第1章ガイダンス――その投資は「魔術」か「算術」か
深煎りコーヒーの香ばしくもほろ苦い香りが、資料とモニターで埋め尽くされた狭い研究室を満たしている。春の柔らかい西日がブラインドの隙間から差し込み、空中に舞う微細な埃をキラキラと照らし出していた。
若葉:「教授! 佐倉助手! 今週末の競馬、どどーんとデカい魔法みたいな花火打ち上げましょ!」
勢いよく木製の重いドアを開け放ち、飛び込んできた新入生がアニメから飛び出してきたような元気な関西弁を響かせた。
唇に銀色のボールペンを当てたまま、若き天才女性教授はマルチモニターから視線を外さずに息を吐く。
神宮寺:(相変わらず鼓膜にクリーンヒットする声量ね。新入生には標準で拡声器でも内蔵されているのかしら。でも、この無駄なエネルギー、分析のスパイスには悪くないわ)
神宮寺:「若葉、強力な魔法を撃つには精密な魔力制御……つまり、ノイズのない信頼できるデータが必要よ。あなたの手元にある資料、フラワーカップとファルコンステークスね?」
ドリッパーから丁寧に熱湯を注ぎ落としながら、長身の助手が肩をすくめた。
佐倉:「若葉さん、教授が言いたいのは『3歳戦は不確定要素が多すぎる』ってことですよ。彼らはまだ人間で言えば高校生みたいなものです。たった数回のテスト結果だけで、その子の10年後の職業に全財産を賭けられますか?」
コーヒーの香りをクンクンと嗅ぎながら、若葉は不満げに唇を尖らせる。
若葉:「えー? でも若者には無限の可能性ってやつがあるやないですか! アニメの主人公がいきなり真の力に目覚めて大逆転、みたいな! 配当もドカンと跳ね上がりそうでロマンがありますやん!」
革張りのキャスターチェアをくるりと回転させ、教授は細い指で眼鏡の位置を直した。
神宮寺:「その『突然の目覚め』こそが、データ分析を破綻させる最大のノイズなのよ、若葉。彼らは経験値が圧倒的に足りないの。たった10年ぽっちの短い旅の記録だけで、エルフの千年の寿命すべてを推し量ろうとするようなものよ。無理があるでしょう?」
湯気の立つマグカップを教授のデスクにコトッと置きながら、助手も深く頷く。
佐倉:「その通りですね。それに距離の問題もあります。ファルコンステークスは1400メートル、フラワーカップは1800メートル。距離が短ければ短いほど、スタートでちょっと躓いただけで命取りになりますからね。投資じゃなくて、ただのクジ引きになっちゃいます」
熱いコーヒーをフーフーと吹きながら、若葉がズズッと音を立てて一口飲む。
若葉:「あっち! なるほどなぁ……若者はデータ不足で短距離は運ゲー、と。ほな、愛知杯はどうです? 4歳以上の牝馬、つまり大人の女性たちの戦い! これならデータもばっちりちゃいます?」
ブラックコーヒーを優雅に口に含み、教授はその苦味にわずかに眉をひそめた。
神宮寺:「春先の牝馬はね……とても複雑なのよ。ホルモンバランスや気分屋なところがあってね。当日になって突然『今日は走る気分じゃないわ』って言い出すツンデレヒロインみたいな子もいるの。おまけに1400メートルの短距離で21頭の大渋滞。隣の馬と肩がぶつかっただけで、本命馬が馬群に沈むわ」
神宮寺:(そう、不確定要素の塊。競馬において不確実性はロマンではなく、ただの計算の敵。私たちが求めるのは純粋な絶対値のみよ)
佐倉:「ということは、教授。残る選択肢は、純粋なスタミナとデータの信頼性が極めて高い『あのレース』しかありませんね?」
神宮寺:「ええ、佐倉くん。私たちの勝負レースは、第74回 阪神大賞典(GⅡ)。距離3000メートルよ」
若葉が目を丸くして、持っていたマグカップを揺らした。
若葉:「さ、さんぜん!? めっちゃ長いやないですか! そんなん走ったらお馬さんヘトヘトになりません? まるでマラソンですやん」
神宮寺:「そこが美しいのよ。3000メートルにもなれば、スタートのフロック(まぐれ)なんて通用しないわ。絶対的な心肺機能と、道中で無駄な体力を使わない冷静さ……つまり『真の実力』だけが丸裸にされる。過去のデータも豊富に蓄積された大人の馬たちばかり。おまけに登録は11頭と少頭数。ノイズが極めて少ないわ」
