第四層のボス部屋へと緩やかに続く、薄暗い石畳の通路を、私たちは慎重に進んでいた。
先頭をペタペタと頼もしげに歩くのは、小さな案内人(ナビゲーター)――カメ吉。その後ろを、白い大福餅の如き使い魔トトが短い前肢をのんびりと組みながらついていく。さらに後方では、シャルロットが本革の魔導書を胸に抱え、広域探査魔法を維持してくれていた。淡い青白の魔力光が頁の上を波紋のように流れ、周囲数百メートルに広がる多次元的な反応を絶えず立体的に描き出している。

「今のところ、前方への異常なパラメータは――」
シャルロットが安堵の息を吐きかけた、まさにその刹那だった。
「……っ!?」
魔導書の紙面へ、血の滴りの如き不吉な赤い光点が、ポツリと一つ灯る。続いて二つ。三つ。四つ。因果のバグを証明するように、それは瞬く間に十数個へと増殖し、さらに二十。不穏な光の数は未だ止まらなかった。

「……敵反応ですの?」
取り巻きの女子生徒の一人が、恐怖に震える声で小さく呟いた。
その瞬間である。
「キュィ!」
先頭を無防備に歩いていたカメ吉が、その場でくるりと綺麗に反転した。一ミリの迷いも躊躇も存在しない。さも『本日の有意義な散歩はここまでですね』とでも言わんばかりの威風堂々とした態度で、今来たばかりの安全な道をスタスタと引き返し始めたのだ。

「……」
「……」
「……」
数秒間の、鉛のように重苦しい沈黙。それを真っ先に破ったのは、私の肩へと慌てて飛び乗ってきたトトだった。
「こいつ、一切のプライドも迷いもなく回れ右しおったで!」

カメ吉はトトの辛辣なツッコミなど風の噂ほどにも意に介さず、構わず前進(撤退)を続ける。右も左も見ない。ただひたすらに、生存確率を百パーセントに維持するための全力の歩を進めていた。
「キュィ!」
「いや、無駄に自信満々な顔して帰るなや!」
トトが慌てて短い足をジタバタさせながらカメ吉の前に回り込む。

「昨日まで『逆流ルートはこっちやで!』みたいなドヤ顔して先頭歩いとったやろ! 今度は『危ないからお家に帰るで!』ってか!? お前、方向音痴やなくてただの極度のめんどくさがり屋(クソニート)やったんかい!」
私はその奇妙な光景を冷徹に観察しながら、小さく首を傾げた。
「なるほど……すべての辻褄が合いました」
「え?」
シャルロットが心底不思議そうに、私の無表情な顔を見つめてくる。
「カメ吉さん、彼は決して方向感覚が破綻したポンコツなどではありません。ただ、野生の『危険回避能力(セーフティ)』が常軌を逸して高いだけなのです」

「それだけやないで。コイツ、己の生存に対する損得勘定の演算も、ゼロ秒の最速で行っとるわ」
「……え、ええ……?」
「だから昨日も」
私は、お気に入りの鉛筆を細い指先で弄(もてあそ)びながら、脳内の過去データを淡々と羅列した。
「極上の秘湯へ寄り、希少な魔力鉱石を貪り、発光キノコを見つけ出した。あれはすべて、彼にとって物理的な絶対安全が完璧に担保された時空座標だったからです」

「さらに補足すれば、全部コイツの好物が無尽蔵にあるポイントだけやな」
「つまり、ただの怠惰な寄り道ではなく、彼なりの高度な『生存率最適化ルート』だった可能性があります」
「それをさも『ワイが有能な案内人として先頭歩いてまっせ』みたいな顔してさり気なく行っとるから、ホンマに腹立つというか、天性のヒモやで」
トトが私の肩の上で立ち止まり、足元の緑の亀を凄まじいジト目で見下ろす。

「……お前、野生のニートのくせに案外知性派やったんか」
カメ吉はトトの呆れを誇らしげに受け止め、短い前肢で自身の平らな胸をグッと張ってみせた。

「キュィ」
「逃げを執行する判断がゼロ秒ってのは、逆に生物として引くレベルやわ」
その不毛なマスコット会議の真っ最中だった。
「……ちょっと待ってください」
シャルロットの声色が、スッと硬質な冷たさへと変わった。先ほどまでのお嬢様のそれから、一瞬にして優秀な上位魔導師の鋭い瞳へと切り替わっている。

「この魔力探知の波形……何か、決定的な異常(バグ)が混ざっていますわ」
私はすぐさま彼女の隣へと移動し、本革の魔導書を覗き込んだ。
青白い頁の上で、血のような赤い光点が、恐ろしいほど整然と駆動していた。いや、ただ無作為にこちらへ向かって接近しているのではない。
「私たちを、緩やかに囲んでいる……?」

「――違います、シャルロットさん」
私は彼女の手から魔導書を滑らかに受け取り、指先で光点の残した流動軌跡を冷徹になぞった。
「これは単純な偶発的接近(エンカウント)などではありません。完全に意図された『多角形包囲網』です」
私の断言に、その場の全員が鋭く息を呑んだ。
私はローブの懐から使い古した研究ノートを素早く引っ張り出し、白紙の頁に一本の円を描き、その周囲へと点を次々と打っていく。

「中心の座標に位置しているのが、彼らの狙う主たる獲物。そして、周囲の光点の移動軌道をご覧ください。退路を多角的に塞ぎながら、複数方向から均等な速度で、徐々にその包囲距離を縮めています」
一本。また一本。
私の鉛筆が点と点を結び、冷酷な軌跡を完成させるたび、無秩序な混沌に見えた光点が、一つの完成された殲滅陣形(フォーメーション)へとその姿を変えていった。
「これは流体力学における『包囲収束』と全く同じベクトル構造です。野生の魔物の偶発的な狩りなどではありません。完全に上位の個体に統率された、知的な集団行動のそれです」

シャルロットが、その美しい顔を蒼白にさせて小さく呟いた。
「つまり……どういうことですの?」
私は紙面から顔を上げ、静かに頷いた。
「間違いありません。高い知能を持った集団型の魔物――彼らは現在進行形で、私たちのすぐ前方において、別の何者かのパーティ(獲物)を完璧に包囲殲滅しようとしています」
一拍の不穏な間を置いて、私はその最悪な魔導の種族名を厳かに口にした。
「敵は――亜人種『ゴブリン』の軍勢です」

