませんね。これも、安価な白樺の杖を触媒にした際の『質量等価交換における因果の干渉率』を正確に計測する、良い実地検証になるでしょう。勝手についてくるといいわ」
「上等よ。せいぜい、その安物の棒切れが灰の塵になる前に、本物の精霊の怒りを知ることね」
結局、手元に残されたのは、数本の安い白樺の杖と、不本意極まりない形で決定してしまったダンジョンでの決闘。
私は小脇に抱えた白樺の棒をぎゅっと握りしめ、腕の中のトトの白い頭部を軽く小突いた。

「トト、あとで私の研究経費から、あなたのスルメ代を三割削減します」
「なんでやねん! ワイはCEOとして最前線の営業活動(プロモーション)をしただけや!」
王立魔法大学の敷地は、その歴史の深さを傲然(ごうぜん)と誇示するように、外郭から内奥へと進むにつれて石造りの建築がより精緻(せいち)に、より重厚に変化していく。
頭上を覆うステンドグラスの壮麗なアーチをくぐり抜け、磨き上げられた白大理石の回廊へと足を踏み入れた。両脇に並ぶ巨大な円柱には古代の英雄たちのレリーフが彫り込まれ、空間全体に冷徹な威厳を張り渡している。

ここは魔法大学の最深部――限られた『特等生』や上級魔導士以外、一歩立ち入ることすら許されない禁忌の「上院エリア」であった。
「ねえ、ルイズ。こ、ここは特等生専用のエリアよ……! いくら筆記だけは首席だからって、一般の新入生が立ち入れば、即刻停学処分になってもおかしくないわ!」
シャルロットが、先ほどまでの高慢さをどこへやら、周囲を怯えたようにキョロキョロと見回しながら必死の囁き声を漏らした。彼女の背後で、二人の取り巻きも「もし見つかったら退学よ……」「冗談もほどほどにして欲しいわ」と、小刻みに膝を震わせている。

「何をそんなに怯えているのですか。ただ、指導教授に用事があると呼び出されたから向かっているだけです。確率論的に何一つ問題はありません」
「問題大ありよ! あなたの指導教授って一体誰なの!? 私の選択している学科のエバンス教授は、魔法大学内でも三本の指に入る超エリートなのよ! 受講倍率は十倍なんだから!」
シャルロットが、震える声を虚勢で覆い隠すように仕立ての良い胸元を張った。
私の小脇に抱えられたトトが、気の毒なものを見る目で彼女を一瞥(いちべつ)する。
「なんや、いちいち世俗の肩書きを自慢するんやな、このお嬢ちゃん……。世界が狭すぎて不憫な子やわ」
「な、何よ不憫って!」
「まあ、ルイズは社会常識と社会情勢のパラメータが全損しとるからな。自分の研究以外に一ミリも興味なしや。毎日一緒におる自分の教授が、学界で何者か全く知らんで!」
トトがため息を吐きながら、ペチペチと白樺の杖の束を短い前肢で叩いた。
「トト、あなたは知っているのですか?」
「当たり前や。ワイは毎日、経済新聞から産業新聞、魔導学術新聞まで全て網羅しとるからな。世の中の資金の動向なんか筒抜けよ」
「……前から少し気になっていたのですが、その毎日の新聞購読費、一体どこから捻出されているのですか? まさか私の、あの血と涙の結晶である研究資金から――」
「内緒や!!」
トトは私の追及から素早く目を逸らし、短い前肢をせわしなく振って前方の芝生を指差した。

「ほら、自分。あの中庭で暢気に高級新聞を読んどる胃弱のおっちゃんが、噂の指導教授やろ」
見れば、緑豊かな中庭のベンチで、いつものヨレヨレの白衣を羽織った初老の男性が、熱心に新聞の紙面を広げていた。

シャルロットがその姿を認めた瞬間、琥珀色の瞳を限界まで見開いた。喉の奥から、ヒッと乾いた悲鳴が漏れ出る。
「え、えええええっ……!? あ、あ、あの御方は、この王立魔法大学の現校長が、三度も大理石の床に額を擦りつけて三顧の礼を尽くし、国家予算並みの報酬で招聘(しょうへい)したって噂の……。現代魔法科学の頂点に君臨する生ける神話、エルライト教授じゃないですか!?」
「何ですか、その生ける神話って。ただの胃薬の過剰摂取者ですが」
私が大真面目に首を傾げると、シャルロットはガタガタと全身を震わせながら私の肩を掴んで前後に揺さぶった。