佐倉:「でも若葉さん、欠点もあります。堅実なレースになるということは、他の競馬ファンも強い馬を簡単に見抜けるということです。オッズが低くなって、配当の妙味は薄くなりますし、次の大きなレース(天皇賞)に向けた『単なる練習(叩き台)』として走る有力馬の見極めも必要になります」
助手の現実的な指摘に、若葉はあからさまにガックリと肩を落とした。
若葉:「うぇー、配当低いんかぁ……。せっかくの勝負やのに、全然ロマンがないですやん! もっとこう、みんなが忘れてるような隠れた超強い穴馬とかおらんのですか!?」
教授は口角をわずかに上げ、モニターに映し出された11頭の馬柱データを指差した。
神宮寺:「ふふっ。だからこそ、この研究室があるんじゃない。堅いと思われるデータの中から、オッズの歪みという『特異点』を見つけ出し、穴馬を導き出す。……さあ、ノイズだらけのレースは捨てたわ。阪神大賞典、この11頭の中からまずは徹底的に『消す』作業から始めるわよ」
第2章初等演習――生存者(サバイバー)たちの資格
デスクトップパソコンの冷却ファンが微かに震える低い駆動音が、静まり返った研究室のBGMになっている。窓の外はすっかり日が傾き、ブラインド越しに差し込む夕日が、机の上に散らばった白い資料を淡いオレンジ色に染め上げていた。
若葉:「よし! ほな教授! 早速デスゲームの始まりですね! 最近流行りの、投票で弱いプレイヤーから順番に追放していくアニメみたいでゾクゾクしますわ!」
若葉が目を輝かせながら、パイプ椅子の冷たいスチール製の背もたれをバンバンと勢いよく叩く。
神宮寺:(この子の脳内は本当に興味深い遊園地ね。競馬のデータ分析からデスゲームへの飛躍……けれど、ノイズだらけの思考をシンプルな論理に変換するのは、私にとっても悪くない頭の体操になるわ)
神宮寺:「デスゲーム……まあ、概念としては間違っていないわね。これから私たちは、この11人の参加者から、最も残酷で論理的な方法で弱い者を追放していくのよ」
助手の佐倉が、手に持っていた赤青鉛筆をクルクルと器用に回しながら口を挟む。
佐倉:「でも若葉さん、アニメと違ってここには『隠された真の力』も『友情による突然のパワーアップ』も存在しません。追放するためのルールは、極めて冷酷な3つの基準だけです」
若葉:「3つのルール? なんですかそれ!『廊下を走らない』『おやつは300円まで』とか、そういうやつですか!?」
若葉の的外れな連想ゲームに、真宮寺教授はふっと息を漏らし、淹れ直したハーブティーのカップから漂うカモミールの甘い香りを肺の奥まで吸い込んだ。
神宮寺:「いいえ。一つ目は『肉体的に古びていて、成績が落ち続けているお爺ちゃん』。二つ目は『ご近所の町内会レベルのマラソン大会で負けている馬』。そして三つ目は『最近のテストの点数が急激に悪くなっている馬』よ。この条件に当てはまる参加者は、メジャーリーグである今回のレースでは絶対に通用しないわ」
若葉がゴクリと唾を飲み込み、手元の資料に視線を落とす。紙が擦れるカサカサという乾いた音が響いた。
若葉:「あ! 見つけましたよ! 『ダンディズム』! めっちゃええ名前ですやん! 渋くてカッコいいイケオジの気配がプンプンします!」
佐倉が手元の資料をトントンと指先で叩く。
佐倉:「確かに名前は渋いですが……彼は10歳です。人間で言えば、完全に引退したお爺ちゃんですよ。しかも直近のレースを見てください。今回と同じ3000メートルの距離を走っていますが、たった9頭しかいない町内会レベルのレースで5着です」
若葉:「5着って、ちょうど真ん中くらいやないですか。お爺ちゃんにしては健闘してるんちゃいます?」
神宮寺:「町内会の小さな大会でメダルすら取れないお爺ちゃんが、いきなり全国から猛者が集まるメジャーリーグでオリンピック選手に勝てると思う? 物理的に不可能よ。だから、ダンディズムは追放」
若葉:「うわぁ……ダンディお爺ちゃん、無念の引退! ほな、この『メイショウブレゲ』はどうです? ブレゲってあの超高級時計の名前ですよね! 精密で狂いのない走りをしそうですやん!」
若葉の元気な提案に対し、佐倉は少し気の毒そうな顔をして首を横に振った。
佐倉:「残念ですが、その高級時計は完全に歯車が錆びついています。彼もダンディズムと同じ町内会のマラソン大会に出ましたが、結果はさらに下回る7着。しかも……」
