第1章 論理と砂上の楼閣、あるいはスプリングSの憂鬱 真宮寺教授、佐倉、若葉の研究室での講義シーン
神宮寺:「——というわけで、今週の『買うべきレース』は金鯱賞。スプリングステークスは視界から完全に消去しなさい」
窓際に置かれたアンティークのデスク。うず高く積まれた海外の競馬論文と血統辞典の山から、神宮寺はタブレットを片手に顔を上げた。白衣の袖口がノートパソコンのキーボードを軽く叩く。
若葉:「ええーっ! 教授、スプリングSやらへんのですか!?」
部屋の空気を震わせたのは、今年からこの研究室に配属された新入生の若葉だった。彼女の手には、赤ペンでぐちゃぐちゃに書き込みがされたスポーツ新聞が握りしめられている。
佐倉:「若葉さん、落ち着いて。新聞のインクが手に移ってますよ」
傍らでコーヒーメーカーの準備をしていた佐倉が、苦笑混じりにたしなめる。
若葉:「だって佐倉助手! スプリングS言うたら、皐月賞への切符をかけた若駒たちの熱き戦いやないですか! 未完の大器がここで覚醒して——」
神宮寺:「覚醒、ね」
神宮寺は冷たく言い放った。
神宮寺:「若葉、その『未完』という言葉が、いかに馬券購入者にとって致命的な毒か理解しているかしら?」
若葉:「毒、ですか?」
神宮寺:「そう、猛毒よ」
神宮寺はタブレットの画面を大型モニターに転送した。
神宮寺:「スプリングSに出走する3歳馬のキャリアは、せいぜい3戦から6戦。データと呼ぶにはあまりにもサンプル数が貧弱すぎるの。コース適性、距離適性、さらには当日のテンション。すべてが『未知数』という名のブラックボックスに入っているわ」
佐倉がコーヒーを二人の前にコトッと置きながら補足する。
佐倉:「確かに、3歳の春は馬体も急成長する時期ですからね。前走からプラス10キロ、なんて馬がゴロゴロいます」
神宮寺:「その通りよ、佐倉くん」
神宮寺はコーヒーの香りを嗅ぎ、満足そうに頷いた。
神宮寺:「成長なのか、ただの太め残りなのか。そんな不確定要素に自分のお金を賭けるなんて、分析家としては自殺行為ね。おまけに17頭の多頭数。予測のつかない波乱が起きる構造が完璧に出来上がっているわ」
若葉はまだ少し納得がいかない様子で、新聞のスプリングSの欄を名残惜しそうに撫でた。
若葉:「うーん……でも、なんかロマンがない気ぃしますわ。数字ばっかりで……」
神宮寺は眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。レンズの奥で、彼女の瞳が鋭く光る。
神宮寺:「ロマンで飯が食えるなら、世界中の詩人は大富豪になっているはずよ。私たちは夢を買うのではない。データという名の『期待値』を刈り取るの。いいわね?」
若葉:「……はい、教授」
神宮寺:「よし。では、さっそく金鯱賞の分析に入るわよ。まずは『絶対に買ってはいけない馬』の選別からね」
第2章 第一弾『消すべき3頭』
深煎りコーヒーの重厚な香りが、古書と書類の山に占拠された研究室を満たしていく。佐倉が丁寧にドリップした琥珀色の液体が、三つのマグカップに注がれた。コポコポという小気味よい音に混じって、部屋の隅から「サクサク、サクサク」という軽快な破裂音が響く。
丸椅子の上であぐらをかきながら、若葉がコンビニ袋から取り出したビスケットを頬張っていた。口の周りに細かい粉をつけながら、彼女は満面の笑みを浮かべる。
若葉:「ん〜! この発酵バターのビスケット、ほんまに最高ですわ! 噛めば噛むほど甘味が広がって……あ、せや! ビスケット繋がりでええ馬おるやないですか!」
呆れたようにため息をつき、神宮寺は冷めかけた自分のコーヒーに口をつける。舌の上を転がる心地よい苦味を感じながら、彼女は視線をタブレットから外さなかった。
神宮寺:「若葉。まさかとは思うけれど、名前が可愛いからという理由で『ホウオウビスケッツ』を推そうとしているんじゃないでしょうね?」
若葉:「えっ、なんで分かったんですか!? 教授、エスパーちゃいます!?」
神宮寺:「あなたの単純な脳内連想ゲームなんて、幼稚園児のパズルより読みやすいわ。ビスケットからホウオウビスケッツ……呆れて反論する気も起きないわね」