奈落の湿った空気が、一瞬にして氷点下へと凍り付く。
――その、あまりにも最悪な解説の直後だった。
遠い、暗黒の迷宮の奥底から。
「きゃあああぁぁぁぁぁっ……!!」
絶望の闇に深く染まった、見知らぬ女性の悲鳴が、冷たい石壁を激しく震わせながら私たちの鼓膜へと響き渡った。

古代迷宮の奥底から木霊(こだま)する悲鳴は、一度きりでは終わらなかった。
「いやあああぁぁっ……!」
遠く。冷たい石壁に何度も反響しながら届く、切迫した女性の悲痛な叫び。
誰も言葉を発しようとはしない。鉛のように重苦しい沈黙だけが、私たちの間を冷たく流れていく。
やがて、その重圧を跳ね除けるように、シャルロットが静かに本革の魔導書を閉じた。

「……助けに行きますわ」
その硬質な声に、一切の迷いは混ざっていなかった。
取り巻きの二人が驚愕に目を見開き、弾かれたように振り返る。
「シャ、シャルロット様!?」
「相手はあのゴブリンの軍勢ですわよ!? か弱き女性の天敵ですわ! 冒険の指南書にも『遭遇したら真っ先に逃げろ』と赤文字で書いてあります!」
「しかも、先ほどの探知波形の密集具合からして、明らかに大集団(ネスト)ですわ!」
シャルロットは静かに、小さく頷いた。
「すべて、分かっていますわ」
華奢な肩は、生物としての恐怖からか微かに震えている。それでも彼女は、悲鳴の聞こえてきた暗闇の最奥を、真っ直ぐに見据えた。
「助けを求める弱き声を聞きながら、その背を向けて見捨てるような、そんな誇りなき貴族にだけは、天地が引っくり返っても絶対になりたくありませんの」

その横顔には、先刻まで天然温泉で歓喜の声を上げていた世間知らずの令嬢の影はなく、誇り高き一人の魔導師としての、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「――それが、わたくしの血に流れる矜持(ノブレス・オブリージュ)ですから」
「あかんて! お嬢ちゃん、そんな高尚な誇りとかこの緊急時に一クローネの価値もないやろ! 命あっての物種や。ワイはCEOとして断固反対やで!」

トトがいつになく真剣な声音で引き止める。
「この際、あのクソニート(カメ吉)の全力の全速力回れ右こそが、生存確率における絶対の正解や!」
私は小さく、静かに息を吐き出した。
(……困りましたね)
(こういう不合理なまでの強固な信念を持った人間には、いかなる生存確率の論理的データを提示したところで、すべて無力に等しいのですから)
「ルイズさん。それから、あなた達も」
シャルロットが振り返り、慈悲深い聖女のように優しく微笑む。
「あなたたちは、無理にわたくしの我儘(わがまま)についてこなくても構いませんわ。ここでお別れにしましょう」
「――嫌です」
「……え?」
私のあまりに即座な返答に、シャルロットは美貌を驚きに染めてポカンと口を開けた。
「ここであなたに一人で犬死にでもされたら、私の脳内演算における寝覚めが極めて悪くなりますので」

私は淡々と、しかし明確な意志を込めて告げた。
「私も、ついて行きます」
「……ホンマ、こういう最悪な極限状態の時に、損得抜きで即決できるとこ、ワイ惚れてまうやろ」
私の返答を聞いたシャルロットが、安堵したように少しだけ唇を綻(ほころ)ばせる。その横顔を見て、トトが深く諦めに満ちたため息をついた。短い前肢で、私の肩の上から頭をぽんぽんと優しく叩く。

「せやけど、自分らほんま無謀な勇者様やなぁ。まぁ、ルイズはいざとなったらあのチート多次元魔法で全裸(パージ)になれば、敵の包囲網ごと座標を吹き飛ばして逃げ切れるやろうけどな」
私は肩をすくめた。
「フフフ……」
自然と、口元に小悪魔的な笑みが浮かび上がる。
「自分、今絶対なんか科学者として最悪な不条理(バグ)を企んどるやろ」

トトがつぶらな赤い瞳を細めてジト目を向けるが、私はその不審を意に介さず言葉を続けた。
「ですから、今から少しだけ私たちの『戦闘勝率(生存率)』を引き上げます」
「……え?」
私は左手の中指にはめられた、鈍い銀色の指輪へと静かに視線を落とした。

(――エルライト教授。後でちゃんと胃薬と一緒に謝りますから、無許可で核心システムをちょっとだけ違法改造しますね)
私は指輪の触媒変調器へ、高密度の魔力を力技で流し込んだ。青白い緻密な魔法陣の数々が、指輪を基点にして虚空へと幾重にも展開される。
「えっ、何をしているの……?」
シャルロットがその琥珀色の瞳を限界まで丸くする。
「まさか、あの伝説のエルライト教授が組み上げた転移の基礎術式を、その場で直接書き換えていますの……!?」
「ほんの少しのマイナーアップデートです」
私は空中に展開された、複雑怪奇な魔導回路(ソースコード)の光の束へ細い指先を突っ込み、幾何学模様を次々と強引にハッキングして書き換えていく。

「コアシステムに『魔力(触媒)共有処理(ピア・ツー・ピア・ネットワーク)』を強制追加します」
「きょ、共有……?」
「はい、共有です」
魔導の演算陣が高速で駆動し、全く新しいブラックなバックドア回路が次々と組み込まれていく。その神業めいた速度に、トトまでもが目を丸くして凝固した。

「……自分、そんな国家機密クラスの違法改造を、一瞬の暗算で完了できるんかいな」
「教授が構築した基礎フレームワークが極めて優秀ですからね。ほんの少しだけ隠しタグ(拡張コード)を埋め込むだけです。いわゆる、実戦仕様へのバージョンアップですよ」
「サラッと言うなや! 絶対、教授が夢にも想定してへんブラックで非人道的な使い方やろそれ!」
数秒後。書き換えられた数式が、カチリと空間で音を立てて静かに因果へ定着した。
――その瞬間。シャルロット、そして二人の取り巻きの目の前の空間へ、青白い半透明の魔導ホログラム画面(UI)が警告音(アラート)とともに唐突にポップアップした。
『 STATUS: LINK REQUEST (接続要求) 』
『 パーティ内における魔導触媒の完全共有ネットワークを承認しますか? 』

