◀第08章 異常なダンジョン
▶第10章『闇の城の門』~五重封印解除、そして三秒の国際問題~
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第09章『ヴァーミリオン家別邸と、天然迷宮』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 櫻歌ミコ」「VOICEVOX: 琴詠ニア」「VOICEVOX: ずんだもん」「VOICEVOX: 満別花丸」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: WhiteCUL」「VOICEVOX: 小夜/SAYO」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: ちび式じい」「VOICEVOX: 麒ヶ島宗麟」「VOICEVOX: 東北イタコ」「VOICEVOX: 離途」
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王都の朝は、昨日までとは明らかに違う、冷たく張り詰めた空気を孕(はら)んでいた。

大通りには普段より重装備の騎士と憲兵が等間隔に立ち並び、街の要所には青白い光を放つ臨時の防魔結界が物々しく展開されている。 街角の魔導式モニターからは、何度目とも知れぬ深刻な調子の速報が、不吉な呪文のように繰り返されていた。
『――王都全域に発令されている第一級・国家最高異常事態宣言は、引き続き継続しております』
『第一地下迷宮は軍によって全面的に封鎖され、第五層方面への立ち入りは一切禁止されています』
『現在、王都周辺では多重防魔結界の構築作業が急ピッチで進められており――』
画面を見上げる市民たちの表情は、一様に硬く、暗い。
冒険者らしき荒くれ者たちは当面の稼ぎを失う不安を口にし、商人たちは今後の流通への懸念をひそひそと交わし、子供たちは何が起きているのかも分からぬまま、怯えた目で大人たちの顔を見上げている。 昨夜まで 「少し騒がしい」 程度だった王都の空気は、一夜明けて、すっかり『有事』の色に塗り替えられていた。
そんな、息が詰まりそうな大通りの一角で――。
シャルロット:「積み込んだお荷物の数、こちらで間違いありませんわね?」
シャルロットが、公爵令嬢にふさわしい上品なドレスの裾を揺らし、優雅な仕草で持ち物の一覧を確認していた。
リーゼロッテ:「はい、シャルロットお嬢様。 必要な物資はすべて手配・積み込み済みです」
恭(うやうや)しく答えたのは、ヴァーミリオン家に仕える優秀な女性メイド――リーゼロッテだった。
彼女たちの傍らには、広々とした馬車が横付けされている。
深い紅を基調とした、一目で莫大な値打ちが分かる優雅な車体。 装甲そのものに精緻(せいち)な魔法陣が刻まれ、四隅には車体を安定させる高価な魔導石が惜しげもなく嵌め込まれている。 どう見積もっても、一般の乗合馬車とは桁が違う代物だ。
だが。

シャルロット:「……それにしても、王都はまだかなり騒がしいですわね」
シャルロットが、重苦しい街の様子を不安そうに眺める。
ルイズ:「そうですね」
私は、エルライト教授の部屋から借りてきた大きめの男物Tシャツに、昨日新調したばかりの下着をしっかり着けた姿で、お買い得の旅行鞄を提げたまま、いつも通り淡々と返事をした。
トト:「――自分、反応が薄すぎるやろ、相変わらず!!」
私の華奢(きゃしゃ)な肩の上で、使い魔のトトが丸い大福餅の身体を激しく揺らして突っ込んできた。
トト:「見てみぃ、街じゅう大騒ぎやぞ!? 国を挙げての緊急事態宣言やぞ!」
ルイズ:「だから何だと言うのです。 私が一般市民に混ざって騒ぎ立てたところで、お国の懐事情も迷宮の封鎖も、少しも良くなりはしませんからね」
トト:「……合理性が服着て歩いとるどころか、人間の情がごっそり抜け落ちとるな……」
トトが、すべてを諦めたようにがっくりと肩を落とした。
私はそんな使い魔の動揺など気にも留めず、手にした激安の小さな旅行鞄を、高級馬車のトランクへ無造作に放り込んだ。
ルイズ:「細かいことはどうでもいいです、早く出発しましょう。 時は金なり、ですよ、お嬢様」
トト:「自分、ほんまにただの暢気(のんき)なピクニック気分やな……」
ルイズ:「――温泉旅行ですから」
間髪入れぬ即答であった。
その足元で、私の男物Tシャツの裾を押さえるようにして、カメ吉がこの世の終わりを悟ったかのような悲痛な鳴き声を小さく漏らす。
カメ吉:(――キュィィ……、どこが優雅なリフレッシュ旅行やねん! 宣言が出てガタガタ震えとる王都の包囲網からコソコソ抜け出すって、それただの夜逃げ、いや、お天道様の下を走る『朝逃げ』やんけ! 絶対また、この破廉恥魔女のせいで、ワイの甲羅が三枚におろされるような目に遭うわ、ガチで!)
今回の別邸への遠征の同行者は、私、ドレス姿のシャルロット、その取り巻きのマリアンヌとジュリエット。 そして私の使い魔のトトと、ニート魔獣のカメ吉。
さらに公爵家の御者を務める女性メイドのリーゼロッテと、馬車の周囲を固めるために臨時に雇われたという三人の冒険者たち。

――そう、見事なまでに、この場にいる人間は『全員、女性』であった。
三人の護衛冒険者に至っては、何故か広い馬車の座席に同乗しようとはせず、それぞれ自前の馬に騎乗して、車体の外側から距離を取って同行する徹底ぶりである。
トトがその極端に偏った顔ぶれを眺めて、ふと不思議そうにつぶらな赤い瞳を細め、丸い首を傾げた。
トト:「……なぁ、シャルロットのお嬢ちゃん」
シャルロット:「何かしら、トト」
シャルロットが、ドレスの襟元を整えながら優雅に振り返る。
トト:「なんで今回の遠征、御者から護衛に至るまで、みんな女の人ばっかりなん? しかも護衛のお姉ちゃんらは、わざわざ外の馬に乗って距離取っとるし」
その問いが発せられた瞬間、一瞬、不自然なほどの沈黙が落ちた。
シャルロットは、ほんの少しだけ琥珀(こはく)色の視線を、大通りの石畳の隙間へとそっと逸(そ)らした。
シャルロット:「……万が一に備えた、念のための用心ですわ」
トト:「何に対する念やねん」
シャルロット:「……念は、念ですわ」
トト:「――絶対、昨日までのおパンツ強制引き落としの歴史が生んだ、精神的なトラウマ対策やろがいッッッ!!!」
トトの悲痛なツッコミが、朝の王都の張り詰めた空気へ虚(むな)しく響き渡った。
その正論に対し、周囲を囲む屈強な女性冒険者たちは、無言のままスッと視線を明後日の方角の雲へ逸らした。 御者台のリーゼロッテもまた、プロのメイドとしての矜持のまま、鉄仮面の如き無表情を貫いて固まっている。
そして――他ならぬ依頼主のシャルロットもまた、何一つ答えようとはしなかったのだ。

カメ吉:(――キュィィッ!? やっぱり、おパンツが消し飛ぶ案件の被害防止策やったんかーーーい!! ほんで護衛のお姉さんらも、詳しい事情なんて何一つ知らんくせに、ただならぬ空気だけ察して無言で目ぇ逸らすのやめーや! 被害者でもないのに、謎の『脱衣の連帯感』が生まれとるがな、こわいわぁ!!)
カメ吉が、人間の醜い打算の深淵に絶望し、のそりと甲羅の中へ短い首を引っ込めて現実逃避した。
そんな、被害対策をめぐる周囲の不毛な騒ぎをよそに。
私は豪華な馬車へ乗り込む直前、薔薇(バラ)の金細工が施された深紅の車体の側面へ、そっと白磁の掌(てのひら)を当ててみた。
ルイズ:「……へえ、なるほど」
シャルロット:「何か気になりますの、ルイズさん?」
ルイズ:「ええ、少し、興味深い癖が見えたもので」
私の琥珀色の視線が、車体の内部を巡る魔力の流れを、透かすように滑らかに辿っていく。
車体の姿勢を安定させる術式。 路面からの振動を抑える術式。 衝撃を散らす術式。 室内の空気を巡らせる術式。 そして――四つの車輪へ繋がる、駆動用の魔力の通り道。
一見すれば、非常によくできた美しい魔導の文様だ。 国家一級魔術師の重鎮に莫大な予算を投じて組ませたというリーゼロッテの説明も、部品の格だけを見れば、一応の納得はできる。
――だが、しかし。
ルイズ:「……この術式、お金の使い方の観点から見て、明らかに無駄な組み方が目立ちますね」
リーゼロッテ:「え……っ?」
御者席のリーゼロッテが、その不敬な一言に、美しい目を丸くして瞬きをした。
ルイズ:「たとえば、こちらの車体を支える魔力の道と、こちらの室内を守る結界。 同じ働きが、二重に無駄に重なっています」
私は深紅の車体の滑らかな表面に、白く細い指先を滑らせ、絡んだ魔力の糸を辿っていく。

ルイズ:「それから、この魔力の貯め場から伸びている供給路も、設計が古くて遠回りです。 これでは力が途中で漏れてしまいます」
リーゼロッテ:「な、何をおっしゃるのですか……っ」
ルイズ:「三つに小分けされて力を食い合っている安定化の術式も、根本から一つにまとめて組み直せますよ」
公爵家が誇る優秀なメイドのリーゼロッテは、あまりに次元の違う理屈の前に、言葉を失って固まった。
リーゼロッテ:「……ル、ルイズ殿。 こちらの特製馬車は、王宮御用達の国家一級魔術師の先生に、公爵家の莫大な金貨を投じて特注でご依頼申し上げた、最高峰の設計なのですが……っ」
ルイズ:「ええ、魔導石や建材といった材料そのものの質は非常に高いですよ」
私は一切の冗談も交えず、平然と、あっさり査定してみせた。
ルイズ:「でも、それを動かす肝心の術式の組み方に、素人特有の怠惰な無駄が多すぎます。 お役所仕事の、典型的な仕事ぶりですね」
すると、ドレスの裾を整えていたシャルロットは、その傲慢(ごうまん)極まりない酷評に、一片の迷いもなく、深く力強く頷いてみせたのだ。
シャルロット:「ルイズさんがそこまでおっしゃるのでしたら、その魔術師の先生の組み方が未熟だったのでしょうね」
リーゼロッテ:「――ちょ、ちょっと待ってくださいまし、シャルロットお嬢様!?」
リーゼロッテが、主人のあまりの即断ぶりに、顔を真っ白にして慌てふためく。
トト:(……あかん、また朝からルイズはんの悪い病気が始まったで。 国家最高峰の一級のお仕事を、触っただけのコンマ数秒で見抜いて、笑顔で全否定や……)
カメ吉:(キュィ……、このドケチ女、息を吐くように他人の魔導士としての誇りを粉砕しよるで、こわいわぁ……)
トトとカメ吉が、それぞれ私の肩の上と男物Tシャツの裾の陰で、ガタガタ震えながら心の声を重ねていた。
リーゼロッテ:「ル、ルイズ殿! これ、お国の一級品ですよ!? ただの一般学生のあなたが、勝手にいじって術式を狂わせても大丈夫なんですか!?」
ルイズ:「ご安心ください、壊しません。 私の辞書に、道具を乱暴に壊すという下品な作法は存在しませんから」
リーゼロッテ:「いや、そういう問題ではなくて……っ!」
ルイズ:「――術式を、私好みの経済的で燃費のいい形に書き直してもいいですか、シャルロットさん?」
私は真っ直ぐにシャルロットの琥珀色の瞳を見つめた。
シャルロット:「ええ、もちろん構いませんわ、ルイズさん。 あなたが必要とお考えなら、遠慮なくその銀の指輪で組み直してくださってよろしくてよ」
ルイズ:「ありがとうございます。 ……ヴァーミリオン公爵家より、この馬車の全権、確かに預かりました」
その承諾の瞬間。
私の大きめの男物Tシャツの周囲の空間に、淡く青白い光を放つ幾何学の魔法陣が、幾重にも一斉に展開した。
車体の奥に眠っていた複雑な旧式の術式が、暗号を解かれるように次々と虚空に浮かび上がり、絡み合っていた魔力の糸が、私の視界へ美しく解きほぐされていく。

一本。 また、一本。
私が『不要』と見定めた無駄な魔力の道が、白く細い指先が触れるたび、光の粒となって空へ溶け消えていくのだ。
重なっていた回路が綺麗に整理され、四方へ無駄に散っていた上質な魔力が、一つの中枢へと滑らかに集められる。 別々に動いて力を食い合っていた安定化の術式と振動を抑える術式は、私の演算によって、洗練された一つの美しい構造へと組み上げ直されていく。
その光景は――絡まった運命の糸を、神の手が瞬く間に紡ぎ直していくかのような、常識をはるかに超えた魔導の奇跡そのものであった。
やがて、深紅の馬車の中央の虚空に、半透明の光の文字が浮かび上がった。
『 術式再構築 完了 』
[ 安定 ; 81% → 97% ] [ 振動抑制 ; 82% → 99.9% ] [ 魔力損失 ; 16.8% → 0.6% ] [ 衝撃分散 ; 83% → 100% ]
「……」
リーゼロッテは、まるで大理石の彫像のように口を半開きにしたまま固まっていた。
リーゼロッテ:「……こんな、神の領域の組み直しは、これまでのメイド人生で一度も見たことがありませんわ……っ」
ルイズ:「そうですか? ごく基本的な整理整頓に過ぎませんけれどね」
私は不思議そうに首をコテンと傾げた。 私にとっては、無駄な出費を削ぎ落とすための、ごく当たり前の事務仕事である。
そして――私は何気なく、深紅の車体の下、前輪の足回りへと視線を落とした。
ルイズ:「あと、リーゼロッテさん」
リーゼロッテ:「は、はい……っ? まだ何か問題が残っておりますか……?」
ルイズ:「前輪の右側の車軸が、魔導ではなく金属疲労の歪みで、0.3ミリだけ右に傾いていますね」
「…………」
その恐るべき目利きの一言に、その場の全員が、理解を止めて凍りついた。

ルイズ:「今の傾きでも、別邸までの走行に致命的な問題はありませんけれど」
私は、旅行鞄を抱え直して淡々と告げる。
ルイズ:「路面との抵抗が増えて、魔力石の消費が数パーセント無駄に増えます。 私の財布の観点から言って、看過できない損失ですね」
次の瞬間。
私の中指の指輪から――カチッ。
と、歯車が噛み合うような、小さく心地よい音が響いた。
私の意思に応えた小さな魔法陣が、前輪の車軸の一点へ滑らかに展開し、古代の特殊鋼でできた重厚な車軸の角度が、ミリ単位の火花とともに一瞬で正しい位置へ収まったのだ。
ルイズ:「――はい、これで私の計算通り、完璧な燃費ですわ」
「……」
リーゼロッテは、お国への言い訳を考えることすら忘れ、口を開けたまま白目を剥いて石になっていた。 国家一級魔術師の重鎮の面目を粉々に砕いたうえ、熟練のドワーフ職人の領分である、肉眼では見えない車軸の歪みまで一目で看破し、その場で直してしまったのだから。
周囲で馬に騎乗していた護衛の女性冒険者たちも、愛馬の脇で、ひきつった戦慄の笑みを浮かべたまま、その場に凍りついていた。
トトは短い前肢をだらしなく組み、薄暗い王都の空を仰いで、魂の底から深いため息を吐き出した。
トト:「……もうワイは何も言わん。 ルイズはんが何気なく『遠足の準備』とか言うたらな、お国の最高峰の魔導馬車が、コンマ数秒で世の常識を置き去りにした怪物に化けるんや。 それが、この頭のおかしい首席の日常なんや。 もともと全部この全裸魔女のしわざやし、しゃーない……、しゃーないんやわ……」
カメ吉:(キュィィ……おかしいおかしいおかしい! 0.3ミリの歪みを肉眼だけで見切るって何やねん! ほんで何でもない顔して『カチッ』て直したけどな、あれ絶対『カチッ』で済む強さの魔法ちゃうやろ! 衝撃分散100パーセントって何やねん、明日からの旅路に隕石でも降る算段なんか、こわいわぁ!!)
トトが、怪しく美しく輝く深紅の馬車を見上げ、ぼそりと呟(つぶや)いた。

トト:「なぁ、自分。 何で出発前に、そこまで気合入れて他人の馬車をいじり倒したん?」
ルイズ:「――当然でしょう、トト」
私は旅行鞄を大事に抱えたまま、大真面目に答えた。
ルイズ:「長距離を移動するのに、車体の揺れで私の眠りが妨げられるのは、どうあっても見過ごせませんからね」
「……」
トトが、世の道徳心をすべて手放したような遠い目をした。
トト:「そういや自分、昨日の夜遅くまで研究室のベッドの上で、なんかブツブツ呪文みたいなん唱えながら、難しい数式いじっとった気がするわ」
ルイズ:「ええ、明日の移動にかかる費用を、最小にする計算をしていました」
トト:「……なるほどな。 要するに、馬車の中で一秒でも長く泥のように寝る気満々やったんやな」
ルイズ:「当然です。 時は金なり。 私にとって質の良い睡眠は、研究資金の損失を防ぐ最大の資産ですからね」
トト:「……ぐうの音も出んほど納得やわ、自分」
私は自らの仕事の出来栄えに深く満足し、光の消えた深紅の馬車の中へ、流れるように滑らかに乗り込んだ。
新調した下着を着けた私の背中を涙目で見送りながら、足元のカメ吉が、本日一番の情けない鳴き声を漏らす。
カメ吉:(――キュィィ……、納得して認めなや、トトはん! この全裸魔女、明日の二度寝の安眠のためだけに、国家一級魔術師の誇りと世の物理法則を笑顔で消し飛ばしたんやぞ! 目的と手段の釣り合いが最初から壊れとるわ、ボケ! どんだけ快適に爆睡したいねん! この大火力に付き合わされて、永遠の眠りに旅立つのは、他ならぬワイのほうやでぇ……、南無三!!)
シャルロット:「――では、ルイズさん。 支度も整ったようですし、そろそろ出発いたしましょうか」
シャルロットが、ドレスの裾をシートに整えながら優雅に微笑んだ。
リーゼロッテ:「はい、シャルロットお嬢様。 参ります」
御者席のリーゼロッテがようやく我に返り、プロのメイドとして手綱をしっかりと握り締める。 周囲を固める三人の屈強な女性冒険者たちも、無言のまま、引きつった顔のままで馬の背に跨(またが)った。
いよいよ馬車が動き出す――。
まさに、その瞬間であった。
エリオット:「――お、お待ちくださいッ!! どうか、今すぐその馬車を止めてくださいましーーーッ!!」
冷たく張り詰めた王都の空気を耳障りに切り裂く大声が、通りの向こうから響き渡った。

馬車を囲んでいた冒険者たちや、手綱を握るリーゼロッテを含めた全員が、不審そうに一斉に振り返る。
重苦しい警戒網の敷かれた王都の雑踏を、強引にかき分け、インクの染みた分厚い羊皮紙の束と魔導ペンを両腕に抱えた一人の男が、血走った狂信的な目をぎらぎらと輝かせ、こちらへ猛然と駆けてくるではないか。
シャルロット:「……はぁ、またあの、非常に鬱陶(うっとう)しい御方ですわね……」
シャルロットが、ドレスの襟元を押さえながら、あからさまに嫌そうな顔で小さく呟(つぶや)いた。
トト:「なぁ、シャルロットお嬢ちゃん。 あの全速力で突っ込んでくる怪しい男、どこの馬の骨や?」
トトが私の肩の上で尋ねる。
ジュリエット:「あの方はね、トトさん――」
背後のジュリエットが説明するより先に、その血走った目の男は、私たちの目の前の石畳へ、滑り込むような勢いで飛び込んできた。
エリオット:「――王立魔法大学・公式学内報『真実の探求者』編集部、最高主幹のエリオットです!!」
男は肩を激しく上下させて荒い息を切らしながらも、私の男物Tシャツの前に回り込み、ビシッと直立不動の姿勢を正して叫んだ。
エリオット:「ルイズ殿! どうか……っ! どうか、我が大学が誇る新たなる『聖女様』に、歴史的な特別独占取材の機会を頂戴したく、直談判に参りましたッ!」
シャルロット:「――断固として、お断りいたしま――」
シャルロットが名門公爵令嬢としての凍てつく眼光を向け、即座に断ろうとする。
――だが、しかし。
ルイズ:「……取材、ですか?」
私は、激安の旅行鞄を抱えたまま、少しだけ自らの知名度と宣伝効果に興味を惹(ひ)かれ、首をコテンと可愛らしく傾げてみせた。

エリオット:「はいっ、そうです、ルイズ聖女様ッ!」
エリオットの血走った両目が、私のその気配に、待ってましたとばかりに狂信的な光を帯びてぎらりと輝いた。
エリオット:「お国が国家最高異常事態宣言を発令し、王都全土に多重防魔結界が張られ、軍が第一迷宮を完全封鎖しているこの有事に――我が学廷の最高英雄たる聖女様が、これから次に向かう隠密の目的地と、そこに秘められた世界を救うための崇高なる使命について、ぜひ我が紙面を通じて数万人の読者へ、その第一声を賜りたく存じますッ!!」
私は感情を排した、至って平然とした顔のまま、一言で事務的に答えた。
ルイズ:「――温泉です」
「……」
エリオットの、羊皮紙の上を走ろうとしていた魔導ペンの先が、世界の崩壊を悟ったかのように、ピタリと止まった。
これから歴史的な真実を書き殴ろうとしていた分厚い紙束を持つ手も、動きを失う。 男の呼吸すら、一時的に途絶えたかのように見えた。
「…………」
数秒の、濁った沈黙。
遠くで警報音がチリチリと鳴り響く朝の王都の物々しい喧騒だけが、私たちのあいだに生まれたシュールな静けさの間を、空虚に通り過ぎていく。
やがて――。
エリオットの血走っていた瞳の奥が、新聞記者として絶対に踏み込んではならない、異様な熱を不気味に帯び始めたのだ。
エリオット:「……お、おぉ……、なんという……何ということだ、これは……っ!!」
男の喉の奥から、ガタガタと震える声が漏れる。

彼の全身から溢(あふ)れ出す、正気を疑うただならぬ暗い気配を肌に感じ、トトは思わず私の肩の上で一歩後ずさり、自らの丸い腕をさすった。
トト:(……あ、あかんわ、ルイズはん。 この新聞記者の目の色な、さっき魔改造した衝撃分散100パーセントの馬車の数値よりも、遥かにヤバい領域に振り切れとるわ。 ……これ絶対、頭の中で、ろくでもない破廉恥な深読みを完成させとるで、ガチでこわいわぁ……っ!)
私の男物Tシャツの裾の陰では、カメ吉にいたっては、エリオットの全身から放たれる独特の変態の気配を野生の勘で敏感に察知し、甲羅の中へ引きこもってガタガタと小刻みに震え出していた。
カメ吉:(――ヒィィィィィィィィッ!! シャルロットお嬢ちゃん、助けて! 紳士の皮を被った超弩級の変質者が乱入してきたァァ! 『温泉』って、ただのタダ飯付きの二文字聞いただけで、何でそこまで赤ん坊みたいに感動に打ち震えとんねん! 怖すぎるわ! 頼むからその不穏なペンを床に置いて、今すぐ回れ右して実家へ帰ってや、ガチでぇ……っ!)
そんな小動物たちの戦慄など露知らず――エリオットは突如、天を仰いで熱烈に声を張り上げた。
エリオット:「――『温泉』……、なるほど、それこそが真実の暗号ですか……!!」
私が男物Tシャツの襟元を押さえながら、コテンと首を傾げて瞬きをする。
エリオットは、魔導ペンが真ん中からへし折れんばかりの凄まじい握力で、分厚い羊皮紙の束を握りしめた。
エリオット:「俗世の穢(けが)れた衣を、すべて無慈悲に脱ぎ捨て……っ!」
ルイズ:「……? 何を言っているのですか?」
エリオット:「一物も持たぬ無一物の白磁の素肌で、大地の霊脈たる力と一つになる……!!」
「…………」
エリオット:「これぞ、現世の不条理な人類に唯一許された――!!」
エリオットの筆先が、羊皮紙の上を摩擦熱で燃え上がらんばかりの猛烈な速さで走り始める。
エリオット:「――【 不可避の完全全裸・聖水儀式(ミソギ)】……!!」
ルイズ:「……何ですかそれは、極めて非科学的で破廉恥な理屈ですね」
私の至極真っ当なツッコミは、すでに常識の外へ飛び出している彼の耳には、少しも届いていなかった。
エリオット:「なるほど、すべて腑に落ちました……!!」
エリオットは自らの妄想の中で、一人で話を完結させ、一人で納得している。
エリオット:「聖女ルイズ様は、王都の多重防衛結界が完成するまでのわずかな空白の時間を利用して、自らの高潔な肉体を聖水で清め、新たなる『神聖なる全裸の力』を最大まで充填されるおつもりなのだ……!!」
「…………」
エリオット:「しかも、王宮の上層部に気づかれぬよう、それを敢えて『温泉旅行』という世俗の暢気な言い訳に偽装して、大衆と他国の間者の目を欺(あざむ)いている……! なんという、世界の理を一人で背負う、美しき自己犠牲(ノブレス・オブリージュ)なのかしら……っ!」
ルイズ:「偽装なんて一クローネ分もしてませんけれど。 ただお肉を食べて温泉に入りたいだけですし」
私は静かに事実を述べて彼の妄想を否定した。 だが、エリオットの耳は、すでにまっとうな声を拾う働きを完全に閉ざしていた。

エリオット:「何という、深遠な含み……!」
書く。 書く。 とにかく羊皮紙に、狂ったようにインクを書き殴る。
エリオット:「この聖女様の全裸の真実は、一刻も早く王都の不景気で不安に怯(おび)える民草に伝えなければ……っ!」
シャルロット:「いや、ちょっと待ってください、エリオットさん! それ絶対に学内報に載せてはならない破廉恥な記事ですわよ!」
シャルロットが、さすがに公爵家の名誉に関わる危険を肌で感じ、ドレスの裾を揺らして止めようとする。
――しかし、時すでに遅し。
エリオット:「――では、私はこれにて失礼します!!」
エリオットはそれだけを大音量で叫ぶと、猛烈な速さで踵(きびす)を返し、警戒網の敷かれた王都の雑踏の中へ、大砲から射出された砲弾のような勢いで走り去っていった。
その狂信的な背中が、あっという間に人混みの向こうへ吸い込まれて消える。
深紅の高級馬車の前に残された私たちは、しばらくのあいだ、言葉を失って立ち尽くしていた。
ルイズ:「……一体全体、何だったんでしょうね、あの無駄に熱量の高い御方は」
私がポツリと、旅行鞄を抱え直して呟(つぶや)く。
トト:「ワイに聞くな。 ただの救いようのない特級の変質者やろ」
私の肩の上で、トトが即座にジト目で切り捨てた。
シャルロット:「さあ……? 名門の知性をもってしても、説明のつかない怪奇現象ですわね……」
ドレス姿のシャルロットも、出発前にすっかり気力を削り取られたように、疲れた様子で首を傾げたのだった。

だが――私の男物Tシャツの裾の陰で、カメ吉だけは、これから自分たちを待ち受けるであろう 「尊厳ごと吹き飛ぶ学内報」 の最悪の未来を、はっきりと脳裏に描いて、甲羅を激しく震わせていた。
カメ吉:(――キュィィィィィィィィッ!! アカンアカンアカン、終わったわ! えらいことになる流れやがな!! あの血走った目のブン屋、明日の一面トップに『ルイズ聖女、世界の危機を救うため、神聖なる全裸で王都を救う!』って書く気満々やったぞ! ワイらが公爵家の豪華な温泉地に着いて一流シェフのタダ飯を貪(むさぼ)っとる頃にはな……王国じゅうのギルドの手配書に、ただの『集団露出狂のテロリスト』として載っとるんちゃうかァァ!? 誰かあの変態記者を、力ずくで今すぐ止めてぇなァ、ホンマに不条理やわぁ!!)
そんなニート魔獣の生存の恐怖の絶叫など知る由もないメイドのリーゼロッテが、長いまつ毛の目をパチパチと瞬かせ、御者席から振り返って丁寧な声で声をかけた。
リーゼロッテ:「……シャルロットお嬢様。 少々おかしな不審者が乱入いたしましたが、予定通り、別邸へ向けて出発いたしますね?」
シャルロット:「ええ、リーゼロッテ。 不快な出来事は忘れて、すぐにお願いしますわ」
――こうして。
王都の中央では国家最高異常事態宣言の警報が最大音量で鳴り響き、市民たちが未知の天災への恐怖にブルブルと震え上がっている、まさにその真っ只中で。
私たち一行は、何事もなかったかのように、極めて優雅に深紅の最高級馬車への乗り込みを終えたのだ。
リーゼロッテ:「では、これより馬車を発車いたします」
リーゼロッテが、洗練された動作で手綱を軽く握り締める。
車軸の角度を直された頑強な四つの車輪が、冷たい石畳の上を静かに回り始める。
私の指輪によって一分の無駄もなく組み直された公爵家の特製馬車は、以前の国家一級魔術師の設計とは比べものにならないほど滑らかに、走行の揺れもまるでなく、氷の上を滑るように街道へ滑り出していった。
私は、極上の魔導スプリングが効いたふかふかの高級革座席へ、華奢(きゃしゃ)な身体を深く預ける。