佐倉:「でも教授、ホウオウビスケッツはただ名前が可愛いだけの馬じゃありませんよ。去年の毎日王冠では2着に入っています。実績だけで言えば、決して侮れない穴馬候補だと思うんですが」
神宮寺:「佐倉くん、君まで若葉のサクサク病に感染したの? 毎日王冠がハイレベルだったのは認めるわ。でも、あれは『1800メートル』のレースよ。今回の金鯱賞は何メートルかしら?」
佐倉:「えっと……2000メートル、ですね」
神宮寺:「そう。たった200メートル。されど200メートルよ。過去のデータを見てごらんなさい。ホウオウビスケッツは、2000メートル以上の大きなレースに出るたびに、見事に粉々に砕け散っているわ。天皇賞・秋で13着、ジャパンカップで16着。これが現実よ」
若葉:「じゅ、16着!? ほな、前回のレースはボロ負けやったっちゅうことですか!?」
佐倉:「そういうことだね。金鯱賞の過去9年のデータを見ると、優勝馬には『前走が6着以内』という絶対的な共通点があるんだ。前走で16着に沈んでいるホウオウビスケッツは、この時点で優勝の確率が著しく低いと判断せざるを得ない」
神宮寺:「その通りよ、佐倉くん。彼は短い距離の、格下のレースでしか通用しないの。厳しいレースに出るたびに評価数値も急降下している。名前は甘くても、現実は苦いのよ。はい、一頭消去」
若葉:「うぅ……私のビスケットちゃんが……。ほな、経験豊富なベテランのお爺ちゃん馬はどうですか? 『アラタ』! なんか玄人っぽくて渋いやないですか。年の功で若いもんを出し抜く、みたいな!」
神宮寺:「佐倉くん。過去9年の金鯱賞において、『7歳以上』の馬が3着以内に入った確率は何パーセントかしら?」
佐倉:「……ゼロ、ですね。過去9年間で7歳以上の馬は11頭出走していますが、一度も3着以内に入っていません。全滅です」
若葉:「な、なんやてー! ゼロパーセント!? 嘘やん、うちのお爺ちゃんかて90歳で元気にゲートボールでホールインワン決めとるのに!」
神宮寺:「馬はあなたのお祖父様じゃないのよ、若葉。アラタはなんと御年9歳。データが存在する中で最高齢よ。おまけに前走の有馬記念では15着と大敗している。年齢という分厚い壁と、近走の不調という二重苦。これを覆すロジックは、この世のどこにも存在しないわ。はい、二頭目消去」
若葉:「うーん……なかなか厳しい世界ですわ……。ほな、最近深夜アニメでやってる『ゴースト・サバイバー』みたいに、蘇る亡霊みたいな名前の馬はどうですか! 『ニシノレヴナント』! なんか暗闇からスルスルと出てきそうでかっこええ!」
佐倉:「若葉さん、連想ゲームもいい加減にしないと……。でも教授、ニシノレヴナントは年齢も6歳ですし、極端に悪い条件には見えませんが……」
神宮寺:「佐倉くん、君は本当に『見えないもの』を見落とす天才ね。彼の調教師の所属を見てごらんなさい。どこかしら?」
佐倉:「ええと……あっ。美浦、つまり関東の所属ですね」
神宮寺:「正解。金鯱賞は中京、愛知県で行われるわ。関東から馬を運ぶ『長距離輸送』が発生するの。過去9年間の優勝馬9頭、彼らの所属はすべてどこだったかしら?」
佐倉:「……すべて、栗東。関西の所属馬です」
若葉:「えっ、関東の馬は9年間、一回も勝ってへんのですか!?」
神宮寺:「そういうこと。輸送のストレスや、直前の調整の難しさが、結果という数字に残酷なまでに反映されているのよ。これは単なる偶然じゃないわ。おまけにニシノレヴナントは、近走の重賞で2戦連続9着。完全に実力の底が見えているわ」
神宮寺:「ホウオウビスケッツ、アラタ、ニシノレヴナント。まずはこの3頭を、私たちの視界から完全に消去するわ。これで無駄な思考のノイズが少し減ったわね」
第3章 第二弾『二次選考:消すべき3頭』
研究室の窓から差し込む春の陽光が、空中に舞う細かな埃を黄金色にキラキラと輝かせていた。淹れ立てのジャスミンティーから立ち昇る、花のような甘く清涼な香りが部屋の空気を優しく包み込む。佐倉が気を利かせて、コーヒーからお茶へと切り替えたのだ。カップの縁に触れると、じんわりとした温もりが手のひらに伝わってくる。