[ YES ] / [ NO ]
「えっ……?」
「な、何ですの、この不気味に発光する光の文字は……?」
三人は虚空に浮かび上がった警告色の文字列に、揃って不思議そうに首を傾げた。
私は極めて淡々と、冷徹に説明を付け加えた。
「これを承認すると、エルライト教授の指輪に組み込まれた多次元演算対象(インベントリ)の共有領域へ、皆さんの各種データが正式に追加されます」

「つまり――この先の大集団との実戦において、皆さんの秘めたる『覚悟』も、私の等価交換魔導のコストとして美しく反映させることが可能になります」
「……わたくしたちの、覚悟?」
「はい。女性としての、極めて崇高な覚悟です」
私は一切の嘘は吐いていません。
この先の過酷な戦闘において、本当に、物理的かつ質量的な意味で、彼女たちの防衛布地(覚悟)が必要不可欠になるのですから。
私の肩の横で、トトが短い前肢で丸い頭を激しく抱え込んだ。

「ルイズ、自分、説明のオブラートが雑すぎるやろ!!」
「お嬢ちゃんたち、承認したら文字通り、この迷宮の底で社会的尊厳を跡形もなく喪失する超弩級の危機やぞ!!」
「しかしトト、五層の奈落で物理的な命を失うよりは、衣服の多少の損耗など遥かに合理的です」
私は至って真顔で即答した。トトは一瞬だけ言葉を失って黙り込み――。
「……まあ、その極論だけは、サバイバルとして一ミリも否定できへんのが辛いところやな」
シャルロットは目の前のホログラム画面を見つめ、小さく、しかし力強く頷いた。
「正直、この魔導の数式が何を意味しているのかわたくしには全く分かりませんけれど……ルイズさん、わたくしはあなたのその歪みなき知性を信じますわ」
一切の迷いなく。
名門令嬢の白く細い指先が、空中に浮かぶ[ YES ]の文字へと毅然と触れる。それを見た二人の取り巻きも、互いに不安げな顔を見合わせてから、意を決して主人の後に続いた。

――その瞬間。私の中指にはめられた銀指輪が、不吉なほど鮮やかに、禍々しい輝きを放った。
『 STATUS: LINK ESTABLISHED (共有リンク接続完了) 』
『 追加演算対象インベントリ(下着引き落とし口座):三名 』
静かな、しかし確かな、破滅の始まりを告げる電子音が古代迷宮にチーンと響き渡った。

私はホログラムに表示された完璧なデータ接続を確認し、小さく満足そうに頷く。
「システム構築、完璧に大成功です」
「これで、皆さんの尊厳……いえ」
私は一拍の静寂を置いて、最高に丁寧な声色で言い直した。
「皆さんの『気高き覚悟』も、私の次元等価魔法の強力な弾薬(コスト)として、遠隔から自由に自動引き落とし(共有)できるようになりました」
トトは、この先の未来を見たくないとばかりに、短い前肢で顔を覆って呻いた。
「言い直しても、内容が完全に犯罪者のアウトやで、自分……」
悲鳴を追って私たちが暗黒の回廊を駆け抜けた先。
第四層の巨大な地下空洞へと飛び込んだ瞬間、私は思わず息を呑んだ。
そこは、一方的な蹂躙(じゅうりん)が行われている最悪の戦場だった。

無数の松明(たいまつ)が岩壁に赤黒く揺らめき、その不吉な光に照らされるように、醜悪な緑色の皮膚を持つ魔物たちが幾重にも不気味な円陣を組んでいる。前方で錆びた得物を凶悪に構える個体だけで、優に二十匹。さらに後方の岩場には、粗末な弓を番(つが)えた遠距離個体が十五匹以上。
三十を超える下劣で貪欲な瞳が、すべて中央の哀れな『獲物』へと一点に集中していた。
その絶望的な包囲の中心では。
「いやぁぁぁっ……!」
魔法使いらしき若い女性が、涙目で必死に自らの魔導杖を振るう。その隣では僧侶の女性が崩れかけの防衛結界を必死に維持し、背後では弓使いの女性が震える指先で矢を放っていた。

三人とも衣服はゴブリンの凶刃によってあちこちが無惨に引き裂かれ、泥と鮮血で汚れている。それでも彼女たちは、互いを庇い合いながら必死に抵抗を続けていた。
しかし、その一方で。
彼女たちから少し離れた、安全な後方通路の暗闇には。
無残に放り出された、重厚な鉄の盾。
見捨てられるように投げ捨てられた、戦士の槍。
そして――一切の躊躇なく、女性陣を囮(おとり)にして一目散に逃げ去っていく、三人の前衛の男たちの無様な背中があった。

「最悪やな! あのクズ男共、女の子たちを盾にして高速移動(スキル)で全力逃走しとるぞ! あんな人間のゴミ共に比べたら、普段の逃げ足だけは自信満々なカメ吉の方が百倍マシや!」
「キュィ(せやな)」
私は、目前の凄惨な状況を瞬時に脳内の論理的理解へと落とし込んだ。
「彼女たちを囮にして、自分たちの生存パラメータだけを優先して退却したのですね。サバイバルの生存戦略としては極めて合理的ですが、人間としての倫理観は宇宙の底辺です」
シャルロットの白く華奢な拳が、ギリッと音を立てて震える。
「最低、最悪ですわ……っ!」
琥珀色の瞳に、これまでにない激しい怒りの劫火(ごうか)が灯った。
「戦士の皮を被った俗物ども! 戦うのなら、最後まで誇り高く戦いなさい……!」
ゴブリンたちは下劣な笑い声を地下空洞に響かせながら、じわじわと包囲の網を狭めていく。
「キシャシャシャッ!」
「ギャギャギャ!」
退路を完全に断たれた彼女たちの逃げ場は、もう、時空のどこにも存在しなかった。
「危ないっ、わたくしが盾になります!」

シャルロットが、令嬢としての身なりも一切構わず、自ら最前線へと果敢に飛び出した。
「サラマンダー、最大出力ッ!」
赤髪の令嬢の怒りに呼応し、火の精霊が暗い宙へと猛々しく舞い上がった。
「炎の息吹(ファイア・ブレス)!」
轟音とともに灼熱の火炎が一直線に虚空を走り、最前列で得物を掲げていたゴブリン数匹を一網打尽に吹き飛ばす。シャルロットは息をもつかせず、追撃の魔導を紡いだ。