神宮寺:「しかも、同じレースで勝った『アクアヴァーナル』という馬に直接対決で負けているのよ」
教授が佐倉の言葉を引き継ぐ。
神宮寺:「わかるかしら? 練習試合でクラスメイトにボロ負けした子が、全国大会の本番で突然その子を抜き去るなんて論理的な根拠はデータ上のどこにも存在しないわ。だから、高級時計も追放よ」
若葉:「ひええ、厳しい! 現実はスポーツアニメみたいに甘くないんや……! あ、じゃあ最後はこの子! 『サンライズソレイユ』! ソレイユってフランス語で太陽ですよね! 太陽が昇る! これはいけますって!」
若葉がバンッと机を叩く振動で、マウスがカチャリと冷たい音を立てた。
神宮寺:(太陽、ね。名前の響きだけで期待値を上げるのは初心者の典型的なバイアスだけれど、その豊かな感受性は少し羨ましくもあるわ)
神宮寺:「残念ながら、その太陽はとっくに沈んでいるわ。彼はメジャーリーグの壁にぶつかって9着を連発しているだけじゃない。致命的なのは北海道で行われた2600メートルのマイナーリーグのレースよ」
若葉:「あっ、12頭中10着に大敗してますね。……え? ちょっと待ってくださいよ」
若葉は瞬きを繰り返し、指折り数え始めた。
若葉:「マイナーな大会の2600メートルでヘロヘロになって負けてるのに、今回はさらに長いメジャー大会の3000メートルを走るんですか……?」
神宮寺:「その通りよ、若葉さん。短い距離でガス欠を起こしている車で、さらに遠くの目的地を目指すようなものです。途中で完全に止まりますよ」
佐倉の的確な例えに、若葉は「あちゃー」と額に手を当てた。
若葉:「完全にエンスト確定やないですか。そらアカンわ。太陽、沈没!」
神宮寺:「ええ。これで条件は満たされたわ。高齢のダンディズム、クラスメイトに負けたメイショウブレゲ、ガス欠のサンライズソレイユ。この3頭の追放が完了したわ」
真宮寺教授がエンターキーをターンッ!と小気味よく叩くと、モニター上の11頭のリストから、無慈悲に3つの名前が黒く塗りつぶされた。
第3章中等演習――「実績」という名の甘い毒薬
すっかり日の落ちた研究室を、デスクライトの青白いLED光源だけが鋭く切り取っている。開け放たれた窓から入り込む徳島の夜風が、ほんのりと潮の香りを運んできていた。真宮寺教授が口に含んだミントタブレットの清涼感が、部屋の空気に微かな刺激を与えている。
若葉:「太陽いうたら、真夏の海! 海いうたら海外旅行! 海外いうたらコアラとカンガルーのオーストラリアですやん!」
窓際のソファに寝転がった若葉が、ポテトチップスをかじるサクサクという軽快な音を響かせながら叫んだ。
神宮寺:(太陽から連想してオーストラリア……見事な直列思考ね。でも、その無軌道な連想が、奇しくも次の消去対象を完璧に引き当てているわ)
神宮寺:「そのオーストラリアに遠征していた馬が、まさに次の追放候補よ。『シュヴァリエローズ』。彼はこのレースでは完全に用済みね」
ホワイトボードの前に立っていた佐倉が、青いマーカーのキャップをカチッと外す。
佐倉:「彼の実績は立派ですよ。ただ、直近のスケジュールが異常なんです。国内のトップクラスの激しいレースを連戦した後、オーストラリアの3200メートルという過酷なレースに飛んで大敗。帰国してすぐまた年末の大きなレースを走っています」
若葉:「えー? でも、海外の強敵と戦ってボロボロになった主人公が、帰国して真の力に目覚めるのって、アニメの超王道展開ちゃいます?」
指についた塩をペロッと舐めながら、若葉が首を傾げる。
神宮寺:「若葉、彼はもうアニメの主人公のような若者じゃないわ。人間で言えば大ベテランのお爺ちゃんよ。そんなお爺ちゃんが、地球の裏側まで飛行機で飛んでフルマラソンを走り、帰国直後にまた全力疾走させられているの」
神宮寺:「蓄積された疲労は限界を超えているわ。過去の栄光なんて、今のボロボロの体には何の魔法にもならない。だから真っ先に消去よ」
若葉:「うわぁ……ブラック企業も真っ青の過重労働や! お爺ちゃん、ゆっくり休んでや……。ほな、海外の次は王様や! 『キングスコール』! 名前にキングが入ってるんやから、無敵のパワーがあるんちゃいます? 実際、最近同じ3000メートルで2着に入ってますやん!」