神宮寺:「ふう……。さて、ゴミ箱行きになった3頭のことは忘れて、残る11頭の身体検査を始めるわよ」
神宮寺は冷ややかな声で宣言し、指先でタブレットの画面をスワイプした。カツン、と爪がガラスを叩く硬質な音が響く。モニターには、まだ生き残っている馬たちの名前がズラリと並んでいた。
若葉:「あ! 身体検査言うたら、昨日から始まった深夜アニメ『魔法少女メディカル・ルル』見ました!? 注射器のステッキで悪いウイルスをやっつけるんやけど、敵のボスがイケメンの都会派スパイで——」
神宮寺:「都会派スパイ? ちょうどいいわね。なら、その連想ゲームに付き合ってあげる」
神宮寺はモニターの一番上にある名前をレーザーポインターで丸く囲んだ。
神宮寺:「『アーバンシック』。直訳すれば『都会的な洗練』。この都会派の馬をどう評価するかしら、若葉」
若葉:「都会的で洗練されとる……つまり、タワマンの最上階でワイン揺らしとるようなセレブ馬や! ほら、背負う荷物も58キロって一番重いやないですか。これはもう、ハイブランドの高級な重たいコート着とる証拠ですわ!」
佐倉:「確かに58キロという一番重い荷物を背負うのは、公式に『強い』と認められた証拠だね。でも教授、さっきの章で『関東から遠征してくる馬は輸送のストレスで勝てない』というデータがありましたよね。このアーバンシックは……美浦、つまり関東の馬です」
若葉:「えっ! ほな、せっかくのタワマンセレブが、新幹線でエコノミークラスに乗らされてヘトヘトになっとるってことですか!?」
神宮寺:「エコノミークラスどころじゃないわ。この馬、前回のレースはどこで走ったと思う? 『香港』よ。海外への大遠征をして、結果は10着とボロ負け。そこからたった3ヶ月で、今度は愛知県まで長距離移動させられるの」
佐倉:「海外帰りの疲労に加えて、関東からの長距離輸送。おまけに、この馬の『能力の成績表(レーティング)』を見ると、点数が100点になったり118点になったり、また99点に落ちたりと、ジェットコースターみたいに乱高下していますね」
神宮寺:「その通りよ、佐倉くん。気分が乗れば120点の力を出すけれど、少しでも環境が変わると赤点を取る。そんな気分屋の都会っ子に、遠足の疲れが残った状態で大事なお金を預けられるかしら? 答えはノーよ。はい、二次選考の脱落者、第一号ね」
若葉:「うわぁ、セレブの転落人生や……。ほな、次はどうですか! 『ジョバンニ』! これ絶対、銀河鉄道に乗って星空を旅する純真な少年の名前やないですか! しかも年齢は4歳! 若さ爆発のフレッシュボーイですわ!」
佐倉:「確かに、データ上は4歳の馬が一番よく勝つという傾向があります。でも、ジョバンニ少年は……銀河ステーションには辿り着けなかったみたいですよ」
若葉:「えっ、途中下車したん!?」
神宮寺:「途中下車どころか、見事に期待を裏切る『常習犯』なのよ」
神宮寺は冷ややかな視線を若葉に向けた。
神宮寺:「この馬、前回のレースでは『2番目に人気』だったのに、結果は7着。その前の大きなレースでも8着。みんなが『この少年ならやってくれる!』と期待して高い切符を買うのに、本番になるといつも迷子になって馬群に沈むの」
若葉:「うわぁ、あかんやつや……。顔はええのに、いざという時に役に立たんヘタレ男子みたいなもんですか」
神宮寺:「的確な表現ね。おまけに、今回走る愛知県のコースは、坂道があったり、カーブが独特だったりと、初めて走る馬にはすごく難しいの。このヘタレ少年は、そんな複雑なコースを走った経験が一度もない。人気の割に結果を出さない見掛け倒しの馬を買うことほど、愚かな行為はないわ」
若葉:うーんと唸りながら、自分のポニーテールをいじり始めた。セレブもヘタレ少年もあかんのか……。ほな、女の子はどうですか! 『サフィラ』! サファイアの宝石みたいにキラキラ光るお姫様! 牝馬やから背負う荷物も55キロで、男の子たちより3キロも軽いですやん!