「ファイアウォール!」
天を突く巨大な炎の壁が、泥に汚れた女性三人の眼前へと分厚く展開される。圧倒的な熱量の防壁に気圧され、ゴブリン達が一斉に後退を余儀なくされた。
「今ですわ、追撃を!」
主の背中を追うようにして、二人の取り巻きも息の合った詠唱を重ねていく。
「ウンディーネ!」
激しい奔流を宿した青い水球が空間で炸裂し、群れの一部を無慈悲に押し流した。
「ノーム!」
冷たい石畳が物理的に盛り上がり、強固な土の防壁となって亜人どもの突撃を遮断する。
しかし――ゴブリン達の軍勢は、その程度の迎撃では到底止まらなかった。
「キシャァァァ!」
奴らは戦術を理解している。一斉に左右の死角へと散開。炎の壁を巧みに避け、土の防壁を回り込み、さらには岩場の陰から、錆びた鉄の矢が雨の如き密度で降り注ぎ始めた。

「きゃっ……!」
取り巻きの女子生徒の一人の肩を、汚れた矢羽が容赦なく掠(かす)めていく。
「くっ、数が……多すぎますわ!」
シャルロットが、激しい炎の照り返しの中で白い歯を食いしばった。
「ルイズさん! あなたの数式は、まだ完了いたしませんの!?」
その狂瀾(きょうらん)の戦場のただ中。私は陣形の後方において、ただ静かにその瞳を閉じていた。
周囲の焦燥に満ちた叫び声は確かに鼓膜に届いている。他人の悲鳴も。魔術の爆発音も。無数の矢が風を裂く不吉な風切り音も。
けれど、それら物理的な環境音は、いまの私にとっては、脳内の宇宙で展開されている膨大な演算のノイズでしかなかった。
( 地。 )
( 風。 )
( 水。 )
( 火。 )
( 共有インベントリ強制接続。対象総数、四十八。 )
( 多次元連続展開。術式干渉プロセス、オールクリア。 )
( 同期リンク、即時開始。 )
私の脳内細胞の最奥において、数万本にも及ぶ複雑怪奇な魔導の最新公式(ソースコード)が、恐るべき速度でコンパイルされていく。

あと少し。私の数式がこの戦場へと顕現するための、あとコンマ数秒という物理的な時間が必要だった。
「私の演算完了まで、死守して時間を稼いでください!」
私は瞳を閉じたまま、戦火のただ中で声を張り上げた。
「あとほんの数コンマ秒で、多次元の数式が起動します!」
「キシャァァァ!」
知性を持つ亜人どもが、ついに炎壁の僅かな隙間を縫って防衛ラインを突破し、迫り来る。
「もう防壁が、構造を維持できずに持ちませんわッ!」
シャルロットが、これまでにない絶望的な悲鳴を上げた。
その、絶対防衛ラインが決壊した運命の瞬間だった。
「――しゃあない、ワイが漢(おとこ)を見せたるわ!」

私の肩の上から、トトが最前線へ向かって勇ましく弾かれたように飛び出した。
「ワイも最高経営責任者(CEO)として、この戦場に緊急参戦や!」
そして。
トトは自分の足元で暢気に大運動会を見守っていた小さな亀――カメ吉の深緑の甲羅を、短い前肢でひょいっと鷲掴みにした。

「いっけえぇぇ! 我が研究室の最終決戦兵器――カメ吉アタァァァック!!!!」
「キュィィィィィィィッ!?(話が、天地が引っくり返るほど違うやろ!?)」
本人の了承など一切得ることなく、トトは渾身のフルスイングによる全力投球を執行した。
綺麗な放物線を描いて虚空へと放り出された小さな亀は、音速の超重力砲弾のように一直線にゴブリンの密集地帯へと突っ込んだ。

――ゴンッ!
「ギャッ!?」
一匹目のゴブリンの顔面が、鼻骨ごと綺麗に吹き飛ぶ。
――ゴンッ!
二匹目の醜悪な顎に、クリティカルなクリーンヒット。
ゴゴゴゴゴゴッ!
迷宮深層の神話級たる恐るべき分子硬度を誇るその甲羅は、物理的な運動エネルギーを一切減衰させることなく、ゴブリンの集団のど真ん中を、呪われたピンボールのように激しく跳ね回った。

「ギャッ!?」
「ギシャァ!?」
「キシャァァァァ!」
地下空洞に次々と響き渡る、ゴブリンたちの痛快な悲鳴の合唱。
気付けば、ほぼ全てのゴブリンたちのヘイト(殺意)が、宙を狂おしく舞い踊る理不尽な超硬度鈍器(カメ吉)へと一点集中していた。
「キュィィィィィィッ!!(誰か、ワイの労働基準法を助けてぇぇぇ!)」
冷たい石畳に叩き落とされ、短い足をジタバタと涙目になりながら必死に逃げ回る小さな亀。その後ろを、プライドを粉砕されて怒り狂った三十匹以上のゴブリンが血走った瞳で一斉に追い掛けていくという、あまりにも不条理でシュールな大運動会が勃発する。

私は、そのカオスな光景を前に、薄くその目を開けた。
――完璧です。時間は、私の数式通りに稼げました。
私の口元が、静かに、底知れぬ冷徹さをもって緩む。
「……身を挺した素晴らしい時間稼ぎのデコイです、カメ吉」
「全対象の時空座標、脳内にて完全ロック」
「連続多重属性変換術式――ここに、最大出力で展開します」

「もう防壁が、構造を維持できずに持ちませんわッ!」
シャルロットの悲痛な叫びが、地下の空洞へと激しく響き渡る。
天を突いていた炎の壁はすでに魔力の限界を迎え、いまにもパリンと音を立てて崩壊しそうであった。下劣なゴブリン達は理不尽な超硬度鈍器(カメ吉)の軌道に翻弄され、痛快な悲鳴を上げながらも、その圧倒的な数の暴力で確実に女性陣への包囲網を狭めつつある。
その、あらゆる生存パラメータがゼロに収束しかけた絶体絶命の瞬間。
私は、冷徹にその瞳を開いた。
「――全数理演算、完了(コンパイル・エンド)」
極めて静かな、しかし確信に満ちた声だった。その凛とした一言が放たれただけで、狂瀾(きょうらん)の戦場の空気がピンと張り詰める。
「ルイズさん!」
「ついに、ついに逆転の方程式が完成しましたの!?」
「ええ、完璧に」
私は左手の中指にはめられた銀色の変調指輪へと、全神経の魔力を淀みなく流し込んだ。淡い蒼白の魔力光が幾何学の波紋のように足元から広がり、周囲の虚空へと、複雑怪奇な立体魔導数式が幾重にも浮かび上がっていく。