若葉の元気な反論に対し、佐倉はホワイトボードに『クラスの壁』と大きく書き込んだ。
佐倉:「確かに距離への適性は見せました。でも、大きな問題があるんです。今回のレースは『全員ハンデなしの真っ向勝負』というルールなんですよ。キングスコールは、実はまだマイナーリーグを勝ち上がれていない身分なんです」
若葉:「えっ? でも、若くて勢いのあるルーキーが、プロの先輩たちに下剋上するの、スポーツ物の熱い展開ちゃいます?」
神宮寺:「ハンデという『おまけ』をもらえれば、その展開もあり得たわね」
神宮寺:「でも今回は、メジャーリーグのトッププロたちと同じ重さの荷物を背負って走るの。マイナーリーグで勝ちきれないパワーでは、最後の直線でプロの豪速球にバットをへし折られるだけ。重い荷物を背負ったままの長距離勝負では、実力不足はごまかせないわ」
若葉:「ひええ、下剋上失敗! やっぱりプロの壁は高くて分厚いんや……。ほな、王様の次は高級車や! 『ダノンシーマ』! 今3連勝中でピカピカの1等星ですやん! これなら文句なしちゃいます?」
若葉が自信満々に、手元の資料の束をバサッと振りかざす。
神宮寺:(ふふ、ついに一番美味しい罠に飛び込んできたわね。成績の良さだけを見ると、この馬こそが光り輝く宝に見える。でも、プロの目から見れば、それはただの爆弾よ)
神宮寺:「そこが、素人が一番陥りやすい『罠』よ。彼は間違いなく今回、たくさんの人から人気を集める危険な存在になるわね」
佐倉がホワイトボードの端をトントンと叩く。
佐倉:「過去のレースを見てください。彼はついこの間、2000メートルという『短距離の猛ダッシュ』で勝ったばかりなんです。そこから今回、いきなり1000メートルも走る距離が延びます」
若葉:「勢いがあるんやから、その猛ダッシュのスピードのまま、スパーンと最後まで逃げ切れるんちゃいます? 陸上部でも、足が速い子は長距離も案外速かったりしますやん!」
神宮寺:「馬の気持ちになって考えてみなさい。短い距離を全力で走ることを覚えたばかりのアスリートが、いきなり長距離マラソンのスタートラインに立たされたらどうなる? ペース配分が分からずに、最初のほうで『もっと速く走りたい!』って暴走して、途中で息が上がって倒れるわ。長距離のプロたちが集まるこの舞台で、そんな無謀な挑戦は期待値ゼロよ」
若葉:「うっわー……勢い余って自滅するパターンかぁ! 高級車、まさかのガス欠でリタイア!」
神宮寺:「そういうことよ。過労のシュヴァリエローズ、実力不足のキングスコール、暴走リスクのダノンシーマ。この3頭が新たに追放されたわ。これで、11頭中6頭が消えたことになるわね」
カチャカチャという乾いたキータッチの音が響き、モニターの中でさらに3つの名前がグレーアウトしていく。夜の静けさの中、いよいよ核心に迫る空気が研究室を満たし始めていた。
第4章高等演習――砂の城に君臨する五人の王
遠くから響く海峡の潮騒が、静寂に包まれた夜の研究室に微かなリズムを刻んでいる。開け放たれた窓から入り込む海風が、若葉の机の上に置かれたシーフード味のカップ麺から立ち昇る湯気を、白いリボンのように揺らしていた。エビと潮のジャンクな香りが、先ほどまでの張り詰めた空気を少しだけ緩める。
若葉:「高級車がエンストしたなら、次は家族で仲良く安全運転のドライブや! 残った5頭のうち、まずは『ファミリータイム』! 家族の絆はどんな困難も乗り越える、日曜朝のアニメの基本ですやん! 前回のレースも銀メダルで絶好調やし、上位間違いなしちゃいます!?」
割り箸をパチンと心地よい音で割ってから、若葉がモニターを指差した。
神宮寺:(家族の絆、ね。美しい言葉だけれど、ここは過酷な生存競争の舞台よ。温かな幻想は、冷酷なデータの前ではあっさりと崩れ去るわ)
神宮寺:「若葉、残念だけれどその家族旅行のドライブは、目的地にたどり着く前にガス欠で止まるわ。彼は今回のランキングで最下位、第5位よ」
若葉:「ええー!? なんでですか! 前回の銀メダルは本物の実力ちゃいますの? アニメならここから家族の力で覚醒する熱い展開やのに!」
むせそうになりながら抗議する若葉に、佐倉がカップ麺の容器の底をペン先で軽く叩いてみせた。