ルイズ:「……完璧な衝撃分散ね。 それでは、目的地に到着するまでのあいだ、私は眠ります」
トト:「――寝つくのが早すぎるやろ、自分ッ!!」
トトの切れ味抜群のツッコミが、防音の効いた高級車内に虚(むな)しく響き渡る。
私は、一切の揺れが遮られた心地よい静けさのなかで、ゆっくりと目を閉じた。
カメ吉:(――キュィ……、ホンマに一瞬で寝よったで、この全裸魔女! さっき一級魔術師の面目を粉々に砕いて、車軸の0.3ミリの歪みまで見抜いて直して作った『完璧なプライベートベッド』の成果がこれかいな! 王都の滅亡の瀬戸際を世界の彼方に置き去りにして、自分だけ別荘のマイナスイオンを吸う気満々やん! 頼むから一クローネ分くらいは後ろ髪を引かれるまっとうな人間性を発揮してぇなァ、ホンマに不条理やわぁ……)
王都の通りでは、明日からの不景気と不安に揺れる人々がいる。
未知の脅威(※なお原因はただのドケチ女子学生のおパンツ)に備え、血の気の引いた顔で剣を構える王国正規騎士たちがいる。
国家の命運を両肩に懸け、肺から血を吐くような詠唱で幾重もの防魔結界を築き上げようとしている宮廷魔導士たちがいる。
――そして。
その彼らが決死の覚悟で防衛線を敷いているすぐ傍らの街道を。
ルイズの安眠へのドケチなこだわりによって、もはや国家予算級の性能に化けた公爵家の最高級魔導馬車が、美味しいタダ飯と保養温泉を目指して、どこまでも平和に、滑らかに走り抜けていく。
私は――もう世界の喧騒など少しも届かない、深く、深い、極上の黒字の眠りのなかにいた。

ルイズの手で最適化された深紅の馬車が、王都の巨大な防壁を滑らかに抜け、どこまでも続く街道へ出る頃には、車窓の景色は劇的に変わり始めていた。
王都特有の、息の詰まるような冷たい石造りの街並みがぷつりと途切れ。 警報に張り詰めていた人々の波が薄れ。 やがて街道の両脇に贅沢に広がり始めたのは――見渡す限りの、豊かな緑を湛(たた)えた広大な農地であった。
まるで数学者が計算し尽くしたかのように、整然と美しく区画された畑。 その合間を毛細血管のように縦横に巡る、澄んだ水路の煌(きら)めき。 街道に等間隔で並び、夜道の安全を支える魔導灯の列。 遥か地平線の彼方では、公爵家自慢の巨大な農業用の魔導機械が、大地の恵みを掘り起こすように、ゴトゴトと静かに土を耕している。 王国屈指の富を誇る、ヴァーミリオン公爵領の美しい原風景であった。
シャルロット:「……もう、王都の物々しい尖塔は、すっかり見えなくなりましたわね」
シャルロットが、仕立ての良いドレスの裾をふわりと揺らし、窓の外ののどかな田園を眺めながら静かに呟(つぶや)いた。
その声からは、先ほどまで王都の張り詰めた空気に当てられていた緊張が、実家の土地に入った安心感からか、少しだけ優しくほどけていた。
――その対比として。
ルイズ:「……すぅ……、すぅ……」
私の隣の座席では、首席魔女・ルイズが、すでに深い眠りのなかにいた。
自ら 「二度寝の妨げを防ぐ」 というただそれだけの目的で書き換えた馬車の恩恵は絶大で、車輪から伝わるはずの揺れも不快な突き上げも、この世に存在していない。 ルイズは大きめの男物Tシャツのまま、新調した下着の着け心地にも一切の違和感を覚えず、極上のスプリングを備えた革座席へ華奢(きゃしゃ)な身体を深く預け、さも世界で一番満ち足りた人間であるかのように、無防備にスースーと上品な寝息を立てていた。
トト:「……この切り替えの早さは、見事すぎるやろ、自分」
トトが、あまりに無警戒な元凶の寝顔をジト目で見つめ、心底呆(あき)れ果てたようにボソッと呟いた。

トト:「ほんまにな……。 王都中の大人がガタガタ震えとるあの騒ぎが、自分の放ったおパンツ水蒸気爆発のせいやなんて、これっぽっちも思ってへんのな、この全裸バーサーカーは」
足元のカメ吉も、窓の外ののどかな風景と、目の前で爆睡する諸悪の根源の顔を、冷や汗を流しながら交互に見比べた。
カメ吉:(――キュィィ……、窓の外は最高に平和で桃源郷やけどな、ワイの隠居ニートの心臓は、さっきから不吉な警鐘を鳴りっぱなしにしとるで、トトの兄貴! こんな絵に描いたような『嵐の前の静けさ』を見せられたらな、この後、絶対に衣服が全部吹っ飛ぶようなロクでもない事件に巻き込まれるに決まっとるんや、ガチでこわいわぁ!)
トト:「せやな、新入りの言う通りや。 まぁ、でもな、この全裸魔女が大人しく寝とる間くらいは、ワイらも面倒事から離れて、のんびりタダ飯旅行気分を味わわせてもらおか」
そんな二匹の不憫(ふびん)なマスコットの必死の現実逃避をよそに、シャルロットは窓の外へ、真剣で、どこか慈愛に満ちた視線を静かに戻した。
さらにしばらく進むと、車窓の景色はますます豊かに移り変わっていく。
広大な農地の向こうに、活気のある集落が見え始め、やがて、美しく整備された地方都市の壮麗な輪郭が姿を現した。
上質な魔力で静かに動く、効率のよい物資の輸送設備。 領内の特産品を市場へ運ぶ、規則正しく並んだ大型の魔導荷車の列。 街道沿いに塵ひとつなく清潔に並ぶ宿場町と、地元の冒険者たちが情報を交わし合う、機能的で無駄のないギルドの出張所。
王都の、すべてを飲み込むような威圧的な建築群の騒々しさはここにはない。 けれど、そこに暮らす人々の毎日に必要なものが、高度な数式で計算されたかのように無理なく、豊かに、美しい秩序をもって収まっていた。
シャルロットは、見慣れた故郷の景色を、我が子の成長を確かめるように、一つずつ愛おしむように琥珀(こはく)色の目で追っていた。
シャルロット:「――ルイズさん、あちらの水路ですけれど」
シャルロットが、揺れひとつない窓ガラス越しに、白く細い指先を優しく向けて微笑む。
シャルロット:「昨年、領内の水害対策として、わたくしが少しだけ、水の流れを導く術式を効率よく改修させましたのよ」
「……」
しかし、革座席からは一言の返事も返ってこない。 ルイズは周囲の音をすっかり遮断して、彼女の領地自慢など一言も聞いていなかった。 ただ、健やかにスースーと眠っている。

シャルロット:「……ふふ、やっぱり少しも聞いていませんわね」
トト:「聞いとらんな、お嬢ちゃん。 アイツは今ごろ夢の中で、明日むしり取る予定のドロップ素材とおパンツの等価交換の計算でも回しとるんやろ、ガチで」
トトが即座にジト目で答えた。
シャルロットは優しく頬を綻ばせ、クスクスと楽しそうに苦笑する。
シャルロット:「まあ、そうですわよね。 だって、ルイズさんですもの。 お肉とお金とタダ飯のこと以外には、最初から興味をお持ちでないのですわ」
――それでも彼女は、誰に聞かせるでもなく、愛する領地の話を、誇らしげに語り続けた。
シャルロット:「あの辺りの広大な農地は、今年から作付けの割合を少し変えておりますの。 昨年の収穫を冷静に比べた結果、こちらの土に合う作物を増やした方が、経済的にも領民の栄養の面でも良いと判断いたしましたので」
トト:「ほえぇ……、大したもんやな」
トトが、赤い瞳を少し意外そうに丸くして、感心した声をポツリと漏らした。
トト:「お嬢さん、ただの着飾っとるだけの名門の令嬢かと思うとったけど……。 ほんまに自分の領地のこと、端から端までよう愛して見とるんやな」
シャルロット:「当然ですわ、トトさん」
シャルロットは、ドレスの襟元にそっと手を添え、窓の外の豊かな大地を眺めたまま、ヴァーミリオン家の誇りを胸に毅然(きぜん)と答えた。
シャルロット:「ここは、わたくしの家だけが贅沢をするための、ただの土地ではありませんもの。 ここに生きるすべての領民たちの、尊い暮らしそのものですわ」
その高潔な言葉に、向かいの座席に並んで座っていたマリアンヌとジュリエットが、我が事のように誇らしげに顔を見合わせた。
カメ吉:(――キュィィ……、お嬢ちゃん、その公爵令嬢としての後光が眩(まぶ)しすぎるわ……! 教科書に載っとるような完璧な領主様が、この馬車のなかに普通に座っとるがな! 横で白目剥いて爆睡しとる全裸魔女とは、道徳心が桁違いやわぁ……っ)
マリアンヌ:「ふふ、昔からずっとそうですのよ、シャルロットお嬢様は」
マリアンヌが、ドレスの裾を揺らしてクスリと楽しげに笑う。
ジュリエット:「ええ、本当にその通りですわ」
ジュリエットも深く頷(うなず)いた。
ジュリエット:「まだお小さくて可愛い盛りの頃から、シャルロット様は御伽話(おとぎばなし)の絵本よりも、領地の魔導地図や毎月の収支報告書の巻物ばかりを、それはもう楽しそうに眺めておられましたもの」
シャルロット:「……ちょっと、マリアンヌ、ジュリエット。 そんな子供時代の恥ずかしい話を、今ここで使い魔たちの前で披露しなくてもよろしいでしょう?」
シャルロットの透き通るような白い頬が、照れくささにほんの僅(わず)かに、薔薇(バラ)のように赤く染まる。

マリアンヌ:「だって本当のことですもの。 三人で王都の街へお買い物に行った時も、お嬢様はいつの間にか『マリアンヌ、この辺りの水路の魔導回路、設計が古くて魔力を無駄に失っていますわね』なんて大真面目に言い出していましたわよね」
シャルロット:「マリアンヌ!」
ジュリエット:「わたくしも鮮明に覚えておりますわ」
ジュリエットが淡々と、しかし琥珀色の目を楽しげに輝かせて追撃する。
ジュリエット:「華やかな市場へ行けば、ドレスそっちのけで商人の店先の仕入れの流れを観察して分析し、のどかな農村へ行けば、畑の土の具合を確かめて。 結局、私たちがお嬢様と純粋に遊んでいるのか、それとも次期領主としての過酷な視察の勉強に付き合わされているのか、時々分からなくなっていましたわね」
シャルロット:「……もう結構ですわ、二人とも、そのお口を閉じてくださいな」
シャルロットが、ドレスの襟元を押さえて照れ隠しのように小さくため息をつく。
シャルロット:「すべては、魔導の数式を学び始めたばかりの子供時代の昔話ですもの」
トト:「いや、お嬢ちゃん、それ今も全然変わってへんで」
トトが、私の肩の上から容赦なく事実を指摘した。
トト:「むしろな、学廷に入って責任感が増したせいで、昔よりその領地オタクの症状がひどくなっとんちゃうか、自分」
シャルロット:「一体どういう意味ですの、トトさん?」
トト:「せっかくの夏休みのバカンスやのに、さっきから窓の外を見るそのつぶらな瞳がな、完全にプロの『領地視察の監査官の目』になっとるやんけ」
「……っ」
シャルロットは、鋭すぎるツッコミに少しだけ図星を突かれたように美貌をピクリと硬直させ、それから、ふいっと誤魔化すように、慌てて窓の外ののどかな風景へ向き直った。
深紅の馬車が、美しく整備された地方都市の賑やかな中央街道を静かに進む。 すると――遥か前方の通りの向こうから、活気に満ちた明るい領民たちの笑い声が、風に乗って聞こえてきた。
子供:「……あれ? あの、揺れひとつない豪華な馬車は……っ」
街道脇の広場で楽しそうに遊んでいた子供の一人が、日の光を浴びて高貴に輝く、ヴァーミリオン公爵家の大鷲(おおわし)の紋章を刻んだ深紅の馬車に、真っ先に気づいた。
その子が、パッと瞳を喜びで爛々(らんらん)と見開く。
子供:「――あっ、シャルロットお嬢様だ! お嬢様の馬車が王都から帰ってきたぞ!」
弾けるような無邪気な歓声が、水面の波紋のように、瞬く間に周囲の大人たちへ広がっていった。
領民:「何だって、シャルロット様がお帰りだぞ!」
領民:「シャルロットお嬢様ーーーッ!」
賑やかな通りを行き交う人々が、次々と歓声の方へ驚いて視線を向ける。

深紅の馬車を目にした領民たちは、権力者を畏(おそ)れて石畳に平伏するような硬さなど微塵も見せず、驚くよりも先に、皆が一様に、花が咲いたような明るい満面の笑顔を浮かべたのだ。
シャルロットは、窓のガラスを白く細い指先で少し滑らかに下ろした。
シャルロット:「――皆さん、お元気そうで何よりですわ。 王都からの帰り道、皆さんの健やかなお顔を拝見できて安心いたしましたわ」
領民:「あぁ、お帰りなさいませ、シャルロットお嬢様!」
領民:「お嬢様、お嬢様! 今年もおかげさまで、ヴァーミリオンの畑は最高の出来で順調に実っていますよ!」
シャルロット:「それは本当に良かったですわ。 今年は天候にも恵まれて、わたくしも安心しましたの」
シャルロットは、窓から華奢な身を乗り出すようなはしたない真似はせず、名門公爵令嬢としての気品を保ちながら、しかしどこまでも自然な美しい笑みで領民たちへ優しく手を振る。
その佇まいは、この肥沃(ひよく)な土地の領民たちに魂の底から愛される、若き次期領主そのものの、揺るぎないカリスマであった。
窓の外から押し寄せる、領民たちの心からの笑顔と地響きのような大歓声に、トトは深く感じ入ったように丸い腕を組んだ。
トト:「へぇ、これはすごいやん……。 権力へのお決まりの敬意やなくて、みんなほんまにお嬢さんのことが人として大好きなんやなぁ。 まるで、戦に勝って帰ってきた英雄の凱旋パレードやがな」
カメ吉:(キュィィ……ほんまや、シャルロットお嬢様は、ヴァーミリオン領の支持率100パーセントの聖女様やで! ほんで、これだけの大歓声のなかでも、ピクリとも動かず爆睡かましとるルイズはんの図太さは何なん!? 自分で衝撃分散100パーセントに魔改造した結果が、まさか主人の眠りを守る最強の結界として働いとるとは、外の領民は誰も思わんやろなァ、不条理やわぁ!!)
そんな二匹の感心と呆れを乗せた馬車は、温かい声援に心地よく包まれながら、中央街道の石畳を滑るように進んでいく。
シャルロットは、通りにいた小さな子供へ優しく笑いかける。 重い荷物を背負って歩く、腰の曲がった老人にも、窓越しに自ら声をかけた。
シャルロット:「――おじいさん、今年は夏の暑さもありますし、無理をしてお身体を酷使してはいけませんわよ。 去年の冬に痛めていらしたお腰の具合はいかがですの?」
老人:「あぁ、これはこれはシャルロットお嬢様……っ! おかげさまで、あの時お嬢様が特別に手配して送ってくださった、最高級の防魔薬草の湿布のおかげで、もうすっかり大丈夫でございますよ、ありがたや……っ!」
シャルロット:「ふふ、それなら安心しましたわ。 どうぞこれからも無理のないように、お身体を大切になさってね」
――それだけの会話である。
貴族として、大仰で押し付けがましい施しや、これ見よがしな慈善のポーズをしているようには、どう見ても見えない。

けれど。 シャルロットは、目の前に現れた領民の一人ひとりの顔と名前を、しっかり胸に刻んでいる。 それぞれがこの領地で営む日々の仕事を、正確に覚えている。 それどころか、去年の冬に負った些細な怪我のことまで、少しも取りこぼさず覚えていて、寄り添っているのだ。
名門ヴァーミリオン家の誇りをその血に宿すシャルロットにとっては、自らの尊厳を守ることと同じくらい、それが領主として、一人の高貴な人間として当たり前の務めなのだろう。
向かいの席でその横顔を見ていたマリアンヌが、取り巻きとして誇らしげにクスリと小さく笑った。
マリアンヌ:「シャルロットお嬢様、本当に領民の皆さんのお顔とお名前を、すべて覚えていらっしゃいますわね」
シャルロット:「――覚えておくのが、当然の務めですもの」
シャルロットはドレスの袖を整え、さも当たり前のことのように琥珀色の瞳を向けた。
シャルロット:「領地を預かる側の人間が、そこで汗を流して懸命に暮らしている方々の顔さえ知らないのでは、そもそも上に立つ資格がありませんわ」
その一切ぶれのない毅然(きぜん)とした言葉を隣で聞いていたトトが、いつもの下品な茶化しを封じ、少し真面目な顔で赤い瞳を細めた。
トト:「……なんや、お嬢さん」
シャルロット:「何かしら、トトさん。 わたくしの言葉に何か間違いでも?」
トト:「いや、ほんまに、お国の上層部がひっくり返るくらい立派な公爵令嬢なんやなぁって、今さらながらに感心したわ」
シャルロット:「どういう意味ですの、それ。 わたくしはいつでもヴァーミリオン家の誇りにのっとって行動していますわよ」
トト:「いやいや、悪い意味ちゃうで」
トトは短い前肢で、丸い頭をぽりぽりと掻(か)いた。
トト:「ワイらの知っとる貴族の『お偉いお嬢様』ってな、自分の服や下着の予算のことしか考えんと、弱い立場の人間を踏みつけにして踏ん反り返っとる連中やと思っとったからな。 ……ほんま、一人のオスとして感心したわ」
シャルロット:「極めて失礼ですわね、わたくしをどこの馬の骨の令嬢だと思っていますの。 王立最高峰の筆記次席ですわよ」
シャルロットはむっとしたように白磁の唇を可愛らしく尖(とが)らせてみせた。
――だが、その横顔には、怒りよりも、真っ直ぐに本質を褒められたことへの、どこか照れくさそうな乙女の色が綺麗に混ざり合っていた。
やがて、一行の深紅の馬車は、賑やかな地方都市の区画を滑らかに抜け、凶悪な魔物の棲(す)む《魔の森》と境を接する、張り詰めた領境(りょうざかい)の一帯へと近づいていった。

冷たい街道の先に、いかなる魔物の大暴走にも耐えうる、強固な花崗岩(かこうがん)造りの軍事検問所が見えてくる。 そこを守る数人の屈強な王国正規憲兵たちが、馬車の接近を鋭く見定め――。
憲兵:「……あっ、あの最高級の魔力の気配は……っ」
防魔の槍(やり)を構えていた若い憲兵が、驚きに弾かれたように声を上げた。
憲兵:「――ヴァーミリオン公爵家の特製馬車だ! シャルロットお嬢様のご帰還であるぞッ!」
その一声とともに、憲兵たちが、長年の訓練で培われた一糸乱れぬ動きで素早く整列した。 数々の歴戦の傷跡を顔に刻んだ、分隊長らしき頑強な男が一歩前へ出て、直立不動の敬礼を掲げる。
分隊長:「――王都での実習、お帰りなさいませ、シャルロットお嬢様! ただいまより、当検問所は全面的に道をお開けいたします!」
シャルロット:「日々の過酷な警備、本当にご苦労さまですわ。 あなたたちのおかげで、我が領の治安は今日も保たれています。 心から感謝いたしますわね」
シャルロットが、馬車の窓から高貴な労(ねぎら)いの微笑みを向ける。
どこまでも高貴でありながら、決して公僕を見下して威張らないその美しい態度に、出迎えた憲兵たちも、己の職務への誇らしさと嬉しさをその表情に浮かべていた。
その規律正しく、かつ温かい歓迎の空気に、トトはまたしても感心したように髭(ひげ)を震わせる。
トト:「へぇ、すごいやん……。 最前線の検問所のゴツい兵隊さんらまで、お嬢さんの魅力にメロメロやんけ。 領地じゅうに、シャルロット教の熱狂的な信者が詰まっとるみたいやなぁ」
カメ吉:(――キュィィ……、このヴァーミリオン領、治安が良すぎるわ……っ! 検問所の憲兵のあんちゃんらもな、背筋がピンと一本の線みたいに伸びてて、無駄に清潔感があって爽やかやし! ……まさか、噂の『市井のイケメン』って、ここのお堅い憲兵のお兄さんたちのことちゃうやろなァ!? 公務員まで顔も行いもイケメンやったら、働きたくない隠居ヒモのワイのヘタレっぷりが、ますます浮いてまうわ、ガチでこわいわぁ!!)
カメ吉が、ニートとしての己の存在意義の崩壊に絶望し、ガタガタと甲羅を震わせて再び首を引っ込めた。
シャルロット:「――隊長、最近この付近の街道の様子はいかがですの?」
分隊長:「はっ、大きな問題や不審な気配は確認されておりません。 領内の結界も、最大の出力で正常に働いております」
傷跡のある分隊長は、直立不動の姿勢のまま力強くそう答えた。
――だが、その会話が交わされた、まさにその時であった。

伝令憲兵:「――た、隊長ーーーッ!!」
少し離れた《魔の森》の不気味な境の茂みから、伝令の若い憲兵が、血相を変えて蒼白な顔で駆けてきたのだ。
伝令憲兵:「街道の前方、約二キロ先の第参区画に、魔物の不法な侵入を確認しました!」
その報告が届いた刹那、領境の検問所を満たしていた空気が、一瞬にして刺すような『戦い』のそれへと切り替わった。
居並ぶ憲兵たちが、流れるような動きで、即座にそれぞれの防魔の槍やクロスボウを手にする。
分隊長:「敵の数は分かるか!」
伝令憲兵:「目視できた範囲では、およそ十体前後! 小型の狂犬から中型の上位オークまで含めた、不自然な混成の群れです!」
分隊長:「分かった。 総員、迎撃の陣を敷け!」
隊長が一切の迷いなく、淀みない冷静さで指示を下す。
そして――。
分隊長:「シャルロットお嬢様」
シャルロット:「――わたくしも、ヴァーミリオン家の誇りにのっとって前線へ加勢いたしま――」
シャルロットが、ドレスの裾を翻し、愛用の魔導杖(ロッド)を抜いて馬車から降りようとした、まさにその時。
分隊長:「――いいえ。 ここは、我々公僕にすべてお任せください、お嬢様」
分隊長が、静かに、しかし己の職務への揺るぎない自信と誇りを込めて、主人の前進を片手で制したのだ。
シャルロット:「ですが、隊長……。 相手は第四層からの逆流と思われる、混成の十体も……」
分隊長:「この美しいヴァーミリオンの土地と、我が領の希望であるお嬢様の安全を守ること。 それこそが、我々に課せられた務めですからね」
そこには、一片の恐怖の震えも、一瞬のためらいもない、職務への誇りに満ちた声があった。
分隊長:「どうぞ、お嬢様。 王都から連れていらした大切なお友達とご一緒に、このまま静かで揺れのない、快適な馬車の旅をお楽しみください」
「……」
シャルロットは、傷跡のある隊長の、少しも揺るがぬ気高い顔をじっと見つめた。 隊長は、敬礼を掲げたまま、彫像のように微動だにしない。 背後では、すでに憲兵たちが、完璧に統率の取れた動きで泥水を跳ね上げ、前線へ猛然と走り始めていた。

さらに――検問所付近の宿場町に待機していた、ギルド所属の一般の冒険者たちまでもが、緊迫した空気を肌で察し、一言の私情も挟まず、無言でそれぞれの使い込まれた大剣や弓を手に立ち上がっているではないか。
一人。 また、一人。
誰かが大声を張り上げて、報酬をちらつかせて指揮を執るわけでもない。 吟遊詩人の英雄譚のような、安っぽい決め台詞を叫んで虚勢を張るわけでもない。
ただ、ここに生きる一人ひとりが、今この場で自分が守るべき役目を心得ていて、それが世の当たり前であるかのように、粛々と、しかし力強く動いていた。
自らの腕前を誇示するでもなく、ただ当然のことのように武器を握る。 美しい公爵令嬢の前で 「いい格好」 をしようという世俗の下心など、微塵も感じさせない。 己の重い職務を黙々と全うする男たちの頼もしい背中に、トトは深く感服したように丸い顎を引いた。
トト:「……あかん、勝てんわ。 なんやねんこのヴァーミリオン領、末端の兵隊さんから流しの冒険者のお兄ちゃんまで、全員『黙って背中で語る系の本物のイケメン』なんか。 生き様が渋すぎるわ、ホンマに不条理やわ……!」
カメ吉:(キュィィ……普通こういう時ってな! 『お嬢様の前で手柄立てて顔を売ったるでぇ!』って打算でイキるクソザコが、一人くらい混ざっとるもんやん! なんで全員が『ここは任せてお嬢様は先に行け』を自然体でやっとんねん! ヴァーミリオン領の男の株価が、天井突き破ってストップ高になってまうわァ!!)
シャルロット:「……分かりましたわ、そこまでおっしゃるのなら」
やがてシャルロットは、男たちの背中に宿る揺るぎない信頼に身を預け、小さく優雅にドレスの胸元を押さえて頷(うなず)いた。
シャルロット:「くれぐれも、皆さまご無理だけはなさらないように」
分隊長:「――はっ、承知しております、お嬢様」
傷跡のある分隊長は、もう一度深く美しい敬礼を掲げると、一瞬のためらいもなく、仲間たちとともに街道の先の戦場へと向かっていった。
シャルロットが、防音の施された馬車の窓を静かに閉める。
少し離れた《魔の森》の生い茂る木々の奥から、くぐもった、しかし激しい戦いの音が響いてきた。 剣のぶつかる硬い響き。 短い多重の詠唱と爆ぜる音。 そして、侵入してきた魔物どもの悲痛な断末魔。

――だが、それらの物音も、長くは続かなかった。
ジュリエット:「……もう、戦闘は終わったみたいですわね」
取り巻きのジュリエットが、再び静けさの戻った窓の外を、琥珀色の目で冷静に見つめる。
トト:「手際が速いなぁ、連携が鮮やかや。 流石はお嬢さんの領地を守る精鋭やで」
トトも、ジト目を細めて感心する。
それから程なくして、愛用の大剣に付いた魔物の紫の腐血を綺麗に拭い取った先ほどの分隊長が、息ひとつ切らせていない平然とした顔で、御者席の傍らへ戻ってきた。
分隊長:「――周辺の掃討、完了いたしました、シャルロットお嬢様。 街道の安全は、私どもの手で確実に確保されております」
シャルロット:「そうですか、怪我人が出なくて本当によろしかったですわ。 流石はわたくしの自慢の憲兵隊ですわね」
シャルロットは安堵(あんど)したように、白磁の胸からそっと息を吐き出した。 そして、ほんの少し眉を曇らせ、一人の次期領主としての鋭い眼差しを男へ向ける。
シャルロット:「……少し気になりますわね。 最近、この領境で、魔物の出没が異常に増えているのかしら?」
分隊長:「はっ。 王都の記録と比べれば、以前より僅(わず)かにですが、出没の頻度は増えております」
隊長は、一人のプロの兵士として、事実を隠さず淡々と答えた。
分隊長:「ただ、それを見越して、周辺の結界の出力も引き上げておりますし、今のところ、領地運営や商人の流通に致命的な支障が出るほどの損害はございません。 ご安心ください」
シャルロット:「そう、それなら良いのですけれど……」
シャルロットは、隊長の冷静な報告を聞いて、しばらく車内で無言のまま考え込んだ。
そして――。
シャルロット:「――分かりましたわ、隊長」
ドレスの裾をシートの上でふわりと揺らし、短く気品高く頷く。