佐倉:「荷物が軽いのは確かに有利です。でも教授、サフィラの最近の成績を見ると……5着、7着、12着、13着と、どんどん順位が下がっています。完全にスランプ状態に見えます」
神宮寺:「スランプじゃないわ、佐倉くん。これは『限界』よ」
神宮寺は静かに首を横に振った。
神宮寺:「馬にはそれぞれ、一番得意な『走る距離』があるの。サフィラのお姫様が一番いい成績を出したのは『1600メートル』。つまり、短距離走の選手なのよ」
若葉:「短距離走の選手が、今回は2000メートルを走る……つまり、マラソン大会に出させられとるってことですか?」
神宮寺:「その通り。短い距離なら速く走れるけれど、距離が長くなればなるほど息切れして負けている。前回のレースも2200メートルを走って5着。データ的に見ても、前回2200メートルの長い距離を走って負けた馬が、今回急に巻き返す確率はたったの『10%』しかないわ」
若葉:「お姫様、息切れでリタイア……。アーバンシック、ジョバンニ、サフィラ。これでまた3頭消えましたね。私の直感、全部外れてるやないですか!」
神宮寺:「あなたの直感なんて、天気予報の『一時雨、ところにより晴れ』くらい当てにならないわ。これで残るは8頭。データという名のフィルターで不純物を取り除き、いよいよ本物の原石だけが残ってきたわね」
第4章 王宮の落日と、届かない永遠の四等賞
春の生暖かい風が、少しだけ開いた窓の隙間から滑り込んできた。デスクの上に散乱したプリントの端がパタパタと音を立てて波打つ。佐倉が気を利かせて作ってくれた自家製のレモン炭酸水から、シュワシュワと弾ける小気味よい音が響いていた。グラスの表面には冷たい水滴がびっしりと付き、鼻を近づけると柑橘系の鋭く爽やかな香りが脳をスッキリと刺激する。
ハムとレタスのサンドイッチをウサギのように咀嚼し終えた若葉が、ゴクンと炭酸水を喉に流し込んでから、勢いよく手を挙げた。
若葉:「ぷはーっ! 炭酸の刺激が脳みそに効きますわ! さて教授、残った8頭の中に、めっちゃ強そうなボスの名前がありますよ! 『キングズパレス』! 最近流行りのVRゲームのファンタジーアニメで、最後に待ち構えとる無敵の老王みたいでかっこええですやん!」
キーボードを叩く手を止め、佐倉が眼鏡の位置を直しながら首を傾げた。
佐倉:「老王……あ、確かにこの馬、7歳ですね。でも若葉さん、さっきの章で教授が『7歳以上の馬は過去9年間で一度も3着以内に入っていない』って言ってませんでしたか? それなら、この王様も真っ先に消えるんじゃ……」
冷たいグラスの縁を指でなぞりながら、神宮寺は静かに口を開いた。
神宮寺:「佐倉くん、単純な暗記力は評価するわ。でも、リストをよく見てごらんなさい。残っている8頭の中には、『ドゥラドーレス』というもう一頭の7歳馬がいるのよ。なぜ私が彼らを二次選考まで残したか、分かるかしら?」
佐倉:「えっと……あっ、キングズパレスは過去の金鯱賞で3着に入った実績がありますね。ドゥラドーレスは最近のレースでずっと2着に粘っています。だから、年齢の壁を越える『例外』かもしれないと判断して、一旦保留にしたんですね?」
神宮寺:「その通りよ。データは絶対的な武器だけれど、盲信すればただの足枷になる。だからこそ、ここで彼らの『直近の実力テスト』を虫眼鏡で覗き込むのよ」
神宮寺は手元のポインターで、キングズパレスの成績の欄を赤く丸で囲んだ。
神宮寺:「若葉、あなたの言う老王は、前回のレースで何着だったかしら?」
若葉:「えーっと……『白富士ステークス』っていうレースで、6着です。あれ? 6着なら、さっき言うてた『優勝する馬は前回6着以内』っていう条件、ギリギリセーフでクリアしてません?」
神宮寺:「数字の上ではね。でも、中身がスッカスカなのよ」
神宮寺は冷ややかな声でバッサリと切り捨てた。
神宮寺:「その白富士ステークスというのは、言うなれば『マイナーリーグ』の試合よ。今回のようなメジャーリーグの重賞レースではないの。マイナーリーグでギリギリ6着の王様に、メジャーリーグの強打者を抑え込める力があると思う? おまけに彼の実力を示す点数(レーティング)は『101点』。これは今回のクラスの生徒の中で、ダントツの最下位よ」
若葉:「なるほど……。名前は豪華な宮殿やけど、柱はシロアリに食われてボロボロっちゅうことですね。悲しいけど、王様はここでリタイアですわ。ほな次は……女の子の『セキトバイースト』! 三国志に出てくる、一日で千里を走る伝説の赤い馬ちゃいます!? これなら体力無限大ですやん!」