佐倉:「若葉さん、前回のレースは彼にとって、すべての条件が奇跡的に味方しただけなんです。走りやすいコース、楽なペース……言うなれば、自転車でずっと追い風を受けて走っていたようなものです」
若葉:「追い風最高やないですか! そのままスイスイ行けるでしょ!」
神宮寺:「問題は距離よ。彼が普段走っているのは2000メートルから2400メートルの『中距離』。今回はそこからさらに600メートルも長い未知の領域なの。追い風の魔法が解けた過酷な長距離マラソンで、中距離のスピードしか持たない彼が最後まで走り切れると思う? 途中で足が止まるのは火を見るより明らかよ」
若葉:「うわぁ……家族旅行、まさかの道中で力尽きた……! ドライブ繋がりでいくと、次は地球規模のお出かけや! 第4位は『アドマイヤテラ』! テラって地球って意味ですよね! スケールでかすぎ!」
カップ麺のスープを飲み干しながら、若葉が次のターゲットに目を輝かせる。
佐倉:「スケールは大きいですが、彼が背負う荷物も地球並みに重いんですよ。だから第4位です」
佐倉がホワイトボードに『58キロ』と大きく書き込んだ。
佐倉:「彼は過去に大きな大会で優勝しているため、ルールで今回一番重い58キロの重りを背負わされます」
若葉:「58キロ!? 私の体重より……いや、なんでもないです! でも重いって言っても、過去に優勝するくらい力持ちなんやから、プロなら余裕ちゃいます?」
神宮寺:「過去の栄光は、今の彼を救ってくれないわ。最近のレースを見て。途中で走るのをやめてしまったり、大負けしたりしているでしょう? 明らかに体調のピークを過ぎているのよ。そんな疲れ切った体に一番重い荷物を背負わせて、一番過酷な長距離を走らせるの。奇跡を信じるには、あまりにもデータが残酷すぎるわ」
若葉:「地球、重力に負けて崩壊! ほな、次は地球を支配する皇帝や! 『マイネルエンペラー』! エンペラーは物語の終盤に立ち塞がる絶対的なラスボスですよ! でも最近ボロ負けしてるから、これは流石に最下位候補でしょ?」
若葉が勝ち誇ったように笑うと、真宮寺教授の唇がふっと弧を描いた。
神宮寺:「ふふっ。素人はそうやって彼を見くびるわ。でもね、彼こそが今回の第3位、最も美味しい存在よ」
若葉:「えっ!? なんでですか! 最近負けまくってるお爺ちゃんちゃいますの!?」
驚きで目を丸くする若葉に、佐倉が笑顔で解説を引き継ぐ。
佐倉:「若葉さん、彼はスピード勝負が苦手なだけなんです。最近負けていたのは、距離が短くて周りのスピードについていけなかったから。でも、今回は3000メートルの長距離戦です。彼は過去に、これ以上の長い距離の大きな大会で優勝している『生粋のマラソンランナー』なんですよ」
神宮寺:「そう。上位の馬たちが重い荷物や距離の長さでバテていく中、彼だけは泥臭く最後まで走り続ける無尽蔵の体力を持っているの」
神宮寺:「みんながバテて足が止まる泥沼の消耗戦……それこそが、このラスボスが真の力を発揮する最高の舞台よ。最近の負けでみんなから忘れられている今こそ、狙い目なの」
若葉:「泥沼の持久戦で輝く泥臭いラスボス! 熱い展開や! 次は泥を洗い流す清らかな水! 第2位は『アクアヴァーナル』! アクアって水の女神ですね! 某異世界アニメの駄女神みたいに、実はめっちゃポンコツやったりして!」
若葉の冗談めかした言葉に、佐倉は真剣な表情で首を振った。
佐倉:「いえ、彼女はポンコツどころか、長距離のスペシャリストです。そして最大の武器は『55キロ』という軽さです」
若葉:「あっ! さっきの皇帝とか地球は58キロ背負ってるのに、女神様は55キロでいいんですか!?」
神宮寺:「ええ。女の子だからというルールの恩恵ね。たかが3キロと思うかもしれないけれど、最後に体力が限界を迎える長距離戦において、この3キロの差は決定的な武器になるわ。おまけに彼女は3000メートルの距離を得意としているデータが完璧に揃っている。重い荷物を背負った男たちを、軽い足取りでまとめて抜き去るポテンシャルを秘めた、恐ろしい女神よ」
若葉:「軽さは正義! 女神降臨や! ほな、残る堂々の第1位は……水の女神を導く熱血主人公! 『レッドバンデ』! レッドはいつだってスーパー戦隊のリーダーの色ですやん! でも、なんでこの子が1位なんですか?」