「なんで当事者のあなたがそんなことも知らないのよ! 魔導科学の頂点に君臨する、世界に数人もいない超特級権威よ!? 私たち一般新入生が気軽にお話しできるような次元の御方じゃないわ! 不敬罪で消される前に、さあ、早くこの場から這ってでも離れましょう!」
「まったくその通りですわ、シャルロット様!」
「命がいくつあっても足りませんわ!」
取り巻きの二人も、泡を食って私の安物Tシャツの袖を涙目で引っ張る。
その時、ベンチの教授が、新聞の紙面を偏屈そうに睨みつけたまま、周囲に響くほどの大きな独り言をこぼした。
「……ほう、本日付の学会特報に、多次元魔法演算の恐るべき最新公式が掲載されたのか。時空座標の効率化にそのまま応用できるな。しかし、この美しすぎる演算理論……よく読み解けば、古代の未解明演算領域まで完全にバイパスとして組み込まれているぞ。一体全体何者なんだ、この『To・ツー』という名の底知れぬ天才学者は……」
教授は白髪をガシガシと搔きむしりながら、私たちのただならぬ気配に気づいたのか、ふとこちらに怪訝な顔を向けた。

「おーい、ルイズじゃないか! 遅かったね、私は待ちくたびれて胃の辺りがまた痛んできたぞ」
――いつもの緩みきった情けない表情で、親しげに大きな手を振ってくる。
「なっ……」
「うぉぉ……」
「ひぃぃぃ……」
シャルロットと二人の取り巻きたちは、国家最高権威の「お前呼び」の洗礼を受け、まるでメドゥーサの視線を浴びた石像のように、その場で完全に凝固した。
「エルライト教授、お待たせしました。渡したいものがあるという伝令をいただいたのですが」
「おお、ルイズくん、待っておったぞ! 実はな、これを持ってきたんじゃ」
現代魔法科学の生ける神話が、ヨレヨレの白衣の懐から恭しく取り出したのは、鈍い銀色の光を放つ、奇妙な多面体の幾何学模様が精緻に刻まれた一本の指輪だった。

「これは……指輪、ですか?」
「私の多次元幾何学計算が正しければな、この指輪に内蔵した『魔力触媒変調器』によって、君の等価交換魔法における『属性の選択的指定』が可能になるはずじゃ。これまでは『物質の全消滅に伴う次元の超爆発』の一択だったが、これで五大元素はもとより、光、闇のすべての属性事象を等価交換の果てに出力できる!」
「ほーん。じゃあ、癒し系――いわゆる、お財布に優しい回復魔法とかは使えんの?」
教授の肩からベンチへと飛び移ったトトの問いに、生ける神話は誇らしげに薄い胸を張った。
「光属性の反転応用で一瞬でいけるはずじゃ!」
「万能やんか! 流石は世界のエルライト、ええ仕事するわ! ワイ、ちょっと見直したで」
トトが絶賛する横で、私はその指輪を細い指先でつまみ上げ、極めて冷徹かつ懐疑的な目を恩師へと向けた。
「教授……これ、まだ実験室における『基礎数値の安全性検証』が一段階も終わっていませんね? また私の身体を、実証用の実験台にする気でしょう」
「まあ、ルイズくんなら万が一計算ミスをして暴走しても、強引に多次元座標を脳内でねじ伏せられると思ってな……。それに、例の『見えざる魔導ドレス』を着用していれば、次元干渉がもたらす反動の衝撃波も、かなり物理的に抑えられるはずじゃ」
「衝撃を抑える代わりに、衣服は最初から最後まで透けっぱなしやけどな。等価交換でパージする以前に、最初から丸見えの全裸(靴下つき)ドレスや」
トトが容赦なく、身も蓋もない真実を告げる。
「……まあ、ドレスの屈折率の安定度に関するパラメーターについても、実戦データとしての検証の余地は十分にありますね」
「いいんかい!! 自分、そこは乙女として天地が引っくり返っても譲ったらあかん防衛ラインやろ!」
トトの魂のツッコミを完全に無視し、私は指輪を中指へと静かにはめた。