佐倉:「若葉さん、また連想ゲームになってるよ。でも教授、この馬、女の子なのに重賞レースで2回も勝ってる実力派だよ。斤量も55キロで一番軽い部類だし、千里を走るかはともかく、かなり強いんじゃないかな?」
神宮寺:「佐倉くん、君は本当に表面的な勲章に騙されやすいわね。彼女が勝ったレースの『距離』を、声に出して読んでみなさい」
佐倉:「えっと……府中牝馬ステークス、1800メートル。都大路ステークス、1800メートル。……あっ」
神宮寺:「気付いたかしら?」
神宮寺は鋭い視線で二人を射抜いた。
神宮寺:「彼女が勝ったのは、すべて『1800メートル』までの距離よ。今回の金鯱賞は2000メートル。たった200メートルの違いに見えるかもしれないけれど、人間で例えるなら、400メートル走の選手にいきなり800メートルを本気で走れと命令するようなものよ」
若葉:「ええっ!? 200メートルくらい、気合と根性でなんとかなりませんの!?」
神宮寺:「ならないわ。競馬において距離適性という名の『ガソリンタンクの容量』は絶対よ」
神宮寺は氷の溶けかけたグラスを揺らし、カランと涼しげな音を立てた。
神宮寺:「彼女は1800メートルでガソリンがピタリと空になるように設計されているの。証拠に、過去に2000メートル以上のレースに出た時は、見事に失速して負けている。今回も最後の急な上り坂で、間違いなく足が止まるわ」
若葉:「うわぁ……伝説の赤い馬、坂道の途中でガス欠ですか……。まるで私が朝の通勤電車に駆け込もうとして、駅の階段の途中で息切れするのと同じですわ」
神宮寺:「あなたの怠慢な肺活量と一緒にしないでちょうだい。はい、セキトバイーストも消去よ」
若葉:「ほな! 西部劇のクールなアウトローみたいな名前の『ディマイザキッド』はどうですか!? いつも斜に構えとるけど、いざという時に主人公を助けにくるライバルキャラ! こういうヤツが最後にドカンと大穴を開けるんですわ!」
佐倉:「主人公を助けに来る……というか、この馬、成績を見るとすごく『惜しい』んですよね。4着、4着、3着、6着。重賞レースでいつも良いところまで来るんですが、どうしても1着になれないんです」
若葉:「それ、ただの万年四位のモブキャラやん!」
神宮寺:「若葉の言う通りよ。佐倉くん、君はそれを『堅実で惜しい』と評価したけれど、プロの分析家はそれを『勝ち切るための決定的な武器が欠如している』と評価するの」
神宮寺は立ち上がり、ディマイザキッドの成績表の横に『限界の壁』と書き殴った。
神宮寺:「彼は優等生よ。でも、最後にライバルを追い抜く『爆発力』がない。だからいつも、3着や4着という指定席に綺麗に収まってしまう。この『勝ち切れないパターン』が完全に固定化してしまっているのよ」
佐倉:「でも教授、1番人気に推されたこともあるんですよ? みんなが期待しているってことじゃないですか?」
神宮寺:「期待と結果は別物よ、佐倉くん。1番人気に推されながら勝てなかったという事実こそが、彼が『人気を裏切るモブキャラ』である最大の証拠よ。おまけに前走の内容も上昇の気配が全くないわ」
神宮寺:「そういうこと。老いた王様キングズパレス、ガス欠の女の子セキトバイースト、万年四位のディマイザキッド。この3頭を三次選考で切り捨てるわ」
第5章 隠されたステータスと、右肩上がりの絶対王者
傾きかけた春の太陽が、窓ガラスを通して研究室の床に長い影を落とし始めていた。開け放たれた窓から吹き込む風には、微かに湿った土の匂いと、どこからか漂う沈丁花の甘い香りが混じっている。静寂の中、ホワイトボードに書かれた「残存5頭」の文字だけが、西日を浴びてオレンジ色に不気味な輪郭を浮かび上がらせていた。
パイプ椅子の上でスマートフォンを横持ちにし、食い入るように画面を見つめていた若葉が、ふいに顔を上げた。
若葉:「教授! 最近のアニメで『モブキャラのフリした俺、実はレベル999の最強魔導士でした』ってやつがあるんですけど、これって競馬でもあり得ますよね!? 実はめっちゃ強いのに、わざと本気出してへん隠れボスみたいな馬!」
ホワイトボードの前で腕を組んでいた神宮寺は、呆れたように小さく息を吐き、手元のタブレットでリストをスクロールした。
神宮寺:「若葉、競馬の世界に『能ある鷹は爪を隠す』なんて悠長なシステムは存在しないわ。走るたびに全力を出さなければ、賞金も次への切符も手に入らない。ただ……あなたが言う『強さの底が見えていない馬』なら、この5頭の中に一頭だけいるわね」
タブレットの画面を大型モニターに切り替えると、佐倉が身を乗り出して目を細めた。