若葉が身を乗り出して尋ねると、真宮寺教授と佐倉は顔を見合わせた。
神宮寺:(同世代の頂点を決める過酷な戦いを生き抜き、最も成長する時期に、最も有利な条件を与えられた存在。彼を疑う論理は、このデータ上には存在しないわ)
佐倉:「若葉さん、彼はまだ4歳の若者です。でも、同世代のトップが集まる3000メートルの全国大会で、見事に上位に入った確かな実力を持っています。スタミナは証明済みなんです」
神宮寺:「そして何より、彼が背負う荷物は『56キロ』よ。実績のある先輩たちが58キロで苦しむ中、若い彼にはまだ重いペナルティが課されていないの。若さと実力、そしてルールの恩恵。すべてのデータが、彼こそが絶対的な主人公であると指し示しているわ。彼が今回の私たちの本命よ」
若葉:「おおおー! 燃える赤の主人公が、泥だらけのラスボスや重装備の先輩たちを打ち破る! めっちゃ論理的で美しいストーリーですやん!」
若葉が拍手喝采する中、研究室のホワイトボードには、下から順に5頭の名前が綺麗に並び上がっていた。
第5章特別講義――「地獄」の底から響く黄金の足音
窓の外、海峡に架かる大橋のライトアップが深い夜の闇に浮かび上がっている。研究室の壁掛け時計は午後9時を過ぎていた。真宮寺教授は淹れたての三杯目のコーヒーをデスクに置き、モニターに映し出されたネット競馬の予想オッズ表を静かに睨みつけた。
若葉:「さあて、ここからが本番や! 予定調和で終わるアニメなんておもろない! 主人公のレッドバンデが勝つんもええけど、もっとドッカーンと爆発するような『超絶大波乱』のシナリオも用意しときましょ!」
若葉が、空になったカップ麺の容器をゴミ箱にダイブさせながら叫んだ。その元気な声に、佐倉助手が苦笑いを浮かべて手元のタブレットを操作する。
佐倉:「大波乱、ですか。確かに世間の予想オッズを見ると、アドマイヤテラとダノンシーマの2強が圧倒的な人気を集めていますね。この2頭が馬券圏外に飛ぶ……つまり、人気上位が揃って沈むような『地獄の消耗戦』になれば、若葉さんの言う大爆発が起きます」
神宮寺:(人気馬が飛ぶ。それは大衆の願望であり、同時にデータ分析が最も輝く瞬間でもある。過酷な3000メートルという舞台なら、その特異点は十分に発生し得るわ)
神宮寺:「もしその2強が消えるなら、原因は明確よ。アドマイヤテラは重い58キロと疲労の限界。ダノンシーマは短距離からの急激な距離延長によるパニック。彼らが自滅するほどペースが過酷になった時、浮上してくる顔ぶれは大きく変わるわ」
若葉:「うわっ、人気者が揃って自滅! パニックホラー映画の序盤でいきなりリア充グループが全滅する定番のやつですやん! ほな、生き残るんは誰ですか!?」
若葉が身を乗り出すと、佐倉がホワイトボードの空きスペースに『波乱時のTOP5』と書き出し、その下に力強く名前を記した。
佐倉:「1位と2位は揺るぎません。本命のレッドバンデと、対抗のアクアヴァーナルです」
若葉:「ええっ、そこは変わらんのですか!? 主人公と女神様はホラー映画でも生き残るんや! なんでですか?」
佐倉の言葉に、真宮寺教授が涼しい顔で答える。
神宮寺:「過酷な消耗戦になればなるほど、レッドバンデの『菊花賞5着』という同世代トップクラスとの長距離激闘の実績と、56キロという軽さが絶対的な力を持つの。そしてアクアヴァーナルも同じよ。スタミナ勝負になれば、彼女の無双の3000メートル適性と55キロの最軽量ハンデが、バテた男たちを撫で斬りにするわ」
若葉:「おおー! 男たちがバタバタ倒れる中、涼しい顔で駆け抜けるヒロイン! かっこええ! ほな、次が問題や。3位は誰ですか!?」
神宮寺:「3位は、私が先ほど『泥沼のラスボス』と評したマイネルエンペラーよ」
教授の言葉に、若葉が「やっぱり!」と手を叩いた。
若葉:「出た! ここでラスボス覚醒や! みんなが泥沼で苦しむ中、一人だけスタミナ無尽蔵で突っ込んでくるんですね!」
佐倉:「その通りです。世間の予想オッズでは7番人気、17倍もつく大穴です。近走の不振だけで見くびられていますが、天皇賞5着、日経賞1着の実績を持つ彼にとって、タフな展開はまさに独壇場。波乱の立役者として、最も美味しい馬券になります」