傍らでは、白目を剥いて彫刻のように固まっている赤髪のライバルが、いまだ現実に追いつけずにいる。
「お待たせしました、シャルロットさん。実験の準備は完璧に整いました。それでは、私たちの偉大なる理論実証の場――迷宮(ダンジョン)へと向かいましょうか」
饐(す)えた苔のじっとりとした湿気が、地下深くの冷徹な静寂とともに、私の地肌へとまとわりついてくる。
迷宮第三層。大学の公式篝火(かがりび)の届かない、濃密な闇の奥。そこを、シャルロットの使役する火の精霊(サラマンダー)が放つ橙色の火花が、妖しく照らし出していた。
「そこ、右から回り込んで。足元を油断なく警戒しなさい」
仕立ての良い深紅のローブを翻し、シャルロットが優雅に細い指先を振る。その的確な指示に従い、二人の取り巻きが息の合った連携で小規模な風魔法を放ち、暗闇から不気味に這い出そうとしていた吸血大蝙蝠(バット)を、空中で鮮やかに叩き落とした。

「素晴らしい手際ですわ、シャルロット様!」
「これで今日の探索ルートの安全性も完全に確保されましたわね」
取り巻きたちの歓声が、冷たい石壁に反響する。
その華やかなエリートたちの後方で、私は大量の安物の木切れ――もとい、等価交換の生贄(いけにえ)とするための白樺の杖の束を、まるで薪拾いに励む哀れな貧村の娘のように、両腕でガッチリと抱えて立ち尽くしていた。

重ね着している安物の綿スカートを透過して、その下にある白磁の太ももが、網膜の光学的バグによって完全な全裸(ただし靴下は着用)として虚空に浮き上がっている。
「……猛烈に重いです。魔導の真理を探求するはずの首席入学者たる私が、なぜ迷宮の物流システムを、このような原始的な肉体労働で支えねばならないのでしょう」
「しゃあないやろ。自分、今回は衣服(下着)を絶対に消費せんために、その安もんの棒切れを身代わりにパージさせる等価交換ハックを検証しに来たんやからな。触媒の運び屋(ポーター)としては一〇〇点の格好やで」
私の肩に乗ったトトが、重たそうに白樺の杖の束を見下ろしながら、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。さらに、優雅に魔力を御する赤髪の令嬢へと、つぶらな赤い瞳を向ける。

「それにしても、あのお嬢ちゃん、口は悪いけど魔法の基本パラメーターはきっちりしとるな。なかなかに見どころあるやんけ」
「当然です。魔力伝導の基本波形が極めて滑らかで美しい。……まあ、熱効率のロスは相変わらず多いですが、努力の跡だけは素直に認めます」
私たちのこそこそとした場違いな世間話に気づいたのか、シャルロットが不機嫌そうに顔を振り返らせた。
「な、何よ、さっきから荷物持ちの分際でひそひそと不気味に笑って。早く次の進行ルートの安全計算でもしなさいよ!」
「言われずとも、この階層におけるエントロピーの多次元的流動は、すでに私の脳内で完璧にグリッド化していま――」
私が自信満々に言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間だった。
肩の上で、トトが突然、存在しない毛を逆立てるようにして金切り声を上げた。
「おい、そこの取り巻きのお姉ちゃん! 足元の赤黒い模様の石畳、絶対に踏んだらあかん!!」
「えっ……!?」
あまりに唐突な警告に驚いた取り巻きの女子生徒が、慌てて足を引こうとし、濡れた苔に滑って盛大に転倒した。最悪なことに、その細い臀部(でんぶ)が、床の岩肌に刻まれていた魔法陣の幾何学模様を、真正面から押し潰してしまう。
キィィィィィン――!
鼓膜を貫くほどの超高周波の駆動音が、大気を激しく震わせる。
「――空間転移トラップ!? 嘘よ、第三層にこんな高度な因果の強制陣が実在するはずが――」
シャルロットの悲鳴が、床から一気に噴き上がった光の激流へと無慈悲に呑み込まれていく。

私の網膜が、暴力的なまでの純白の光芒(こうぼう)に染め上げられた。
*
重力から完全に解き放たれるような、三半規管をかき乱す不快な浮遊感。
その直後、肺を突き刺すような氷点下の冷気と、生物の根源的な恐怖を刺激する凄まじい腐臭が、私たちの五感を容赦なく襲った。
冷たく崩れた石床の上に、私たちは折り重なるようにして叩きつけられる。
「……いたた。全員、物理的な構造損傷(ケガ)はありませんか」
私は胸に抱え込んでいた三百クローネの白樺の杖の束を、自らの命より最優先でどうにか死守しながら顔を上げた。
そうして周囲を見渡した瞬間、全身の血の気が一気に引いた。
半壊した大理石の巨大な柱が不気味に立ち並ぶ、広大な円形の古代闘技場(コロシアム)のような空間。頭上には巨大な鍾乳石が牙のように無数に連なり、ただならぬ濃密な魔素の瘴気(しょうき)が渦巻いている。