「――共有術式(ネットワーク・パージ)、即時起動」
私のハッキング魔導が発動した次の瞬間。シャルロット、そして二人の取り巻きの目の前の空間へと、警告音(アラート)とともに不吉な半透明のホログラム画面(UI)が同時にポップアップした。
『 STATUS: ERROR / 第一術式発動条件・未達(触媒質量不足) 』
『 WARNING: 共有インベントリの引き落とし口座より、追加触媒を即時選択してください 』
「えっ……?」
「な、な、なんですの、この破廉恥なリストは……!?」
光の画面に表示されていたのは、彼女たちが現在その身に纏っている、極めて詳細な装備資産の一覧リスト。それらが冷酷なデジタル文字で並べられていた。

・メイン武装(魔導杖) ・防具(魔導帽子) ・防具(高級マント) ・装飾品(魔力指輪等) ・トップス(上着ブラウス) ・ボトムス(タイトスカート) ・インナー・トップ(シルクブラジャー) ・インナー・アンダー(シルクパンツ) ・その他(靴下・装飾リボン等)
「な、な、何ですのこれぇぇぇぇぇえええええええええッ!!!?」
ついに表示された文字列の『本質』をその知性で察してしまったのか、シャルロットが、文字通り人生最大のパニックに陥って絶叫した。
「迷っている時間など一ミリ秒もありません!」
私は一切の私情を排し、冷徹な前線指揮官の声音で叫んだ。
「画面のリストの一番上、まず『帽子』を選択してください!」
「は、はいっ……!」
あまりの気迫に押されたシャルロットが、条件反射的にホログラムの『防具(魔導帽子)』の項目を指先でタップする。
――パシュンッ。
彼女が被っていた名門の紋章入りの豪奢(ごうしゃ)な帽子が、淡い青白い光の粒子へと等価変換され、一瞬にして虚空へと消え去った。

「きゃっ!? わたくしの、五万クローネの限定品が……っ!」
『 STATUS: ERROR / 触媒質量・依然として不足(REQUIRED MORE) 』
『 WARNING: さらに追加触媒を選択してください 』
「まだ質量が足りません! 次!」
「えぇぇぇぇえええッ!?」
二人の取り巻きも泣きそうになりながら、慌てて自身の画面の帽子を選択する。三人の上質な帽子が、一瞬にして因果の彼方へと消滅した。
「ルイズさん! まだシステム警告の文字が真っ赤なままですわ!」
「メイン武装の『杖』をパージ!」
「はいっ!」
主従が必死の面持ちで杖を選ぶ。魔導の木切れが眩い光へと昇華する。
『 STATUS: ERROR / 触媒質量・不足 』
「高級『マント』!」
――バシュッ。
『 STATUS: ERROR / 触媒質量・不足 』
「『トップス(上着ブラウス)』!」
――バシュンッ!!!!
三人の仕立ての良い上着ブラウスが同時に、因果改変の光へと強制変換される。

「きゃぁぁぁっ……!」
「地下の空気が、猛烈に寒いですわ……っ!」
「まだ!? まだこれほど捧げても、天秤の質量は足りませんの!?」
空間に響き渡る魔導システムの電子アラート音は、どこまでも冷酷で無慈悲であった。
『 WARNING: 必要魔導触媒が大幅に不足しています。事象の改変を実行できません 』
そして、血の滲むようなホログラムの画面に残された、選択可能(アクティブ)な資産項目は――ついに、ただ一つだけになった。

『 ボトムス(タイトスカート) 』
「…………」
「…………」
「…………」
地下の喧騒を他所に、私たちの間に、かつてない重苦しい静寂が落ちた。
私は、冷徹な税務署の事務員のような平坦さで、非情な現実を告げた。
「時間切れです、シャルロットさん。今すぐ残された資産を差し押さえ(選択)してください」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!?」
ついに名門令嬢の矜持(プライド)を完全に叩き割られたシャルロットが、頭を抱えて絶叫した。

「これ、絶対、絶対に物理的な構造がおかしいですわ! 魔導の生ける伝説エルライト教授の最新魔道具(リング)って聞いてましたのに!」
「ただの、超ハイテクな辻斬り追い剥ぎシステムですわぁぁぁぁ!」

私はその理不尽な抗議に対し、静かに首を横へ振った。
「違います。これは自然界の因果律にのっとった、純然たる等価交換のエネルギー徴収です」
「システムの文字面が破廉恥すぎて、犯罪との違いが分かりませんわぁぁぁぁ!」
二人の取り巻きも、完全に涙目になってブルブルと震えていた。

「シャ、シャルロット様……」
「もう、前方のお姉様たちの命の灯火が……わたくしたち、乙女としての最期の『覚悟』を決めますわ……っ」
シャルロットは、血が滲むほど強くその美しい唇を噛み締めた。

前方からは、救助を渇望する女性魔導士たちの悲痛な悲鳴が響いている。彼女たちを辛うじて守っていた炎の壁は、ついにガラスが割れるような不吉な崩壊の音を立て始めていた。
シャルロットは静かに、その琥珀色の瞳を閉じた。

「――わたくしの高潔な命と、無垢なる誇り(ノブレス・オブリージュ)には……!」
一度だけ、地下の冷気を胸いっぱいに深く吸い込む。
「……代えられませんわッ!!!」
恐怖と羞恥に震える白く細い指先で。
彼女は画面の『ボトムス(タイトスカート)』の項目を、親の仇の如き勢いで強く押し込んだ。

取り巻きの二人も、声を上げて泣きじゃくりながら主人のコマンドに追従する。
「ご、ごめんなさいぃぃ……天国のお祖母様、そして大好きなお父様ぁぁぁ……っ!!」

――パァァァァァァッ!!!!
三人が穿(は)いていた、純金糸の刺繍が施された高価なタイトスカートが、眩い因果の閃光となって戦場に完全パージされた。

それと同時に。私の網膜の視界に映るメインホログラムの警告色が、不吉な赤から鮮やかな緑色(オールグリーン)へと一瞬にして切り替わる。
『 STATUS: ALL GREEN (共有触媒・受領完了) 』
『 全属性多重術式・起動条件を完全に達成しました 』
私は、深い闇の中で静かに、そして神聖に微笑んだ。
「涙ぐましい魔導投資をありがとうございました、シャルロットさん。皆さんの社会的尊厳(犠牲)のおかげで――この場にいる全員を、確率論的に百パーセント救えます」
私の肩の上で、すべてを特等席で見ていたトトが思わず顔を引きつらせて絶叫する。
「自分!! 消費する触媒が他人の高級装備(おパンツ一歩手前)やと、意思決定の速度がマジで鬼畜の悪魔のそれやな!!」
「――では、始めましょうか」
私はトトの正論をスルーし、右手を前方のゴブリンの群勢へと厳かに掲げた。
「――四元素連続複合術式、全天開帳(バースト・ストリーム)」
私の宣告の瞬間、巨大な地下空洞の全域へ、数十、数百もの青白い緻密な幾何学魔法陣がコンマゼロ秒で同時展開された。