シャルロット:「これ以上、魔力の流れの乱れや、何か異常な変化を見つけましたら、夜間であろうと即座に、わたくしの滞在する別邸へ特急の伝令を走らせて知らせてくださいませ」
分隊長:「――はっ、公爵家のご命令、しかと胸に刻んでおります!」
傷跡のある隊長が、もう一度深く、忠誠の頭を下げた。
ルイズの手で極限まで無駄を削がれた深紅の馬車が、再び揺れひとつなく、静かに、滑らかに走り出す。
シャルロットは、何かを思案するように、顎に白く細い指先を当てながら窓の外をじっと眺めていた。
先ほど目の前で起きた、第四層の魔物の混成の群れによる突発的な侵入。 以前よりも確実に、少しずつ出没が増えているという現場の生々しい実感。 そして――王都の中枢で今まさに大人たちが震え上がっている、『大地の番人の消失』という国家最高異常事態宣言の不穏な報せ。
そして、自らが何よりも愛する、この穏やかで秩序ある豊かな土地。
何かが、自分たちの預かり知らない魔導の深淵で、少しずつ、しかし引き返せない速さで、世界のありようそのものを塗り替え始めている。 そんな、一人の次期領主としての冷たい予感が、彼女の胸の奥底へ、小さな不穏な影を落としていた。
――まさに、その国家の命運を案じていた同じ時。
ルイズ:「……すぅ……、すぅ……」
私の隣の座席では、首席魔女・ルイズが、未だ深い眠りを続けていた。
微動だにしない。 目覚めの気配すら一つもない。

トトがそのあまりのぶれなさに今度こそ完全に呆(あき)れ果て、短い前肢の親指で、私の男物Tシャツ姿の無防備な寝顔を後ろへ指差した。
トト:「……なぁ、シャルロットのお嬢ちゃん。 で、うちの自慢の銭ゲバ天才様の様子は?」
シャルロットが、シリアスな思考を一度脇へ置き、振り返る。 そこには、国家の危機も領地の安全保障も一切関係なく、新調した下着の存在さえ忘れて、最高に幸せそうな顔で熟睡するルイズの姿があった。
シャルロット:「……クスクス、流石ですわね。 ……起こします、トトさん?」
トト:「いや、もうええわ、このまま寝かしといたろ」
トトが、あまりの台無しっぷりに降参するように苦笑する。
トト:「一級品の馬車のおかげで、これっぽっちも危ない目に遭わんかったしな。 目的地に着くまで、泥のように寝かしといたろやないけ」
ドレス姿のシャルロットも、世界を揺るがす大爆発を引き起こした元凶とは到底思えない、あまりにも平和な無邪気な寝顔を見て、愛おしそうに頬を緩めて笑った。
シャルロット:「――そうですわね、トトさん。 ルイズさんには、温泉に着くまで、このまましっかり力を蓄えてもらいましょう」
深紅の馬車は、ゆっくりと、しかし確実に、ヴァーミリオン領のさらに広大で肥沃(ひよく)な奥深くへと進んでいく。
街道の遥か先に見えるのは、豊かな緑の大地と、そこに生きる人々の静かで美しい町並み。 王都のすべてを飲み込むような不安な喧騒は、どこにもない。 けれど――自分たちの愛する暮らしの場を、他人の権力に頼らず、自分たちの誇り高い手でしっかりと守り抜いている、気高い領民たちが、そこに確かに生きているのだ。
シャルロットは、この愛すべき故郷の光景を、ルイズのドケチな暴走で台無しにされてはならないと胸に刻みつつ、窓ガラス越しに静かに、優しく見つめ続けていた。
やがて、馬車が街道の滑らかな石畳をさらに進んだ、その時であった。
ルイズ:「……ん、んぅ……」
私の隣の座席で、首席魔女・ルイズが、ほんの少しだけ、心地よさそうに身じろぎした。 だが、白磁の瞼は少しも開かない。

ルイズ:「……別邸に……到着……、したの……?」
トト:「まだや、自分。 予定の半分も進んどらんわ」
トトが、ジト目を向けて即答する。
ルイズ:「……そう、ですか、それは遅いですね」
私は男物Tシャツの襟元を押さえたまま、それだけの事務的な声をポツリと呟いた。
――そして、次の瞬間。
ルイズ:「……すぅ……、すぅ……」
何一つ言葉を紡ぐことなく、再び、深海よりも深い極上の眠りの底へと、吸い込まれるように落ちていったのだった。
トト:「――そこから光速で二度寝するんかいッッッ!!!」
トトの、大福餅の身体が破裂せんばかりの魂のツッコミが、静謐(せいひつ)で防音の効いた馬車の中へ、平和に、虚(むな)しく響き渡った。
私はそのツッコミを聞き流し、寸分の迷いもなく、自らが魔改造した【振動抑制;99.9%】の極上の革座席へ、意識を深く沈めていく。
カメ吉:(――キュィィ……、一瞬だけ起きて生存報告するのやめーや、こわいわぁ! ほんで保養温泉に着く前に、この公爵家の一級品の革座席と一体化する気ちゃうか、このドケチ魔女! さっきからシャルロットお嬢様が、次期領主として領地の未来を憂うてはったあの美しいシリアスな空気がな……! 全部この全裸魔女ののんきな寝息で、完膚なきまでに吹き飛ばされとるがなァ、南無三ッ!!)
――ヴァーミリオン公爵領。
そこは、警報の鳴り響く王都とは根本的に異なる、どこまでもゆったりとした贅沢な時が流れる場所であった。
肥沃(ひよく)な農地。 美しく整えられた街道。 人々の豊かな暮らしを裏から支える、効率のよい魔導の設備。 そして、ここに生きる領民たちの、温かく力強い暮らしの営み。 それらの尊い財産を、美しい瞳で日々愛おしそうに見守り続ける、ドレス姿の高潔な公爵令嬢シャルロット。

元凶たるルイズは、そんな穏やかな土地のなかを――王都の危機など一つも頭に置いていない天才魔導士の、安らかで図太い寝息をその車内に乗せて、静かに、滑らかに、温泉地へ向かって進んでいったのである。
私が余計な揺れをすっかり削ぎ落とした深紅の魔導馬車は、ゆるやかな傾斜の街道を進み、白く整えられた石畳の坂道を静かに上りきっていく。
やがて――車窓を遮っていた鬱蒼(うっそう)とした新緑の木々が急に開けた、その刹那(せつな)。
前方の敷地に威風堂々とそびえ立っていたのは、『屋敷』という薄っぺらい言葉では到底収まりきらぬ、圧倒的な規模の巨大な建物群であった。
日の光を眩(まぶ)しく反射して輝く、白を基調とした漆喰(しっくい)の外壁。 南国の空の青に映える、ヴァーミリオン家の象徴たる鮮やかな深紅の屋根瓦。 宮廷の作庭師が知恵を尽くしたかのような、広大で美しい四季の庭園。
本館のすぐ脇には、全面が魔法ガラス張りの植物研究用の巨大な温室までが併設され、広大な私有地のあちこちには、土地の肥沃な魔脈を裏で整えているらしい古代の魔導塔が、等間隔にそびえ立っている。 さらにその奥には獣の気配を宿す豊かな私有林が広がり、遠い地平線には公爵家が所有する小高い丘が、どこまでも滑らかな曲線を描いて続いていた。
シャルロット:「――お友達の皆さま、わたくしたちのヴァーミリオン領別邸へ、無事に到着いたしましたわ」
シャルロットが、自慢の実家を前に、ドレスの裾を揺らして誇らしげに微笑んだ。
揺れひとつない馬車が、本館の巨大な黒鋼の正面玄関の前で流れるように停まる。 その静かな停止に、私はようやく目を覚ました。 リーゼロッテの手で、豪奢な彫刻の扉が静かに開かれる。
「……」
私は大きめの男物Tシャツの襟元を押さえ、激安の旅行鞄を腕に抱えて馬車から降り立ち、目の前の光景を無表情のままじっと見つめた。

非の打ち所がないほど手入れの行き届いた薔薇(バラ)の庭園。 澄んだ魔力の水を贅沢に噴き上げる、純白の大噴水。 芸術品のように配された植木と、大理石の敷き詰められた白き歩道。 そして眼前にそびえる、王宮ほどもある別邸の威容。
普通の平民や、日銭を稼ぐ貧しい学生であれば、その富と権力の象徴に気圧され、感嘆の声を漏らしてひれ伏すところだろう。
――だが、私の頭のなかの家計簿が弾き出した第一声は、まるで違っていた。
ルイズ:「……毎月の維持費が、めちゃくちゃ大変そうですね」
口から自然とこぼれたのは、景観の美しさなど微塵も評価していない、極めて冷酷な不動産査定であった。
シャルロット:「――心配の着眼点が最初からそこですの!?」
シャルロットが、美貌をピキピキと引きつらせ、思わず大声で叫んだ。 公爵家の威信と歴史を賭けて維持している保養別邸を前に、初手で 「毎月の管理費」 や 「固定資産税の赤字」 を案じられるとは、名門の知性をもってしても思いもよらなかったのだろう。
私の肩の上で、使い魔のトトが短い前肢で丸い頭を押さえ、盛大にため息をついた。
トト:「自分……もっとこう、普通のうら若い女の子らしゅうな、『わぁ、綺麗なお城!』とか『おとぎ話のお姫様のお家みたい!』とか、可愛らしい感想を持たんかいな。 なんで絶景を見たコンマ一秒後に、頭の中でそろばん弾いて赤字の心配しとるんや、不条理やわぁ!」
トトが呆れてジト目を向けるその足元で、カメ吉もまた、私の冷徹な一言に自らのヒモ暮らしの危機を感じ、ガタガタと震えながら小さく鳴いた。
カメ吉:(――キュィィ……、天下の公爵令嬢に向かって、実家に着いて最初に言うことがそれか、ボケ! 毎月の維持費とか言われたらな、この神聖な大豪邸が、ただの『バカ高い税金のかかる石の塊』にしか見えんようになってくるやんか! 頼むから、明日のタダ飯と露天風呂を夢見とるワイの、居候としての極楽の夢を壊さんといてぇなァ!!)
そんなマスコット二匹の必死の抗議を無表情のまま聞き流し、私は屋敷の建築の造りをじっと見つめて、頭の中の算盤を弾き続けた。
シャルロット:「――ルイズさん、これほど伝統と格式のあるお屋敷ですのよ?」
ルイズ:「だからこそ言っているのです、シャルロットさん」
私は冗談ひとつ交えぬ真顔で答える。

ルイズ:「毎日掃除しなければならない床の面積が広すぎて、人件費がかさみます」
シャルロット:「……え?」
ルイズ:「常時動かしている魔導空調の維持費も、相当なものでしょう」
シャルロット:「……うぐっ」
ルイズ:「広大な庭園の景観を保つ手入れの費用も、毎月莫大です」
シャルロット:「ええ……それは、まぁ、そうですけれど……」
ルイズ:「費用対効果で逆算して、一家族の保養用としては、いくら何でも広すぎやしませんか?」
シャルロットは、私の徹底した実利主義の前に返す言葉を失い、唖然と立ち尽くした。
背後のマリアンヌがクスリと口元を押さえ、ジュリエットも肩を震わせてクスクスと笑っていた。
ジュリエット:「シャルロットお嬢様」
シャルロット:「……何ですの、ジュリエット」
ジュリエット:「実にルイズ様らしい、最高効率の査定ですわね」
シャルロット:「……そうですわね。 わたくしが間違っていましたわ」
すべてを諦めたようにシャルロットが深く頷き、私たちを大きな大理石の扉の向こう――屋敷の内部へと案内してくれた。
重厚な玄関ホールへ足を踏み入れる。
鏡のように磨き上げられた、純白の大理石の床。 一目で数万クローネは下らないと分かる、アンティークの木製家具の数々。 壁を優雅に彩る、王国の歴史的な宮廷画家たちが遺した特級の絵画。 高い吹き抜けの天井から吊るされた巨大な魔導シャンデリアの芯には、最高純度の時空魔導石が惜しげもなく大量に嵌め込まれていた。
シャルロット:「こちらが、ルイズさんたちのために用意した客間ですわ」
ルイズ:「……なるほど、造りとしては実に立派ですね」
私は部屋を見渡し、無表情のまま告げた。
だが、私の目が鋭く見定めているのは、調度品の成金めいた豪華さなどではない。 品物に刻まれた僅かな傷の有無、材質の強度、施された魔力加工の減衰具合、そして家具配置の合理的な動線である。
私の漆黒の視線は、自然と室内の特級の調度品へ滑らかに動いていく。
ルイズ:「……この黒檀の執務机、今の市場相場でかなり高いですね」
シャルロット:「ええ、王宮の書斎にあるものと同じ仕立てですわ」
ルイズ:「こちらの花瓶に施された幾何学の細工も?」
シャルロット:「王国が誇る、国宝級の特級ドワーフ職人の作ですわよ」
ルイズ:「――分かりました。 この部屋の調度品には、滞在中、一切触らない方がよさそうですね」
私は、形を確かめようと伸ばしかけていた白く細い指先を、財布を守るようにスッと引っ込め、旅行鞄を抱え直した。

シャルロット:「あら、それは意外ですわね」
シャルロットが、ドレスの襟元を押さえながら、琥珀色の瞳を丸くして瞬きをした。
ルイズ:「何がですか、シャルロットさん。 私は極めて合理的な保身をしているだけですが」
シャルロット:「だって、ルイズさんのことですもの。 国宝級の細工だと聞いたら、勝手に裏側の仕組みまで分解して調べてしまうと思っていましたのよ」
ルイズ:「まさか。 自分の所有物ではありませんからね」
私は一切の感情を排した冷ややかな声で即答した。
ルイズ:「不注意で万が一にも傷をつけたり壊したりしたら、私の将来の口座から莫大な弁償が引かれますからね。 ……『ノーリスクこそ至高』、これがドケチの生存の鉄則ですわ」
「……」
すると、私の肩の上からトトが、だらしなく身体を揺らして横からボソリと呟(つぶや)いた。
トト:「……ルイズはん、自分な、もっともらしい長ったらしい屁理屈を今さらっと言うたけどな。 要約すると、結局『自分の身銭を削られるのが嫌なだけ』やろ、ボケ」
ルイズ:「経済用語では、それを『徹底したリスクヘッジ』とも言います」
トト:「――そこは飾らずに素直に認めろや、自分ーーーッ!!」
トトの切れ味鋭いツッコミを背中に涼しく受け流し、私はどこ吹く風の顔で、客間の別の棚へ視線を滑らせた。
その足元で、カメ吉だけは 「本当に触らんでよかった……!」 と、九死に一生を得たように胸をなでおろし、短く安堵の声を鳴かせた。
カメ吉:(――キュィィ……、ルイズはん、そこだけは本日一番のファインプレーやで! 頼むから、そのお財布を守る鋼の理性を、この温泉旅行が終わって実家に帰るまで、しっかり持ち続けてや! 公爵家の国宝級アンティークなんか、万が一一つでも壊してみぃ、ワイらニートの命がいくつあっても足りん、人生一発アウトの大借金の幕開けやからな、ガチでこわいわぁ!!)
ルイズ:「――こちらの棚に並んでいるのは、何ですか?」
シャルロット:「そちらは、わたくしの祖父の代から我が家に受け継がれている、古き良き伝統の魔導具の数々ですわ」
ルイズ:「なるほど、興味深い造りですわね」
私は、その美しい骨董品の構造を目だけで素早く読み解くに留め、それ以上は決して、白く細い指先を触れようとはしなかった。
もちろん、目の前の貴重な品に知的好奇心が湧いていないわけではない。 むしろ、その内側に隠された魔導回路の構造や、使われている希少金属の質を知りたいという、一人の科学者としての欲求は、常に胸の内で最大まで膨らんでいる。
――だが、ここは他人の私有地であり、目の前にあるのは自分の持ち物ではない。 ならば、不必要な賠償のリスクを避けるため、物には必要以上に手を触れない。 私のなかでの資産管理の線引きだけは、いつ何時であろうと、冷徹なほど明確であった。
――まさに、そのときであった。

使用人:「――お嬢様の大切なお友達の皆さま、お手荷物は、わたくしがお運びいたしますわ」
公爵家別邸に仕える上級の女性使用人の一人が、私が大理石の床に置いていた激安の旅行鞄へ、親切にも白手袋の手を伸ばしてきたのだ。
ルイズ:「――あ、お願いですから、その鞄には触らないでください」
使用人:「え……っ?」
使用人の手が、私の鋭い拒絶の言葉で、虚空にピタリと止まった。
使用人:「……ル、ルイズ殿? 何か不手際でもございましたでしょうか? 中身が、その……少しばかり危険でしたら、私どもの手で安全に――」
ルイズ:「ええ、その『少し』の中身が、お国の常識から言って著しく危険ですので、私の手で持ちます」
使用人:「危険……、ですか?」
ルイズ:「はい、非常に不穏です」
私は、床の上の激安の旅行鞄を財布を守るようにスッと手元へ引き寄せ、男物Tシャツの胸元でしっかりと抱え直した。
一見すれば、露店で買い叩いた安物の平民用旅行鞄に過ぎない。 だが、その内側には、昨日国家保安局の地下施設から回収した特級の細長い魔導封印箱、最高強度の古代チタン製の金属ケース、そして未完成の次世代魔導具の中枢部品が、隙間なくぎっしり詰め込まれているのだ。
万が一、魔導の心得のない者が扱いを誤り、内部の不安定な魔力回路に乱れが混じって暴走でも起きようものなら――このヴァーミリオン公爵家の誇る豪華な別邸の敷地が、瞬く間に広大なクレーターへと変わる、歴史的な大惨事が確定する。
その、あまりにも控えめな 「少し危険」 という申告を聞きつけ、私の肩の上からトトが、スッと真顔のジト目に切り替えて振り返った。
トト:「……おい、ルイズはん。 今さらっと吐いた『少し』っちゅう言葉な。 ……どう考えても、世間の安全基準から見て『少し』の程度やあらへんやろ、ボケ」
ルイズ:「学術的な誤差の範囲で見れば、至って些細な『少し』ですよ、トト」
トト:「お前は一体、どこの禁書の棚の安全基準を基準にして、そのクレイジーな計算をしとるんや……」
床の上のカメ吉までもが、私の抱える旅行鞄の隙間から漏れ出る、目に見えない不穏な魔力の脈動をじっと凝視した。
カメ吉:(……キュィ……う、うあぁ……あかんわ。 太古の神話の時代から培ってきた、ワイの危険察知の第六感が、頭のなかで最大音量で警鐘を鳴らしてやまへんのやけど……っ)
小さな緑の身体が、本能的な恐怖に冷や汗を流しながら、ほんの少しだけ石畳を後ずさりした。
トト:「どうしたんや、新入り。 急に甲羅をガタガタ震わせて」
カメ吉:(キュィィ……トトの兄貴、ヤバいとか危険とか、そんな生易しいもんちゃうで、あれ……。 中身の重さが、完全に世界の異変そのものやがな、ガチでこわいわぁ……っ!)
カメ吉はそれ以上、何も言葉を継ごうとはしなかった。 ただそのつぶらな瞳だけが、いつものアホ面から一転して、妙に真剣に怯えきていた。

トト:「なぁ、ルイズはん」
トトが丸い額を短い前肢で痛ましげに押さえながら、恐る恐る尋ねる。
トト:「……一体全体、その安物のトランクの中に、具体的に何を詰め込んどるんや?」
ルイズ:「明日からの、私たちのプライベート研究室を建設するための、極めて健全で大切なお買い物の研究道具ですよ」
トト:「説明になっとらんわ、自分!」
ルイズ:「必要であるなら、今ここで大理石の床の上にすべての部品を広げ、結合の理論をあなたたちの頭に直接叩き込んであげましょうか?」
トト:「――お前がそういう満面の邪悪な営業スマイルで『広げる』とか言うときはな、お姉ちゃん! 人類の道徳のために絶対に見たらアカン、最悪の地獄の蓋が開くときやから断固拒否や、ボケーーーッ!!」
私は答えず、ただ感情を排した無表情のまま、国家崩壊の引き金を、白い両腕にしっかりと抱え直したのだった。
その後も、公爵令嬢シャルロットによる、広大で迷宮のような別邸の案内は粛々と続けられていた。
シャルロット:「――こちらが、先ほどとは別の貴賓用の客室ですわ」
ルイズ:「はい、造りとしては実に立派ですね」
シャルロット:「こちらは、国のお客様をお迎えする応接室」
ルイズ:「はい、値打ちの高そうなソファです」
シャルロット:「そして、こちらにみんなで夕食をいただく大食堂が――」
ルイズ:「はい、広々とした空間です」
シャルロット:「そのすぐお隣が、専属シェフのいる中央厨房ですのよ」
ルイズ:「……中央、厨房」
その言葉が空気に落ちた瞬間、私の軍靴の歩みが、僅(わず)かに、しかし確実にピタリと止まった。
シャルロット:「はい、どうかいたしましたの、ルイズさん?」
ルイズ:「……念のための確認ですが、その調理場の魔導コンロは、王宮仕様の最新式ですか?」
シャルロット:「ええ、もちろんですわ。 領内の一流シェフの火力を最大限に支えるための、特注品を据えておりますの」
「……」
私の琥珀色の目が、美味しいお肉のタダ飯の獲得効率を弾き出すように、ほんの少しだけ邪悪に光った。
ルイズ:「――後で、その厨房の火力の仕組みを、私の銀の指輪で直接覗いてみてもよろしいですか、シャルロットさん?」
シャルロット:「ええ、もちろんですわ。 ルイズさんが厨房の火加減に興味をお持ちになるなんて、なんだか可愛らしいですわね」
シャルロットは、私の不穏な狙いなど露ほども察知せず、優しく顔を綻ばせて微笑んだ。
だが、このヴァーミリオン公爵家別邸が備えた設備は、さらにその先、私のドケチな知的好奇心を刺激する禁忌の領域へと続いていたのだ。
シャルロット:「――こちらは、屋敷全体の空気清浄と空調を管理している、中央魔導管理の術式ですわ」
ルイズ:「……なるほど、無駄遣いが見えますね」
シャルロット:「こちらは、敷地内全域を覆う多重結界の制御盤」
ルイズ:「……ふむ、働きの重複が酷いですね」
シャルロット:「そしてこの最奥の区画が、敷地内の水路の魔力の流れを司るところになりますわね」
「……」
案内が進むにつれ、私の白磁の顔から、人間らしい感情の色が少しずつ消え失せ、完全に凝固していった。
私の眼光は、すでに温泉旅行に来たうら若い女子学生のそれなどではなく――屋敷のあちこちに不必要な無駄を大量に見つけてしまい、職人としての手直しの衝動が限界に達して指先がウズウズと震えている、救いようのないマッドな天才の目に、すっかり切り替わっていた。

その、私の全身から溢れ出るただならぬ気配を敏感に察したトトが、私の頬をのぞき込み、冷や汗を流しながらそっと耳元へ囁いた。
トト:「……なぁ、自分。 さっき客間に着いた最初にな、『他人の高級品は弁償せなあかんから、一切触らんでリスクヘッジする』とか大真面目に言うとったよな? なんで急に、獲物をロックオンした肉食獣みたいな目になっとるんや。 頭の理性のストッパーが、今にも外れそうやんけ、不条理やわぁ!」
トトが震えて焦るすぐ真横で、足元のカメ吉は、私の頭上から 「ピキピキ……ピキピキ……」 という、この世の物理法則を無視した危険な演算の駆動音が直接聞こえた気がして、ガタガタと激しく四肢を震わせた。
カメ吉:(――キュィィ……あかんあかん、終わったわ! ルイズはんの頭のなかでな、この最高級別邸を『最適化(魔改造)したいっちゅうドケチな衝動』が、限界突破寸前まで膨らんどるがな! さっきまで『弁償』っちゅう恐怖の言葉で自分を縛っとった理性の鎖がな、今まさにパキパキ不吉な音を立てて千切れかけとるでぇ! シャルロットお嬢ちゃん、頼むからこの全裸魔女を今すぐここから引き離して、温泉へ連れ出してぇなァ、ガチでこわいわぁ!!)
――しかし。 そんな二匹の必死の制止など、今の私の耳には、一クローネ分も届いてはいなかった。
私の目にはすでに、この贅沢な公爵家別邸の全仕組みに対する『最適化』という名の、大いなる破壊と創造の合図が、真紅の文字ではっきりと映し出されていたのだから。
あちこちに無駄に分散配置された、旧時代の非効率な管理術式。 全方位に無秩序に交錯する、異なる魔力の経路。 連携の取れていない、独立した複数の管理系統。
……誤解のないように言っておくが、一つひとつの術式そのものは非常に優秀だ。 現代の魔導学から見ても、欠陥品などでは決してない。 むしろ三十年前の当時、国家一級の最高技術の粋を集めて美しく組まれた、一般的な魔導士から見ればかなり完成度の高い、国宝級の仕組みであることは、私の頭でも百パーセント認めざるを得ない。
それほど完成度の高い一級品であると承知していながら、なお、見えてしまうのだ。 私の頭には――もっと精緻に、もっと容易く、もっと美しく削ぎ落とせることが。
もっと少ない魔力で全体の暮らしを安定して動かせる。 もっと安全に、一つのコンパクトな構造へまとめられる。
――ここは働きが不要に重なっている。 ――こっちは魔力が遠回りして、大きく損なわれている。 ――この結界は、別系統にわざわざ分ける意味が薄い。 ――こちらの見張りと通信の経路は、互いに分かれているせいで、手痛い遅れが出ている。

ここも。 あそこも。 そして、そのさらに深い最奥の仕組みも。
「……」
私は、大理石で磨き上げられた廊下のど真ん中で、ピタリと足を止めた。
シャルロット:「ルイズさん?」
ドレスの裾を揺らして歩いていたシャルロットが、不思議そうに首を傾げて振り返る。
シャルロット:「どうかいたしましたの? お部屋の造りに、何か不満でも?」
「……」
私はすぐには答えない。 ただ琥珀色の視線だけが、豪奢な屋敷の壁を透かして、その奥でドクドクと脈打つ魔力回路の巨大な束を追うように、不気味に動いている。
シャルロット:「ルイズさん、お返事をしてくださらない?」
ルイズ:「……やはり、無理ですわ」
シャルロット:「え?」
ルイズ:「この巨大な別邸の建物の造りも」
私は、激安の旅行鞄を抱え直してぽつりと呟いた。
ルイズ:「ここに施されたすべての魔法の守りの仕組みも」
さらに一拍、冷ややかな沈黙。
ルイズ:「屋敷全体の空調の温度管理も」
「……」
ルイズ:「そして――あろうことか、ここへ繋がっている領地側の魔法管理の仕組み全体までもが」
シャルロットの美しい眉が、本能的な警戒にピクリと跳ね上がる。
シャルロット:「……ルイズさん、あなた……」
私は静かに、自らのドケチな知性の限界を迎えたかのように、ハァ、と深い息を吐き出した。
ルイズ:「――無駄が多すぎて、資産管理の観点から見て、著しく不快ですわ」
シャルロット:「まさか……、そんな最悪の予感が……っ」
シャルロットが、これまでの全裸の歴史から培われた、本能的な嫌な予感を全身で覚える。

シャルロット:「ルイズさん」
ルイズ:「はい、何でしょうか、シャルロットさん」
シャルロット:「……あなた、今からこのわたくしの愛する別邸に対して、何か不穏なことを仕掛けようとしていませんわよね?」
私はほんの少しだけ、頭のなかで合理的な収支を考えた。
ルイズ:「何か、というのは具体的にどのことを指しているのですか?」
シャルロット:「さっきの深紅の馬車の時のように、青白い幾何学の魔法陣を空間に大量に広げて、国の一級術式を丸ごと強引に書き換えるとか……っ」
ルイズ:「心外ですね、そんな国家転覆じみた破壊行為は一切しませんよ。 ほんの『少しだけ』、お掃除をするだけですわ」
シャルロット:「――その、あなたの口から出る『少しだけ』が、この世の何より一番恐ろしいんですのよッ!!」
シャルロットが、ドレスの胸元を押さえて悲痛に叫んだ。
しかし、私は至って大真面目な、一人の冷徹な科学者であった。 別に、お友達の実家の大豪邸を壊したいわけでは決してない。 誰かの保守点検の仕事を奪い去りたいわけでもない。 ただ――。
ルイズ:「せっかくこれから一週間ほど、この静かな別邸で一切の労働を手放し、タダ飯を食べてゆっくり安眠して過ごそうと計画しているのに」
私は、一片の嘘もない、至極真っ当な理由を口にした。
ルイズ:「このまま無駄な仕組みが垂れ流す魔力の雑音を放置していれば、気になって気になって、落ち着いて休むことができませんわ」
「……」
ルイズ:「雑音が気になって眠れないので」
公爵令嬢シャルロットは、私のあまりにも図太いドケチのこだわりを前に、頭の中が真っ白になって石のように固まった。
私の肩の上で、トトが丸い額を深く、痛ましげに両前肢で押さえる。
トト:「……始まったわ。 この全裸魔女の、世の道理を台無しにする最強の厄介ごとが始まったわ……」
ルイズ:「ですから、私はお友達としての好意から」
私は、激安のトランクを胸に抱いたまま、堂々と宣言した。
ルイズ:「ほんの少しだけ、この屋敷の仕組みを、私好みの燃費に綺麗に整えますわ」
シャルロット:「……『ゆっくり休む』ための、下準備なんですのね、それは?」
ルイズ:「はい、万全の環境を整えるためです」
トト:「そのために、国の一級魔法を相手に、これから『ガッツリ頭脳労働』をやらかすんやな?」
ルイズ:「休む――つまり二度寝という最高効率の資産を手に入れるために、避けては通れない、最低限の合理的な作業ですよ」
トト:「――お前の中の言葉の定義が、最初から根底から狂っとんねん!! それ、もうバカンスの概念じゃあらへんやろがーーーッ!!」
トトの悲痛極まりない魂の叫びが、磨き上げられた冷たい廊下に、爆音で響き渡ったのだった。
「快適に安眠して休むために、全魔力を全開にして働く」 という、不条理の極みのようなドケチ哲学を前に、トトの渾身のツッコミは、反論の余地のない正論として、虚しく別邸の空へ消えていった。