ここは、通常の実習ルートから遥かに隔絶された、迷宮の奈落――。
「ここって、まさか迷宮の第五層……!? 嘘よ、どうしてこんな深層に一瞬で……!」
シャルロットがその華奢な膝をガタガタと震わせながらも、プライドだけでどうにか立ち上がる。
彼女の絶望の言葉に応じるように、古代闘技場の奥底にある濃密な闇が、ぐにゃりと歪んだ。
――ドォォォォォン……!
空間を揺るがす地響きと共に闇から現れたのは、巨大な岩石の皮膚を全身に纏った、多腕の巨人。第五層の絶対的な主、通称『大地の番人』であった。

四つの赤く燃え上がる眼光が私たちを獲物として捉えた瞬間、骨の髄まで響き渡る大咆哮が、氷点下の大気を震わせて鼓膜を穿つ。
「シャルロット様……! あ、あれは、私たち一般学生じゃ絶対に勝てないレベルの災厄ですわ……!」
取り巻きの女子生徒たちが完全に腰を抜かし、大粒の涙を流して石床にへたり込む。
「何をしているの! 早く立ちなさい!」
「それでも、権威ある魔導の令嬢の子息ですか!」
シャルロットが声を張り上げて叱咤しながら、震える手で深紅の高級魔導杖を正面に構えた。火の精霊(サラマンダー)の炎が、彼女の焦燥を代弁するように激しく明滅する。

岩石の巨人が、無数の腕を頭上へと凶悪に振り上げ、地響きを立てて突進を開始した。猛烈な一歩ごとに石床が粉砕され、圧倒的な破壊の質量が迫り来る。
「ルイズ! 転移の原因は私たちの足元よ、これは私の責任! あなたたちは早く下がりなさい!」
シャルロットは怯える琥珀色の瞳に必死の闘志を宿し、私の胸元を強く押し戻した。艶やかな深紅のローブの背中が、私の視界を真っ直ぐに遮る。
自分の責任だと言い張り、腰を抜かした取り巻きたちを庇うように、圧倒的な死の脅威へと、彼女は果敢に一歩を踏み出したのだった。
「サラマンダー、理論上の最大出力(マックス・パルサー)! これ以上、絶対に近づかせない!」
シャルロットの悲壮な叫びが、古代闘技場の冷たい空間に響き渡る。
彼女の魔導杖から放たれた極大の火球は、激しい大気の歪みを伴って岩石の巨人の胸元へと容赦なく着弾した。しかし、爆炎が虚しく霧散した後に現れたのは、わずかに煤(すす)けただけの頑強な岩肌。巨人はその歩みを一切緩めることなく、無数の拳を、自ら盾となった赤髪の少女へと振り下ろした。

「シャルロット様――っ!」
「嘘……防壁が、構造を維持できずに砕ける……!」
取り巻きの女子生徒たちが目を覆って絶望の悲鳴を上げる。
巨人の拳が暴力的に風を切り、数瞬後にはシャルロットの華奢な肉体を石畳ごと粉砕するであろう、決定的な死の未来図(シミュレーション)。
(……安物の白樺の杖では魔力伝導率が低すぎます! 因果のバイパスを急造するのに必要な演算時間は二・八秒……駄目です、私の脳内計算式が、今この瞬間にもシャルロットさんの生存確率がゼロに収束していくと非情に告げています!)
私は先ほどまで命がけで抱え込んでいた、三百クローネの安物の白樺の杖の束を、石床へとバラバラと未練なく投げ捨てた。