若葉:「泥沼のラスボスが美味しい馬券に変身! 最高や! ほな、4位と5位は?」
若葉が目を輝かせながら急かす。
佐倉:「ここで、一度は『実力不足の王様』として切り捨てたキングスコールが4位に浮上します」
佐倉がホワイトボードに名前を書き加えた。
若葉:「えっ、王様復活!? なんでですか! さっき『プロの豪速球にバットへし折られる』って言うてましたやん!」
神宮寺:「ええ、実力不足なのは事実よ。でも、人気馬たちが重圧と距離で自滅して『豪速球を投げられなくなった』としたら? キングスコールは前走、今回と全く同じ阪神3000メートルで2着に入っているわ。強豪が勝手に崩れていく泥仕合なら、この『同じコースを走り切った経験値』だけで、しぶとく3着に滑り込む確率が跳ね上がるの」
若葉:「なるほど! 周りが自滅するんやったら、コースを知ってる王様が棚からぼた餅で生き残るんや! ほな、最後の5位は!?」
神宮寺:「5位は、消去法でファミリータイムね」
教授の言葉に、若葉がズコーッと大げさにずり落ちた。
若葉:「消去法!? 家族の絆、まさかのギリギリ滑り込み!? でも、なんで『実力不足の王様』より下なんですか? ファミリータイム、2400メートル以上なら【4212】って、めっちゃええ成績持ってますやん! むしろ王様より上ちゃうん!?」
神宮寺:(鋭いわね、若葉。素人の直感は時に、データが示す見せかけの優位性を突く。でも、そのデータの奥底にある『質』の違いまでは見えていない)
神宮寺:「素晴らしいデータを見つけてきたわね。でも、競馬において『2400メートル』と『3000メートル』は、別の競技と言っていいほど違うの。ファミリータイムの好成績は、あくまで中距離の延長線上にあるもの。未知の3000メートルを走る彼と、すでに今回と同じ阪神3000メートルで結果を出しているキングスコール。極限の消耗戦で頼りになるのは、圧倒的に後者の経験値よ」
若葉:「うわぁ……距離の壁、どんだけ高いんや! 2400と3000は別のスポーツ! サッカーとラグビーくらい違うんか!」
若葉の極端な例えに、佐倉が吹き出しそうになるのを堪えながらまとめた。
佐倉:「つまり、人気馬が飛ぶ大波乱を想定した場合、1位レッドバンデと3位マイネルエンペラーの組み合わせが、最も論理的で爆発力のある『黄金の馬券』になるということです」
若葉:「よっしゃー! 黄金の馬券、見えたり! これで今週末は焼肉食べ放題やー!」
若葉が両手を突き上げて歓喜の声を上げる中、真宮寺教授はモニターに映る完成した予想印を、どこか冷めた目で見つめていた。
第6章最終試験――論理の崩壊、あるいは真理の産声
深夜の静寂が研究室を包み込んでいる。開いた窓からは、春の夜特有の少し湿った鳴門の海風が吹き込み、デスクの上に放置された冷めたコーヒーから酸味のある香りを漂わせていた。壁の時計の秒針が進むカチ、カチという無機質な音が、妙に大きく響く。
若葉:「ふあーあ……。完璧な予想も完成したし、あとは週末のレースを待つだけですね! まるで、最新話で主人公が最強の剣を手に入れて『俺たちの戦いはこれからだ!』ってドヤ顔してるアニメのラストシーンみたいですわ!」
パイプ椅子の上であぐらをかきながら、若葉がスマートフォンを掲げて大きなあくびをした。
佐倉:「……若葉さん。アニメでそのセリフが出た後って、大抵どうなりますか?」
若葉:「え? そらもう、次のシーズン第1話でいきなり新キャラの敵にボッコボコにされて、最強の剣も真っ二つにへし折られるのがお約束……あっ!」
若葉がハッと息を呑むと同時に、革張りのキャスターチェアからクスクスと忍び笑いが漏れた。
神宮寺:(そう、見事な死亡フラグね。緻密に積み上げた論理の城は、波打ち際に作った砂の城と同じ。完成した瞬間から、予測不能な現実の波に飲み込まれて崩壊する運命にある。そして、自ら構築した理論を徹底的に破壊する瞬間こそが、分析の最も甘美な毒なのよ)
神宮寺:「きょ、教授!? 何してるんですか! 私らの黄金の馬券の根拠が!」
教授はゆっくりと立ち上がり、冷たい黒板消しを手に取ると、先ほどまで熱く語っていたホワイトボードの『絶対的スタミナ』という文字を無慈悲にゴシゴシと消し去った。