佐倉:「強さの底が見えていない……。あっ、もしかして『ヴィレム』のことですか? 確かにこの馬、まだ一度も重賞という一番上のクラスのレースに出たことがありませんよね」
若葉:「えっ! ほな、今回が初めての大きな舞台っちゅうことですか! まさに隠れボスやん!」
神宮寺:「隠れボスか、ただの村人Aか、まだ誰にも証明できないだけよ」
神宮寺は冷ややかに言い放ち、ヴィレムの名前の横に『第5位』と書き込んだ。
若葉:「ええーっ! なんで最下位なんですか! これから覚醒するかもしれへんのに!」
佐倉:「若葉さん、落ち着いて。前回のレースでこの馬は2着に入っているけど、それはメジャーリーグじゃなくて、2軍の試合での話なんだ。実力が測れないというのは、期待でもあるけど、大きすぎるリスクなんだよ」
神宮寺:「佐倉くんの言う通りよ。可能性がゼロではないけれど、自分のお金を賭ける『根拠』としてはあまりにも薄弱すぎるわ。だからヴィレムは5位。……さて、次は第4位ね。若葉、大好きなアイドルアニメの決め台詞みたいな馬がいるじゃない?」
若葉:「ああっ! 『シェイクユアハート』! 私の心を揺さぶる、最高のパフォーマンスを見せてくれるはずですわ! だってこの馬、過去に愛知県のこの同じコースで、重賞レースを勝ってるんですよ!」
神宮寺:「確かに、同じコースで勝った経験があるのは素晴らしいわ。でも、それは一つ下のクラスでの話。問題は『前回のレース』よ。佐倉くん、前回のレース結果と、一緒に走っていた馬の名前を読み上げなさい」
佐倉:「ええと、前回のレースは京都記念。結果は4着ですね。……あっ。このレースで1着だった馬、今回の金鯱賞にも出走しています。『ジューンテイク』です」
若葉:「待って、それって……同じクラスのレースで直接対決をして、シェイクユアハートは負けとるってことですか?」
神宮寺:「そういうことよ。同じ条件で走って明確に負けた相手が、今回も同じレースに出ている。それなのに、負けた方を上位に評価する論理なんて存在しないわ。だから、シェイクユアハートは第4位よ」
神宮寺:「さあ、ここからが上位3頭。本当に悩ましい、論理と論理のぶつかり合いよ。第3位は……『クイーンズウォーク』よ」
佐倉:「えっ、クイーンズウォークが3位ですか!? 昨年のこのレースの優勝馬ですよ! 厩舎もこのレースを4連覇中です。普通に考えれば大本命じゃないですか?」
神宮寺:「実績は申し分ないわ。でもね、彼女には一つだけ、絶対に無視してはいけない『致命的な傷』があるのよ。若葉、この女王様の前回のレースの着順を言いなさい」
若葉:「えっと……天皇賞・秋で、9着……ですね」
佐倉:「……『前回のレースで、6着以内に入っていること』。過去9年間、前走で7着以下に負けた馬は、一度もこのレースを勝っていません」
神宮寺:「過去9年間、一度も例外が起きていない法則を、贔屓目で捻じ曲げてはいけないわ。実績は最高だけれど、絶対条件に違反している。だから、第3位が限界よ」
神宮寺:「第2位は、ドゥラドーレスよ」
佐倉:「ちょっと待ってください、教授! ドゥラドーレスは7歳の馬ですよね!? 7歳以上の馬は一度も3着以内に入っていないはずじゃ……」
神宮寺:「良い指摘よ。でも、このドゥラドーレスには決定的な違いがあるの。若葉、この馬の最近の成績を順番に読んでみなさい」
若葉:「えーっと……2着、2着、2着、2着……。うわっ! 全部2着や! 銀メダルコレクターですわ!」
神宮寺:「彼は直近の大きなレースで4回連続2着。実力を示す点数もトップクラスを維持している。つまり、彼は『年齢による衰えをデータで否定し続けている』唯一の例外なのよ。ただし、勝ち切れない癖があるから第2位よ」
神宮寺:「そして第1位は……『ジューンテイク』よ」
佐倉:「凄いです、教授……。実力を示す点数(レーティング)の推移が、見事なまでの『右肩上がり』です!」
神宮寺:「今、最も成長のピークにいて、前回のGⅡレースで見事に優勝している。年齢も5歳と一番脂が乗っている時期。すべてにおいて隙がないわ」
佐倉:「でも、前回の2200メートル組が勝つ確率は10%というデータが……」
神宮寺:「彼はその10%を、実力で引き寄せる『例外中の例外』よ」
第6章 大衆の錯覚と、ピザチーズの如く伸びるオッズ
窓の外はすっかり暗くなり、遠くのバイパスを走る車のヘッドライトが、等間隔の光の帯となって夜の闇を流れていく。研究室の中には、先ほど届いたばかりの宅配ピザの暴力的な匂いが充満していた。焦げた小麦粉の香ばしさと、とろける数種類のチーズの濃厚な香りが、鼻腔をこれでもかと刺激する。