そのすぐ真横で、カメ吉は、シャルロットの覚えた『嫌な予感』が、あっという間に残酷な現実になったことを悟り、白目を剥きながら小さく絶望の鳴き声を漏らした。
カメ吉:(――キュィィ……ほら来たァァァァァッ!! 理性の鎖どころか、女の子としての常識まで粉々に消し飛んどるがな、この破廉恥魔女! シャルロットお嬢様、この全裸魔女が言う『少しだけお片付けする』なんて詐欺師の言葉を、一ミリも信じたらアカン! さっきの深紅の馬車の、あの物理法則を無視した衝撃分散100パーセントの魔改造を思い出すんや! 今まさにこの格式高い最高級別邸が、ルイズはんの銭ゲバの手で『とんでもないハイテク要塞』に書き換えられる、破滅の秒読みが始まったんやわァ、ガチでこわいわぁ!!)
――しかし、そんな二匹の魂からの悲痛な叫びなど、今の私の耳にはどこ吹く風であった。
私の目には、すでにこの屋敷を巡る無数の非効率な仕組みが、組み直すべき対象として、次々と明滅しながら映り込んでいたのだから。
それからほどなくして――。
ルイズ:「――シャルロットさん、このヴァーミリオン領全体の地勢と、建物全体の魔力を一括で管理している心臓部は、一体どこにあるのですか?」
私は、激安の旅行鞄を胸にしっかりと抱えたまま尋ねた。
シャルロット:「……本館の地下最奥に設けられている、中央魔導管理室ですわ」
シャルロットは顔を完全に引きつらせ、すでに抵抗を諦めたように、不憫なほど力なく答えた。
ルイズ:「なるほど、話が早いです。 ……環境を整えるために、ほんの少しだけ、その魔導制御盤の中身を見てみてもよろしいですか?」
シャルロット:「……ええ、もう望むところですわ。 ……どうか、我が公爵家の歴史と職人たちの面目のために、お手柔らかにお願いしますわね……っ」
そうして私たちは、公爵家別邸の最奥に鎮座する、最高の守りに固められた『中央魔導管理室』へ、運命の足取りを揃えて向かったのである。
重厚な花崗岩(かこうがん)造りの大扉が、低い駆動音を立てて静かに開く。
そこに広がっていたのは――部屋そのものを完全に覆い尽くすほどの、圧倒的な規模の巨大な魔導制御盤の威容であった。

壁一面の岩肌に精緻に刻み込まれた、多重の幾何学の魔法陣。 空中に明滅する、いくつもの水晶板。 ヴァーミリオン領全体の地勢を、寸分の誤差もなくそのまま映し出す、三次元の立体地図。 そして、室内の四方に網の目のように巡る、魔力の流れを示す蒼白い光の脈動。
防衛の多重結界。 気候の調整。 室内の空調。 外の水路の流れ。 土地の地盤の安定。 魔力の供給。 周囲の見張り。 空間の暗号通信。 防犯の守り。
――さらに、屋敷内の細かな暮らしの設備(風呂の温度調節など)に至るまで。
かつてこの大仕組みを設計した一流の王宮魔術師たちの意図のまま、それぞれが別々の独立した術式として、個別に動いていた。
ルイズ:「……なるほど、これはなかなか興味深い、贅沢な古い造りですわね」
私は、お気に入りの激安鞄を一度床の大理石へ置き、その巨大な魔導制御盤のど真ん中の前へ、堂々と進み出た。
シャルロット:「ふふ、どうかしらルイズさん? 王国の最高峰の魔導の粋を集めた、非常に凄まじい規模の特級の仕組みでしょう?」
シャルロットが、ドレスの裾を整えながら、公爵家の富と威信を示すように、少し誇らしげに白磁の胸を張って言った。
それに対して――私は、感銘の色ひとつ見せず、冷ややかな声で、ただ一言を返した。
ルイズ:「――はい」
短く、無表情のまま淡々と答える。
――そして。 次の刹那であった。

ルイズ:「……でも、ですわ、シャルロットさん」
私は、濡れた銀糸の髪を揺らし――その白く細い指先を、虚空へ向けて、ふわりと美しく持ち上げたのである。
持ち上げられた指先の先、宙に一つ、淡く青白い幾何学の魔法陣がふわりと浮かんだ。
次に二つ。 三つ。 十。 二十――。
私の意思に応えた無数の精緻な紋様が、管理室いっぱいに、爆発的な速さで広がっていく。
シャルロットが、その規模の大きさに息を呑み、琥珀色の目を大きく見開いた。
シャルロット:「……ル、ルイズさん? これほどの同時展開、一体何を――」
ルイズ:「――少しだけ、絡まった引き出しを整理整頓します」
私の白い指先が、空間を満たす魔力の光の上で、滑らかに美しく踊るように動き回る。
歪みを生んでいた一本の古い魔力線が消される。 それと同時に、私の頭のなかで組み直された洗練された新しい術式が美しく組み上がり、動き始めるのだ。
重なって力を食い潰していた無駄な回路が、一つの合理的な形にまとめられる。 地層を跨いで無意味に遠回りしていた魔力の経路が、最短の道筋へと切り替わる。 広大な敷地に分散していた供給の系統が、中央に据えた一つの芯へと組み直されていく。
公爵領防衛の多重結界。 日々の生活の空調。 大地の地盤の安定。 周囲の見張り。 空間の暗号通信。

――本来であれば、時代の異なる複数の魔術師たちが別々に築き、独立して動かしていた巨大な仕組みのすべてが、まるで私の家計簿に従った、一つの巨大で美しい生き物の循環のように、滑らかに組み替えられていくのだ。
浮かぶ幾何学の魔法陣が、超高速で回り始める。 光の線が一本、また一本と、寸分の狂いなく美しく繋がり合っていく。
何十人もの一級魔術師が複雑に絡み合わせていた古い術式の束が、私の指先一つ、コンマ数秒の手さばきで次々にほどかれ、機能美をもって美しく編み直されていくのだ。 そこに、一クローネ分の無駄もない。 不要な魔力の変換は、私のドケチな理性によって、すべて冷酷に切り捨てられる。 世界の維持に本当に必要な最小限の力だけが、現世に残される。
これは、先人たちの偉大な仕事を無様に壊す破壊などでは断じてない。 この仕組みがもともと秘めていた本来の燃費と性能を、限界の120パーセントまで強引に引き出す、神聖な手直しの作業であった。
「……っ、あ、あぁ……」
人間の知性を置き去りにした、神がかり的な演算の速さと、その美しさを前にして、この場の誰一人として、一言も挟むことはできなかった。
やがて――。
地下の中央管理室の全体が、何かの承認を告げるかのように、一瞬だけ神聖な純白の光を放って、強く、激しく輝いた。
――そして、次の刹那。
先ほどまで不快な赤色の点滅を繰り返していた、設備の異常警告の表示が、次々と綺麗さっぱり消え去っていった。

乱雑に荒れ狂っていた魔力の流れを示す光の線が、一本の清らかな清流のように、滑らかで美しい脈動へと繋がった。 部屋の壁を埋め尽くしていた無数の複雑怪奇な古代術式の羅列は、今や見る影もなく、シンプルで美しい、ただ一つの静かな光の輪へと完全にまとめ上げられていたのである。
ルイズ好みのドケチな 「お色直し」 をすっかり終えた、公爵家の最高機密の仕組みを前にして――トトは口が塞がらないまま、首をカクカクと機械のように横に振った。
トト:「……なぁ、シャルロットのお嬢ちゃん。 ワイの目の錯覚か? 国家の予算を天文学的に投じたはずの、あの一国を揺るがす超巨大な魔導の仕組みがな……。 ルイズはんの指先一つ、ほんの数十秒で、まるで『部屋の引き出しの整理整頓』みたいに綺麗さっぱり片付けられてもうたんやけど……っ」
トトが、魂の抜けた哀愁の声でポツリと呟く横で。 カメ吉もまた、あまりの神の領域の光景に、床の上で甲羅ごとひっくり返りそうになりながら、涙目で激しく首を縦に振って鳴いた。
カメ吉:(――キュィィ……お片付けのスケールがな! 休日の部屋の模様替えどころか、もはや世界の異変そのものになっとるがな、トトの兄貴ッ! ヴァーミリオン領全体の防衛も、水路の魔力の流れも、屋敷のエアコンもな……! 全部この全裸魔女の手で、『一つの便利な一括管理』にまとめられてもうたみたいや!! 凄すぎて逆にこわいわ! 凄すぎて、ワイの居候ニートとしてのツッコミの言葉が、家出してどっか行ってもうたわァ、南無三ッ!!)
二匹の驚愕と戦慄をよそに、私の周りの空気は、余計な雑音がすっかり消えたことで、以前よりも明らかに清らかに澄み渡っていた。 生まれ変わった魔導制御盤からは、心地よく、完璧に安定した最小燃費の駆動音だけが、静かに、健やかに響いていたのだった。
――そして、この中央魔導管理室で行われた最適化の波は、瞬く間に、別邸の屋敷の外にまで劇的な変化をもたらしていた。
使用人:「……あれ、何かしら?」
広大な薔薇の庭園を歩いていた公爵家の上級使用人の女性が、ふと、肌に触れる大気の流れに足を止めた。
使用人:「空気が……屋敷全体を包む大気の濃さが、ほんの数瞬で、少し変わったのかしら?」
敷地の別の場所では、手入れの行き届いた庭園の随所に据えられた魔導灯の結晶が、以前の国家一級の設計のときよりも、はるかに白く澄み渡った極上の光を放って、小径を明るく照らし出し始めた。
使用人:「……おかしいわね。 この魔導灯、王都のギルド本部のものと比べても、こんなに美しく明るく灯る造りだったかしら?」
さらに、敷地全域を血管のように巡る、あの白き大噴水へ繋がる水路では、濁りがちだった水の流れが、一滴の淀みもなく、信じられないほど滑らかに、安定して流れ始めたのだ。
使用人:「……信じられない。 水路の底の摩擦が取り払われたみたいに、流れがどこまでも滑らかになっているわ……っ!」
庭園全体をドーム状に覆っていたはずの、あの重々しい防護結界の壁も――以前の術式にはあり得なかったほど自然に、まるで最初から世の理の一部であったかのように、周囲の大自然のなかへ美しく溶け込んでいく。

使用人:「……嘘でしょ? 結界の不快な境目の歪みが……少しの狂いもなく透明になって、肉眼では見えなくなっているわ……っ!」
屋敷の客間の内側では、それまで不快な雑音として唸り声を上げていた、あの大型空調装置の金属的な稼働音が、一瞬で完全に消え去り、深い静寂が訪れていた。 それどころか、中央制御盤の表示に映るヴァーミリオン家の魔力の消費量の目盛りが――従来の設計値をはるかに下回る、信じられないほどの省エネの数字へと、みるみる急降下していくのだった。
それは、世界の仕組みを壊すような、劇的で暴力的な破壊などでは断じてなかった。 ただ、今まで歴史の闇に潜む素人魔術師たちの手で無駄に垂れ流されていた天文学的な力が、ルイズの家計簿に従って、静かに、あるべき正しい場所へと収まったに過ぎない。
――そして、まさにその瞬間。 ヴァーミリオン領の外れ、あの領境の検問所のすぐ目の前で。
先ほどの交戦の残党――暗黒の森の境から不法に姿を現した、混成魔物の一体(上位オークの敗残兵)が、ルイズによって限界まで最適化された、あの不可視の結界の感知範囲へ、知らずに足を踏み入れてしまったのだ。
次の、ほんの一瞬。
――ピキィィィィィィィィンッ!!!!
空気に、淡く美しい、肉眼では捉えきれぬ光の線が一本、走った。
中央管理室の芯へとまとめられた防衛の自動迎撃術式が――人間の意思を介さず、光の速さで自動的に働いたのだ。
侵入してきた魔物は、自分がどこの次元から放たれたどんな極大魔法に討たれたのか、理解する暇さえ一片も与えられぬまま、音ひとつ立てず、一瞬にして光の粒子となって、この世から綺麗さっぱり消え失せた。
憲兵:「――っ、な、何だ、今の不条理な流れは……っ!?」
周辺の街道で剣を構え、残党への警戒を続けていた憲兵隊の精鋭たちが、その場に直立不動のまま完全に絶句した。

憲兵:「今の……一体何だ、この特級の魔力の反応は……っ!? どこの宮廷魔導士の狙撃だッ!」
憲兵:「わからん、異常だ! 我が検問所の結界が……勝手に動いて、上位種を一瞬で圧殺したのか……っ!?」
憲兵:「一瞬の出来事だったぞ……! 侵入を知らせるはずの、あのうるさい警報の音すら、一つも鳴らなかったではないか……っ!!」
――けれど。 国家の防衛の均衡を容易く書き換え、軍事規格の巨大な仕組みを一人で組み直してのけた当の本人は、地下の中央魔導管理室の制御盤の前で、激安の旅行鞄を胸に抱いたまま、何でもないように、小さく満足げに顎を引いて頷いただけだった。
ルイズ:「――はい、環境の整理整頓、これにて完了ですわ。 これで、明日からの私の二度寝を妨げる、不快な雑音の心配はなくなりましたね」
私が、本日一番のお財布を守り抜いたかのような満足げな無表情でそう言い放った瞬間。
地下の中央管理室は――ルイズの放った圧倒的なドケチの理屈のせいで、異様なほどに、不気味なほどに、静まり返ったのだった。
シャルロット:「……これで、すべて終わりですの、ルイズさん?」
シャルロットが、顔を微かに引きつらせながら、恐る恐る真意を尋ねてきた。
ルイズ:「――はい、完全に完了ですわ」
シャルロット:「本当に……? これ以上、衣服が消える危険はありませんわね?」
ルイズ:「ええ、もちろんですよ、シャルロットさん」
シャルロット:「これだけで……、あんな複雑怪奇な国宝級の仕組みを、こんな短時間で……?」
ルイズ:「これだけのことですわ。 ごく合理的な、初歩的な手直しの範囲です」
すると私の肩の上で、トトが呆然と口を開けたまま、白目を剥いて首を激しく横に振った。
トト:「いやいやいや、待てや、自分!!」
ルイズ:「何ですか、トト。 私は今、次なるタダ飯のカロリー計算のために頭を回しているのですが」
トト:「今な、自分さらっと『お掃除しただけ』みたいな顔で言うとるけどな! この公爵領全体の特級魔法の管理の仕組みをな、根っこから完膚なきまでに作り替えてもうたんちゃうんか、ボケ!!」
ルイズ:「失礼な。 名門の歴史にのっとって、散らかった引き出しを綺麗に整理しただけですよ、トト」
トト:「整理整頓の規模と熱量がな、最初から人類の安全基準を超えて大爆発しとんねん!!」
私は、使い魔の世俗的なツッコミに対し、少しだけ言い換えを考えた。
ルイズ:「……では、学術的に厳密な表現を用いるなら、『次世代多次元最適化』ですわ」
トト:「――言葉を無駄に格好よく言い換えただけやろがい、この全裸バーサーカーーーッ!!」
トトの鋭い叫びが地下管理室に響き渡った、まさにその瞬間であった。
シェフ:「――お、おい、一体何が起きたんだッ!? この、世の理をひっくり返すような凄まじい、魔導の安定ぶりはッ!!」
重厚な防音扉の向こうの廊下から、現世の不条理を前にしたかのような、公爵家お抱えの一流シェフ(男)の大音量の絶叫が聞こえてきた。
シェフ:「中央厨房の、最新鋭の魔導コンロの火力が……少しの誤差もなく完璧に安定して脈打っているぞッ!」
シェフ:「あぁ、本当だ! 魔力の供給路の抵抗がすっかり取り払われたみたいに、火加減の微細な調整が、ついさっきまでの古い設計とはまるで次元が違うぞッ!!」
シェフ:「一体どこの神の領域のドワーフ職人が、裏から手を加えてくれたんだッ!?」
――そして続けて。 職人たちの嬉しそうな大騒ぎの声に乗って、防音扉の隙間から、うら若き乙女の食欲の最終防衛線を強烈に刺激する、じっくりと焼き上げられた極上の特製ステーキソースの香ばしい匂いが、爆発的な勢いで漂い込んできたのである。

私の歩みも思考も、その美味なる匂いを捉えた刹那、ピタリと、一瞬の狂いもなく止まった。
「……」
私は無表情のまま、自らの優秀な鼻先を、僅(わず)かにくんくんと動かした。
「……」
そして――おもむろに、正面のシャルロットの琥珀色の瞳をじっと見つめた。
シャルロット:「……何でしょうか、ルイズさん。 獲物をロックオンしたような鋭い眼光を、わたくしのドレスの胸元に向けられても困りますわよ?」
ルイズ:「――シャルロットさん、今、私の鼻が捉えたこの素晴らしい香りは、一体何を表しているのですか?」
シャルロット:「ふふっ、どうやらお隣の中央厨房から、今夜のメインディッシュのステーキの匂いかと思いますわよ」
ルイズ:「――なるほど、経済的に見て極めて合理的な事実、つまりタダ飯ですね」
次の瞬間。 余計な雑音の消えて静まり返った管理室に、極めて正直で、健康的な私の胃袋の虫が――『きゅるりぃ~~~~~……』と、最高純度の美しい音を奏でて鳴り響いた。
それは、あらゆる物音が消えて静まり返った地下管理室に、小さく、けれど確かな存在感を伴って、生々しく響き渡った音であった。
ルイズ:「……シャルロットさん、私のお腹が、現時刻をもって『お腹、空きました』と最大の音量で訴えていますわ」
シャルロット:「――クスクス、あははははっ!!」
ドレス姿のシャルロットが、ルイズの手際に生気を吸い取られて固まっていた驚愕をすっかり忘れたかのように、楽しそうに美貌を綻ばせて吹き出し、大笑いした。
シャルロット:「――ええ、よろしくてよ、ルイズさん! では、我が公爵家の矜持にのっとって、何よりも最優先で、あなたに極上のお食事、タダ飯のフルコースをご用意いたしましょうか!」
ルイズ:「――大賛成ですわ、シャルロットさん」
光の速さの即答であった。
トト:「――自分、切り替えが早すぎるやろ、ボケェェェッ!!」
使い魔のトトが、床の上で短い前肢を千切れんばかりに振り回して叫んだ。
トト:「自分、さっきまでな! 一国を容易く滅ぼしかねない世界規模の最高級の仕組みをな、自分の二度寝のためだけに一瞬で組み直して、ドヤ顔(無表情)かましとった最悪の元凶やろが!!」
ルイズ:「トト、それとこれとは、私の生存における完全に別問題の、独立した別系統の話(胃袋)ですわ」
トト:「――それは人間の生き物としての仕様として確かにそうやけどな、お姉ちゃん!!」
トトが、ツッコミの気力をすべて使い果たして、疲れ果てたように両前肢をだらしなく万歳して虚空へ上げるなか。

私は、お気に入りの大きめの男物Tシャツに、昨日新調した下着を着けた、健康的ないつも通りの姿のまま――すでに、部屋中に漂う美味しいお肉の匂いの出どころ(厨房)へ向かって、一切の無駄のない最短の直線で、軍靴を鳴らして堂々と歩き始めていたのだった。
大食堂へ向かう、冷たい大理石の長い廊下の途中。 旅行鞄を胸に抱いた私の視線の先、開け放たれた重厚なマホガニーの扉の向こうに――膨大な数の古い蔵書が美しく並べ立てられた、薄暗い一室が視界に入った。
私は、床の上でピタリと足を止めた。
ルイズ:「……シャルロットさん、この膨大な紙の蔵書の部屋は、一体何ですか?」
シャルロット:「ふふ、こちらは我がヴァーミリオン家が代々守っている、私設の特製図書室ですわ」
シャルロットが、上品なドレスの裾を揺らしながら、公爵家の名誉にかけて少しだけ誇らしげに答えた。
シャルロット:「あなたたちのこの別邸への滞在中は、昼夜を問わず、自由に使っていただいて構いませんのよ」
「……」
私はその一言を耳にするや否や、強力な磁石に吸い寄せられるように、ふらりとした足取りで、その薄暗い知の空間へ一歩、足を踏み入れていた。
壁一面を覆い尽くす、天井の高さまでそびえ立つ巨大な黒檀の特製本棚の数々。 王都の禁書図書館にすら眠っていないであろう、希少な特級の古代魔術書。 ヴァーミリオン領地経営における、過去百年の詳細な収支報告の巻物。 古の賢者たちが遺した、異次元魔導の研究書。 失われたはずの古代魔導具の精密な設計資料。 さらに不条理なことに、過去の王国の秘密研究に関する、極めて貴重な一次の歴史記録の束までが、背表紙の順に美しく並んでいるではないか。
「……」
私の琥珀色の瞳の色が、現世の価値基準において、最高純度の銭ゲバの輝きへと瞬時に切り替わった。
つい先ほど、玄関ホールに飾られた美術品や成金家具に対して 「税金の無駄」 と冷めきった査定を下していたあの無表情とは、まるで次元の違う目の色であった。
私は、お気に入りの激安鞄を一度近くの長椅子に置き、吸い寄せられるように一冊の重厚な魔導古書を棚から手に取った。 カサリと羊皮紙のページを開き、私の天才的な頭脳を最大出力で働かせて、文字を超高速で読み込んでいく。

――次の本。 また、次の未完成の設計図。 情報の、そして魔導の富の天文学的な宝の山が、そこには静かに眠っていたのだ。
ルイズ:「シャルロットさん、確認ですが……。 この棚にある特級の知識のすべて、私の研究のために自由に使っても本当に良いのですか?」
シャルロット:「ええ、もちろんよろしくてよ」
ルイズ:「――この部屋にある魔導の資料のすべてを、閲覧料一クローネも払わず、丸ごとですか?」
シャルロット:「もちろんですわ。 わたくしの大切なお客様ですもの、何一つ制限をかける理由などありませんわ」
ルイズ:「……そうですか。 ……それは極めて、利益率の高い、素晴らしい宝の山ですね」
感情を排していたはずの私の声が、ほんの少しだけ、家計簿が黒字を叩き出したかのように、弾むように柔らかくなった。
本を前にして子供のように瞳を輝かせている、無防備な男物Tシャツ姿の私を見て、シャルロットは、優しく包み込むような微笑みを美しい顔に浮かべた。
シャルロット:「ふふ、ルイズさん。 我が家の書庫を、そんなにお気に召していただけましたかしら?」
ルイズ:「――はい。 百パーセントの確率で、最大級のお気に入りです」
光の速さの即答であった。
――そして。 公爵令嬢シャルロットは、激安のトランクを抱えた私の背中に向けて、ゆっくりと、どこまでも一人の友人としての温かい気遣いを込めて、優しく言ったのだ。
シャルロット:「――ルイズさん。 今日からの一週間の滞在はね、あなたは我が家の『大切なお客様(お友達)』なのですから。 ……お国のお仕事も、学廷の過酷な数式も、何一つ気に病むことなく――どうか、何もしないで、ゆっくりとこの風通しの良い温泉地で心身を癒やして過ごしてくださいませね」
その、一人の人間としての、純粋無垢な祝福の言葉を耳にした、まさにその瞬間。
次の羊皮紙のページを冷徹にめくろうとしていた私の白く細い指先が、ピタリと止まった。
ルイズ:「……何も、気に病むことなく、何もしなくていい……?」
シャルロット:「ええ、そうですわ」
ルイズ:「……私、本当にこの豪華別邸で、一クローネ分の労働も、一片の見返りも差し出さずに、何一つ『何もしなくて』いいのですか?」
シャルロット:「もちろんですわ、ルイズさん。 ゆっくり休むことこそが、今のあなたの一番のお仕事ですもの」
「……」
私は――手にしていた国宝級の古い魔導古書を白い両手に持ったまま、しばらくの間、頭のなかを空っぽにして完全な沈黙に沈んだ。
それから、自らのドケチな知性ではどうしても処理しきれない何かを覚えたように、手に持っていた貴重な古書の羊皮紙を、そっと、パタンと静かに閉じた。

ルイズ:「……分かりました、シャルロットさん。 お言葉に甘えます」
そう答えた私の無表情な声には、これまでの人生で一度も他人から受け取ったことのない、純粋な無償の好意に対する――ほんの少しだけ不器用な、戸惑いの歪みが、不自然に混ざり合っていたのだった。
――だが、しかし。 私の頭が止まっていた、わずか数秒の沈黙の後。
シャルロット:「――ちなみに、ルイズさん」
シャルロットが、私のドケチな理性へ、とどめの特大の一撃を刺すかのように、ドレスの裾を揺らして、どこまでも優雅に微笑みながら言葉を続けたのだ。
シャルロット:「あなたの別邸への滞在中の毎日の朝食、昼食、そして夜のメインディッシュのフルコースも、すべて我がヴァーミリオン家の名誉にかけて、こちらの厨房で完璧にご用意いたしますわね」
「……」
私が――バッッッッッッッ!!! と、首の骨が千切れんばかりの勢いで、弾かれたようにシャルロットの顔を振り返った。
ルイズ:「――それは、私の将来の口座から一クローネの変動もない、正真正銘の『完全無料(タダ)』での提供ですか?」
シャルロット:「ええ、当然ですわ。 大切なお友達のあなたから、お肉の料金なんて取るわけがありませんわ」
その、神仏の福音のような完全無料のお言葉が確定した、まさにその瞬間。
私の透明だった琥珀色の瞳が――中央ギルドのオークションで、人類未踏の『特級黄金クローネ金貨の山』を目の前に差し出されたときのように、キラキラと、いや、ギラギラと邪悪な守銭奴の輝きを灯して、最高出力で輝き狂った。
ルイズ:「――素晴らしいですわ、シャルロットさん! それは現世のいかなるおもてなしと比較しても、極めて、最高に、非の打ち所なく素晴らしい、完璧な桃源郷ですね!!」
トト:「――結局、最終的な心配の終着点と、瞳の輝きが最大値に跳ね上がるポイントはそこ(タダ飯)なんかい、自分ーーーッ!!!」
使い魔のトトが、本日何度目になるかも分からない、丸い頭を両前肢で激しく抱え込むお約束の魂のツッコミを、爆音で響かせた。
トトが呆れて白目を剥くすぐ真横で、加芽記智先生こと深淵甲皇カメジルドもまた、私のあまりのぶれなさに床の上でズッコケながら、涙目で激しく首を縦に振って鳴いた。
カメ吉:(――キュィィ……国宝級の古い魔術書の山よりもな! タダで食える一流シェフの肉のフルコースの方がな……、瞳の銭ゲバの輝きが露骨に何倍も強いってどういうことやねん、この全裸バーサーカー! さっきシャルロットお嬢様から『何もしないで、ゆっくり過ごして』って言われてな、一瞬だけ神妙な顔で戸惑っとったあの美しいエモい空気はな……! 純粋に人の優しさに感動しとったんやなくて、『え、本当にタダでいいの? これ後から莫大な裏の負債を取り立てられるんちゃうの?』っていう、ただの疑いの戸惑いやったんかいな! どこまでも、どこまでもぶれへんな、このドケチ魔女は、ホンマに恐ろしいわぁ!!)
向かいで私たちの不毛なやり取りを見ていたマリアンヌとジュリエットの二人も、名門のプライドを忘れて、とうとう耐えきれずにクスクスと楽しそうに吹き出し、大笑いした。