若葉:「若葉。私たちが信じてきた『長距離だからスタミナが必要』という前提。これ、全部机上の空論よ。もし当日、全員が顔を見合わせて『お散歩みたいなゆっくりしたスピード』で走り続けたらどうなると思う?」
神宮寺:「お散歩? レースやのに?」
若葉が首を傾げる。
佐倉:「みんな体力を一切使わずに、最後の数百メートルだけ『よーいドン』の短距離ダッシュ大会に変わるんです。そうなると、私たちが選んだバテない体力自慢たちは、足の速さについていけなくて全員ビリになります。逆に、スタミナがないと切り捨てた馬たちが、温存した力で圧勝するんですよ」
若葉:「うわあああ! マラソン大会が急に50メートル走に変更された! そんなんズルいですやん!」
神宮寺:「ズルじゃないわ、それが現実よ。それに、私たちが絶対の武器だと言った『軽い荷物(55キロ)』と、不利だと言った『重い荷物(58キロ)』。これもただの数字のトリックね」
若葉:「トリック!? でも、軽い方が絶対に走りやすいちゃいますの? 私かて、リュックサックは軽い方がええです!」
佐倉:「じゃあ若葉さん」
佐倉が優しく問いかける。
佐倉:「小柄な若葉さんが55キロのリュックを背負うのと、身長2メートルのムキムキのプロレスラーが58キロのリュックを背負うの、どっちがしんどいですか?」
若葉:「そら私ですよ! 潰れてまうわ! ……はっ! 馬の体の大きさや筋肉の量が違うんやから、数字だけで軽い重いは決められへんってこと!?」
神宮寺:「その通り。一番重い荷物を背負わされる馬は、それだけエンジンが桁違いのバケモノだってことよ。たった3キロの差なんて、その圧倒的なパワーの前ではただの誤差としてねじ伏せられるわ」
夜風が少し強くなり、ブラインドがカチャカチャと金属音を立てて揺れた。若葉はすっかり自信を無くしたように肩を落としている。
若葉:「じゃあ……主人公レッドバンデの過去の凄い成績とか、お爺ちゃん皇帝の奇跡の復活とかも……」
神宮寺:「ええ、全部過去の幻よ」
教授はミントタブレットのケースをカラカラと揺らした。
神宮寺:「馬は生き物よ。機械じゃないの。レッドバンデは昔の過酷なレースのせいで、心に深いトラウマを負っていて走るのが怖くなっているかもしれない。春先の女の子のアクアヴァーナルは、当日に突然気分が乗らなくて『今日は走らないわ』って言い出すかもしれない」
若葉:「トラウマでロボットに乗れなくなったパイロットと、急にデレが消えたツンデレヒロイン! そんなメンタルの問題、データじゃ絶対わかりませんやん!」
佐倉:「極めつけは、大波乱を期待すること自体の矛盾です」
佐倉がホワイトボードのオッズ表を指差した。
佐倉:「人気のある強い馬が2頭とも負ける確率なんて、奇跡に近いんです。何万人ものファンやプロたちが『この2頭は絶対に強い』と判断した結果が人気なんですから。荒れるはずだという私たちの期待は、ただの願望に過ぎません」
若葉:「モブキャラやと思ってた大勢の観客の意見が、一番正しかったんや……。なんやそれ、私らの今までの会議、全部無駄やったってことですか……?」
神宮寺:「無駄じゃないわ。あらゆる可能性を論理で組み上げ、そしてそれを自ら疑い、壊す。その果てしない繰り返しの先にしか、真理の欠片は落ちていないの」
教授は手元の資料の束をパラパラと指で弾いた。紙の擦れる乾いた音が響く。
神宮寺:「スタートでのたった一歩の遅れ。急に降り出した一滴の雨。騎手のほんの一瞬の迷い。私たちが作ったこの完璧なシナリオは、そんな小さなノイズ一つで、明日の朝にはただの紙切れになるかもしれない。……だからこそ、面白いのよ」
若葉:「……教授、めっちゃ悪役みたいな笑い方してますよ。でも、なんかワクワクしてきましたわ! どんな結果になっても、私らが考え抜いたこの予想の結末、最後まで見届けましょ!」
神宮寺:「ええ。せいぜい、神様が用意した不確定要素という名の悪戯を楽しみましょうか」
冷めきったコーヒーを一口飲み込み、真宮寺教授は再びモニターの無機質なデータ群へと視線を落とした。その瞳の奥には、自らが導き出した結論への強烈な疑念と、それすらも凌駕する知的な探求の炎が静かに揺らめいていた。
|