それは、逃げ回るカメ吉を必死に追いかけていたゴブリンたちの足元だけを、私のノーパン皮膚感覚の流体力学によって、恐るべき精度で正確に囲み込んでいた。
「第一術式。大地の檻(アース・プリズン)」
冷たい石畳が物理的に隆起する。無数の鋭い岩柱が強固な檻となり、亜人どもの退路を多角的に閉塞した。

「第二術式。大気の収束(ウィンド・コンバージェンス)」
わずか〇・二秒後。超高速の暴風が檻の内部で激しく吹き荒れ、逃げ場を失ったゴブリンたちが、空間の中心点へと無慈悲に圧縮される。

「第三術式。劫火の爆嵐(フレア・バースト)」
さらに〇・二秒後。超高温のプラズマ火炎が、圧縮された一点の時空座標へと完全に集中した。

「最後――水蒸気爆発(ハイドロ・エクスプロージョン)」
強固な岩の檻の内部で、超高温の炎と瞬時に激突した冷水が急激な相転移を引き起こし、圧倒的な破壊のエネルギーへと変貌する。

――ドゴォォォォォォォンッ!!!!
空洞の鼓膜を破る凄まじい轟音。網膜を焼き切らんばかりの、白昼の如き鮮烈な閃光。そして、奈落の第四層を鳴動させる、圧倒的な時空の衝撃波。
見えない複雑な通路の先からも、私の数式が連鎖したことによる、ゴブリンたちの断末魔の叫びが次々と響き渡った。
「ギャァァァ!」
「ギシャァァ!」
「ギィィィ……ッ」

数秒後。世界に、完全なる硝煙の静寂が訪れた。
あれほどひしめき合っていたゴブリンの姿は、肉片一つ、細胞の一個たりとも残されてはいなかった。ただ、美しい幾何学の文様に沿って床に刻まれた黒い焦げ跡だけが、静かに、そして皮肉なほど神聖に白煙を上げている。
シャルロットたちは、自らの高級なスカート(と乙女の尊厳)と引き換えに放たれた神話級の破壊の美を前に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。――お揃いの、最高級シルクの下着姿(ブラジャーとパンツ)のまま。

ゴブリンに襲われ、間一髪救助された女性魔導士たちも、この理不尽な超魔法の余波に完全に腰を抜かし、ボロ布同然の姿で冷たい床に座り込んで固まっている。
トトがこのカオスな光景をぐるりと見回し、短い前肢で顔を覆って、小さく悲痛に呟いた。
「……ホンマ、全滅させた英雄側の絵面が、凄まじくマニアックでシュールな光景になっとるやんけ……」
「……ルイズさん。わたくし、一つだけ、天地が引っくり返っても納得いきませんわ」
最高級のシルクの下着姿のまま、寒そうに自身の白い腕をきつく抱きしめたシャルロットが、凄まじいジト目で私を真っ直ぐに睨みつけてきた。

「どうしてこれほどの天災級の大魔法を撃ち放って……あなただけが無傷(衣服を着たまま)で、涼しい顔をして優雅に立っていますの……?」
「お嬢ちゃん、それ以上は科学の闇を深く探らん方がええ。自分にとって致命的な構造欠陥(バグ)や」
トトが、この世の終わりを見たかのような遠い目をしながら、ボソッと哀れみの声を漏らした。
「――コイツ、見えへんドレス(可視光線透過)を着とるだけで、『既に下は完全に履いてないノーパン状態』やからな。自分らと違って、引き落とす口座(下着)が最初から残高ゼロやったんや」
凄絶な爆炎の余波が去り、硝煙の静寂が再び地下の巨大空洞を支配していた。
黒く焦げ付いた岩肌。空間に立ち上る、暴力的な熱量を孕んだ白い水蒸気。数百の軍勢を誇っていたゴブリンの群れは、その上位個体(ロード)も含めて跡形もなく消滅していた。
その重々しい戦後の沈黙を真っ先に破ったのは、やはりトトの冷ややかな一言だった。
「……あかん。救助した僧侶のお姉さん、見た目より物理的ダメージ(怪我)がやばいレベルやで……」
私たちの足元では、トトに全力投球された反動で甲羅からひっくり返ったままのカメ吉が、短い足をジタバタと悶絶させながら涙目で震えている。
「カメ吉の安否はとりあえず後回しや! こいつは分子構造が硬いだけのただの頑丈な生体鈍器(甲羅)やからな!」

「キュィ……(少しは野生の愛玩動物として心配して……。ワイのニート人生、もうちょいで本当に天へ強制お引越しするところやったんやで……)」

私は、中指の銀指輪に残っていた因果改変の魔導残滓(ざんし)をふっと息で吹き消し、深く、長く安堵の息を吐き出した。
「これにて、最優先の防衛パラメータ(第一目標)は完全達成です。もはや、これ以上この非衛生的かつ魔素の澱んだ場所に留まる物理的理由は、どこにもありませんね」
お揃いの最高級シルクの下着姿(ブラジャーとパンツ)で身を縮こませ、自身の白い腕をきつく抱きしめていたシャルロットが、恐る恐るこちらを振り返った。

「……ルイズさん」
「はい何でしょう、資産の引き落としにご不満でも、シャルロットさん?」
「あなた……まさか毎回、このような乙女の尊厳をすり潰す恐ろしい非人道的プロセスで魔法を放っていますの……?」

「――違います」
私は、大真面目にポーカーフェイスで首を横へ振った。
「今回は極めて想定外の緊急事態(イレギュラー)です。私はただ、全体の生存率を引き上げるために、皆さんの穿いていた『可視衣装(尊厳)』を一時的に担保としてシステム的にお借りしただけに過ぎません」
「お借りしたって、等価交換された布地は絶対に二度と物理的な物質として返ってきませんわよねぇぇぇえええッ!!!」
羞恥で顔を林檎のように真っ赤にしたシャルロットが、涙目で絶叫する。二人の取り巻きも、下着姿のまま泣きながら激しく同意の首を縦に振った。