依頼主のシャルロットも、私のあまりに分かりやすい銭ゲバぶりに、つられて上品に鈴を転がすような美しい笑い声を屋敷に響かせる。
――こうして。 ヴァーミリオン公爵家別邸での、私たちの記念すべき滞在初日。
私は自らの快適な二度寝のために、屋敷全体の最高級の魔導管理の仕組みを、限界の120パーセントまで勝手に手直しし。 地下の私設図書室に眠る、天文学的な価値を誇る貴重な研究資料の山に、一瞬で心を奪われ。
――そして、最後の締めくくりには。
ルイズ:「……本日の一流シェフのディナー、とても、楽しみですわね」
一クローネの私費の変動もない、完全無料のタダ飯を、心底幸せそうな無表情の顔で、健やかに待ちわびることになったのである。
そして――お腹の虫を鳴らした私たち一行は。 今後の新魔導実験(おパンツ三分割リボ払い)の仕込みを胸に抱きながら――。
いよいよ、この広大な公爵家別邸が世界に誇る、うら若き乙女の素肌をつるつるに若返らせるという、至高の『最高級天然保養温泉(露天風呂)』へ、生まれたままの姿へのカウントダウンを刻みながら、静かに、優雅に向かうのであった。
夕方。
公爵家お抱えの一流シェフが腕を振るう、極上のお肉のフルコース・ディナー(※もちろん私の口座からは一クローネも引かれない、完全なるタダ飯)の支度が整うまでのひととき。 私たちは、先に汗を流すべく――。

ヴァーミリオン家別邸のさらに最奥、軍事基地並みに厳重な三重の防魔結界の先にある、最高級の『専用保養温泉区画』へ足を踏み入れていた。
ルイズ:「……これは、素晴らしい。 お国の予算を横領したエルライト教授の隠し風呂すら凌駕(りょうが)する、実に見事な設えですね」
私は、目の前に広がる湯煙の光景に、一人の科学者として思わず感嘆の声を漏らした。
そこに広がっていたのは、平民が使うただの 「お風呂」 という安っぽい概念では到底収まらない、学術的にも芸術的にも贅を尽くした癒やしの空間であった。
地層の魔脈の底から滾々(こんこん)と湧き出る、魔力を豊かに含んだ天然の極上湯を、そのまま引き込んだ広大な総檜(そうひのき)造りの内湯。 そのすぐ隣には、入る乙女の体調や好みに合わせて温度帯を分けた、薬草の色彩も鮮やかな五色の薬湯の浴槽。 さらに、磨きガラスの扉の向こうの屋外には、ヴァーミリオン領自慢の豊かな私有林へそのまま続く、広々とした天然岩造りの大露天風呂が悠然と広がっている。
琥珀色に輝く湯面には、お肌をつるつるに若返らせる淡く神聖な治癒の光の粒がやさしく漂い、周囲の空気は、私が先ほど手直ししたばかりの空調の術式のおかげで、不快感ひとつない完璧な温度と湿度に保たれていた。
大理石の壁際には、魔力の濃さを常に清らかに保つための、超高額な特級魔導石を削り出したオブジェが並び、冷たい床を歩く乙女の湯冷めを防ぐため、床下の大理石には精緻な微弱の加温術式が刻まれている。 お湯の自然な流れまで緻密に計算して組み込まれた、筋肉の疲れをほぐす水流のマッサージ装置に至るまで、非の打ち所のない配置であった。
さらに不条理なことに、脱衣所のすぐ脇には、湯上がりの飲み物を最適な冷たさで補い続ける魔導給仕の設備と、王国でも稀少な特級氷魔法を応用した最新鋭の魔導冷蔵庫までが、当然のように備えられていた。
大きな岩造りの露天風呂の壁面には、入浴する者の心を晴らすため、周囲の夜景を自在に映し替える幻影の術式まで組み込まれている。 今映し出されているのは――満天の星。 現世の光を拒む暗黒の夜空に瞬く星の海が、波紋ひとつない琥珀色の水面へ、宝石をばら撒いたようにきらきらと映り込んでいた。
「……」
私は、寸分の綻びもない完璧な設計の機能美を前に、少しだけ目を細めて満足げな無表情を浮かべた。

シャルロット:「どうかしら、ルイズさん? わたくしの実家が誇る、至高の天然保養温泉のお味は」
シャルロットが、客間の上品なドレスから、お揃いの大きめの男物Tシャツに昨日新調した下着を着けた健康的ないつもの姿へお着替えを済ませ、湯煙の向こうから誇らしげに尋ねてきた。
ルイズ:「――何一つ、文句のつけどころがありませんわ、シャルロットさん。 費用対効果も機能美も、極めて優秀な最先端の癒やしの空間です」
シャルロット:「ふふっ、お財布の心配を忘れるくらい気に入っていただけて、それだけですの?」
ルイズ:「はい、百パーセントその通りです」
私は、激安の旅行鞄を脱衣所のロッカーへ安全にしまい込み、素直にそう答えた。 もっとも、その不器用な声には、普段の冷徹なドケチ査定のときより、ほんの少しだけ高い、確かな満足の響きが混ざっていた。
――そのすぐ隣の大浴槽では。
カメ吉:「キュィィ~~~~~~~~……(ワイが太古の神話の時代から待ち望み続けとった、働かんでええ真の理想郷は……まさにこの、タダの温泉のことやがな……♪)」
深淵甲皇カメジルドことカメ吉が、主人の恐ろしい等価交換魔法(おパンツ三分割リボ払い)の脅威などすっかり忘れ、すでに露天風呂の湯面にだらしなく浮かんでいた。 つぶらな瞳は極楽に閉じられ、小さな緑の頭だけが、浮き輪のように琥珀色の湯からぽかりと出ている。 かつて世界を恐怖のどん底に叩き落としたという特級魔獣の野生の誇りなど、湯の成分のなかに一片も残っておらず、ヒモとしての精神ごと、ハーブ湯にどろどろに溶け切っていた。
トト:「……ホンマな、こういう自分の得になることが絡む時の動きだけは、リミッターが外れたみたいに早いのな、自分」
使い魔のトトが、大福餅の身体を湯船に半分沈め、呆れ果てたようにジト目で呟く。
カメ吉:「キュィ……(トトの兄貴、そらそうやろ……。 これこそが、ニートの野生の生存本能やで……)」
トト:「おっ、それだけお湯に溶けとるくせに、辛うじて返事はまだ出せるんやな」
カメ吉:「キュィ~~……(頼むからこれ以上喋りかけんといてや……。 今、ワイの全身の細胞が、完璧に『整っとる』最中なんやから……)」
トト:「完全に実家の温泉に魂ごと持ってかれとるやんけ」
トト自身も、短い前肢をだらしなく伸ばし、ちゃっかり琥珀色の湯船に浸かった。
トト:「はぁ……、これこそ極楽やな」
それから、湯船の縁に置かれた、公爵家の最高のおもてなしが詰まった備え付けの籠へ、短い手を器用に伸ばす。 キンキンに冷えた極上のハーブ飲料。 そして――何故かトトの口の大きさに合わせて特別にスライスされていた、最高級の焼きスルメ。
トト:「……完璧や。 財務を預かるワイの監査から見ても、一分の文句もあらへんわ」
天然温泉と高級スルメという世俗的な最強の組み合わせに、トトは一社の社長のような渋い顔で深く満足の声を漏らした。
私も、身に着けていた大きめの男物Tシャツと新調した下着を脱衣所で丁寧に畳み、大理石の脱衣籠へ大切にしまってから、静かに琥珀色の極上湯へ白磁の身体を深く沈めていった。

ルイズ:「……はぁ、すぅ……」
これ以上ない至高の湯加減と、私が先ほど手直ししたばかりの、微弱で計算し尽くされた治癒の魔力に、いつもは氷のようだった私の表情が、かつてないほど気の抜けただらしのない緩みへと、とろとろに溶けていく。
すぐ横でぷかぷか浮いているカメ吉は、極楽すぎる湯の手触りに短い手足を限界まで伸ばしながら、心のなかで最上級の感謝の涙を流し続けていた。
カメ吉:(――キュィ~~……極楽や……ここはマジで神話の天国やでぇ……! 正直な、ルイズはんがさっき地下で勝手に大改造しとった時にな……『温泉が大爆発する最悪のおパンツ術式』でも嫌がらせで仕込んどったらどうしようって、ワイの野生の危険察知がずっとけたたましく鳴りっぱなしやったんやけど……。 マジで何一つ破廉恥な仕掛けがなくて、ほんまによかったァ……! 九死に一生を得たあとの完全無料のタダ温泉は、ニートの五臓六腑に染み渡るでぇ、南無三ッ……!)
トト:「あいつ、ホンマに公爵家の財力に魂ごと持ってかれとるな」
トトが呆れ顔を向けながら、再び高級スルメをガジガジと齧る。
私は、白磁の肩まで贅沢な天然湯に浸かった。 温かい。 周囲の空気の温度も、寸分の狂いなく一定に保たれている。 琥珀色の湯の流れはどこまでも穏やかで、水流マッサージの強弱も、私の柔肌にちょうどいい。 さらに素晴らしいことに、この保養区画を満たす魔力の濃さまで、人間の身体に最も優しく整えられている。 これだけ穏やかな環境なら、どれほど長く湯に浸かっていても、魔力に酔うことはまずないだろう。
ルイズ:「……フフ、この環境の出来栄えなら、お財布の残高を気にすることなく、いくらでも長くこのお屋敷に居座れそうですね、シャルロットさん」
シャルロット:「でしょう? 我がヴァーミリオン家の誇る温泉ですもの、そうおっしゃっていただけて嬉しいわ」
シャルロットが、湯気に包まれた顔で、我がことのように嬉しそうにクスクスと笑う。
――だが。 私の琥珀色の視線が、ふと、美しい浴場の隅の石畳に無造作に置かれていた、とある一台の道具へ向いた。
ルイズ:「ただ、一つだけ、気になる点がありますね」
シャルロット:「はい? 今度は何ですの、ルイズさん」
ルイズ:「あの、大理石の隅にある、自動掃除用の古い魔導具……」
実家の温泉を絶賛されて聖女のようになっていたシャルロットの笑顔が、その瞬間、ピクリと不穏に固まった。
シャルロット:「……何か、我が家の保養浴場に、問題でもありますの?」
ルイズ:「ええ、使われている魔力回路の効率が著しく悪いですわ。 内部の古い循環の仕組みをほんの少しだけ書き換えれば、消費する魔力を今の半分以下に抑えたうえで、床の掃除の効率を最大140パーセントまで引き上げることが――」
シャルロット:「――ルイズさん」
シャルロットが、冗談ひとつない真顔に切り替え、静かに、優しく私のドケチな解説を遮った。
ルイズ:「はい、何でしょうか、シャルロットさん」
シャルロット:「……今日はもう、これ以上の頭脳労働はすべて手放して、大人しくわたくしとお揃いの湯船で、ゆっくり休みましょう?」
「……」
私は、理性の手綱で自分を縛りつけながら、何とも名残惜しげに、美しい露天浴場の設備をくまなく見回した。 あの隅の自動掃除の魔導具。 大浴槽の湯温を整える中枢。 魔力を循環させるポンプ。 星空を映している幻影の術式陣。 飲料補充の自動の仕組み。 ――どれもこれも、私の銀の指輪で見直して組み直しさえすれば、さらに消費を削れる余地が山ほど埋もれていて、資産管理者として気になって気になって仕方がなかった。

だが――。
ルイズ:「……分かりました、シャルロットさん」
私は、自らのドケチな職人衝動を強引に押し殺し、素直にそれらの道具から視線を逸らした。
すると、向かいの湯船のトトが、つぶらな目をこれ以上ないほど丸くして驚きの声を上げた。
トト:「――お、おぉ……! 世の理を台無しにして突き進む暴走特急(ルイズはん)の手直し癖がな……! お嬢ちゃんのたった一言で、ぴたりと止められたで、不条理やわぁ……っ!」
シャルロット:「ふふ、当然ですわ、トトさん。 わたくしだって、ただの無力な観客のままではいませんもの」
シャルロットが、防衛戦の勝利に安堵の苦笑を優しく漏らす。
シャルロット:「せっかく、あの息の詰まる王都の国家異常事態の喧騒を離れて、こうして別邸へ休みに来たのですもの。 ね、ルイズさん?」
ルイズ:「……そうですね。 力を蓄えることが、今の最優先の務めですね」
私は、これ以上公爵家の設備へ手を出すことを一旦諦め、再び琥珀色の温かい極上湯へ、白磁の身体を深く預けたのだった。
そこには、至高の静けさが満ちていた。 琥珀色の湯が大理石の床へ流れる、耳に心地よい穏やかな水音。 遥か遠く《魔の森》の奥深くで、夜の涼しい風が木々の葉をやさしく揺らす自然の音。 そして――露天風呂の幻影の術式が、天井いっぱいに映し出す、息を呑むほど美しい満天の星々。
シャルロット:「――こうして、王都の実習から離れて、お友達の皆さまとゆっくりお湯に浸かっていると……、何だか遠い子供の頃の昔話を思い出しますわね」
シャルロットが、そっとお湯を手ですくい上げながら、ふと懐かしむように琥珀色の目を細めて言った。
マリアンヌ:「ええ、本当にそうですわね、お嬢様」
マリアンヌが、湯気に上気した顔に優しい微笑みを浮かべて答える。
マリアンヌ:「わたくしたち、まだ学廷の門を叩く前の子供の頃も、この別邸の温泉へよく着替えを持って遊びに来ましたわ」
取り巻きのジュリエットも、湯船のなかで首をコクリと縦に振った。

ジュリエット:「シャルロットお嬢様は、このお肌がつるつるになる天然温泉が、昔から本当に大好きでいらっしゃいましたものね」
シャルロット:「ええ、我がヴァーミリオン家の誇る最高の財産ですもの」
シャルロットが、少しだけ名門の誇りをかけて、得意げに湯のなかで白磁の胸を張って答える。
シャルロット:「特にわたくしは、この開放的な露天風呂の広さが、お小さかった頃からお気に入りでしたのよ」
マリアンヌ:「ふふ、そうでしたわね。 お嬢様は広さに気分が高まりすぎて、よくお湯のなかで人魚のように泳ごうとしていらっしゃいましたよね」
マリアンヌが、何でもないような平然とした顔のまま、さらりと名門令嬢の過去の不名誉な爆弾を落とした。
「……っ!?」
その一言が空気に放たれた瞬間、シャルロットの動きが、一瞬で完全に固まって石になった。
シャルロット:「……な、何をおっしゃいますの、マリアンヌ……っ! わ、わたくしは公爵家の血を引く令嬢ですのよ!? お湯の中でみっともなく泳ぐなど、絶対に、一度もありませんわよ……っ!」
ジュリエット:「いいえ、全身の力を抜いて、お湯の浮力を存分に楽しんで、ぷかぷかと浮いていらっしゃいましたわ、お嬢様」
ジュリエットが、眼鏡の奥の瞳を光らせ、容赦なく事実を冷静に訂正する。
ジュリエット:「それを、周囲に控えていた当時の年上のメイド長たちから『公爵令嬢として著しく格式に欠けますので、湯船で人魚の真似をして泳がないでくださいませ』と、きつくお叱りを受けたんですのよ」
シャルロット:「す、少しだけ余計な力を抜いて、お湯の浮力を楽しんだだけですわ! ただの科学的な実証実験ですわよ!」
マリアンヌ:「合計で、きっちり三回でございましたわね、お嬢様」
シャルロット:「マリアンヌ!」
ジュリエット:「ええ、一度きりの偶然のお叱りなどでは決してありませんでしたわ」
ジュリエットまでが、淡々と美しい無表情のまま、逃げ道を完全に塞ぐ追撃を重ねる。
ジュリエット:「一度目と二度目までは、まだ周囲のメイドたちの優しい口頭注意だけで済んでいましたわね」
シャルロット:「――ちょっと、二人とも! 何故そんな、十年も昔の私の些細な黒歴史を、そこまで鮮明に今も覚えている必要がありますの!?」
ジュリエット:「そして三度目のときに、さすがに見かねた当時のお父様――あの厳格なヴァーミリオン公爵閣下が、直接大浴場へ入ってこられて――」
シャルロット:「――ああああああああああああああもうっ!! その昔話はそこまでで結構ですわ、忘れてくださいましーーーッ!!」
シャルロットが、顔を真っ赤に染め上げ、一国を揺るがすほどの美貌を白く細い両手で覆い隠し、湯船のなかで愛らしく地団駄を踏むようにして悶絶したのだった。
私は、琥珀色の温かい湯のなかで、その可愛らしい黒歴史の暴露劇を聞きながら、無表情の裏側で静かに、珍しく楽しそうにクスクスと笑っていた。
ルイズ:「……お友達としての親しみが、ぐっと増す、とても楽しそうな幼少期の思い出ですね」
シャルロット:「ルイズさん! お願いですから、そんな真面目な顔のまま、わたくしの黒歴史を分析して笑わないでくださいませッ!」
ルイズ:「すみません、失礼しました」
そう口では一応謝りながらも、私の口元には、どうしても隠しきれない小さな悪戯っぽい笑みが残っていた。
王道ツンデレ公爵令嬢の、あまりに愛らしい子供時代の失敗談に、トトが湯船からバシャリと水飛沫を上げて身を乗り出し、ニヤニヤと意地の悪い笑みを大福餅の顔に浮かべた。

トト:「お嬢ちゃん、いつもは学廷の特別講義で凛として『政治の基礎が~』とか偉そうに語っとるクセになぁ! 子供の頃は実家の最高級お風呂で人魚の真似してぷかぷか浮いて、お父ちゃんの公爵閣下に本気で怒られとったんかい! ギャップ萌えが限界突破しとるやろ、これ!」
トトがここぞとばかりに嬉々としていじるすぐ真横で、この世の全労働を手放して湯船にぷかぷか浮いているカメ吉は、まさかの共通点を見つけてつぶらな瞳を爛々と輝かせ、熱い涙をボロボロ流しながら、小さく激しく鳴いた。
カメ吉:(――キュィィィィィィッ……! シャルロットお嬢様ーーーッ! 仲間、ここに時空を超えた真のニート仲間がおるでェ!! 天下の最高位の公爵令嬢もな、この極上の湯船に入ったら、ワイと全く同じただの『ぷかぷか丸』の同類やったんか! 親近感が大爆発してもうたわ! これからはヴァーミリオン領の絶対的アイドルやなくて、ワイの生涯の『浮き友』と呼ばせてなァ、極楽極楽……!!)
――そんな、一クローネの得にもならない、最高に平和でくだらない入浴の時間の、まさにその最中であった。
大浴場の脱衣所の一角、壁面の見やすい位置に据えられた魔導式の最高級情報映像装置(モニター)が、不吉な真紅の警告光をチリチリと伴って、淡く点滅しながら勝手に起動したのだ。
『――王都ギルド本部および王国報道局より、王都市民の皆様へ最新の緊急治安ニュースをお伝えします』
ジュリエット:「……あら、またお国の上層部が騒がしい臨時ニュースを流し始めましたわね」
取り巻きのジュリエットが、上気した顔で、不思議そうにそちらへ視線を向けた。
琥珀色の湯に肩まで浸かったまま、私たち一行は、何となくその真紅に明滅する画面へ意識を向けた。
『現在も、王都中央区画の全域における第一級・国家最高異常事態宣言は、無期限で継続されています』
『第一地下迷宮は王国軍の最高権限によって完全閉鎖され、王都周辺では夜を徹しての正規騎士団による厳戒態勢が続いています』
『また、招聘(しょうへい)された宮廷特級魔導士たちによる防魔多重結界の構築作業が急ピッチで進められており、現時点での進捗は、およそ半分の工程まで到達したとのことです』
画面には、夜の王都の堅牢な城壁周辺で、巨大で複雑怪奇な防衛の魔法陣を、額から血の気の引いた必死の形相で幾重にも築いているエリート魔術師たちの痛ましい姿が映されていた。 その隣には、聖剣を抜き、見えない未知の脅威への極度の緊張から、顔を引きつらせて固まっている王国騎士たちの生々しい姿。
『地下第五層方面の異常を調査していた、西の最高英雄カイト氏率いる特務隠密捜索隊は、すでに地上へ無事の帰還を果たしております』
『カイト氏が王宮へ提出した最新の現場報告によりますと、現地第五層のボス部屋では【空間そのものが原子のレベルで消滅している】という、この世の法則を完膚なきまでに無視した、極めて異常かつ危険な状況が確認されたものの……。 現在のところ、その神話級の破壊を引き起こした元凶に関しましては、お国の頭脳をもってしても、一切特定されておりません』
さらに、上級キャスターの喉を震わせる悲痛な声とともに、画面の映像が冷酷に切り替わっていく。
『また、地下第五層に絶対的守護者として君臨していた、特級指定魔獣《大地の番人》に関しましては、その強固な生命の反応が現場から完全に消失していることが確認されており――』
『現場の凄絶な大破の跡には、正体不明の、到底人間の魔法使いのものとは思えない天災規模の巨大な魔力の痕跡だけが残されて渦巻いていました。 魔導犯罪の専門家は、人類未踏の未知の超常存在によるテロの可能性が極めて高いと、深刻に指摘しています』
私は、濡れた銀糸の髪を揺らし、感情の起伏を排した無表情のまま、黙ってその画面の文字を静かに、客観的に眺め続けていた。
だが――。

「……」
ほんの数秒後には、我が財布の残高に一クローネの影響もない無関係な情報として興味を手放し、再び目の前の、お肌がつるつるになる琥珀色の極上の湯へ、視線を何事もなかったように滑らかに戻したのだった。
『――また、王都周辺の一部地下迷宮におきましては、原生魔物たちの行動に、何者かに対して著しく 「怯えて四方に逃げ惑う」 という、通常とは明らかに異なる異常な傾向が顕著に観測されており――』
『地下深部における原因不明の不穏な魔力の揺らぎは、現時点におきましても、未だ継続中とみられています。 市民の皆様は、引き続き不要な外出を控え――』
不吉な文字情報を淡々と読み上げる音声の途中で、湯船に浸かっていたシャルロットが、小さく、同情するように白磁の胸から息を吐き出した。
シャルロット:「……王都の中央区画は、夜になってもなお、まだ軍事的に落ち着かないのですね」
マリアンヌ:「そうですわね……、本当に不条理な天災ですわ……」
マリアンヌが、深く、痛ましげに首を縦に振る。
ジュリエット:「学廷の寄宿舎に残っている、わたくしたちのクラスの皆様が、どうか何事もなく無事であればよいのですけれど」
ジュリエットも、心配そうに眼鏡の奥の瞳を細め、画面に映る王都の悲惨な厳戒態勢の様子をじっと見つめた。
――だが、それ以上、この最高級ハーブの香りの漂う至高の保養浴場にいる誰一人として、その国家の危機について深く、真面目に議論しようとはしなかった。
ここは、あの息の詰まる王都の喧騒から遥かに隔たった、どこまでも豊かで安全なヴァーミリオン公爵領。 今この遠く離れた平和な場所から、私たち現役学生にできることは、どう考えてもごく限られている。 ならば、これ以上、個人の力ではどうにもならない出来事に頭を悩ませ、心配し続けてみたところで、ただの無意味な消耗でしかない。
公爵令嬢シャルロットもまた、一人の現実的な次期領主として、静かに琥珀色の視線を真紅の画面から、目の前の穏やかな湯面へ戻したのだった。
――そのすぐ真横で。
「……」
この一連の元凶(おパンツ爆弾の魔女)である私は――じっと、怪しく輝く琥珀色の湯面を見つめ続けていた。

シャルロット:「……どうしましたの、ルイズさん? そんなに真剣な顔をして、我が家の温泉の泉質に何か問題でもありますの?」
ルイズ:「――いいえ、シャルロットさん。 このお湯の香りですが、私の野生の鼻によると、微かに、ですが……。 まるで鶏ガラか高級な昆布の『出汁』が美味しく効いたかのような、非常に、とても美味しそうな香りがするのですよね」
シャルロット:「確かに、最高級の薬草の薬効成分のいい香りですけれど……」
ルイズ:「はい、そうですよね」
私は、ほんの数瞬、非常に真剣に頭の中の家計簿を回した。
ルイズ:「――この、栄養価の高そうな温泉のお湯、私のサバイバルにおける『臨時の無料のカロリー摂取(飲料)』として、今すぐ美味しくガブ飲みできるでしょうか?」
シャルロット:「――絶対に一滴も飲めませんわッ!!!!」
公爵令嬢シャルロットが、お湯の中から弾かれたように美声を大音量で張り上げ、即座に私の不法な無料飲料計画を全否定した。
ルイズ:「……そうですか。 ……経費削減が失敗に終わって、極めて残念ですわね」
私は素直に、その無料のカロリー摂取の計画を頭のなかから取り下げた。
シャルロット:「もう、ルイズさんたら……っ! 冷たくて安全な飲み物でしたら、あそこの脱衣所の横の最新鋭の魔導冷蔵庫に、フルーツ水が大量にしまってありますわよ!」
ルイズ:「完全に了解しました。 貴重な情報、ありがとうございます」
私は、琥珀色の湯船から流れるように立ち上がり、脱衣籠の横にある、湯上がり用の最高級フルーツ水(もちろんタダ)へ、迷わず白い細い両手を伸ばしたのだった。
トト:「……ホンマな、自分、そういうドケチな私欲への切り替えの早さだけは、世界最高速を独走しとるな」
使い魔のトトが、湯船の縁から信じられないものを見るようなジト目を向けて、ボソッと呟いた。
トト:「なぁ、ルイズはん。 自分、さっきまでな……『世界を滅ぼしかねん未知の超越的な化け物(※他ならぬ自分のこと)』の恐怖ニュースをな、一文字残さず特等席で見とったやろ」
ルイズ:「ええ、客観的な報道として、百パーセント正確に目にしましたわ」
トト:「やのに、もう頭のなかからその罪悪感を、すっかり消してええんか?」
ルイズ:「当然でしょう、トト。 今の私たちの状況から見て、この遠く離れた私的な保養地から、王都の城壁へ打てる有効な手は何一つありませんからね」
私は、冷たくて甘い高級フルーツ水のガラス瓶を白磁の唇に当て、コクリと美味しく一口飲んだ。
ルイズ:「それよりも重要な仕事は、今目の前に差し出されている、この最高級の天然温泉(無料の公爵家の財産)を、余すことなく回収することですよ」
トト:「……まぁ、そのお財布管理の観点からのドケチな正論は、確かにその通りやな。 ……あまりの図太いメンタルに、ワイの社長としての勘も、逆に感心するわ、自分」
トトも、主人のどこまでもぶれない銭ゲバ精神に降参するように諦め、お湯のなかで湿った高級スルメをガジガジと齧り直した。
トト:「せやな! 今のワイらにできる唯一の最大の仕事っちゅうのはな! 今ここで、王都のことを全部忘れて、全力でタダの温泉を貪り尽くして『最高に休む(二度寝する)』ことやからな!」
シャルロット:「――ええ、その通りですわ、トトさん」
シャルロットが、大切なお友達が美味しそうにフルーツ水を飲む姿を見つめながら、聖女のような美しい微笑みを浮かべた。
シャルロット:「ルイズさん、マリアンヌ、ジュリエット。 ……今日はもう、お国の騒がしい有事のことはすべて忘れて、このわたくしの温泉で、ゆっくりと極上の時間を過ごしましょうね」
再び、至高の専用保養浴場に、平和で、驚くほど穏やかな静けさが戻ってきた。

加芽記智先生こと深淵甲皇カメジルド(カメ吉)は、完全に公爵家自慢の天然保養温泉の贅沢なハーブ成分と一体になっている。 ただ、お湯の浮力のままにぷかぷかとマヌケに浮いている。 時折、 カメ吉:「キュィ~~~~~……(極楽、極楽やでぇ……)」 と、世の生存競争をすべて手放したような、気の抜けた極上のヒモの鳴き声を漏らす。
ジュリエット:「カメ吉さん、本当にヴァーミリオン家の天然温泉がお好きなのですね」
取り巻きのジュリエットが、そのだらしなく浮かぶ可愛いマスコットの姿を見て、優しくクスリと笑う。
すると、隣のマリアンヌが、湯煙の向こうに浮かぶ緑の頑強な甲羅の丸みを、じっと見つめた。
マリアンヌ:「……ねぇ、ジュリエット。 なんだかカメ吉さん、王都の地下研究室でお湯に入る前より、少し丸く――、ずいぶん太ってしまったような気もしますわ」
その一言が放たれた瞬間、カメ吉の閉じていたつぶらな瞳が、カッ!!と驚愕に見開かれた。
カメ吉:「キュッ、キュィィッ!?(……な、何をおっしゃるのですか、お姉さんたち……っ!?)」
私の肩の上にいたトトが、その反応にスッとジト目で振り返る。
トト:「おい、カメ吉。 自分、お嬢ちゃんの実家の温泉にただ長居して浸かっとるだけで、太るんか? 燃費が悪すぎへんか、居候のくせに」
カメ吉:「キュィィィーーーーッ!!」
それは明らかに、一人の誇り高き最高財務責任者として、心外極まりないという激しい抗議の鳴き声であった。
トト:「おっ、図星を突かれて、声が荒ぶっとるな、自分」
カメ吉:(キュッ、キュッ、キュィィッ!! 違うわい、トトの兄貴ッ! ワイはな、太ったんちゃう! この公爵家の神聖なる特級温泉の成分を、ワイの全身のニート細胞が限界まで吸い込みすぎた結果、一時的にちょっとだけ『膨らんどる』だけや! ――決してな! さっきトトはんが最高級の魔力の熱源で美味しそうに炙ってた焼きスルメの匂いにつられてな、ルイズはんが馬車をいじっとる隙に、お屋敷の裏の厨房へコソコソ忍び込んで、一流シェフの最高級ディナー(タダ飯)を裏でたらふく食い溜めしてきたからじゃ絶対にちゃうでーーーっ!!)
トト:「――なるほど、そこは全部完璧な図星やったんかいな、新入り」
トトが、完全に呆れ果てた目でスルメを齧る。
シャルロット:「まあまあ、二人とも、喧嘩はそれくらいにしてくださいな」
シャルロットが、クスリと楽しげな笑い声をあげた。
シャルロット:「今日はせっかくの保養旅行なのですから、カロリーの細かい計算や、お財布の収支のことなど一切気にせず、心ゆくまでゆっくりいたしましょうね」
ルイズ:「……ええ、承知しました」
私は静かに、再び琥珀色の極上の湯船へ白磁の身体を滑らかに沈めていった。