パソコンの冷却ファンが微かに低い唸り声を上げる中、若葉がマルゲリータの大きなピースを両手で持ち上げ、熱熱のチーズをビヨーンと限界まで伸ばしていた。
若葉:「あつっ、はふっ! やっぱ頭使うた後のピザは最高ですわ! このチーズの伸び具合、まるで昨日最終回迎えたアニメ『異世界商人のボッタクリ無双』の主人公の利益率みたいに際限ないですわ〜!」
口の周りにトマトソースをつけながら満面の笑みを浮かべる若葉に、佐倉が紙ナプキンをそっと差し出した。
佐倉:「若葉さん、ピザを落とさないでね。重要な資料の上にチーズが落ちたら困るから。それにしても、商人のアニメなんて見てるんだね」
若葉:「おおきに、佐倉助手! そらもう、需要と供給のバランスで値段が乱高下するんを見るんが面白くて! 安いモンを買い叩いて、高く売るんが商売の基本ですやん!」
窓際で黒のコーヒーカップを片手に立っていた神宮寺が、クルリと二人の方を振り返った。
神宮寺:「需要と供給、ね。若葉にしては珍しく、今の状況に完璧に合致する比喩を持ってきたじゃない。佐倉くん、最新のオッズ……競馬ファンたちがどの馬を買っているかを示す『人気の倍率』は発表されたかしら?」
佐倉は慌ててキーボードを叩き、大型モニターに数値を映し出した。
佐倉:「はい、確定しました。……えっ!? ちょっと待ってください、これ……僕たちの分析結果と、世間の評価が全然違いますよ!」
神宮寺:「素晴らしいわ」
神宮寺は肉食獣のように口角を深く吊り上げた。
神宮寺:「大衆という名の群れは、見事に『間違った方向』へ走ってくれた。私たちが捨てたジョバンニが3番人気、アーバンシックが4番人気。逆に、絶対王者のジューンテイクが……なんと5番人気で10倍もついている。これほど美しい『市場の歪み』は久しぶりね」
神宮寺:「いいこと、二人とも。穴馬の定義を思い出しなさい。いくら実力があっても、みんなが買っている馬はもはや穴馬ではないの。当たれば掛け金が10倍以上に跳ね返ってくる『旨味のある馬』こそが真の穴馬よ。大荒れの展開を想定して、本当に買うべき穴馬TOP5を再構築するわよ」
佐倉:「荒れる展開、ですか。では、オッズが10倍以上の馬の中から、第5位は誰になりますか?」
神宮寺:「第5位は、14倍の『ディマイザキッド』よ」
若葉:「ええっ!? 教授、さっき『万年四位のモブキャラやからアカン』言うてたやないですか!」
神宮寺:「私の論理に矛盾はないわ。1着にはなれなくても、3着に入る馬を当てる馬券なら話は別よ。彼の『3着や4着にしぶとく食い込んでくる』という欠点は、馬券においては『大崩れせずに必ず画面の端に映り込んでくる』という最高の長所に変換されるの」
神宮寺:「第4位は、18倍という美味しい倍率がついた女の子、『セキトバイースト』よ」
若葉:「また復活した! この子も『ガス欠の女の子』やって言うてましたやん!」
神宮寺:「通常のペースなら息切れするわ。でもね、全員がパニックになって最初から猛スピードで走り出す『異常なスタミナ消耗戦』になったらどうかしら? 全員がバテバテの泥試合になった時だけ、彼女の軽い身のこなしと持続力が活きる一発逆転のシナリオがあるのよ」
神宮寺:「第3位は、12倍の『ヴィレム』よ。重賞未経験というだけで大衆が過剰に恐れて値段を下げてくれた。期待値の塊だわ」
神宮寺:「第2位は、16倍の『シェイクユアハート』。このレースには『前回4着に負けた馬が優勝する』という呪いのようなパターンがあるの。歴史の条件に完璧に合致しているわ。16倍は明らかに大衆の見落としね」
神宮寺:「そして、穴馬第1位は当然……『ジューンテイク』よ」
佐倉:「本当に、なぜこの馬が5番人気で10倍なんでしょうか。能力の点数もトップ、成長のピーク。不安要素なんて……」
神宮寺:「世間は『前回長い距離を走った』という数字だけに踊らされているのよ。さらにジョッキーは武豊。すべてが揃った馬が10倍で放置されている。この『オッズの逆転現象』こそが、競馬における最大の蜜の味なのよ」
神宮寺:「大荒れの展開を狙うなら、10倍のジューンテイクを軸に、16倍のシェイクユアハート、12倍のヴィレムを絡める。これが、現在のオッズが導き出した破壊力のある数式よ」
若葉:「よっしゃー! ほな、この3頭で決まりですわ! 全財産突っ込みますよー!」
神宮寺:「……本当に、これで良いのかしら?」
神宮寺の一言に、若葉の動きが止まった。
神宮寺:「完璧に組み立てたはずのこの論理。でも、私は今、この数式そのものに、恐ろしいほどの『疑念』を抱いているのよ」
第7章 今までの考察への疑念と競馬の本質的不確実性