「わたくしたち……完全に、王都の噂通りの身ぐるみ剥ぎ取り強盗被害に遭いましたわ……」
重傷を負って床に倒れていた僧侶の女性も、血の気の引いた蒼白な顔で掠れた声を漏らした。

「噂に名高い……『聖裸(せいら)の魔女』……」
「お姉さん重傷なんやから、血と一緒に余計なツッコミまで吐き出さんでええ! 大人しく寝とき!」
トトが私の肩からぴょんと飛び降り、僧侶の膝元に寄り添って前肢で制した。

弓使いの女性が、震える声で感嘆を呟く。

「本当に……実在していたんですね、衣服を強制パージして国宝級の特級複合魔法を平然と撃ち放つ、不条理なる魔女様が……」
魔法使いの女性も、力なく、しかし畏怖の混ざった苦笑いを浮かべた。

「この洞窟の最奥には、Bランク指定の凶悪な『ゴブリンロード』も確実に潜伏していたはずなのに……空間の座標ごと消し飛んでいますよ。私の知るどんな王宮の筆記首席の大魔法使い様より、凄まじい魔力です……!」
「ルイズは『みんなの衣装(お布施)の合計金額』だけ、際限なく火力がインフレして強なる資本主義チートやからな。真っ当に努力しとる王宮の大魔法使いと一緒にしたら、その人たちが可哀想やわ」
「トト、私の偉大なる数理魔導をそこまで悪徳商法のように言いますか」
私は少しだけ不満げに頬を膨らませた。

「カメ吉さんを物理弾頭(デコイ)として射出した際、空間摩擦熱のパラメータが数パーセントだけ彼を掠めてしまいましたが、結果として全員が無事に生存しました。これは偏に、私の高度な多次元演算の完全勝利です! もっと素直に、私を世界の救世主として崇め奉り、褒め称えてくれてもいいのですよ?」
私のあまりに悪気のない尊大な態度に、トトは腹を抱えて大爆笑した。

「あはは! 本人が一ミクロンも悪気ゼロの純粋な科学的実利(ドケチ)でやっとるからな。周りがいくら倫理観で糾弾したところで、完全に暖簾(のれん)に腕押しやわ!」
私はコホンと小さくわざとらしい咳払いを挟み、改めて厳粛な表情を作ってみせた。
「トト。私としても、これ以上彼女たちの貴重な衣服(資産)を際限なくパージし続けるのは、同じ女性としてさすがに忍びありません。……そろそろ、私の脳内計算が弾き出した『最後の手段』を行使します」
「自分、ついに腹は決まったんやな?」
「ええ。この遭難の極限状態を一撃で打破する、唯一の合理的決断です」
「さ、最後の手段って、一体何ですの……!? もうこれ以上、わたくしたちから何を奪う気ですの!?」

怯えるシャルロットに対し、トトが今度は真顔になって冷酷に事実を告げた。
「お嬢ちゃん、救助した僧侶の姉ちゃんの容態も時間的猶予(タイムリミット)がやばいし、ワイらの衣類インベントリ(下着口座)もほぼ底をついとる。これ以上はもう、一歩も先へ進めへんからな」
「――では」
私は左手の中指にはめた銀色の変調指輪を、静かに漆黒の虚空へと高く掲げた。
「地上への多次元帰還魔導(テレポート)、即時起動します」

その一言に、その場にいた全員が一斉に、信じられないものを見るようにその瞳を見開いた。

「えっ……!?」
「本当に……本当に、地上へ戻れるんですの!?」
「はい、私の完璧な数式ならば可能です。ですがその前に、ゴブリンロードたちが周囲の石畳に散らかしていった希少なドロップアイテムや宝箱は、一個残らずその手で速やかに回収しておいてください。資金の最大回収と戦利品の横領は、過酷なサバイバルの基本パラメータですからね」
「こんな命がけの極限時にまで、底なしのドケチですわー!!」
と悲鳴を上げて叫びつつも、シャルロットたちは生き残るために必死に、周囲の宝箱や高純度の魔石を涙目で拾い集め始めた。

「ルイズさん! ゴブリンロードの隠し部屋の奥から、稀少な『時空の金貨箱』も強引にむしり取りましたわ!」
「素晴らしい戦利品の計上です。地上へ無事生還を果たした暁には、私の開発費を除いた厳密な割合で、美しく山分けといたしましょう」
全員が私の周囲の幾何学の円へと集まったのを確認し、私は深く地下の冷気を吸い込んだ。

「皆さん、社会的尊厳(全裸)への心の準備は良いですか? 一瞬で因果を書き換えますよ、いきます!」
私が中指の変調指輪へと、残された全ての生体魔力を一気に充填させる。
「――共有術式ネットワーク、全ライン同期再接続(リ・リンク)ッ!」
青白い光を放つ魔導ホログラム画面(UI)が、瞬時に私たちの空間へと傲然と展開された。
『 STATUS: REQUEST / 帰還空間座標を指定してください 』
私は、一切の迷いなく表示されたデータ一覧の最上段を鋭くタップする。
「到達目標:王立魔法大学・第三研究棟・エルライト教授室」
「転送対象:ルイズ、シャルロット、取り巻き二名、被救助冒険者三名、トト、およびカメ吉」
「転移触媒(コスト):ルイズの残存衣服(※見えざるドレス以外)、シャルロット一行の残存下着一式すべて」
シャルロットたちの目の前のホログラム画面に、冷酷な最後の承認ウィンドウが不吉なアラート音とともに点滅する。
「ええっ!? これ、承認を押したらまた、わたくしたちの最後の下着まで綺麗さっぱり脱げる(消滅する)んですのーーーッ!?(全裸ですわ!?)」
「大丈夫や、お嬢ちゃんたち! その最悪の承認ボタンをタップする前に、先にコレをその身体にきつく巻いとき!」
トトが時空拡張ポケットの闇から慌てて取り出したのは――ついさっきまでカサカサの乾燥スルメを大量に包んでいた、油まみれの薄いボロ布の束であった。

シャルロットと取り巻きたちは、恥じらいの悲鳴を上げながら、必死にそのイカ臭いボロ布を身に纏い、即席の防壁とするのだった。

「ちょっとトト! 私の分のスルメのボロ布は!?」
「そんなもん、三枚で在庫終了や! もう一平方センチメートルもあらへんわ!」
「引き落とし口座の開設主(システム開発者)である私だけが、見た目完全全裸(透明ドレス)のまま帰還するなんて非論理的じゃないですかぁぁぁあああッ!!!」
私の魂の叫びを無慈悲に掻き消すように、奈落の第四層の空間が激しく歪み、因果の渦が噴き上がった――。

