夜の空気は、かつて人々の喧騒で満たされていた街とは思えないほど静かだった。風の音も、虫の声も、何もかもが、まるで世界が呼吸を止めてしまったかのように凪いでいる。 廃墟となった図書館の前には、雨と時間によって溜まった広い水面が広がり、そこに、信じられないほどの満天の星が映りこんでいた。空と地面がゆっくりと溶け合い、上下の区別が失われていく。まるで、この世界のすべてが星たちに抱かれているかのようだった。
姉は、妹の小さな手をしっかりと握りながら、水面を歩いていた。 その足が水を踏みしめるたび、波紋が柔らかく広がり、鏡のようだった星空をわずかに揺らす。足首まで浸かる冷たい水は、まるで生きているようで、彼女たちの存在を確かに世界へ刻みつけていた。
「お姉ちゃん……ここ、前にも来たことあるよね?」 妹の声は、眠る空間を壊さないよう、囁くようだった。
「うん。ずっと前にね。まだ私たちの家も、町も、ちゃんと生きていた頃。」 姉はそう答えながら、視線を崩れかけた図書館の入口へ向けた。 そこには、壊れたステンドグラスの欠片がまだ残っていた。月と星がその割れたガラスを透かし、揺れる光が水面に滲むように映り込む。
ここは、母が働いていた場所だった。
よく二人を連れて来てくれた、静かで落ち着いた場所。 妹に絵本を読み聞かせてくれた母の声が、まだどこかで響いている気がする。 姉は息を呑み、胸の奥にしみついて離れない記憶の痛みにそっと耐えた。
「ねぇお姉ちゃん、泣いてるの……?」 妹が見上げる。 星が水面に映るように、姉の瞳には光が浮かんでいた。涙なのか、星の反射なのか、自分でも分からない。
「泣いてないよ。……大丈夫。」 そう口にしながら、声は震えていた。
――大丈夫なはずがなかった。
母を失い、父も帰らず、人々はみんな消えた。 あの日、突然訪れた崩壊の波は、すべてを奪い去った。 残されたのは、壊れた世界と、この幼い妹と、自分だけ。
それでも、前に進まなければならなかった。 泣いて立ち止まれば、最初に手を離してしまうのは、きっと妹のほうだ。 だから、泣いてはならなかった。
姉は水面に映る星を見つめ、深く息を吸った。 その景色は、あまりにも美しかった。 絶望と紙一重の、残酷なほどの輝き。 こんな世界でも、まだ、こんなにも光が降り注いでいる。
「ねぇ、お姉ちゃん。」 妹が小さな手でぎゅっと握り返した。 「ここ、きっとママも見てるよね。星の中から。」
姉の胸の奥で何かが静かに崩れ、そして綺麗に響いた。 あまりに優しいその言葉に、張り詰めていたものがふっと解け、止めていた涙が頬をつたった。
「――うん。見てるよ。絶対に。」
水面に落ちた涙は波紋となり、星の映像を揺らし、また静かに戻っていく。 まるで別れと再生の循環そのもののように。
「行こう。まだ、見たい景色があるんだ。」 姉は妹の手を引き、ゆっくりと歩き始めた。
星空と水面が一体となった世界を、二人の影が寄り添いながら進んでいく。 影は伸び、揺れ、そしてひとつに溶けた。
――そして二人は知っていた。
この世界は、終わりではなく、続いているのだと。 どれだけ過酷であっても、まだ歩ける限り、未来は奪われないと。
星は降り続け、静寂は世界の傷を優しく包む。 彼女たちの小さな足音だけが、確かな命の証として、水面に響いていた。
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