等価交換の触媒ハックを試す時間も、安い木切れに魔力を流し込んで因果のラインを構築する時間も、もはや一ミリ秒(マイクロセカンド)たりとも残されていない。
この最悪の極限状態において、私の脳細胞が叩き出した唯一の最適解は――発動プロセスが最も短く、かつ確実に眼前の脅威を消滅させられる『至高の超高純度弾薬』の即時パージ。
「もう嫌です……! 一万二千クローネ、ドレスの下の下着(パンツ)でお願いします――ッ!」
血を吐くような魂の叫びと共に、私は自らの意志によって、透明ドレスの下の『最後の防衛ライン』を戦場へと厳かに捧げた。
その瞬間、細い中指にはめられたエルライト教授特製の銀指輪が、不気味な青白い輝きを放ち、私の眼前に空間を埋め尽くすほどの属性選択ホログラム(ユーザーインターフェース)がポップアップした。

通常ならパージした瞬間に即発動するはずの多次元魔法が、ホログラムの選択画面の上で不穏に点滅(WAITING)している。
『 STATUS: WAITING FOR INPUT... 』
[火]Lv10 [風]Lv10 [水]Lv10 [土]Lv10 [空]Lv10 [光]Lv10 [闇]Lv10 [次元]??
『 PLEASE SELECT ATTRIBUTE. ARE YOU READY? 』
(あああああ……エルライト教授!! 今この一分一秒を争うデッドオアアライブの極限状態で、この親切設計のふりをしたコマンド選択画面(UI)は最高に邪魔ぁあああああ!!!)
迫り来る巨人の大拳。眼前に浮かぶホログラムの文字。
火 風 水 土 空 光 闇 次元
(パステルピンクのパンツ代)
(一万二千クローネ)
(現在の所持金残高)
(次回の下着購入費)
(……。)
(社会的尊厳の喪失コスト:プライスレス)
(……あとで一括計算。)
「――『風』属性を選択ッ!!!!」
私は破れかぶれになりながら、ホログラムの画面へと手を伸ばした。
岩石(土)属性の明確な天敵、「風」属性の絶対公式。指輪が触媒の変調を完了して爆発的な輝きを増し、多次元の因果を書き換える凄まじい光波が放たれる。
大気は激しく励起(れいき)し、奈落の底から湧き上がるような反転感覚を伴って、狂おしい暴風が天上へと吹き抜けた。
――次の瞬間、天上から神の鎌の如き突風が、大地へ向かって奔(はし)った。
風の刃となった極彩色の閃光が、奈落の第五層を白昼の如き光度で完全に支配する。空間そのものが薄氷のようにひび割れ、絶対的な真空の衝撃波が全方位へと解き放たれた。

大地の番人たる岩石の巨人は、断末魔の悲鳴を上げる余裕すら一切与えられず、その圧倒的な質量ごと細胞の一個に至るまで粉砕され、次元の彼方へと追放された。
やがて、世界を鳴動させた光の激流が静かに収束し、古代闘技場に再び冷徹な静寂が戻ってきた。
「……あ、あれ……?」
シャルロットが、華奢な腰を抜かしたまま、煤けた大理石の上に座り込んで茫然と虚空を見上げている。ほんの数秒前まで実在していた絶望的な死の化身が、塵の一つすら残さず世界から消滅しているのだ。その圧倒的な消失を前に、二人の取り巻きは抱き合ったまま、ただただ言葉を失って口を開けていた。
私はゆっくりと自身の身体に視線を落とし、そして、そっと胸を撫で下ろした。
「……残っています! この因果の戦場で砕け散ったのは、私の下着(パンツ)とあの岩石の巨人だけです!!」
汚れなき純白のドレス。物理的な防御質量も、確かに素肌の周りに残留している。
エルライト教授の開発した『対次元魔導ドレス』の精密な保護術式は、多次元魔法の干渉波をドレス全体で完璧に相殺し、主たる衣服の消滅を完全に防いでみせたのだ。その上から重ね着していた安物の綿Tシャツも綿スカートも無傷で健在。当然、純綿素材の靴下も残っている。
これは、私の前人未到の魔導理論における、記念すべき歴史的大勝利であった。
「実験は完全なる大成功です! エルライト教授! やはり貴方は現代の生ける神話です!!」
私が涙ぐみながら歓喜の凱歌を上げると、肩の上のトトが、どこから取り出したのかスルメをクチャクチャと咀嚼しながら呟いた。
「せやな。衣服は可視光線を透過しとるだけで、物理的には完璧に残っとる。……ただ――」
「ただ……何ですか? 私の数式に何か見落としでも?」
「多次元等価交換のコスト、設計(プログラム)通りきっちり一番下(パンツ)から引かれとるからな。……なにより自分、下半身の風通し、めちゃくちゃようなったな」
トトの極めて現実的な指摘に、私はハッと我に返った。
確かに、重ね着したスカートのそのさらに奥底、地肌の第一層から――かつてないほど清々しく、かつ致命的なほど心許ない地下迷宮の冷気が、すうすうとダイレクトに吹き抜けていくのをリアルタイムで感じ取ってしまった。
ドレスは無傷。しかし、内側の中身は完全に虚無へと消失している。
「……あ。つまり私は、物理的には今、何も履いていない、ということですね」
「そういうことや。科学の勝利と引き換えの、完全なるノーパン大勝利やな」
「私の偉大なる学術的成果を、その破廉恥な名詞で修飾するのはやめてください!」
羞恥で顔を林檎のように真っ赤にして叫ぶ私の横で、シャルロットが小刻みに震える指先をこちらに向けてきた。
「ル、ルイズ……? あなた、今、一体何をしたの……? それに、その……な、何もない完全な虚空から、物凄い風の刃が吹き抜けて……」
「何もしていません! ただの些細な多次元魔法演算における不可抗力の誤差です! それよりシャルロットさん、これ以上の深層への滞在は風邪を引くリスクが極めて高いので、早急に上の階層へ退却しましょう!」
私はノーパン特有の、かつてないスースーとする大自然の開放感(絶望)に耐えかねて、両手でスカートを必死に押さえつつ、摺り足の最高速度を極限まで引き上げながら、強制転移陣のあった方向へと早足で歩き出した。