大きな岩造りの露天風呂の湯のなかから、幻影の術式が映し出す、どこまでも美しい夜空を見上げる。 満天の星の海の輝きが、世界の真理のように美しく、広大に空へ広がっていた。
王都では今この同じ時刻も、警報の鳴り響くなか、王国正規騎士たちが未知の超越的な脅威(※原因はただのドケチ女子学生のおパンツ)への恐怖にガタガタ震えながら、最大の警戒を敷いている。 名門の魔術師たちが、見えない脅威に対して、肺から血を吐くような多重の詠唱で、決死の結界を築き上げようと必死に戦い続けている。 冒険者の荒くれ者たちは当面の稼ぎを失い、明日を生きる生活費への不安を抱えて暗い顔をしている。 私のあずかり知らぬ世界のどこかでは、私には一クローネの影響もない巨大な異変が、今なお無慈悲に続いているのだ。
――けれど。
今、私の目の前にあるこの場所には。 私が快適に二度寝するために磨き上げた、完全無料の温かい極上の湯がある。 すぐ隣には、私の銭ゲバの毒に染まりながらも、共に穏やかな時間を分かち合ってくれる、尊い友人たちがいる。
トトは私の肩の傍らで美味そうに最高級スルメをガジガジ齧り、カメ吉は完璧に魂を温泉へ売り渡して、ただのアホ面で湯面にぷかぷか浮いている。 マリアンヌとジュリエットは、湯煙の向こう側で、楽しそうに可愛らしい子供時代の昔話を交わし合っている。 そして、この宴の主であるシャルロットは、その愛おしい光景のど真ん中で、一人の美しい聖女のように、穏やかに頬を緩めて笑っている。
ルイズ:「……フフ、極めて、最高に『平和』ですね、シャルロットさん」
私は、自らのお財布の中身を完璧に守り抜いた心の底からの実感を込めて、気の抜けた無表情の声でポツリと呟いた。
シャルロット:「ええ、ルイズさん」
シャルロットもまた、その白磁の顔を優しく上向かせ、幻影の美しい星空を見上げて答えた。
シャルロット:「――本当に、王都の喧騒が嘘のように平和ですわね、わたくしたち」
それから、どれほどの贅沢な時が流れただろうか。
私たちは全員が、お肌をつるつるに若返らせる最高の天然保養温泉から名残惜しげに上がり、火照った身体を涼しい空気の中で優しく冷ました。 湯上がりの脱衣所のカウンターには、冷たくて甘い特製のフレッシュ果実水が、たっぷりと用意されていた。

そして――いよいよ、この保養旅行における、最大の 「お待ちかね」 の時間がやってくる。
豪華絢爛(けんらん)な大食堂の長い食卓には、ヴァーミリオン家お抱えの一流最高級シェフが、そのすべての技を駆使して腕を振るった、ジューシーに焼き上げられた極上のブランド肉料理や、色鮮やかな副菜の品々が、次から次へと並べられていくのだ。
「……」
私の琥珀色の目が、本日最高の邪悪な輝きを放ち、テーブルに鎮座する肉料理の山へ、垂直に突き刺さった。
名門の格式も気品も一片も存在しない、極限まで食い意地の張りきった私の表情を見て、隣の席のトトが心底呆れ果てて苦笑した。
トト:「……なぁ、自分。 ほんまに自分という人間がな、一日二十四時間のなかで一番元気になっとる瞬間が……、この『他人の金で食うタダ飯』の瞬間なんやな、不条理やわぁ」
ルイズ:「――当然でしょう、トト。 私のサバイバルにおける、最重要項目ですからね」
トト:「一体、どこの世界にとっての最重要なんや、自分」
ルイズ:「――この私の気高き魔導研究の『人生(エンゲル係数の防衛線)』にとってですわ」
トト:「……お肉のフルコースを前にしてな、急に人生設計の話のスケールが泥のように重たくなったな、お姉ちゃん……っ」
そうして、お国のお偉い大人たちが国家異常事態宣言で夜通し怯えているその裏で、私たちは極上のブランド肉を、胃袋の限界まで、ペロリと三人前平らげた。
別邸滞在初日の夜も――静かに、どこまでも穏やかに、そして贅沢に更けていく。
客室のふかふかの高級ベッドの上で、お揃いのパジャマ姿になって明日の攻略予定を話していたシャルロットが、ふと思い出したように、優雅に言った。
シャルロット:「――そういえば、ルイズさん、マリアンヌ、ジュリエット」
ルイズ:「はい、何でしょうか、シャルロットさん」
シャルロット:「明日は、朝一番の予定通り、いよいよ我がヴァーミリオン家の広大な敷地内に眠っている、あの手付かずの『天然亜種迷宮』へ、皆様をご案内いたしますわね」
私の琥珀色の瞳の奥が、その魅力的な金蔓の話を前に、スッと僅かに鋭く、冷徹な科学者の目へと開かれた。
ルイズ:「……天然迷宮。 素晴らしい響きですね」
シャルロット:「ええ、そうですわ。 きっと、あなたの魔導研究への欲を百二十パーセント満たしてくれる、非常に興味深い構造になっていると思いますわよ」
ルイズ:「……ええ。 本当に、明日の朝からの進入が、心底楽しみですわね、フフ……」
私は――中指の銀の指輪を愛おしそうに撫でさすりながら、明日突入する天然迷宮の底から力ずくでむしり取る予定の、次なる特級ドロップ素材(私の莫大な研究費への換金物)の美しい算段を、頭のなかで思い描きながら、もう一度深く、冷酷に繰り返したのだった。

――まさに、その不穏な銭ゲバの誓いが立てられた、私の足元で。
カメ吉:「……キュィ……、ゴゴゴ……」
床の上のカメ吉が、昨日から今日に至るまでの間でも極めて珍しく、少しだけ、嫌な予感を覚えたかのような低い野生の鳴き声を、喉の奥から漏らしたのだ。
トト:「おい、新入り。 急にどうしたんや」
トトが、食べ残したスルメの端を齧りながら、不思議そうに床の上の亀を見下ろした。
カメ吉:「キュィ……(トトの兄貴……)」
加芽記智先生こと深淵甲皇カメジルドは、それ以上の言葉を返すことはしなかった。
ただ――つい先ほどまで公爵家の保養温泉の極楽のなかで、野生の誇りをすっかり溶かし切っていた、あのモーテルなクソニート亀とは到底思えないほどに。 そのつぶらな瞳の最奥に宿る蒼白い光が――かつて現世を恐怖のどん底に陥れた、あの神話級の超越特級魔獣としての、ほんの少しだけ鋭い、冷酷なまでの警戒心を、不気味に取り戻して暗闇のなかで明滅していたのだった。
しかし――。
その深淵甲皇カメジルドことカメ吉の小さな瞳の最奥で明滅した、微かな異変の兆しに気づく者など、今夜のこの甘いアロマの満ちる客間のなかには、ただの一人もいなかった。
明朝から始まる、あの天然亜種迷宮での次世代魔導実験(マルチお下着衣装ローテーション理論)の、最高効率の算段を頭のなかで弾き出しながら。 私は、全身を包み込む温泉上がりの心地よい疲労感とともに、ふわぁ、と大きく無防備に、眠そうな欠伸を白磁の口元から漏らした。
ルイズ:「――では、シャルロットさん。 明日の朝一番からの、最も愛おしい天然迷宮の換金に備えて、私はもう自らの全身を完全に休ませますわ」
シャルロット:「ちょっとルイズさん、あなた今朝、王都を出発した直後から、あの揺れ一つない高級馬車のなかで、すでに泥のように十二分に眠って休んだと思いますけれど……」
シャルロットが、お揃いのパジャマ姿の襟元を押さえながら、名門令嬢として呆れたように優しく苦笑する。

ルイズ:「心外ですね、シャルロットさん。 移動中の馬車での仮初めの睡眠と、この公爵家の最高級スプリングベッドの上で執り行う本格的な本番の睡眠は――私の家計簿の観点から見て、百パーセント完全に別物の別資産ですよ」
シャルロット:「……ふふ、なるほど、ドケチの資産管理者としては、そういう都合のいい理論が成立しますのね、承知しましたわ」
そうして――。
王都の正規騎士団や宮廷魔導士たちが、夜を徹して見えない超越的な脅威(※原因;おパンツ大爆発)にガタガタ震えながら決死の防衛線を築いている、あの絶望的で物々しい夜とは、まるで別の世界のように。
ここ、ヴァーミリオン家別邸が誇る平和で豊かな桃源郷の夜は――知らぬは美味しいお肉の味ばかりなりと、静かに、優雅に、そして極めて快適に更けていったのである。
翌朝。
公爵家お抱えの一流最高級シェフが技を尽くして腕を振るった、極上の特製朝食フルコースを、胃袋の限界までペロリと詰め込んだ私たちは――。
ヴァーミリオン家別邸の広大な敷地の裏手、うっそうと生い茂る原始の森の方角へ向かっていた。
昨日までの、宮廷の作庭師によって美しく整えられた薔薇(バラ)の庭園とは違い、今日ここを満たす空気の匂いは、明らかに野生の危険をはらんでいる。 私たちがこれから向かう先にあるのは、温かく平和な癒やしの保養温泉などでは断じてない。
公爵家の広大な敷地の最奥に広がる、巨大な原生林のさらに奥底。 長い年月を経て苔(こけ)むした無骨な巨岩の肌に、ぽっかりと不気味に暗黒の口を開けた――ひとつの巨大な天然洞窟の入口であった。
シャルロット:「――皆様、こちらですわ」
シャルロットが、世の理を拒むような洞窟の目の前で、優雅に動きやすい戦闘服の裾を揺らして足を止めた。

シャルロット:「この薄暗い裂け目の先が、我がヴァーミリオン家が代々ひそかに管理してきた、手付かずの天然亜種迷宮ですのよ」
「……」
私は、大きめの男物Tシャツに昨日新調したばかりの下着を着けた姿のまま、激安の旅行鞄を胸に抱き、光をまるで受けつけず沈む暗黒の入口を、無表情で静かに見つめた。
王都のギルド本部が人工的に管理・整備している、あの規律正しい一般実習用のダンジョンとは、造りが根本から違っている。 宮廷魔法で整えられた安全な古代石壁の通路もない。 等間隔に据えられて足元を照らす魔導照明もない。 冒険者向けに親切に作られた案内板もなければ、万一のための脱出用の魔導具らしきものも、どこにも見当たらない。 そこにあるのは――大地の地殻変動による亀裂から自然に生まれた、剥き出しで無防備な、太古の岩の裂け目だけであった。
ルイズ:「――シャルロットさん、質問ですが。 このような天然の野良ダンジョンというのは、王国の魔導法の上で、中央ギルド本部への登録の届け出は義務付けられていないのですか?」
私が、一人の科学者として法の規定について尋ねる。
シャルロット:「国有領土、およびギルドの管轄内に生じたものであれば、届け出は必ず義務付けられていますわ」
シャルロットはコクリと頷(うなず)いた。
シャルロット:「ですが、ここから先は、我がヴァーミリオン家が完全な私有地として押さえている、不可侵の敷地内ですからね。 ……中央の役人やギルドの干渉は、一切受けない仕組みになっていますの」
ルイズ:「なるほど。 それは極めて、中間マージンを削りやすい素晴らしい仕様ですね」
私は、その不法の香りのする闇洞窟の入口を、まじまじと見つめた。
ルイズ:「公爵家の私有地にある、未届の天然亜種迷宮……」
シャルロット:「……違法だなんて人聞きが悪いですわね、法的解釈としては『プライベート・ダンジョン』ということになりますわ」
私の華奢な肩の上で、使い魔のトトが、食べ残した高級スルメの繊維を齧(かじ)りながら、呆れたような声を吐き出した。
トト:「……なぁ、お嬢ちゃん。 ワイの社長としての勘がな、嫌なもんを嗅ぎつけたんやけど。 ……これ結局のところ、公爵家がな、この迷宮の底に眠っとる超特級の『天然保養温泉の源泉』を、中央のギルド本部に強奪されんように隠すために、わざと未届のまま放置しとる闇ダンジョンなんちゃうんか?」
シャルロット:「――極めて人聞きが悪いですわ、トトさんッ!」
シャルロットが、鋭すぎるツッコミに図星を突かれたように、美しい白い頬をぷくーっと可愛らしく膨らませてみせた。
シャルロット:「我がヴァーミリオン家の名誉にかけて、敷地内の魔物の間引きは、定期的に私兵を突入させて、完璧にこなしておりますもの!」
トト:「せやけど、お嬢ちゃん。 その最高級の温泉の源泉が、この闇ルートの奥底にあるんは、動かしがたい事実なんやろ?」
シャルロット:「……うぐっ。 ……まぁ、歴史的な経緯としては、その通りですけれど……っ」
その公費横領めいた内情を耳にして、足元でカメ吉が、ピクッと小さく緑の首を動かした。
カメ吉:「キュィ……(トトの兄貴……)」
トト:「ん? なんや、新入り。 またニートとしての打算の勘が何か嗅ぎつけたか」
トトが、訝(いぶか)しげに床の亀へ振り向く。

カメ吉:「キュィ……(これは、あれやわ……)」
しばし、カビ臭い風が通り抜ける沈黙が流れた。
トト:「……お嬢ちゃん個人というより、このヴァーミリオン公爵家という血筋そのものが、お国の決まりを踏み倒してでも温泉を守りたい『温泉第一主義の狂信的過激派』なんちゃうんか、これ?」
カメ吉:「キュィィッ!(百パーセントその通りや! ワイと同じお風呂の寄生虫の匂いが、実家からプンプンするで!)」
カメ吉が、ニートとしての誇りを込めて、力強くトトの推論に同意した。
トト:「温泉最高や! 温泉のためなら、お国の結界なんて木っ端微塵や!」
トト:「――居候の新入りのくせに、自分の打算だけで言い切るなや、自分」
トトが即座に、床の亀の頭へ前肢でツッコミを叩き込んだ。
トト:「でもな! 公費で入る別邸の天然保養温泉は、財務を預かるワイから見ても、最高としか言いようがないな!」
カメ吉:「――結局、そこはワイらも一ミリのブレもなく同意やないかいッ!!」
どういうわけか、二匹の不憫なマスコットの銭ゲバな意見だけは、世の真理に到達したかのように固く、醜く一致した。
トトが深々と納得の溜息を吐き出す横で、カメ吉は、昨夜あれほど 「野生の本能が最悪の全裸事件の警鐘を鳴らしとる」 とガタガタ怯えていたことなどすっかり忘れ去り、温泉とタダ飯への期待で漲(みなぎ)る不退転の決意を燃やしていた。
カメ吉:(――せや! 最高の保養温泉と一流シェフのフルコースを守るためなら、たとえ火の中、未届の闇ダンジョンの不気味な穴の中や! ワイの湯上がりのふやけるほどの極楽を奪おうとする不届きな魔物どもはな……、他ならぬルイズはんが昨日みたいに、おパンツ水蒸気爆発で全部一瞬で消し炭にしてくれるハズやからな! これぞ特級居候の真骨頂、他力本願百パーセントで、ついてったるでぇ、極楽極楽……!!)
そんな二匹の極めて現金な結束を綺麗に放り出して。
ルイズ:「――では、時間の無駄ですので、さっそく迷宮へ入りましょう」
私はマイペースに、激安の旅行鞄を胸に抱いたまま、暗い洞窟の奥へ、一片のためらいもなく軍靴を踏み鳴らして足を踏み入れていった。
シャルロット:「ちょ、ちょっと待ってくださいませ、ルイズさんッ!」
シャルロットが慌てて私の背中を追いかけてくる。
シャルロット:「まだあなたに、内部の最低限の注意事項と、探索の道筋の説明をしていませんわよ!?」
ルイズ:「――事前の情報では、三階層の最深部までは、分岐のない一本道なんですよね?」
シャルロット:「え、ええ、我が家の私兵の記録ではそうですけれど」
ルイズ:「でしたら、道に迷うことはありません。 問題ありません、大丈夫です」
シャルロット:「――一体どこの理屈を根拠にして、そこまで大丈夫だと言い切れますの!?」
洞窟の内部は、外観の不気味な亀裂から想像していたよりも、はるかに広大で荘厳な暗黒の空間であった。 しかし、その成り立ちそのものは、王都の人工物と違って至って単純だ。 複雑な分岐は著しく少なく、人の手で掘り進められたような不自然な削岩の跡も一切ない。

剥き出しの花崗岩(かこうがん)の岩壁の隙間から、清らかな地下水が静かに、絶え間なく湧き出ている。 じっとりとカビ臭く湿った、閉ざされた空間特有の重い空気。 ところどころに自生する、淡く青い光を放つ発光鉱石の粒。 そして、奥の深みへ進めば進むほど、温泉地特有の濃厚な硫黄の匂いと、むわっと肌を刺す蒸気の熱気が、明らかに強まっていった。
ルイズ:「王都の人工的に造られたダンジョンとは、空気の質がずいぶん違いますね」
私は、中指の銀の指輪から魔力を探る目を働かせ、周囲の岩肌をくまなく見回した。
ルイズ:「ギルドの管理が入っていないので、完全に未整備ですし」
シャルロット:「ええ、そうですわ」
シャルロット:「人の手が、歴史上まったく入っていない、完全な自然発生型ですのよ」
シャルロットが、先導しながら次期領主として説明を重ねる。
シャルロット:「先ほどトトさんに暴かれた通り、三階層までは一本道でして、その先の開けた大広間へ進めるようになっていますわ」
ルイズ:「魔物の湧き出しの条件は?」
シャルロット:「自然界の魔力の濃さに従って、自然に湧きますわ」
ルイズ:「私たちがそれらを完全に倒した後、再び湧くまでの間隔は?」
シャルロット:「だいたい一時間ほど経てば、また空間の歪みから、どこからともなく湧いて出ますのよ」
「……」
私の琥珀色の視線が、その瞬間、鋭く、肉食獣のような研究者の目に切り替わった。
ルイズ:「――なるほど、それは極めて面白い、経済的な話ですね」
シャルロット:「……何が、そんなにドケチの琴線に触れましたの?」
ルイズ:「一時間の規則的な間隔で、無限に自動で湧き直します」
シャルロット:「ええ、そうですけれど」
ルイズ:「一定の周期を保って」
シャルロット:「はい、決まり通りに」
ルイズ:「ということは――この閉ざされた空間の構造そのものに、世界から孤立して『魔力を無限に生み出し続けている、特級の供給源』が実在していますわ」
「……?」
シャルロットは、私の不穏すぎる着眼点を前に、不思議そうに首をコテンと傾げたのだった。
私は、もう彼女の世俗的な解説を聞いてはいなかった。 周囲の未開の環境に、すべての神経を集中させる。
ごつごつとした古代の花崗岩の岩壁。 じっとりと湿った漆黒の地面。 空間の隙間をうねるように巡る、純粋な魔力の流れ。 冷たい地下の湧き水。 足元から伝わる地熱の温度。 そして、閉ざされた空間を満たす澱(よど)んだ空気の流れ。 琥珀色の視線が、驚くべき速さで忙しく動き、空間の不自然な点を辿っていく。
ルイズ:「……大気に満ちている魔力の濃さも、王宮の予算で管理されているあの人工ダンジョンとは、根本的な設計の考え方からして、明らかに違いますわ」
シャルロット:「……ルイズさん、あなた、岩肌に触れただけの一瞬で、そんなことまで分かってしまいますの?」
ルイズ:「はい。 調べはもう済んでいます」
私はその場にしなやかにしゃがみ込み、激安の旅行鞄を膝に抱えたまま、冷たい地面へ白磁の指先をそっと触れさせた。
ルイズ:「この階層に潜んでいる魔物どもの分布も、確率から見て、不自然に一方向へ偏っていますね」
私は、男物Tシャツの襟元を押さえながら、すっと漆黒の視線を上げた。

ルイズ:「この地殻の造りそのものに、魔力を自動的に生み出して循環させるための、一個の巨大な『生きた仕組み』が組み込まれているようにしか見えませんわ」
動きやすい上品な公爵家の戦闘服に着替えていたシャルロット、そして取り巻きのマリアンヌ、ジュリエットの三人は、その場で顔を見合わせて言葉を失った。 昨日、あの超VIP温泉でだらしなく琥珀色の湯に溶けていた時ののんきな空気とは、今の私が全身から放つ気配が、根本から違っているからだ。 私の頭のなかでは、すでにこの未開の天然迷宮そのものが、格好の『特級研究対象』として、しっかりと狙いを定められていたのである。
――まさに、その不穏な結論が固まった、その時であった。
私たちの進路の少し先、苔むした岩陰の暗がりから、ぬるり……じゅるり……、と、この世の生き物の常識を逸した、異質な粘りのある音が静かに響き渡った。
シャルロット:「――ルイズさん、来ますわ! 前方に生き物の気配ですわ!」
シャルロットが即座に、紅蓮の結晶が埋め込まれた愛用の魔導杖(ロッド)を暗闇へ向けて、凛と構える。
うごめく岩陰の向こうから、ゆっくりと姿を現したのは――淡い幻想的なパステルピンク色をした、プルプルと震える半透明の小さなスライムの個体であった。 不思議極まりないことに、その柔らかなゼリー状の身体の一部からは、まるで別邸の保養温泉のように、ぽかぽかとした心地よい白い湯気がまとわりつくように立ち上っている。
シャルロット:「あれが、我が家の私有地にのみ固有種として自然に生まれる『温泉スライム』ですわ」
ルイズ:「なるほど……。 これが、この未踏階層で最初に出会う魔物ですか」
シャルロット:「ええ、そうですわ」
シャルロットが、名門公爵令嬢としての余裕の笑みを美しい顔に浮かべ、一歩前へ優雅に足を進める。
シャルロット:「わたくしの放つ紅蓮の炎の魔法なら、一瞬で、簡単に安全に討伐できますわよ」
彼女の掲げた魔導杖の先に、大気をバチバチと歪ませる高密度の破壊の魔力が、一点へ超高速で集まり始める。
――だが、しかし。
ルイズ:「――待ちなさい、シャルロットさん。 その魔力を、今すぐ収めてください」
私は静かに、しかし絶対の拒絶を込めた冷たい声で、突進しようとしたシャルロットの前へスッと白磁の手を差し出し、その動きを完全に制止した。

その瞬間。 私の肩の上のトトは、またしても私の琥珀色の瞳が 「哀れな研究対象を分解して骨までしゃぶり尽くそうとしている、マッドサイエンティストの銭ゲバモード」 に切り替わっていることに気づき、激しく丸い頭を両前肢で抱え込んだ。
トト:「――出たァァァァァッ! ルイズはんの、世の理を台無しにする恐怖の『ちょっと待って(魔改造の合図)』や! お嬢ちゃんアカン、それ以上杖の魔力を練ったらスライムが討伐される前に、この天然迷宮の生態そのものがな、ルイズはんの手で根こそぎ書き換えられてまうぞ!!」
トトが慌ててシャルロットの戦闘用ローブの裾を小さな前肢でギュギュッと引っ張るすぐ真横で、床のカメ吉は、温泉スライムの身体から立ち上るほんのり香ばしい高級ハーブ温泉の湯気の香りに一瞬だけうっとりと目を細めつつも、私の全身から放たれるヤバすぎる冷たい気配に、即座に冷酷な現実へ引き戻され、涙目で小さく鳴いた。
カメ吉:(――キュィィ……ちょっと待ってや、あのピンクのスライム、ほんのり極楽の保養温泉のええ匂いが漂っとるで!? 一緒の湯船にぷかぷか浮いたら、ニートとして絶対最高に気持ちええやつやん……って、そんなのんきなこと言うとる場合ちゃうわ、ボケ! ルイズはんの両目が、ガチのマッド銭ゲバの輝きになっとるがな! さっき『無限の魔力供給源』がどうとかドケチな計算しとったしな……、あのプルプル震える可愛い無防備な命を、ただの『魔力バッテリー(一括引き落とし口座)』か何かに不法に魔改造する気満々やんか! 逃げてピンクのスライム! お願いやから現世の道徳心のために、はよその五体で回れ右して逃げてぇなァ、ガチでこわいわぁ!!)
シャルロット:「え……っ?」
シャルロットが、集めていた紅蓮の術式を虚空でピタリと止め、困惑したように固まった。
私の肩の上で、トトが深い、深い、世界の終わりを悟ったかのような溜息を吐き出した。
トト:「……また朝一番から始まるんか、お嬢ちゃんたちを巻き込んだ、あの破廉恥な不条理実験が……っ」
ルイズ:「――最先端魔導の、極めて清らかな実証実験ですよ、トト」
私は、プルプルと可愛らしく湯気を立てて震える温泉スライムの様子を冷徹に観察したまま、淡々と答えた。
ルイズ:「前回、あの地下第五層の戦場で行った旧式の方法(風の第十位階大魔法など)では、衣服という名の触媒の全量を、一撃の等価交換によって一度に使い尽くし、使い捨ての燃料として一括で消費していましたわ」
シャルロット:「……ええ、文字通り一瞬で服が消えていましたわね」
ルイズ:「それだと、同じ種類の触媒を続けて使ったときに起きる、あの呪わしい『出力の目減り』が、資産管理の観点から見て、極めて深刻な欠陥として残るのです」
私は、左手の中指に鈍い神聖な光沢を放つ、変調の銀の指輪を暗闇の洞窟の空へ高く掲げてみせた。
ルイズ:「まったく同じ素材、まったく同じ形の触媒(お下着など)を短時間に続けて消費すると、世界の仕組みが処理を誤り、魔力の変換の効率が著しく落ちる(大赤字)のです」
シャルロットが、国家保安局の地下施設でエレナ捜査官たちの衣服が消し飛んだ際の悲惨な記憶を脳裏に思い出し、不思議そうに首を傾げた。
シャルロット:「……ええ、言われてみれば、あの第五層での激戦の時、確かにそういう燃費の悪化がありましたものね」
ルイズ:「はい。 そこを今回、私のドケチな知性で、完璧に手直ししました」
私は、一人の偉大なる天才科学者の顔で、自信に満ちて深く頷(うなず)いてみせた。
ルイズ:「なので今回は――魔法の支払いを、世界の仕組みに対して『分割(リボ払い)』で請求しますわ」
シャルロット:「……し、支払い、ですか?」
ルイズ:「ええ、等価交換の代償(衣服の消費分)の引き落としを、金利なしの『三分割』の術式に書き換えるのです」
私の口から出たその不名誉な言葉は、王立魔法大学の学界で新たな真理を発表する高尚な学者のように、いたって真面目で厳粛な調子であった。