翌朝の月曜日。海から吹き込む春の冷たい潮風が、大学の窓ガラスをガタガタと揺らしていた。昨夜のピザの凶暴な残り香と、佐倉が新しく挽いたマンデリンの深く苦い香りが混ざり合い、研究室には独特の生活臭が漂っている。ゴミ袋の口をキュッと力強く結びながら、若葉が大きく背伸びをした。
若葉:「あー、やっと片付きましたわ! そういや昨日の夜、ピザ食べながら見とったタイムリープもののアニメ、衝撃の最終回でしたよ! 主人公が過去のデータを全部暗記して完璧な計画立てたのに、当日の風の向きがちょっと違っただけで、結局ヒロイン助けられへんかったんです!」
ドリッパーにお湯を注ぐ手を止め、佐倉が怪訝な顔で振り返る。
佐倉:「せっかく過去をやり直したのに失敗したの? なんだかスッキリしないアニメだね。全部のパターンを分析したなら、普通はハッピーエンドになるはずなのに」
窓際で腕を組み、冷たい海風を頬に受けていた神宮寺が、ふいに静かな、しかし鋭い声を室内に響かせた。
神宮寺:「スッキリしない? いいえ、佐倉くん。それこそが『世界の真理』よ。若葉、あなたのアニメの話は、私たちが昨日一晩かけて築き上げたこの競馬予測の城が、いかに脆い砂上の楼閣であるかを完璧に証明しているわ」
若葉:「えっ? 私のアニメがですか?」
神宮寺はコツコツとヒールを鳴らしてホワイトボードの前に立ち、昨日書き殴った『過去9年間の絶対データ』という文字を、黒板消しで半分だけ消し去った。チョークの粉が、朝日に照らされて雪のように舞い散る。
神宮寺:「私たちが絶対視したデータ。例えば『7歳以上の馬は3着内率0%』というルール。佐倉くん、統計学において『9回』というサンプル数は、法則と呼ぶに足る数字かしら?」
佐倉:「……いえ、少なすぎます。最低でも30以上のサンプルがないと。9回なんて、ただの『小さな偏り』の可能性が高いです」
神宮寺:「その通りよ。9回失敗したからといって、次も失敗するとは限らない。過去の7歳馬たちが負けたのは『7歳だから』なのか、それとも『たった弱い馬が集まっていたから』なのか。因果関係を証明せずにフィルターとして使うのは、論理の飛躍よ」
若葉:「ええっ!? ほな、昨日私たちがやった消去法、全部ただの『こじつけ』やったっちゅうことですか!? でも、点数(レーティング)の比較は完璧でしたやん!」
佐倉:「その点数にも、恐ろしい罠があるんだ。点数はあくまで『過去の記録』に過ぎない。ジューンテイクが点数を出したのは右回りの2200メートル。今回は、左回りの2000メートル。条件が全く違う」
神宮寺:「寿司職人が『俺は世界一美味いマグロを握れる!』と言ったからといって、最高に美味しいショートケーキを焼ける保証はどこにもないのよ。私たちは無意識のうちに自分に都合の良いデータばかりを強調した……典型的な『確証バイアス』ね」
若葉:「うわぁぁ! ほな、昨日の苦労は全部水の泡ですか!? サイコロ振って決めるんと同じやないですか!」
神宮寺:「サイコロとは違うわ。競馬は再現実験ではないの。馬は生き物よ。前日の睡眠、輸送ストレス、気温、そして馬に乗る人間のその瞬間の心理状態。昨日あなたがアニメで見た『少しの風向きの違い』が、競馬では無数に発生するのよ」
神宮寺:「太陽が昨日まで東から昇ったからといって、明日も昇るとは限らない。競馬において、同じ条件のレースは二度と存在しない。だから、過去のデータは未来を完璧には予測できない」
神宮寺:「それが真実よ。昨日私たちが分析したのは、結果を構成する要素のほんの一部。残りの要素は、ゲートが開くまで誰にも分からないブラックボックスよ。完璧な正解なんて存在しない」
若葉:「……完璧な予想なんて、最初から無理やったんですね。なんか、虚しいですわ……」
神宮寺:「虚しい? 何を言っているの、若葉。すべてが計算通りに進むなら、そんなものはただの作業よ。不確実という名の巨大な暗闇があるからこそ、私たちは論理という名の小さな松明を掲げて、その闇に足を踏み入れるのよ」
佐倉:「不確実性を受け入れた上で、それでも『今この時点で最も合理的な仮説』を立てて勝負する。それが競馬予想の本質な文化なんですね」
若葉:「ほな、教授! 結局のところ、私らはこの馬券を、買うんですか!? 買わへんのですか!?」
神宮寺:「愚問ね。私たちが磨き上げた、愛すべき『欠陥だらけの仮説』よ。身銭を切って確かめない理由がないわ」
春の陽光が差し込む研究室に、三人の明るい笑い声が響き渡った。不確実性という至高のスパイスを味わい尽くすために、彼女たちは今日、戦場へと向かう。
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