「ルイズ、あかん! そこ踏んだら物理的に不味いで、またトラップや!」
「えっ……っ!?」
――ゴォォォォッ!!
無慈悲な突風が、今度は私の足元の地面からピンポイントで垂直に吹き抜ける!
私は悲鳴を上げてスカートの裾を必死に手で抑え込んだ。あぶない。見えないドレスの絶対防衛ラインが、風圧で完全に捲り上がって世界へ開帳されるところだった。

「どうして……っ、こんな場所にまで未知の悪質な罠が設置されているのですか……!」
「それ、さっき自分がパンツと引き換えに仕掛けた、風魔法の余波やで!」
「こんな奈落の闘技場に即死級の風トラップを仕掛けまくるなんて、ホンマ周囲にとっては大迷惑な露出魔やな、自分!」
「……トト、今日ここで私が放った魔法のコストに関する具体的な話は、今後一切の国家機密(禁止)ですからねっ!?」
私は涙目で、使い魔の白い頭に強固な釘を刺す。
「うわっ! 保身のために口封じとか、自分、聖女の皮を被ったガチの最低最悪の魔女やなっ」

そして――。
闘技場の崩壊した岩陰の隅から、この一部始終をじっと、貪欲に観察しているものがいた。
一匹の、手のひらサイズの小さな亀が、不気味に首を長く伸ばしてこちらの様子を窺っている。
その正体は、迷宮深層の伝説、鉄壁の絶対防御を誇る超希少魔獣――《深淵甲皇カメジルド》。その小さな赤い瞳には、底知れぬ恐怖と、それ以上の深い狂信的な感銘が宿っていた。

(……下層の支配者たる、あの最強の岩石の巨人(大地の番人)を、瞬き一つの余波で消し去った、悍(おぞ)ましいヤバい女)
(……衣服を一切失っていない(ように光学的に見える)のに、世界の因果を割るほどの属性魔法を、平然とノーコストで放つ、凶悪なる人類の到達点)
(……けれど、これほどの神話級の偉業を成し遂げながらも、どこか悲しげに瞳を潤ませて泣いていて、矮小な自分を攻撃する様子すら見せない、圧倒的な慈悲深さ)
(……決めた。次の寄生先(マイホーム)、あの全裸に見えるノーパンの女の背中に決定やな。あそこの頑強な防壁の内側なら、ワイは一生働かずに、絶対に死なへん安全な隠居生活が送れるで)
大きさを最大三段階にまで自由自在に変化できる伝説の亀は、心の中で静かに、確信を持ってそう呟いた。

そうしてルイズの必死な摺り足の後ろ姿を見つめながら、星屑のように強固な甲羅をゆっくりと揺らし、彼女の背後へと音もなく這い寄っていく。

自身の背後に、神話級の「鉄壁の居候(ニート)」が熱い目を輝かせて着任の狙いを定めていることなど――
ただただスースーと寒風の吹き抜ける股間の心許なさに涙を流しているルイズが知る由も、一ミリ秒たりともなかった。