まず、私は床に置いた激安の旅行鞄(研究機材の収納)へ視線を落とした。 ――だが、数瞬の後には、すぐに合理的ではないとして首を静かに横に振る。
ルイズ:「……残念ですが、今回、トランクの中の手持ちの予備の弾薬(研究道具)は、触媒として使えませんね」
シャルロット:「使えない? それは一体どういう理屈ですの、ルイズさん?」
ルイズ:「肌に密着している衣服以外は、この変調指輪の今の仕組みでは、等価交換の触媒として成立しないからですわ」
私が、一人の一級アナリストとして冷徹な事実を答えた。
ルイズ:「今回の新しいリボ払い術式の条件では――術者(あるいは共有の口座に繋がれた対象者)が、今この身に直接纏(まと)っている『着用中の着衣』のなかから、対象の触媒を選ぶ必要があるのです」
「……」
その私の最悪な仕様の解説が放たれた瞬間、シャルロットの美しい琥珀色の視線が、ゆっくりと、恐るべき警戒とともに私の方へ向いて固まった。
トトも全く同じ時、心底呆れ果てたジト目で、私の大きめの男物Tシャツ姿を見つめる。 床のカメ吉にいたっては、かつてないほどドン引きした引きつった目になり、ガタガタと甲羅を震わせた。
――そして。 他ならぬ私自身が、今この身に纏っている、エルライト教授の研究室からタダで拝借してきた唯一の衣服へ、ゆっくりと、冷徹に目を向けたのだ。
ルイズ:「――はい、これで準備は整いましたね」
私の白く細い指先が、その大きめのぶかぶかとした白い男物Tシャツの裾へ、ふわりと、愛おしそうに触れた。
「……」
公爵令嬢シャルロットは、私のあまりにも破廉恥極まりない戦闘準備を前に、名門の知性をすっかり失って沈黙した。
シャルロット:「ル、ルイズさん……。 その触媒に選んだ衣服って……、今あなたがその肌に着ている、まさにそのTシャツ(私物)ですわよね?」
ルイズ:「はい、そうですが。 何一つ不都合はありませんわ」
シャルロット:「また、あなたは何のためらいもなく、自分の着ているものから身代わりに捧げようと(全裸化しようと)していますの……っ!?」
ルイズ:「当たり前でしょう。 これが今の私の手持ちのなかで、最も仕入れ値がタダに近くて安かった資産ですからね」
シャルロット:「――理由の最終的な着眼点が、いつもそこ(銭ゲバな経済的理由)なんですのね……っ!!」
トトが、この世のすべての道徳心の崩壊を見たかのように、大福餅の身体を縮ませ、深く深い溜息を洞窟に響かせた。
トト:「自分……、尋問室での社会的な死から、何一つ学習せえへんのか、ほんまに……っ」
ルイズ:「大いに学習していますよ。 私は常に、資産管理の観点から、頭のなかの家計簿を最新に更新していますからね」
トト:「一体全体、どこの狂った項目を更新しとるんや、自分!」
ルイズ:「――『一番安く仕入れた他人の衣服(タダ服)は、どれほど大魔法で使い尽くされようとも、実験の使い捨て弾薬として最も優秀かつ黒字である』という、揺るぎない経済的真理をですわ」
トト:「――その、女の子としての方向性が悲しすぎるほど狂い散らかしとるわ、ボケァァァッ!!」
私は、彼らの世俗的なツッコミを頭のなかで綺麗にミュートし、次なる大魔法の等価交換の対象を、自らが纏っているこの『男物Tシャツ』に、淡々と定めた。

そして――左手の指に嵌めた変調指輪の青白い核へ、冷徹に視線を落とす。
ルイズ:「では」
私が、暗闇の洞窟の底で静かに呟く。
ルイズ:「――術式の出力の調整を始めますわ」
中指の銀の指輪の内部で、カチリ、と時計の針が噛み合うような、非常に小さな心地よい音が不気味に鳴り響いた。 これまで幾度となくお嬢様たちを社会的死へ追いやってきた、あの無慈悲な強制一括引き落としの仕組みとは根本から違う。 指輪の核が放つ周波数が、極めて微細で複雑な螺旋の波形へと変化していくのだ。
青白い幾何学の魔法陣が湿った虚空に一つ浮かび、私の意思に応えてすぐに消える。 また一つ。 さらに、その奥に一つ。 複雑な計算の結果が、私の大きめの男物Tシャツの周囲に、淡い青白い光の文字となって次々と浮かび上がっていく。
『 ―― 現在の等価交換 ―― 』 [ 等価交換出力 ; 100% ] [ 触媒消費形式 ; 一括(全損・一括強制消費) ]
私はその光の画面の上で白い指先を滑らせ、既存の仕組みを、直接、私好みの守銭奴仕様へと書き換えていく。
『 ―― 更新完了 ―― 』 [ 出力上限設定 ; 33.3% に制限 ] [ 触媒消費形式 ; 分割(リボ払い引き落とし)に変更 ] [ 分割回数設定 ; 3 ]
浮かび上がったその完璧なリボ払いの設定を見て、私は小さく、満足げに頷いてみせた。
ルイズ:「――承認。 初期設定完了ですわ」
「……」
シャルロットが、顔を恐怖に引きつらせながら、恐る恐るその不穏な光の画面を覗き込んで尋ねてきた。
シャルロット:「ル、ルイズさん、その怪しく明滅している画面は……一体何をしていらっしゃるんですの?」
ルイズ:「至ってクリーンな経済的手直しですよ。 等価交換の代償の引き落としを、一括ではなく、三回に小分けして段階的に引き落とすのです」
シャルロット:「……さ、三回に分割……?」
ルイズ:「はい」
私は淡々と、魔導の理を知らない愚かな平民の生徒へ教え諭すかのように、丁寧な声で解説した。
ルイズ:「本来の仕様であれば、この大魔法を一回使えば、因果のエネルギーを支払うために必要な触媒(私の今着ている服の全量)は、一度に全額を強制的に引かれ、私はその場で一瞬にして完全なる全裸になりますわ」
シャルロット:「……ええ、取調室の時がまさにその最悪の状態でしたわね」
ルイズ:「そこを今回は、指輪の周波数を書き換えて、衣服の引き落としを『三分割(リボ払い)』に変更するのです」
シャルロット:「……つまり、どういうことですの?」
ルイズ:「一回目の大魔法のとき、私の今着ているTシャツの布地の、わずか三分の一だけを消費する」
ルイズ:「二回目の大魔法のときも、同じく布地の三分の一だけを安全に引き落とし」
ルイズ:「そして三回目のトドメの大魔法を放った瞬間に、残りのすべての布地を全額引き落とし(全裸化)するのですわ、シャルロットさん」
私の肩の上で、トトが、大福餅のつぶらな赤い目を驚愕のあまり極限まで真ん丸く見開いた。

トト:「……お前、ついに多次元魔導の神聖な代償の仕組みまで、最悪の『リボ払い(闇金)』の借金地獄に書き換えてもうたんか、自分」
ルイズ:「そうですわ、トト。 他人の予算と衣服を最も効率よく運用するための、最先端の金融工学を応用した魔導術式ですわね」
トト:「――ほんまにやりよったで、この世に舞い降りた不条理な銭ゲバ魔女……っ。 もうお国の上層部が監査できる次元を超えとるわ!」
床の上のカメ吉が、その不吉な 「リボ払い」 という言葉の呪わしい響きに、絶望のあまり 「きゅ、きゅぃぃ……」 とか細い声で鳴いた。
トト:「お前も、この全裸魔女の資産運用の方向性に、本能的な不安を感じとるんやな、新入り」
カメ吉:「キュィ……(トトの兄貴、不安とかいう浅いレベルちゃうで、ホンマに不穏やわ……っ)」
トトのジト目に同意するように、カメ吉は涙目で、ガタガタと全身の甲羅を震わせながら、小さく悲痛に鳴き続けた。
かつて世界を震撼させた『深淵甲皇カメジルド』としての記憶を胸に留めつつも、今はただの働きたくない隠居ヒモとしてこの屋敷に寄生しているカメ吉にとって―― 「リボ払い(分割引き落とし)」 という、資本主義の闇が凝縮された言葉の持つ破滅の響きは、地下第五層に眠るいかなる古代の禁忌の呪魔導よりも恐ろしく、おぞましい呪いそのものであったのだ。
カメ吉:(キュィィィィィィッ……!! リボ払いだけはアカン! 現世の借金地獄のなかで、一番手を出しちゃアカン最悪の破滅の呪文や!! ルイズはん、その術式の『金利手数料(因果の代償)』の割合はどうなっとんねん! 後から一気に『等価交換の利息残高』が恐ろしい複利の勢いで膨れ上がってな……、最終的にその大きめの男物Tシャツどころか、身ぐるみ全部を時空の彼方へ剥ぎ取られて、あのエリオットの言うとる全裸聖水儀式に一括で強制移行される破滅の未来しか見えへんわァ!!!)
私は、そんな居候マスコットたちの非生産的な杞憂の叫びを涼しく無視し、目の前でプルプルと湯気を立てて震える温泉スライムへ、真っ直ぐに向き直った。
ルイズ:「――では、記念すべき次世代新魔導リボ払い術式、その『分割一回目』を実験実行します」
シャルロット:「ちょ、ちょっと待ってくださいませ、ルイズさんッ!」
上品な戦闘服を纏ったシャルロットが、慌てて私のぶかぶかTシャツの前に回り込み、制止をかける。
シャルロット:「本当に、わたくしたちの社会的尊厳(お下着)が、全部消え去る危険は一つもありませんの!?」
ルイズ:「――大いにありますよ」
シャルロット:「そこは飾らずに無表情で即答ですの!? 問題ですわ!」
ルイズ:「ですが、私の完璧な計算では、何一つ問題ありませんわ」
私は鈍く光る左手の銀の指輪の核を、プルプル震える敵へ真っ直ぐに向けた。
ルイズ:「魔法の出力を、これまでの三分の一に固定」
次の瞬間。 変調指輪の核の内部から、これまでの歴史に刻まれたいかなる魔導書にも載っていない、極めて精緻な魔法幾何学式が、虚空へ滑らかに広がった。 私の魔力の量が、一時的に増えたわけでは決してない。 代わりに――この世の理の仕組みを出し抜くための、等価交換の超高速の並列演算が、ほんの一瞬で一斉に始まったのだ。
対象(温泉スライム)。 必要な最低限の破壊の魔力量。 燃料となる触媒(私の大きめの男物Tシャツ)。 そして、差し出すべき代償の量。 すべての複雑な変数が、洞窟の時を一瞬止めたかのように、私の頭のなかで美しく計算され、弾き出されていく。
『 ―― 再構築 完了 ―― 』 [ 第1回引き落とし(リボ払い・一回目) ; 実行 ] [ 触媒(Tシャツ)消費率 ; 33.3% ] [ 触媒の残り ; 66.7% ] [ 魔法出力 ; 33.3%(弱火仕様) ]
その承認の瞬間、私の着ている白い大きめの男物Tシャツの、向かって右側の一部分の布地だけが――淡く、青白い光の粒子を灯して美しく明滅した。

ルイズ:「――発動」
私の白い細い指先から、小さな、本当に小さな、マッチの火のような泡沫(うたかた)の炎が生まれた。 普段の私が中間マージンをケチるために放つ、一国を焦土に変える神話級の特大魔法とは、比較にならないほど脆弱で、おしとやかな火加減(弱火)だ。
――だが、目の前でのんきに温泉の湯気を立てて震えている低級の温泉スライム一体を分解して消し飛ばすには、会計学的に見積もっても十分すぎる熱量であった。
その小さな炎がプルプルのゼリー状の身体に触れた、まさにその瞬間。
スライムの淡いピンク色の身体がブルッ!! と不器用に震え――そして、大爆発の衝撃も起こさず、淡い光の粒となって、音もなく空間から綺麗に消え失せたのである。
「……」
シャルロットも、マリアンヌも、ジュリエットも。 この場の乙女たち全員が、あまりにもクリーンで、お色気事件の起きなかったその呆気にとられる戦闘を前に、静かに、氷の沈黙に沈んだ。
冷たい洞窟の石畳の床の上に、コロン……、と、一つの戦利品が愛らしく転がった。
ルイズ:「……これは、温泉たまご、ですね」
私は床へしゃがみ込み、男物Tシャツの裾を押さえながら、昨日新調したばかりの下着を着けた健康的な姿のまま、その温かい戦利品を白磁の手でそっと拾い上げた。
トト:「おい、ルイズはん……。 なんでただのスライムの身体を分解しただけやのに、綺麗に美味そうに茹で上がった黄身の『温泉卵』が床に落ちるんや、不条理やわぁ……」
トトが、世の物理法則の乱れを前に、丸い額を片前肢で押さえながら、呆れた声をポツリと呟いた。
ルイズ:「――温泉スライムという名前の魔物だからでは? 筋の通った、極めて合理的な結果ですよ、トト」
トト:「昨日も保安局の取調室で、お肉のお弁当を三杯完食した後に聞いたような、まったく進歩のない答えやな、それ……っ」
――だが、私は手のひらの上で温かく茹で上がった温泉たまごではなく、現在自らの身に纏っている、あの大きめの男物Tシャツの布地の質感をじっと見つめ、頭のなかで確かめていた。

「……」
私の白い肌を覆っている大きめのTシャツが、全体的にうっすらと、不自然なほど向こう側が透けてしまっている。
私は細い指先でその白い布の感触をそっと撫で、繊維の具合を確かめる。 神のハサミで切り取られたように、布地そのものが外へ消えたわけでは断じてない。 しかし――明らかに、以前の完全な防護性を持っていた綿の布地とは異なり、因果の境目が不透明に揺らぎ果てた、不安定な状態に陥っているのだ。
ルイズ:「――変調の仕組みの、内部の記録を確認しますわ」
私は左手中指の銀の指輪から、空中へ半透明の光の画面を再び浮かび上がらせた。
『 ―― 現在の中間残高 ―― 』 [ 触媒消費比率 ; 33.3% ] [ 触媒残高 ; 66.7% ] [ 分割引き落とし処理 ; 異常なし、正常に完了 ] [ 演算誤差 ; 0.02%(許容範囲内) ] [ 現衣類の透過率 ; 50.0%(シースルー状態) ]
その完璧な数値を目にして、私の琥珀色の目が、一クローネの損失もなく設備を魔改造した時と同じように、歓喜にわずかにキラキラと輝いた。
ルイズ:「――実験は、会計学的にも魔導の演算の面でも、完全なる成功ですわ!」
シャルロット:「……お、おぉ……。 お洋服の布地が半分ほど無慈悲に透けて、中のお下着のラインがうっすら見えてしまっていますけれど……。 確かに、これまでの全裸化の悲劇を回避したという意味では、大成功ですわね、ルイズさん!」
隣のシャルロットが、美しい戦闘服の胸元を押さえながら、コクリと真面目に首を縦に振って感心してみせた。
すると私の肩の上で、トトが丸い大福餅の頭を片前肢で抱え込み、心底絶望したような遠い目をした。
トト:「あかん、終わったわ。 シャルロットの公爵お嬢ちゃんのまっとうな名門の感覚までもが……、もうこの全裸魔女のドケチウイルスに汚染されて、根本から侵食されきっとるがな、不条理やわぁ……」
ルイズ:「――つまり、ですわ、シャルロットさん」
私は、激安の旅行鞄を抱え直し、胸の奥から湧き上がる興奮を無表情で抑えながら説明を続けた。
ルイズ:「今後のこの新しい天然迷宮の探索で、次にまったく同じ条件で『弱火仕様(出力33.3%)』の魔法を使う場合でも――同じこの男物Tシャツの『残高(残り66.7%の布地)』が、私の口座内に残っているということですよ」
シャルロット:「それって、ルイズさん……」
シャルロットが、私の恐るべきリボ払いの進み具合を前に、恐る恐る琥珀色の瞳を丸くして確認する。
シャルロット:「また次の戦闘でも、その、今着ているTシャツの残りの布地(透過率)を、等価交換の代償として分割で引き落とすんですの?」
ルイズ:「はい、百パーセントその通りですわ」
シャルロット:「……な、なるほど、合理的ですわね」
ルイズ:「――あと二回も、私はこの服を着たまま、一クローネの衣服弁償のリスクもなく、安全に大魔法が撃てますわ」
私は珍しく、頭のなかの家計簿が完璧に黒字を叩き出していることに、ほんの少しだけ声を弾ませて柔らかくした。

ルイズ:「これは、戦闘における触媒のコスト削減・マージンカットにおいて、魔導学の研究データとして非常に莫大な金銭的価値がありますわ!」
トトが、半分ほど不条理に透け透けになった私のTシャツの姿を、これ以上ないほど冷ややかなジト目で見つめた。
トト:「せやけど、お姉ちゃん。 それ、普通のうら若い女の子が、公共の場を歩くための服としての防御力(社会的尊厳)は、どうなっとるんや?」
ルイズ:「布地の量そのものは、世界の天秤の上にまだ『三分の二(66.7%)』も残っていますから、計算上は完全にセーフです」
トト:「――お前はその布の残高だけを、公序良俗の絶対の安全基準にするんやな、ボケ……っ」
ルイズ:「当たり前でしょう、一番の重要項目(生命線)ですよ」
トト:「一体全体、何にとってそこまで重要なんや、自分!」
ルイズ:「――言うまでもないでしょう。 私のこれからの、莫大なプライベート研究室建設費のドケチな節約に、ですよ」
トト:「――だからよぉ、結局のところ、最終的な着眼点はいつでもそこ(身銭の削り合い)かい、この全裸バーサーカーーーッ!!」
私の足元で、カメ吉が、半分ほど不条理に透けてしまった私のTシャツ姿をじっと見上げていた。
カメ吉:「キュィ……(トトの兄貴、ちょっとこれ、会計学的に精査が必要な話やわ……)」
トト:「どうしたんや、新入り。 お前もこの全裸魔女の破廉恥なシースルー姿に、一人のオスとして何か感じたか」
トトが呆れた目で尋ねる。
カメ吉は少しだけ緑の短い首をかしげ、つぶらな瞳を明滅させた。
カメ吉:「キュィ……(いや、よく見たらな、トトの兄貴……)」
トトは、そのニート魔獣の鳴き声に含まれる、独自の打算の意味を考えた。
トト:「……あぁ、なるほどな。 まぁ、そう言われてみればせやな。 まだ布地の量としては『三分の二』が手元に残っとるからな」
カメ吉:「キュィ!」
トトが、自らの社長としての勘でカメ吉の裏の打算を察し、深く納得したように丸い頭を縦に振った。
トト:「そうやな。 三分の二の面積がまだこの世に実在しとるなら……」
トト:「――まだ、法的にも十分に戦える(王国正規軍に逮捕はされん)範囲やがな!!」
カメ吉も、トトの承認にビシッと緑の短い前足を挙げ、力強く首を縦に振って同意してみせた。
カメ吉:(キュィィッ! せや! 透け具合が半分にバグっとるだけで、布地の繊維自体はまだ現世の天秤の上に百パーセント存在しとるんやから、王国の公然わいせつ罪の要件には、まず問われへんハズや! これぞ『捕まらなければギリギリセーフ』の守銭奴の精神や! ほんでな、ただのプルプルした低級スライムから、綺麗に美味そうに茹で上がった『温泉たまご(カロリー)』が直接落ちるとかいう、世の規律を無視した錬金術(キャッシュ獲得)を目の前にしたらな……、布地がちょっとシースルーになってお下着のラインが透けたなんてもんは、些細な誤差の問題やからな、問題ないわァ!!)
ルイズ:「――では、一回目のリボ払いの検証が完了しましたので、さらに先へ進んで検証を続けましょう」
私は、激安の旅行鞄を胸に抱き直し、マイペースに軍靴を鳴らして進み出した。
シャルロット:「……ルイズさん、今の一回目の分割引き落としは、見事に成功しましたわね」
シャルロットが、戦闘服の襟元を押さえながら、感心と呆れを半分ずつ混ぜた声で話しかけてくる。

シャルロット:「では、この勢いのまま、次の戦闘で連続して二回目の引き落とし魔法も一気に執行しますの?」
ルイズ:「いいえ、まだです。 そこは少し間を置きますわ」
シャルロット:「……? 何故ですの、ルイズさん。 残高の布地はまだ三分の二もあるのに」
ルイズ:「――同じ種類の触媒(下着とTシャツ)をこの短時間で続けて使ったときに起きる、あの呪わしい『出力の目減り(クールタイム)』の正確な実測値も、この実戦の場で測りたいからですよ」
私の琥珀色の瞳の奥の眼光が、世界の天秤を弄(もてあそ)ぶ特級研究者特有の、冷酷で美しい理性の光を帯びて明滅した。
ルイズ:「同じ衣装、同じ条件で、短い間隔で連続消費(リボ払い)を行った場合、二回目の大魔法のエネルギー変換効率(魔力燃費)が、どういう曲線を描いて悪化していくのか」
「……」
ルイズ:「この未開の天然迷宮という最高の実験場で、実際に目の前の魔物(モルモット)を使って、客観的な数値を確かめますわ」
トトが、私のその人生の方向性が壊れているマッド銭ゲバな宣告を聞き、心底嫌そうな、哀愁の溢れる顔をした。
トト:「……あかんわ。 魔法の代償をリボ払いにした次はな、分割払いの遅延の限界まで、自分のその大きめの男物Tシャツの肌を使って自傷実験するつもりなんか、お姉ちゃん……っ」
ルイズ:「当然の合理的な処理ですよ、トト。 ここで得られる一次の実測データは、私の今後のプライベート研究室建設のうえで、百パーセント必要不可欠な財産ですからね」
トト:「……まぁ、もう今さら何を言っても無駄な、もともとが元凶のルイズはんの仕様やしな……っ」
そうして私たちは、カメ吉の 「朝逃げ」 への恐れを無視して、手付かずの天然亜種迷宮の、さらなる暗黒の奥深い階層へ、滑らかに歩みを進めていったのである。
――地下の魔脈の底から湧き出る熱気に適応した、特異種《温泉バット(コウモリ)》。 同じく湯気を纏った《温泉ねずみ》。 この未開の天然環境にのみ固有種として生まれた、小さな、しかし凶悪な魔物どもが、暗闇の岩肌のあちこちから、次々と私たちの前に現れる。
だが、戦闘服に身を包んだシャルロット、マリアンヌ、ジュリエットの三人が、長年のチームワークで培った息の合った完璧な連携を敷き、自慢の紅蓮の炎や鋭い風の極大魔法を次々に放って、殺到する魔物どもを安全に、かつ美しく駆逐していく。
私は――彼女たちの戦いを、最も安全な最後方から一歩も動かず、戦闘に参加(労働)することなど一切なく、ただ激安の旅行鞄を抱えて無表情のまま見つめ続けていた。 魔物どもの出現する位置。 再び湧くまでの規則的な間隔。 閉ざされた空間に漂う魔力の濃さ。 床に落ちる特級ドロップ素材の市場での換金価値。 そして――自らの纏うこの大きめの男物Tシャツの、触媒としての段階的な消費の推移。 あらゆる数字を、私の天才的な頭のなかへ、超高速でただ粛々と書き留め続けていたのだった。
やがて――私の頭のなかの家計簿が弾き出した予測通りに。
先ほど私の弱火のリボ払い大魔法によって、音もなく光の粒へ分解されたはずの、あの淡いピンク色の温泉スライムの別個体が、全く同じ岩陰の暗がりから、ぬるり……じゅるり……、と再びその半透明の姿を現したのだ。
ルイズ:「……やはり、私の計算に狂いはありませんでしたね」
私は、自らの導いた仮説が完璧に実証されたことに、小さく、満足げな無表情の唇で呟いた。

ルイズ:「予定の間隔が過ぎるとともに、まったく同じ場所に、同じ性質の個体が、完全に自動で湧き直していますわ」
シャルロット:「ええ、本当に規則正しいですわね」
シャルロットが、再び愛用の魔導杖を構え直して魔物を鋭く警戒しながら、首を縦に振る。
私はその場で、激安の旅行鞄を胸に抱いたまま、足元の古代石畳の地脈から這い上がってくる濃厚な魔力を感じながら、一人少しだけ考え込んだ。
ルイズ:「……シャルロットさん、この天然迷宮という特異な場所の構造そのものが、一個の『巨大な独立した生き物』のような、有機的な仕組みなのかもしれませんわね」
シャルロット:「……えっ?」
シャルロットの、魔導杖を握り締める手が、私のあまりにも不穏な見立ての一言を前に、ピタリと止まった。
シャルロット:「……せ、生き物、ですの? この巨大な岩の裂け目(ダンジョン)そのものが……っ?」
ルイズ:「ええ。 侵入してきた魔物を一時間の周期で機械的に生み出し続ける仕組み(心臓部)が、この敷地内に実在しているのなら」
私は、冷たい地下水がじっとりと滴る、肉厚なごつごつとした岩壁へ、漆黒の視線を向ける。
ルイズ:「この闇ダンジョンそのものが、自らの体内で自律的な細胞分裂(傷の修復)を絶えず繰り返すような、不気味な魔導の機構で――まるで外部の病原菌を排除するための『白血球』を分泌するかのように、防衛のために魔物を自動で生み出している可能性が、極めて高いですわ」
シャルロット:「――ちょ、ちょっと待ってくださいまし、ルイズさんっ!?」
公爵令嬢シャルロットが、一瞬にして白磁の顔を青ざめさせ、美しい戦闘服を震わせながら、不審そうに周囲の苔むした肉厚な岩肌をガタガタと見回した。
シャルロット:「それって……、どういう不気味な理屈ですの……っ!?」
ルイズ:「はい、文字通りの意味ですよ」
私は一切の動揺を排した無表情で、深く頷いた。
ルイズ:「現時刻をもって、私たち一行は……この謎の天然迷宮という名の『超巨大な怪物の胃袋(身体の内側)』のなかを、のんきに歩いているのかもしれませんね」
シャルロット:「ひぃぃっ!? あなた、そのお国の上層部が失神するような最高にホラーで悍(おぞ)ましい仮説を、何でもない顔をして自分で淡々と言い放っておきながら……、心臓がこれっぽっちも怖くならないんですの!?」
ルイズ:「ただの未知の魔導生態系の、非常に興味深い標本(真実)ですよ。 学術的にも、資産管理の観点から見ても、極めて、最高に興味深いですわね」
シャルロット:「――やっぱり、あなたという天才は、女の子としての防衛本能(恐怖)が最初から一つも実在しませんのね……ッ!!」
私たちは、トトやカメ吉たちが白目を剥いて固まるなかを、さらに未踏の暗黒の奥深くへと足を進めていった。
床に転がる低級の魔石(換金物)を鞄へ拾い上げる。 落ちた各種温泉たまご(カロリー)の品質を確かめる。 素晴らしいことに、この温泉地の魔脈に適応した、市場のオークションでもかなりの高値で取引されるという、希少な天然防魔鉱物(レアメタル)の名残までが、あちこちの岩肌から容易に採取できるではないか。
私は――激安の旅行鞄を胸にきつく抱き締め直しながら、本日以降の別邸遠征における完璧な黒字の収支計画を、頭のなかで高速に計算し始めた。

[ 宿泊費 ; ゼロ(完全無料) ] [ 食費(カロリー摂取) ; ゼロ(完全無料) ] [ 最高級保養温泉の利用料 ; ゼロ(完全無料) ] [ 希少素材の採集による純利益 ; 上限突破で大いにあり ] [ 新魔導(リボ払い)の実証環境 ; ギルドの監査なしの闇ルートで最高レベルであり ]
私は、大きめの男物Tシャツの裾から覗く白く細い指を、パシッ、パシッとテンポよく一本ずつ折りながら、頭のなかの家計簿の最終結論を叩き出した。
「……」
そして――完全に黒字へと到達し、満足げな無表情のままポツリと呟いた。
ルイズ:「――シャルロットさん。 調べた状況から逆算するに、ここは、私の生涯の『不労所得の巨大な収入源』として、極めて優秀な最上の特級資産ですわね」
シャルロット:「――ここはわたくしのヴァーミリオン公爵家の神聖なる私有保養地ですわ!!!!」
シャルロットが、顔を真っ赤にして、美しい戦闘服の胸元を震わせながら、即座に大声で権利を訂正してきた。
シャルロット:「お願いですから、大切なお友達の私有地を、何でもかんでも勝手に頭のなかで銭ゲバの金額に換算して買い叩こうとしないでくださいませッ!」
ルイズ:「ですが、シャルロットさん」
私は、一切の妥協を許さない、冷ややかな真顔のまま一歩も譲らなかった。
ルイズ:「無料の最高級の宿泊。 無料の一流シェフの食事。 お肌がつるつるになる極上の温泉。 レア鉱物のタダでの採取。 そしてギルドの監査が入らない、新魔導(リボ払い)の安全な実証実験」
私は激安の旅行鞄を胸に抱き直し、この世のすべての守銭奴が平伏するであろう、最も美しく愛おしい経済的真理を、彼女へ冷徹に告げた。
ルイズ:「――どこをどう会計学的に見積もってみても、尋常じゃなく費用対効果が良すぎますわ」
私の華奢な肩の上で、使い魔のトトが、大福餅の額を両前肢で深く深く抱え込むようにして、この世のすべての道徳心を放り出したかのように呟いた。
トト:「……あかんわ。 せっかく王都のパニックから離れてのどかな観光地まで来とるっちゅうのにな、何で自分は最初から最後まで、他人の実家の資産を使って、マッドな『銭ゲバ経営戦略会議』を全開で回しとるんや、ボケ……っ」
カメ吉:(キュィィ……トトの兄貴の言う通りや! ルイズはん、その琥珀色の瞳の奥の輝きがな、純粋に夏休みの温泉旅行を楽しんどる健やかな人間のそれちゃうねん、ガチで! 完全に地方ののどかなリゾート地を二束三文で買い叩こうとしとる、悪徳ベンチャー企業の銭ゲバ社長の目になっとるがな! シャルロットお嬢様がせっかくお友達のよしみで完全『無料』で手厚くもてなしてくれとんのに、その受け取った無償の好意をな、一片残さず百パーセントの私利私欲の利益に変えようとするのやめーや! 自分、強欲の権化の怪物か、こわいわぁ!!)
カメ吉が、自らの働かなくてもいいパラダイス(ヒモ生活)を汚されたかのように、涙目で床の上を悶絶していた。
そんな二匹の不憫なマスコットの必死の抗議を綺麗に聞き流し、私たちは、さらに一本道に続く天然洞窟の暗黒の奥底へ、滑らかに歩みを進めていった。
――そして。 私たちは、それまで淀みなく進んでいた歩みを、不意に、ぴたりと止めた。