◇ ◇ ◇
同時刻。王立魔法大学・第三研究棟、エルライト教授室。
エルライト教授は、執務机の上にうずたかく積まれた最先端の魔導論文へと目を通しながら、深い隈の落ちたため息を吐き出していた。
「……あまりにも、遅い」
教授はヨレヨレの白衣の袖を揺らし、窓の外の景色を見やる。王都の太陽はとっくに西へと傾き、空を不気味な茜色に染めていた。

「ルイズくんの初級実習は、とっくに終了している時間のはずだ……」
嫌な予感しかしない。科学者としての本能が、心臓の奥底でドクドクと不吉な鐘を打ち鳴らしている。
教授は顔をしかめて痛む胃のあたりを固く押さえると、引き出しから使い古した胃薬の小さなガラス瓶を取り出した。
「頼むから……」
小瓶の蓋をカタリと切実な音を立てて開け、天を仰ぎ、祈るように低く呟く。
「今日こそは……どうか、私の夏のボーナスへの追撃を断つためにも、何も起きていませんように……」
――その、切実な平穏への祈りの、まさに刹那であった。
研究室の中央の空間が、バリバリと激しい紫色の放電現象を引き起こし、時空の因果ごとぐにゃりと歪み始めたのだ。
「なっ……何事だっ……!?」
――バァァァァァンッ!!!!
眩い五色の閃光とともに、空間跳躍(テレポート)の凄まじい衝撃波が研究室を直撃し、教授が整理していた重要書類の山を部屋中に盛大に舞い上がらせる。

「ただいま、数理魔導の完全勝利とともに帰還いたしました、エルライト教授!」
光の渦の最先頭から颯爽と現れたのは、勝利の満面の笑みを浮かべた――客観的な網膜の演算においては、一糸纏わぬ完全な全裸(※物理的には最高級シルクドレス着用)の首席・ルイズであった。

そして、その後ろの空間からは。
スルメの油に塗れたイカ臭いボロ布を一枚だけ哀れに巻きつけ、ガタガタと震えている涙目の赤髪令嬢、シャルロット。

同じく薄汚れたボロ布を胸元に抱きしめ、お互いに抱き合って涙を流す、取り巻きの女子生徒二人。
ボロボロの布切れを身に纏い、完全に腰を抜かして大理石の床に這いつくばっている、被救助者の女性冒険者三人。
さらには、その変態不審者集団の足元で。
「キュィ!」
と誇らしげにその小さな平らな胸を張る、見知らぬ緑色の小さな亀。
「おう、教授!」
私の肩の上で、白い大福餅のトトが、南国のバカンスから戻ったかのように爽やかに短い前肢を振った。
「無事、五層の奈落から帰ってきたで! ついでに同行しとったお嬢ちゃんら全員の社会的尊厳と高級装備は、綺麗な等価交換のコストとして、迷宮の底へ一括引き落としして置いてきたわ!」
「……。」
舞い散る重要書類の渦の中、エルライト教授のひび割れた研究室に、死そのものの如き静寂が訪れた。
宙を舞う羊皮紙の吹雪の中で、現代魔導の生ける神話は、一糸纏わぬ(※透明ドレス)姿の私と、イカ臭いスルメのボロ布を体に巻いた下着姿のお嬢様たちを、静かに見渡した。

ゆっくりと。本当に、臨終の瞬間を待つ死人のような遅さで。
「……ルイズくん」
今まで一ヶ月間、毎日怒鳴られてきた私ですら一度も聞いたことがないような、酷く低く、奈落の底から響くような重たい声音だった。
「君は……今日の実習で、一体全体『何を』等価交換の対価(コスト)に捧げたんだね?」
私は誇らしげに胸を張り、満面のドヤ顔でハキハキと答えた。
「教授の指輪のコアシステムへ、触媒の『割り勘(共有)機能』を強制追加いたしました!」
「…………」
「しかも実戦実験はミリ単位の誤差もなく大成功です、エルライト教授!」
「誰が……私の最高傑作のプログラムに、そんな犯罪的な脱衣機能を追加しろと言ったかね……」
「利便性と、パーティ全体の生存確率は飛躍的に向上しましたよ?」
「向上させなくていい……そんな破廉恥なアップデートは、魔導の歴史に一ミクロンも必要ない……」
教授は、イカ臭いボロ布を必死に抱きしめて涙目を浮かべているシャルロットたちへと、哀れみの視線を向けた。
(そうか……。私のこの胃を破壊する不条理な悩みを、システム的に共有できる被害者が、ついに王都に増えてしまったのか……)
教授は、もうそれ以上は何も言わなかった。理不尽な反論も、怒号も、呆れ声すらも一切上げようとはしなかった。
ただ、あまりにも静かに。
机の上の魔法ポットから、手元の茶碗へと透明な白湯(さゆ)をトトトと注ぎ入れて。その温かい白湯を、ゆっくりと今にも血を吐きそうな口元へ近づけた。
そして。
――ゴク。
――ゴクゴクゴクゴクゴクッ!!!!
まるで嫌な現実のすべてを喉の奥へ押し流すかのように、凄まじい勢いで一気飲みした。

私の肩の上のトトが、深く同情するように頭を縦に振る。
「教授……ストレスで千切れそうな胃を温めるのは、生物学的に大正解や! ついでにいつもの胃薬も、一発ガツンと行っとくか?」
トトは、教授の執務机の引き出しに置かれた、いつもの胃薬の小瓶に目を向けた。
しかし――。
(あかん……。小瓶の中身、もう一錠も残ってへん……完全な空(カラ)や……)
エルライト教授は静かに研究室の天井を見上げ、すべての感情が枯れ果てたような、掠れた声でぽつりと呟いた。
「……君たち全員が、あの奈落の第五層から生きて帰ってきてくれたのは、教員として本当に……本当に嬉しいよ」
一拍の、重々しい慈悲の間。
「だがルイズ君、研究者としてのプライドがあるなら頼むから……まず、その見えない服の上に、まともな服を着なさい……ッ!!!!」

夕暮れに染まる第三研究棟いっぱいに、服を求めて右往左往するルイズたちの慌てふためく悲鳴と、トトの爆笑の声が、賑やかに、そして破廉恥に響き渡るのだった。

―――(第05章 共有された尊厳・完)―――

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