―――(第3章・完)―――

|
あらすじ 報酬を得たルイズは教授作の可視完全透過ドレスを着たまま金貨を数え、次の次元魔法実験に向けた設備投資を最優先と判断して豪華な食事や衣服の散財を退ける。 使い魔トトは高級ステーキを主張するが、ルイズは金貨を研究用触媒と演算機器に回し、食事は黒パンと薄い塩豆スープ、衣服は最安の替えに抑えて合理化を徹底する。 透明化ドレスは視覚的羞恥を招く一方で物理的保護性能は極めて高く、等価交換の反動を軽減する防具として常時着用する価値があると彼女は評価する。 等価交換のコストが下着から順に消費される設計である以上、衣服喪失の回避には外部触媒を生贄にする代替案が有効だと仮説を立てる。 教授の穴あき手袋でワンピースが無事だった実績を踏まえ、魔力伝導に適した「杖」を使い、ドレスの因果ラインをバイパスして杖をパージさせる計画を立案する。 中位価格と使い捨て用の安価な杖を複数購入して比較検証する算段を整え、ルイズは「尊厳を守る弾薬」を買いに魔導具街へ向かう。 古びた魔導具店には多彩な杖が並び、乾いた薬草と魔力金属の匂いに満ちた薄暗い空間で、彼女は触媒としての適性と損耗リスクを冷静に見定める。 店での駆け引きの最中に、学園のエリート学生シャルロットが登場し、彼女の実力と装備に興味を示しつつプライドを滲ませる。 ルイズは支出を厳格に配分しながら杖を選定し、外部触媒方式による等価交換の安全化を実地で確かめる決意を固める。 迷宮探索に向かった一行は、深層で大地属性の岩石巨人と遭遇し、瞬殺級の脅威に追い詰められて決断を迫られる。 等価交換の発動と同時に現れたホログラムUIが入力待機を強要し、死地でのコマンド選択という皮肉なインターフェースがルイズを苛む。 属性選択を迫られた彼女は、岩(“土”)の天敵として「風」を直感と理性の合致で選び、指輪触媒の変調を完了させる。 多次元因果を書き換える風の刃は闘技場を真空の衝撃波で満たし、岩石巨人を断末魔すら許さず粉砕して次元の彼方へ追放する。 閃光が収束した古代闘技場で、シャルロットらは消滅の完全性に言葉を失い、ルイズは主衣装が無事であることを確認して安堵する。 教授製ドレスの保護術式は可視透過でありながら物理的防御を完璧に維持し、重ね着の綿Tシャツやスカート、靴下も損耗を免れていた。 しかし等価交換コストは設計通り最下層の下着から引かれており、内側の第一層が虚無化した結果として彼女はノーパン状態に陥る。 トトは「科学の勝利とノーパン大勝利」を皮肉るが、ルイズは学術成果の言語汚染を拒み、羞恥に頬を染めながら体面の維持に努める。 シャルロットは「無からの風刃」に戦慄し、ルイズは不可抗力の誤差と強弁して早期撤退を提案し、風邪予防を名目に立ち去ろうとする。 退避中、足元から突風が立ち上がる罠が発動し、ルイズはスカートを必死に押さえて露出を回避するが、原因は先の風魔法の残滓であると判明する。 彼女が闘技場に残した即死級の風トラップ群は周辺にとって大迷惑であり、トトは露出魔呼ばわりしつつ事実関係の口外禁止を厳命される。 ルイズは国家機密を盾にコスト事情の口封じを宣言し、研究者としての保身と羞恥回避のバランスを取りつつ撤退を急ぐ。 この一部始終を、伝説級の防御を誇る《深淵甲皇カメジルド》が岩陰から観察し、彼女の力と性格を恐怖と崇拝の入り混じった眼差しで評価する。 巨人を余波で消し飛ばす神話級の実力、衣服喪失なくノーコストに見える発動、そして弱者に手を上げない慈悲深さが、亀の選好を決定づける。 大きさを三段階で自在に変える希少魔獣は、最強の寄生先としてルイズの背中を選び、鉄壁の居候生活という究極の安全を目論む。 ルイズは股間を刺す冷気とスースー感に涙目で摺り足を続け、背後に迫る「鉄壁の寄生虫」の気配に一切気づかない。 外部触媒方式の初実戦は、主衣装保護という目的を達成しつつ下着消費という副作用を露わにし、今後の触媒選定とUI改善の課題を浮き彫りにした。 