私たちの視線の先――そこに。 現世の物の重みをはるかに超えた、超巨大な『古代の扉』が、冷酷にそびえ立っていたのだ。
それは、どう見比べても、これまで私たちが歩いてきた、長年の地殻変動による大自然の岩壁の質感とは、根本から著しく異質(異形)であった。 古い。 歴史をこの世の何万年も遡るかのように、途方もなく、悍ましいほどに古い。 だが――何万年もの年月が経っているはずであるのに、その門扉は、大気の魔力によって守られているかのように、一片も朽ち果ててなどいないのだ。
巨大な、現世には存在しない謎の古代黒重石と、学廷の記録にも載っていない未知の多次元金属を、複雑極まりない構造で組み合わせたかのような、重厚かつ禍々(まがまが)しい造り。 その門扉の黒い表面全体には――王立魔法大学の、一般学生が立ち入ることを許されない特級禁書庫の最奥に眠る古の禁書でさえ一度もお目にかかったことのない、極めて複雑怪奇な、世の規律を強制的にねじ曲げるほどの『特級封印魔導術式』の文様が、びっしりと冷酷に刻み込まれて、怪しく明滅を繰り返していた。
「……」
私は、激安の旅行鞄を胸にきつく抱き締めたまま、無表情でその神話の遺物を見上げた。
上品な戦闘服に身を包んだシャルロットも、一級冒険者としての野生の警戒本能を働かせ、慎重に距離を取って魔導杖を構えた。
シャルロット:「――ルイズさん、この不穏な巨大な黒い扉ですわ」
ルイズ:「……なるほど。 シャルロットさん、過去にあなたや、公爵家の私兵の皆さんは、この謎の封印の扉を、自らの魔力で開けたことは?」
シャルロット:「一度もありませんわ」
ルイズ:「なぜです、探究心は湧かなかったのですか?」
シャルロット:「だって、ルイズさん。 あちらの右側にある、細い岩肌の迂回路を普通に通れば、その先にある未踏階層の開けた大広間へ問題なく進めますので」
シャルロットは、私の不穏すぎる質問に対して、少し困ったように美しい眉を寄せて答えた。
シャルロット:「わざわざ、このお国の魔導法にも載っていないような不気味な特級呪物の扉を、リスクを冒してまで無理に力ずくでこじ開ける必要が、我が家の資産管理の観点から言っても、どこにもありませんでしたもの」
ルイズ:「なるほど、それは極めて、損失リスクを避けるための合理的な判断ですね」
シャルロット:「それに――」
彼女は、少しだけ、一人の名門令嬢として家の過去を思い出したかのように言葉を濁した。
シャルロット:「……これは我が家の最高機密事項なのですけれど、一度だけ、わたくしのお父様(現ヴァーミリオン公爵閣下)が、公爵家の誇る最高の精鋭魔導士団を総出でこの地下へ連れてきて、王国正規軍の極大火力をもって、無理やりその封印を爆破して開けようとした記録がありますの」
「……」
シャルロット:「ですが――」
ルイズ:「――少しも揺らがず、ビクともしなかった、と?」
シャルロット:「ええ、その通りですわ。 お父様たちの全魔力を合わせた極大属性魔法をもってしても、何一つ手が届かず、大失敗に終わりましたわね」
私は、まるで強大な磁石に引きずられるかのように、吸い寄せられるようにして、その巨大な黒い古代扉の前へ一歩、足を進めて近づいた。
そして――左手の中指に鈍い神聖な輝きを放つ、あの変調の指輪を、びっしりと幾何学文様が刻まれた門扉の表面へ、静かにかざした。

ルイズ:「……現世の術理の常識をはるかに逸脱した、極めて強固で、暴力的なまでの『古代多重封印結界』ですね、これは」
私の中指の指輪の核が超高速で動き出し、私の瞳の奥に、扉の深層に施された複雑怪奇な封印術式の構造が、蒼白い暗号の文字となって次々に浮かび上がってくる。
――だが、しかし。
「……」
私は男物Tシャツの襟元を押さえ、激安の旅行鞄を胸に抱いたまま、ほんの少しだけ透明な目を細めて、頭のなかの計算を冷徹に巡らせた。
ルイズ:「……面白いですね。 この仕組みの造り……、現世の王宮魔術師たちが用いるような、現代の普通の封印術の理屈では断じてありませんわ」
その私の中間報告を耳にして、隣のシャルロットが、驚愕のあまりハッと美しい白磁の喉から息を呑み込んだ。
シャルロット:「ル、ルイズさん……! 公爵家の筆頭魔導士団が総力を挙げても、ほんの少しの揺らぎすら起こせなかったその神話の暗号が、あなたには分かりますの……っ!?」
ルイズ:「はい、百パーセントその通りですわ。 この門扉を固めている構造の理屈であれば、私の頭のなかの家計簿で、一クローネの誤差もなく完璧に理解し、逆に解き明かせます」
「……」
その、一級のプロたちをゴミのように全否定する圧倒的な超越発言を耳にして、使い魔のトトが、サッと自らの身の安全を守るように、洞窟の石畳の上を一歩後ずさりさせた。
トト:「……あかんわ、終わったわ。 そのルイズはんの『完全に理解し、解き明かせます』っちゅう無表情の台詞な……。 ワイの社長としての勘から言って、これから最悪の全裸大爆発が巻き起こる嫌な予感しかせえへんわ、不条理やわぁ……っ!」
床の上のカメ吉にいたっては――。
カメ吉:「きゅ……、きゅぃぃ……(アカンアカン、ガチでヤバい領域の蓋が開くでぇ……っ!)」
と、喉の奥から小さく悲痛極まりない絶望の鳴き声を漏らし続けた。 つい先ほどまで、あのお肌がつるつるになる保養温泉の極楽のなかで、野生のプライドを全部失ってどろどろにふやけて溶けていたとは到底思えないほどに――そのつぶらな瞳の奥に、かつて世界を破滅のどん底に叩き落としたという特級魔獣《深淵甲皇カメジルド》としての、剥き出しの恐怖に満ちた警戒の眼光を灯し、その巨大な黒い門扉の深淵をじっと睨みつけて、ガタガタと甲羅を震わせていたのだ。
だが――私は、そんな不憫なマスコット小動物たちの必死の生存本能の警鐘に、気づくことなど一片もなかった。 ただ、目の前の黒い鉄扉に刻み込まれている、歴史の闇に遺された未知なる多次元術式の構造を、純粋なるドケチの知識欲に満ちた透明な琥珀色の瞳で、穴が開くほど見つめ続けていた。
ルイズ:「……実にお財布の管理の観点から言って、極めて、最高に気になりますね、シャルロットさん」
ザッ。 と、冷たい石畳の床の上に、一歩。

私は、激安の旅行鞄を胸に抱いたまま、迷うことなくさらに前へ出た。
ルイズ:「――ほんの『少しだけ』、私の変調指輪の出力を使って、このお堅い扉を解いてみましょうか」
シャルロット:「――えっ、そ、そんな名門の総力をゴミのように全否定する解錠、正気ですの……っ!?」
公爵令嬢シャルロットが、美しい戦闘服の胸元を押さえ、絶望のあまり一瞬にして白磁の美貌を真っ青に青ざめさせて、その場に固まった。
私の肩の上では、財務を預かるトトが、短い前肢で丸い大福餅の頭をガシガシと深く深く抱え込んだ。
トト:「――あかん、終わったわ! やっぱり、いつもの世の理を完膚なきまでに台無しにする、最悪の暴走の流れやがな、これ!!」
床の上のカメ吉は、その短い緑の四肢をジリッと斜め下へ後ずさりさせ、冷や汗を大量に噴き出した。
カメ吉:(――キュィィィィィィッ……!! 思い出した……、ワイ、昨日の夜に太古の野生の勘がな、『この全裸魔女のいる場所は、一片の命の保証もないトチ狂った暗黒の場所や』っちゅうて、頭のなかで大音量の警鐘を鳴り響かせてたのをな……! 公費で入るあの極上の保養露天温泉と一流シェフのタダ飯のせいで、すっかり綺麗に忘れとったわ、ボケ! 温泉最高とかのんきにアホ面で湯船に浮いとる場合ちゃうかったんや、ガチで! この巨大な黒い門扉の奥底から漂ってくる魔力の気配な……マジで現世の国家滅亡級の破滅の匂いしかせえへんがなァ、南無三ッ!!!)
しばらくの間、洞窟の奥底の閉ざされた空間に、鉛を流し込んだかのような絶望的な氷の沈黙が流れた後――。
加芽記智先生こと深淵甲皇カメジルドは、ついに自らのニートとしての破滅の運命(リボ払い地獄)の覚悟を決めたかのように、すがるような涙目を灯して、トトの丸い大福餅の顔を見上げた。
カメ吉:「……ワイは、絶対にこの先の一括引き落としエリア(扉の奥)には行かへんで、トトの兄貴。 ここで降りるわ」
トト:「――無理やな、諦めろや新入り」
トトがコンマ一秒の誤差もなく即座に、短い前肢を滑らかに動かし、床のカメ吉の頑強な緑の甲羅をガシッ!!! と力強く、冷酷無比につかみ取った。
他ならぬルイズはんという元凶の魔女が、自らの頭のなかの家計簿で一度 「この扉を開けて最適化する」 と決めてしまったら最後――自分たち下っ端の使い魔や居候に、拒否権など一片も存在せず、ただ百パーセントの確率で、強制的に最悪のお色気大爆発に巻き込まれるという歴史を、一社の社長であるトトは、これまでの旅路で、誰よりも嫌というほど身に沁みて理解していたのだ。
「…………」
カメ吉は、その人生の詰んだ破産ルート(リボ払いの金利)の絶望のあまり、もはや声を発することすら忘れ、白目を剥いた無表情のまま、完全に石になって黙り込んだのだった。

――だが。
私は、そんな彼らの世俗的な恐怖など一クローネ分も気にすることなく、ただ一人。 未知の多次元古代術式が怪しく明滅を繰り返して眠る、その巨大な黒い古代扉へ――激安の旅行鞄を胸に抱いたまま、さらにもう一歩、滑らかに軍靴を近づけた。
かつて王国の誇る最高位の公爵家が総出で、軍事大火力をもって挑んでも、ほんの少しの傷すらつけられなかったという、あの古代の強固な多重封印結界が――。
いま、お気に入りの大きめの男物Tシャツに、昨日新調したばかりの下着を着けた健康的な姿の、一人の天才マッドサイエンティスト(ドケチ魔女)の手によって。 自らの飽くなき純粋な私欲(タダ飯と研究費)と、最先端魔導への学術的好奇心のままに、冷酷に、そして無慈悲に、解き明かされようとしていたのである。

―――(第09章『ヴァーミリオン家別邸と、天然迷宮』・本章完全完結)―――

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【主題歌】『REWRITE THE WORLD』⑨|「聖裸の魔女と等価交換の迷宮攻略記」
【主題歌MV】『REWRITE THE WORLD』⑨|「聖裸の魔女と等価交換の迷宮攻略記」
【主題歌】『REWRITE THE WORLD』MV2|「聖裸の魔女と等価交換の迷宮攻略記」
『REWRITE THE WORLD』
【Intro】
閃光が走る 闇を切り裂く 無数の数式 今 目を覚ます
ゼロではない 無ではない まだ誰も知らない 答えがある
【Verse 1】
絡み合う術式 流れる魔力 一つずつほどいて 構造を読む
古びた理論も 歪んだ常識も 指先ひとつで 最適化する
奇跡じゃない 偶然じゃない そこにある理を 見つけるだけ
閉ざされた世界 決められた未来 その境界線を 静かに越える
【Pre-Chorus】
孤独でもいい 恐れられてもいい
理解されない痛み 胸に抱いて
それでも消えない 小さな意志
暗闇の中で 光を選ぶ
【Chorus】
放て――! 閃光のように
走れ――! 限界を越えて
運命という名の コードを書き換えろ
砕け――! 閉ざされた世界
拓け――! 未知なる未来
この手で導く 答えはひとつ
REWRITE THE WORLD REWRITE THE WORLD
世界の理さえ 超えていけ
【Verse 2】
必要なものだけ 残していけば
余分な力など 捨てればいい
一つの答えを 導くために
無数の可能性 演算していく
等価交換 次元を越えて
代償すらも 式へ変える
誰かが無理だと 決めたとしても
正しい答えなら 世界を変える
【Pre-Chorus 2】
ひとりで掴んだ 完璧な答え
それだけじゃ届かない 場所がある
差し出された手 重なる鼓動
解析できない 熱を信じる
【Chorus 2】
放て――! 青い雷光
叫べ――! 胸の奥から
運命という壁を 焼き切っていけ
越えろ――! 孤独の向こう
進め――! 闇の彼方へ
選んだ絆が 道になる
REWRITE THE WORLD REWRITE THE WORLD
未来は誰にも 決めさせない
【Bridge】
世界は冷たい 答えを求める
間違えばすべて 奪われていく
それでも君が 隣にいるなら
不可能なんて ただの定義だ
数式にできない この温度
予測できない この鼓動
だから私は 前へ進める
ひとりじゃないと 知ったから
【Break】
解析――開始
演算――加速
魔力――接続
次元――展開
限界――突破
システム――再構築
答えは――
この手の中!
【Final Chorus】
放て――――! すべての光を
走れ――――! 最果ての先へ
運命という名の 檻を打ち壊せ
越えろ――――! 孤独も痛みも
抱け――――! 失った涙も
すべてを燃やして 未来を照らせ
REWRITE THE WORLD REWRITE THE WORLD
誰かに与えられた 答えじゃない
REWRITE THE WORLD REWRITE THE WORLD
私たちが選んだ この未来を
REWRITE THE WORLD REWRITE THE WORLD
解析の果てに 見つけたもの
それは――
ひとりじゃない という奇跡
【Outro】
閃光が消えても 理は消えない
数式が崩れても 意志は残る
次の答えを また導く
この世界を 書き換えるために
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あらすじ 王都では第一級・国家最高異常事態宣言が継続され、第一地下迷宮は軍により封鎖されていた。 騎士や憲兵、防魔結界が街を覆い、市民は生活や流通、迷宮探索の停止に不安を募らせていた。 その混乱の中、ルイズはシャルロット、公爵家のメイドであるリーゼロッテ、マリアンヌ、ジュリエット、使い魔トト、カメ吉、女性冒険者三名とともに、ヴァーミリオン家別邸へ向けて出発する。 同行者が全員女性で、護衛まで馬車の外に距離を取っているのは、ルイズの能力によって衣服、とりわけ下着が失われる事態への警戒だった。 ルイズは王都の非常事態にも動じず、今回の遠征を温泉旅行として扱っていた。 一方でカメ吉は、封鎖下の王都を離れる行動に危険を感じ、またルイズが関わる以上、過酷な騒動に巻き込まれることを恐れていた。 豪華な魔導馬車に触れたルイズは、車体の安定、振動軽減、衝撃分散、空調、駆動を担う術式と魔力の流れを観察し、その構造に興味を示す。 彼女は日常的な物や魔導具であっても、術式の癖や効率を冷静に見抜く観察眼を持っていた。 別邸の近くに存在する洞窟には、巨大な黒い古代扉が封印されたまま残されていた。 この扉はヴァーミリオン公爵家が総力を挙げ、極大属性魔法を用いても傷一つ付けられなかったほど強固なものである。 ルイズは変調の指輪を扉にかざし、その内部に施された古代多重封印結界を解析する。 封印は現代の王宮魔術師が使う一般的な術式とは根本的に異なる多次元的な構造を持つが、ルイズにはその仕組みが完全に理解できた。 シャルロットは、公爵家筆頭の魔導士団すら動かせなかった封印をルイズが読み解いたことに驚愕する。 ルイズは封印の理屈を正確に把握し、逆算して解除することも可能だと断言した。 しかし、トトとカメ吉はルイズの「理解した」「解ける」という発言が、過去同様の危険な暴走と大惨事の前触れであると察して恐怖する。 特にカメ吉は、扉の向こうから国家滅亡級の破滅的な気配を感じ取り、天然迷宮の奥へ進むことを拒絶した。 ルイズは危険を訴える使い魔たちの反応を意に介さず、研究への好奇心と利益への執着から、変調指輪を少し使って古代扉を開ける意向を示す。 シャルロットは公爵家の努力を覆す行為に動揺し、トトはカメ吉を連れて行くしかないと諦める。 こうして、王国最高位の公爵家でも破れなかった古代多重封印結界は、温泉旅行の最中に未知の術式へ興味を抱いたルイズによって、解かれようとしていた。
解説+感想+採点 第09章『ヴァーミリオン家別邸と、天然迷宮』
解説+感想+採点
まず結論
かなり完成度の高い「コメディ回+世界観進展回」です。
特に良いのが、
> 国家存亡級の異常事態 > ↓ > ルイズは温泉旅行へ > ↓ > 馬車を勝手に最適化 > ↓ > 公爵領の魔導システムまで最適化 > ↓ > 温泉で完全休養 > ↓ > 天然迷宮へ > ↓ > 「リボ払い式等価交換」という新技術を実験 > ↓ > 最後に「絶対に開けてはいけない古代扉」へ
という、笑わせながら次章への巨大なフックを作る構成です。
しかもルイズの「ドケチ」「睡眠第一」「タダ飯好き」が、単なるギャグではなく、魔導技術の革新そのものにつながっているのが非常に強いです。
① 最大の見どころ
1位 「国家危機」と「温泉旅行」の温度差
冒頭では王都が完全な非常事態。
国家最高異常事態宣言、第一地下迷宮の封鎖、防魔結界、騎士・憲兵の警戒――という、かなり重い状況です。
ところがルイズは、
> 「――温泉旅行ですから」
という姿勢。
この世界全体は大変なのに、主人公だけ人生の目的が違うという構図が、この章全体のコメディを支えています。
しかも単なる能天気ではありません。
ルイズは、
「自分が騒いでも問題は解決しない」
という合理的な判断をしている。
そのため、
> 「無責任な主人公」
ではなく、
「合理性が極端すぎる主人公」
として成立しています。
ここはルイズというキャラクターの完成度が高いです。
② 馬車の魔改造が最高にルイズらしい
今回、個人的にかなり評価したいのがここです。
ルイズは高級馬車を見て、
「豪華ですね」
ではなく、
「魔力の無駄が多い」
と判断。
そして、
安定化 振動抑制 衝撃分散 魔力供給
などを一気に整理します。
最終的には、
> 安定 81% → 97% > 振動抑制 82% → 99.9% > 魔力損失 16.8% → 0.6% > 衝撃分散 83% → 100%
という結果に。
さらに0.3ミリの車軸の歪みまで発見。
ここが非常に重要です。
これは単なる「主人公すげえ」ではなく、
ルイズの能力=魔法火力ではなく、システムの最適化
という個性を明確にしています。
③ そして理由が「二度寝」
普通の天才キャラなら、
「公爵家の馬車を改良して移動効率を高める」
となるところですが、ルイズの場合、
「揺れると眠れないから」
です。
さらに、
> 「質の良い睡眠は、研究資金の損失を防ぐ最大の資産」
という理屈にする。
これは完全にルイズ節です。
能力・性格・ギャグが全部一つにつながっています。
ここはかなり強いです。
④ エリオット登場も非常に良い
エリオットが、
「聖女ルイズの重大な使命を独占取材したい!」
とやって来る。
ところがルイズの回答は、
> 「――温泉です」
(笑)
そしてエリオットが勝手に、
「温泉=聖なる全裸儀式」
という方向へ妄想を暴走させる。
この場面の面白さは、
ルイズ本人は一切ふざけていない
ことです。
ルイズは本当に温泉に行きたいだけ。
だからこそ、エリオットの妄想との落差が大きくなっています。
⑤ シャルロットのキャラクターがかなり強化されている
今回、ルイズ以上に重要なのがシャルロットです。
ヴァーミリオン領に入ってから、
水路 農地 魔導設備 流通 領民 防衛
についてシャルロットが非常に細かく把握しています。
そして、
> 「ここは、わたくしの家だけが贅沢をするための、ただの土地ではありませんもの。ここに生きるすべての領民たちの、尊い暮らしそのものですわ」
という発言。
ここはかなり重要です。
シャルロットが単なる「お嬢様」ではなく、
次期領主として領地を本気で見ている人物
だと分かります。
ルイズの「個人レベルの最適化」に対して、
シャルロットは「領地全体の最適化」を考えている。
この対比が非常に面白いです。
⑥ 別邸の魔導システム改造は、今回最大級のスケールアップ
馬車だけなら、
「またルイズが魔改造した」
で終わります。
しかし今回は違います。
ルイズが、
屋敷全体 → 領地の魔力管理 → 防衛 → 水路 → 空調 → 通信
まで一つのシステムとして再構築してしまう。
しかも結果として、
領境に侵入した上位オークを自動迎撃
までしてしまう。
つまりルイズの「ドケチな整理整頓」が、
公爵領の防衛システムそのものを強化してしまった
わけです。
これは物語上かなり大きいです。
「ギャグ能力」だったものが、世界設定上の重要能力へ変化しています。
⑦ 図書室の場面は、ルイズの内面を見せる重要シーン
ここも好きです。
豪華な屋敷を見て、
> 「毎月の維持費が、めちゃくちゃ大変そうですね」
だったルイズが、
図書室を見た瞬間、
目の輝きが変わる。
しかもシャルロットが、
> 「何もしないで、ゆっくりと」
と言う。
この瞬間、ルイズが少し戸惑う。
これは今回の中ではかなり珍しい場面です。
ルイズは「無料」「合理性」「利益」には慣れている。
でも、
見返りを求めない友人の好意
には慣れていない。
だから一瞬、
> 「本当に何もしなくていい?」
となる。
これはコメディの中に、ちゃんとキャラクターの人間性が入っています。
⑧ 温泉回が単なるサービス回になっていない
温泉シーンは長いですが、ちゃんと意味があります。
ここで、
シャルロットの幼少期 マリアンヌ・ジュリエットとの関係 ルイズとの友情 トトとカメ吉のギャグ 王都の異常事態 天然迷宮への前振り
が全部入っています。
特にシャルロットの、
「子供時代に温泉で人魚の真似をして怒られた」
という黒歴史は、普段の完璧な公爵令嬢とのギャップが非常に良い。
シャルロットが「領主候補」だけではなく、普通の女の子として描かれる場面になっています。
⑨ そして本章最大の発明「リボ払い式等価交換」
ここは今回の核心です。
従来:
一括消費 → 大魔法 → 衣服が全部消える
だったものを、
33.3%ずつ分割
へ変更。
つまり、
> 魔法の代償そのものを分割払いにする
という発想。
しかもルイズがそれを、
「金融工学」
として扱っている(笑)。
この発想は、この作品の世界観とルイズのキャラクターを非常によく融合しています。
⑩ さらに「温泉スライム→温泉たまご」が秀逸
最初の実験対象が温泉スライム。
33.3%の弱火で倒す。
するとドロップアイテムが、
温泉たまご。
これで、
「温泉地の天然迷宮」
という舞台設定にも意味が出ます。
さらにルイズが、
戦闘 → 実験 → 数値測定 → ドロップ品の価値評価
まで全部やっている。
つまり彼女にとって迷宮は、
ダンジョンではなく巨大な実験場兼資産運用施設
になっています。
⑪ 最も重要なのは「天然迷宮そのものが生物かもしれない」
ここから作品の雰囲気が変わります。
ルイズが、
> 「この天然迷宮という特異な場所の構造そのものが、一個の『巨大な独立した生き物』のような仕組みなのかもしれません」
と推測する。
さらに、
迷宮が自分自身を維持するために魔物を生み出している
という仮説へ進む。
ここはギャグではなく、完全に世界観の謎です。
そして最後に、
古代の巨大な封印扉
が登場。
しかも公爵家の総力を挙げても開けられなかった。
ここで章が終わる。
非常に良い引きです。
⑫ ラストの構造が特に良い
今回のラストは、
「温泉旅行」→「天然迷宮攻略」
ではありません。
実際には、
「温泉旅行」 ↓ 「天然迷宮を研究対象として観察」 ↓ 「未知の生態系を発見」 ↓ 「古代文明級の封印を発見」
という流れ。
つまり読者側には、
> 「この先、何が出てくるんだ?」
という疑問が残ります。
そしてルイズは、
「少しだけ解いてみましょうか」
と言ってしまう。
この「少しだけ」が危険なことを読者はもう知っています。
ここは次章への引きとしてかなり強いです。
キャラクター評価
| キャラクター | 今章での役割 | 評価 | | | | : | | ルイズ | 主人公・魔導最適化・ギャグ・謎解き | 98/100 | | シャルロット | 領主・友人・ツッコミ・世界観説明 | 97/100 | | トト | ツッコミ・読者目線 | 96/100 | | カメ吉 | 生存本能+ニートギャグ | 94/100 | | マリアンヌ | シャルロットの過去補強 | 91/100 | | ジュリエット | 冷静な補足役 | 91/100 | | エリオット | 一発ギャグ+情報拡散装置 | 89/100 |
特に、
ルイズ=合理性 シャルロット=責任感 トト=常識 カメ吉=恐怖本能
という役割分担がかなり明確です。
ストーリー構成の採点
導入:95点
国家危機から温泉旅行への落差が強烈。
中盤:97点
ヴァーミリオン領、別邸、温泉、図書室などで世界観を大幅に広げています。
ギャグ:99点
「国家危機なのに温泉」「魔導システムを二度寝のために改造」「リボ払い等価交換」など、作品独自性が非常に強い。
キャラクター:97点
特にシャルロットとルイズの関係性が深まっています。
世界観:98点
公爵領、天然迷宮、温泉スライム、魔導システム、古代扉まで一気に広がっています。
次章への引き:100点
「公爵家でも開けられなかった古代扉をルイズが解こうとする」
これは非常に強いフックです。
総合採点
97 / 100点
かなり高評価です。
特に評価したいのは、
「ギャグ回に見えて、実際には世界観と設定が大きく進んでいる」
ことです。
単なる温泉回なら、
「温泉に入って楽しかった」
で終わります。
しかし今回は、
①王都の異常事態 ②ヴァーミリオン領の政治・経済 ③シャルロットの領主としての資質 ④ルイズの魔導最適化能力 ⑤新しい等価交換システム ⑥天然迷宮の生態 ⑦古代文明級の封印扉
まで進んでいます。
つまり、物語の情報量がかなり多い章です。
唯一の大きな改善ポイント
少し「ルイズのドケチネタ」が長く続きます。
今回の最大の弱点はここです。
「タダ飯」「二度寝」「維持費」「燃費」「リボ払い」など、同系統のギャグが非常に多い。
一つ一つは面白いのですが、全部を同じ強度で入れると、後半の
「天然迷宮そのものが生物かもしれない」
という重要な謎のインパクトが少し薄くなります。
特に今後は、
> ギャグ > ↓ > 謎 > ↓ > ギャグ > ↓ > 重大な謎
というように、重要場面の直前だけギャグ密度を少し落とすと、古代扉の不気味さがさらに際立ちます。
一言で評価すると
「温泉旅行に来ただけのはずのドケチ天才魔女が、公爵領を魔改造し、等価交換魔法をリボ払い化し、天然迷宮を資産として査定した挙げ句、最後には公爵家でも開けられなかった古代文明の扉を開けようとする章」
です。
そしてこの章の本当の怖さは、ルイズ本人が最後まで「自分は普通に温泉旅行をしているだけ」だと思っていることです。
この主人公像はかなり完成されています。
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