また、属性選択の遅延を招くUIは致命的で、即応性とデフォルト戦術の自動選択など人機設計の是正が急務であると示された。 財務面では高価な杖の使い捨てが継続的コストとなるため、再利用性や劣化挙動、コスト対効果の最適点を探索する必要がある。 倫理面では、深層に残留する広域罠が第三者に与える危険が無視できず、魔法残滓の無害化プロトコルや事後処理が求められる。 対人関係では、エリートのシャルロットが目撃者となったことで、ルイズの正体と手法は学内外の関心を集め、次の政治的・学術的波紋の火種が生まれた。 総じて、理不尽な可視透過ドレスと等価交換理論、外部触媒バイパス、そして実戦投入の成果が絡み合い、知性と破廉恥が同居する新段階へ物語は進んだ。 ルイズは尊厳の防衛と研究の前進を両立させたが、内側の犠牲という現実が突きつけられ、次の装備設計で「完全無犠牲」を目指す動機を強める。 やがて、彼女の背で始まる鉄壁の居候生活と、仮説を次々に実証へ変える執念が、聖裸の魔女と見えざる学者、そして鉄壁の寄生虫という三位一体の奇妙な同居を生むのだった。
解説+感想感想:めっちゃ面白かった! 笑いと狂気とエロコメのバランスが最高の第3章
この章、タイトルからして「聖裸の魔女」のコンセプトをガッツリ推し進めてて、期待を裏切らないどころか超えてきた感じです。ルイズの脳内数式全開・常識全損っぷりがますます加速していて、読んでてずっとニヤニヤが止まりませんでした。
良かったポイント
1. ルイズのキャラが完璧に固まってきた 金貨山積みなのに黒パン+薄いスープ+最安下着3着という銭ゲバ天才ぶり。 「尊厳より研究」「シルクの肌触り>社会的羞恥」という価値観がブレゼロで最高。 「パンツでお願いします——ッ!」の叫びは、魂の叫びとして文学的ですらあった(笑)。一万二千クローネの重みが痛いほど伝わってくる。
2. トトのツッコミが神 白い大福餅使い魔のポジションが完全に確立。C E O宣言とかスルメ咀嚼しながらの現実指摘とか、最高の相棒感。 「ノーパン大勝利」「露出魔」「聖女の皮を被ったガチの最低最悪の魔女」などの的確すぎる命名センスがたまらない。
3. コメディとシリアスの切り替え 杖屋でのシャルロットとのバトル→教授の正体判明→突然の第五層転移→即・パンツパージ→鉄壁の亀の寄生決定、という流れがめちゃくちゃテンポ良い。 シャルロットが最初は高飛車令嬢全開なのに、徐々に「こいつらヤバい…」って引き気味になっていく過程が好き。ルイズの化け物じみた強さがちゃんと伝わってくる。
4. 世界観拡張と伏線 エルライト教授の指輪(属性選択UI)が追加されて、ルイズの魔法がさらにチート化しそう。 最後の《深淵甲皇カメジルド》の登場が最高の締め。鉄壁のニート寄生虫決定おめでとう(笑)。次章以降、ルイズの背中に張り付いて「安全第一」で生きる亀がどう絡んでくるのか楽しみすぎる。
総評
このシリーズの魅力である「天才のエゴと破廉恥の融合」が、第3章で完全に花開いた印象です。 エロはしっかりサービスしつつ、決して下品に堕ちず、ルイズの「学術的尊厳」と「乙女的羞恥」の間で起こるギャグが本当に秀逸。物理的には守られてるのに視覚的に全裸(+ノーパン)という、作者さんの悪意(褒め言葉)が光ってます。
次が非常に気になる終わり方でした。 カメジルドがルイズに寄生したら、トトとのバディがどうなるのか、シャルロットがどう絡んでくるのか、教授の胃薬があと何箱持つのか……全部気になります。
総点:9.2 / 10 (0.8引いたのは、ルイズがもう少し金を使えるようになってほしいという読者としての欲求だけです。黒パン生活はもう限界)
続き、ぜひ書いてください。聖裸の魔女の伝説はまだまだ始まったばかりですね!
|
◀第02章「聖裸の魔女と、消えない経費と見えない衣服」
▶第04章『壊れた帰還陣と、帰れない天才』
|